大好きな鷲田清一さんの新刊を読んでいます。
鷲田清一 著
「自由」のすきま
角川学芸出版
平成26年3月25日 初版発行
本書は、鷲田さんが新聞や雑誌等に寄稿した短文をまとめた一冊。
その中に、「こころの煤払い」の一文が目にとまる。
哲学者で『「いき」の構造』の著者・九鬼周造。
九鬼周造の父・隆一は、文部官僚で男爵。
岡倉天心のパトロンであった。
隆一の妻は、妊娠中に岡倉天心と恋仲になり、隆一と別居のちに離婚する。
その時に生まれたのが周造である。
子どもの頃、母を訪ねる岡倉天心を父親と考えたこともあったそうだ。
周造の文
「今では私は岡倉氏に対して殆どまじり気のない尊敬の念だけをもっている。
思出のすべてが美しい。明りも美しい。陰も美しい。
誰も悪いのではない・・・・」
周造の「誰も悪いのではない」の一文が、鷲田さんの胸を衝いたそうだ。
そして、鷲田さんは、よく似た文章を思い出されたそうだ。
次のように記している。
よく似た文を松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の中に見つけたことがある。
富士川のほとりに三歳ばかりの子が棄てられていたのをふと目にし、
懐から食い物を投げて通り過ぎた。
その出逢いを、
「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」
と詠んだあと、こう書きつけていた。
「いかにぞや汝、ちちに悪(ニク)まれたるか、母にうとまれたるか。
ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。
唯(タダ)これ天にして、汝が性(サガ)のつたなさをなけ」
こちらは、中途半端な同情より見棄てをえらんだ旅人の、
こころを掻きむしるような句である。
九鬼も芭蕉も、これらのことばを紡ぐなかで、
時が洗い流してゆくものについて深い想いをめぐらしていた。
ボクに、芭蕉のこの一句を教えてくれたのは、先師・五十嵐正美先生である。
その時のことは、ずっと前の【落穂拾い】に書いた。
それから時が流れて、
偶然、作家の高史明さんと小児科医の細谷亮太の対談集でこの一句を取り上げているのを見つけた。
また、時が流れて、
細谷亮太さんの講演会(築地本願寺)の後、
芭蕉のこの一句について細谷ドクターとお話ししたことがある。
そして、今回の鷲田さんの本で、この一句と出逢う。
一連の出来事については、【落穂拾い】に書こうと思っているが、
この一句を、ボクの人生に種子としてのこしてくれた先師・五十嵐先生に報恩感謝であります。