パンフのMAP 案内板MAP
見るもの全部 バラバラ
現地と 一致しない
こんなに 簡単なルートで わかりづらいなんて
今まで あんまり 記憶がない
ヤレヤレ
現地はこんな感じ
🔻 ここに立てるべきでは?
実際は ここに 立ってました ▶
⇨ こっちから 来たので そうなりますが
せめて こんなのだったら
戸惑いませんが…
細かいですかね?
でも 莫大な経費で発掘調査復元
行政も推そうと 豪華なパンフも作成
してるのに なんか 惜しい
私なら ココにも 立てます
ということで
左へ 行けというけれど
分かれ道 右に 行きます
下り坂 すぐに 右 ヘアピン
そして すぐに
左ヘアピン
サイド 2回 引きます
もうじき 見えてきそうです
古代山城
どれくらい 古代かといいますと
1350年前
まだ 日本ではなく 倭の国のころ
朝鮮半島に 戦に行きました
663年
白村江の戦い
私は はくすきのえのたたかい と習いましたが
いつのまにか はくそんこうのたたかい となっていました
唐 新羅 VS 百済 倭(援軍)
結局 破れて 撤退
この時 百済の人も逃げてきました
となると
唐 新羅 が 攻めてくるやもしれん
となりますよね
九州北部…大野城とか多数築く
瀬戸内海沿岸…屋嶋城、他築く
屋島城 667年
天智天皇の時
この頃 日本はと言いますと
大化の改新 と習った クーデター
645年
白村江の戦いで負けて 危機感が増し
日本 建国に繋がった
って 時ですよね~
余談を一つ
この頃 郡 という 地名ができた頃らしい
その 1300年の 歴史の地名を
平成の大合併とか言って
捨ててしまったんですよね
情けないったら ありゃしない
と ボヤッキー
説明板がありましたよ
ほんで ほんで 見えてきました
あちこち 城巡りしてますが
戦国時代前後 の 近世城郭
ここ 屋嶋城 は 古代山城
初体験であります
この城を知ったのは
毎回 行ったことのない城に招待してもらってます
勉強になります
古代山城の 石垣 どんな岩感なのか
ワクワクドキドキ
同行人さんには 何も言わずに 来ました
どんな 感じを受けるか それもまた
楽しみです
つまんないと言われたどないしょ…
ユーチューバーの方かも知れないので
居なくなるまで近寄らないでいました
上の段の通路を 移動しながら 撮ることに
どう撮れば この 雰囲気を 撮れるか
不思議な感じです
解体復元ということで
1350年のまま
というわけでは ありませんが
近世城郭の石垣とは ちがう光景です
1350年前の 石積み
これの頃が 石垣の城の 始まりなんでしょね
向こうから 撮れない…
遠くの下に 街が見えます
結構 断崖 です
あの辺りは 埋め立てだったでしょうから
海 入り江
唐 新羅が 攻めてくる
向こう側から 見たいですね~
どんな 感じに 見えるのでしょう
写真だと 規模が小さそうですが
けっこう 大きいです
この 門 が入口でしょう
石垣の門のはじまり
なんでしょうが…
防御面からすると
こんなに 広い 門が 必要でしょうか
向こうは 断崖 ですから
ここに 大規模な 石垣の城壁が どうなの?
とも 思ってしまいます
この 断崖の上に これだけの 石垣を造り
何を 守ったのでしょう?
唐 新羅の 軍が
スルー する~ ということは
考えなかったのでしょうか?
畿内を 守るのであれば
もうちょっと 海上で 待ち伏せできる
防御施設の方が 役に立つのでは?
この門も 瀬戸内海とは 反対の方を向いてます
なんだか よくわからないです
確かに不思議ですね、もう少し海沿いで守っても良い感じですね。
岡山の鬼ノ城なんかもあんなところに作らんでも、って思ってしまいます。
時代は違いますが、足利尊氏なんか京都へ登る時は一気に兵庫まで行ってますからね。
いろいろ考えるだけで楽しいですので、ま、いっか(笑)
湊川ですね!
正成は気の毒でした。
唐の大群が来たら海沿いでは守り切れないと思ってたんですかね。
骨折り損みたいになっちゃって、、廃城になってしまった…ってことでいいですか?