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馬車馬のごとく(マルキーニョス)

2017-01-14 23:36:31 | 他チーム
ネタのない、オフの時期は昔の思い出話を書きます。今回は、日本で開花した遅咲き外国人、マルキーニョス選手の思い出です。マルキーニョスは2001年、当時J1だった東京Vに加入しています。当時は無名だったマルキーニョスは、チームが降格危機を救うために獲得した元ブラジル代表、エジムンドと2トップを組めることに感激していた若者でした。

マルキーニョスは、その後横浜FM、千葉、清水などを転々とします。最初の5年間で、二桁得点は千葉時代に一度あるだけと、結果を残したとは言い難いですが、それでもどこかのJ1チームからオファーが届き日本でプレーし続けてきました。それは、彼のプレースタイルが理由でした。

彼は、ブラジル人では珍しい、ハードワーカーという優れた特徴を持っていました。ブラジルだと、点を取る取らないで評価されがちですが、戦術的に凝る監督の多い日本では、彼が前線でプレッシャーに行って相手の攻撃を遅らせてくれたなどという、細かいところをよく見てくれました。

彼が開花したのは、清水時代の長谷川監督の指導からです。運動量は多いですが得点力は今一つだったマルキーニョスに、トップ下の位置まで動いてもらいに行っていいという動きを指導して、清水での2年目に二桁得点を取れるようになりました。

その結果、ブラジル人にとっては「ジーコのチーム」として有名な鹿島から、30歳にしてついにオファーが届きます。それからは夢のような日々が待っていました。鹿島でもハードワークを続けた彼は、ついにJ1のMVPと得点王をダブル受賞するという、頂点を極めることになりました。

一番印象的だった試合は、鹿島時代の2008年の天皇杯決勝です。当時、オリベイラ監督が相手広島のいいところを消しに行く采配を見せ、マルキーニョスには相手リベロのストヤノフの上がりに蓋をするという役割が与えられていました。それをしっかり行った結果、ストヤノフは得意な上がりができず、広島に何もさせなかった完勝の要因になりました。

鹿島を去ってからは仙台、横浜FM、神戸でプレーし、38歳で日本を去りました。敵ですが印象に残る、思い出に残る名選手だったと思い出しました。
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