Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

梅崎司の記憶

2020-12-26 20:02:41 | 他チーム
先日の湘南戦、札幌戦で撮れた写真はネタにしようと思っていましたが、その中では湘南MF梅崎司選手の写真が撮れたのでネタにします。梅崎はユースから育った大分でトップチームに昇格してプロになりますが、一時フランスリーグ2部のグルノーブルに移籍していました。当時、日本では当たり前にあった独身寮がなく慣れない一人暮らしを強いられ、体重のコントロールミスで3kgほど体重が増えるミスもしています。

そのため、フランスは1年で引き払って大分に戻りましたが、2008年に当時トップ下のポンテが重傷を負って代役が必要だった浦和がオファーを出して移籍してきました。もっとも、パサーのポンテとは違って、梅崎はトップ下の位置からサイドに流れて仕掛けるアタッカータイプのMFでした。そのカラーは当時のエンゲルス監督はあまり好きではなかったようで、この年に活躍した印象はありません。

もっとも、左右どちらのサイドも仕掛けられて、左右どちらの足でもクロスを上げられるという強みもはっきりしていたMFです。2009年から2年間続いたフィンケ監督時代は4-4-2でサイドハーフを置く、梅崎向きのシステムでしたが、この2年間は負傷で苦しみました。ようやく、2011年の堀監督の4-1-4-1が彼向きの戦術で、そこで右のMFで起用され浦和を残留争いから救う活躍を見せます。

翌2012年に就任したミシャも梅崎を評価していました。ミシャの戦術は独特で、長い時間をかけて機能させたいと思ったミシャはキャンプ序盤から戦術練習を始めますが、その最初の時点で左アウトサイドで起用されたのが梅崎でした。この年の梅崎は左アウトサイド以外にも得意なシャドーでも起用され、ほぼフル稼働して6得点を挙げ、浦和の3位躍進に大きく貢献しました。

もちろん右のアウトサイドも可能だった梅崎は、ミシャ政権が続いた4年半の間主力選手として期待されていました。結果的に、浦和で10年間プレーできた梅崎は、2018年から出場機会を求めて湘南に去りました。湘南では3トップのサイドでプレーすることが多く、ベンチに置いても準備ができていることで若手の見本にもなっていました。

昨年の残留争いの中、PKを蹴りに行った梅崎はGK西川と「このPKを楽しもう」と話していたと聞きます。湘南ではチームの戦力的にどうしても残留争いの中ですが、まだまだ頑張って欲しいベテランです。
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小野伸二、J2琉球退団

2020-12-26 15:53:46 | 浦和レッズ
オフネタの予定だった今日ですが、埼玉新聞からJ2琉球のMF小野伸二選手の退団が発表されていたので予定変更します。今季は14試合出場無得点だったものの、クラブ側は契約延長のオファーを出しており本人の意向で退団ということになりました。今後の去就は未定ですが、41歳という年齢もあり琉球が最後のチームになる可能性もあります。

小野伸二は1998年、清水商業から浦和に入団してきました。当時は誰もが「天才」と呼ぶものの、小野伸二は清水商業時代に一度も選手権に出場していなかったので、映像が手に入るサポーターはほとんどいなかったことから、どこがどうすごいかは誰も知らないという状態で浦和入りしました。それでも、その技術の高さは即戦力の扱いで、開幕戦の市原戦で当たり前のように右MFでスタメン出場しました。

小野伸二は当時、天才と呼ばれていたディエゴ・マラドーナ氏とはまったくカラーの違う選手でした。派手な個人技を見せるタイプではなく、自分がボールを持つ時間を可能な限り短くしてダイレクトでさばくのが売り物のゲームメーカーでした。本人は「当たり前のプレーなのにスタンドが騒ぐ」と違和感を持っていたようですが、そのダイレクトプレーの正確さで浦和サポの心をつかみました。

また、小野伸二で思い出すのは、そのキックの種類の豊富さです。左足のアウトサイドでも蹴ることができ、キーパーの蹴り方であるハーフボレーも当たり前のように蹴れました。本人曰く「小学校の5分休みでもサッカーをしていた」ほどの練習量で、自分に可能なら何でもやってみようとしたことがこの技術につながりました。

2001年の駒場スタジアムで、小野伸二をオランダのフェイエノールトに送り出した市原戦は今でも覚えています。自分の後ろにある「世界で輝け伸二」の横断幕を見て(海外でも)大丈夫だと思ったと、サポの前で宣言していました。次のアウェイ広島戦で、小野伸二と最も感覚の合っていた田中達也が2得点の活躍で、小野伸二を送り出しています。

その後はフェイエノールトでUEFAカップ優勝、3度のW杯出場など、十分にサッカー選手として活躍できました。本人曰く「一つのクラブで長くプレーできない性格」というので浦和在籍は長くなかったですが、浦和サポとしては忘れられない選手です。次の人生も、輝けるものであって欲しいと願わずにはいられません。
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