『中央公論・1月号』に、
フランシスコ・ローマ教皇のインタビュー記事が紹介されています。
翻訳は、門脇佳吉上智大学名誉教授。
新年の【落穂拾い】で紹介の予定で、この数日、PCに向かっているところです。
今晩は、フランシスコ教皇の言葉の一部分を更新します。
次の格言がいつも私の心を打ち続けています。
“最も偉大なことに制約されず、最も小さいことに留まること、これこそが神的なことです”。
この格言が、“神の観点から”出発して神のことをよく感じ取ることができるように、
霊動弁別のために正しい位置をとる基準を与えてくれます。
聖イグナチオにとって大きな諸原理は場所と時と人々の状況に具体化されるべきものです。
最大の視野をもってすべてを見ながら、最小の次元に立ち、
数少ないことに従事し続けることが重要だからです。
偉大な計画を持ち、数少ないこと従事し続けることによって、偉大な計画を実現させることができるのです。
キリスト教については全く分かりませんが、「霊動弁別」の言葉が気になります。
唯識では、「阿羅耶識」をおいて、人間の深層部を説明しています。
「霊動弁別」も「阿羅耶識」も、人間の分別を超えたところのは“はたらき”なのでしょう。
26日のブログで更新した、曽我量深師の次の言葉が重なってきます。
如来は我なり
如来我となりて我を救ひ給う
如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり