今年、西武ライオンズは40周年の記念の年です。創設当時、小さな子供だった私が、オールドファンのおやじになるほど歳月は流れました。その間は強いチームを育てようと、大改造を行ったり時にはルールギリギリを狙ったり、いろんなことがありました。それを、今回は並べてみようと思います。
・チームの半分が新人か移籍組(1979年)
西武ライオンズの創設元年は、当時の根本監督が九州時代の戦力では勝てないとチームを大改造していました。その結果、阪神からトレードで獲得した田淵が4番DHに入り、先発ローテーションも新人の松沼博久、雅之の兄弟や森繁和(現中日監督)など大きく刷新しました。最初の年は最下位だったものの、次第に成果が出てきて、1982年に優勝という結果が出るようになりました。
・プリンスホテル野球部(1970年代末-2003年)
当時、同じ西武系だったプリンスホテル野球部がありました。このチームは当時の堤オーナーが「五輪を目指すためにはアマチュア強豪を持つ必要がある」と作っていたチームですが、最初の頃は西武ライオンズ入団のための抜け道に使われたこともあります。のちには藤井康雄(阪急)など他チームで活躍する選手も出ますが、ルールギリギリを狙ったエピソードの一つです。
・疑惑の中止(1986年)
当時、西武ライオンズの本拠地、西武球場には屋根がなかったです。その優勝争いの終盤戦、雨が降っていないにもかかわらず中止にした試合がありました。公式発表は「天気予報による中止」でしたが、当時西武がローテーションの谷間で中止にメリットがあり、「疑惑の中止」とタブロイド紙で騒がれました。その後、リーグ終盤戦は連盟が試合の可否を判断するようになり、この手は使えなくなりました。
・森祇晶監督(1986年-1994年)
西武ライオンズの黄金時代の名監督です。その年のチーム状態を見抜くのがうまく、打てない年や投手陣が悪い年でも、やり繰りをして勝たせる手腕は今でも語り草です。もっとも、マスコミに選手を批判するコメントを流すなど選手との関係はうまく行っていなかったようで、これほどの名監督にしては突然の退任というもったいない去り方をしています。
・チームの半分が新人か移籍組(1979年)
西武ライオンズの創設元年は、当時の根本監督が九州時代の戦力では勝てないとチームを大改造していました。その結果、阪神からトレードで獲得した田淵が4番DHに入り、先発ローテーションも新人の松沼博久、雅之の兄弟や森繁和(現中日監督)など大きく刷新しました。最初の年は最下位だったものの、次第に成果が出てきて、1982年に優勝という結果が出るようになりました。
・プリンスホテル野球部(1970年代末-2003年)
当時、同じ西武系だったプリンスホテル野球部がありました。このチームは当時の堤オーナーが「五輪を目指すためにはアマチュア強豪を持つ必要がある」と作っていたチームですが、最初の頃は西武ライオンズ入団のための抜け道に使われたこともあります。のちには藤井康雄(阪急)など他チームで活躍する選手も出ますが、ルールギリギリを狙ったエピソードの一つです。
・疑惑の中止(1986年)
当時、西武ライオンズの本拠地、西武球場には屋根がなかったです。その優勝争いの終盤戦、雨が降っていないにもかかわらず中止にした試合がありました。公式発表は「天気予報による中止」でしたが、当時西武がローテーションの谷間で中止にメリットがあり、「疑惑の中止」とタブロイド紙で騒がれました。その後、リーグ終盤戦は連盟が試合の可否を判断するようになり、この手は使えなくなりました。
・森祇晶監督(1986年-1994年)
西武ライオンズの黄金時代の名監督です。その年のチーム状態を見抜くのがうまく、打てない年や投手陣が悪い年でも、やり繰りをして勝たせる手腕は今でも語り草です。もっとも、マスコミに選手を批判するコメントを流すなど選手との関係はうまく行っていなかったようで、これほどの名監督にしては突然の退任というもったいない去り方をしています。