里村専精師の「浄土真宗にようこそ」No54をお届けします。
1.預流・2.一來・3.不還・4.阿羅漢、という覚りのステップを考えています。
1.預流果というのは、覚りの第一だとずっと公開された言葉です。
なのに、こういう重要な言葉が、どこで大切にされているのでしょうか。
「預流」というのは、仏道の流れに預かったという言葉です。
曽我量深先生の言い方を借りるなら、仏道の伝承する歴史に参画したということです。
釈尊だけではなくて、実に無慮無数の人々が、この流れに参入しました。
そういう人々を、正しくサンガと呼んだのです。
2.一來ですが、覚りの状態の第二番なのですが、これがちょっと愛嬌があります。
人は、誰でもなのかもしれません、もう一度覚りから突き放されるのです。
一來という文字のように、もう一度戻るような状態です。
けれども、覚りが消えたのではなく、
このような人たちでも世俗には決して迷うことはありません。
真実の尊厳を一度でも知っているなら、偽物にはもう迷わないのです。
この状態は、例えば「歎異抄」の第九章の唯円にも示されています。
「踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと…」
と唯円は言っていますが、感動が失せたものの、仏道においては迷いはありません。
あの踊躍歓喜は、記憶にまざまざと残っているからです。
けれども、それが記憶であるかぎり、唯円を感動させないのです。
感動は唯円を超えて、そして唯円を浮き彫りにしてくれたのですが…。
唯円は、自分で感動する状況を忘れているのです。
実は、覚りも感動も、我々の思いを超えた体験です。
それは記憶のような人間の内面的な、狭い状況からは生まれないのです。
歎異抄の第九章では、師の親鸞がとつとつと語って聞かせます。
それは「如来の行」というものを、諄々と語るのです。
それはいわば、仏道の分厚な伝承の歴史成果を諄々と語ったのです。
ずばり親鸞が語ったものは、如来の行そのものでした。
つまり他力の仏道の、連綿たる歴史の事実を語ったのです。
そういう歴史との出遇いで、人は自らに仏道の流れを回復するのです。
そこに、深い生命観感動が沸き上がります。
一來とは、もう一度自らに歓喜を確認できるまでの短い期間を言うのではないでしょうか。
聞者・くりのみは、(寄り合い)(語り合い)を大事を大事にしています。
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◇カウンセリング研究会【くりのみ】 *主宰しています。
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★夕方、東京に戻りました。
東名、首都高速、随分混んでいました。