尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ガリン・ヌグロホ、「サタンジャワ」と映画

2019年07月03日 22時39分14秒 |  〃 (世界の映画監督)
 いま国際交流基金アジアセンター主催で「響きあうアジア2019」という催しが行われている。東京を中心に、演劇、映画などの興味深い企画をやっている。それらの中でも、僕が一番見たかったのが「サイレント映画+立体音響コンサート」の「サタンジャワ」。7月2日(火)の昼夜2回公演で、この日は仕事があったので夜のチケットを買ってあった。「ガリン・ヌグロホ×森永泰弘×コムアイ」とチラシにある。

 もっと細かく書くと、インドネシアの映画監督、ガリン・ヌグロホの無声映画、日本の森永泰弘の音楽・音響デザインによるコンサート、コムアイ(水曜日のカンパネラ)のダンスで構成されている。音楽はジャワのガムランなどの民族音楽、日本人奏者の弦楽アンサンブルなどが演奏し立体音響システムのエンジニアがいる。詩・マントラの朗読も行われている。というジャンル・ミックスの試みで、すでにベルリンやメルボルンで公演された。この作品は明らかにガリン・ヌグロホが中心の集団アートである。記事のカテゴリーに迷うけど、やはり映画監督も含めてガリン・ヌグロホのことを書いておきたい。
 (ガリン・ヌグロホ)
 アジアにはジャンルを横断して活躍する映画監督がいる。タイのアピチャッポン・ウィーラセータクン、台湾のツァイ・ミンリャンの名前がすぐ思い浮かぶ。インドネシアのガリン・ヌグロホ(1961~)もその一人だ。スハルト独裁時代から映画を作ってきた人で、日本では「枕の上の葉」(1998)が岩波ホールで1999年に上映された。ジャカルタで生きるストリート・チルドレンを描いていて、子どもたちが慕う女性を演じたクリスティン・ハキムが印象的だった。この映画の記憶が強いので、何となく社会派的なイメージを持っていた。しかし最初の頃から、多彩なインドネシア各地の文化がテーマになっていた。

 「サタンジャワ」は判りやすいとは言えない。正直言って僕にはよく判らなかった。上映される無声映画は美しい映像で心を揺さぶられる。20世紀初頭のオランダ植民地時代と字幕に出るが、その後は章の題名しか字幕がない。ジャワ島の民俗の古層に残る「神秘主義」がテーマらしい。入場時に配られたパンフに「あらすじ」が書いてある。植民地時代の貧しき村人は、サタン(悪魔)に頼るようになった。貧しい青年が貴族の娘と結婚するため、サタンと契約を交わすが…という「愛と悲劇の物語」だという。別にストーリー理解が必須というわけじゃないだろうが、途中でなんだか判らなくなったのも事実。

 会場が寒すぎて、冷房よけのシャツは持ってるけど、どうも気がそがれた。暑くても寝ちゃうけど、夏になると会場の冷房は大問題。それはともかく、音楽はいいけどマントラの朗唱が続くのでどうも眠くなる。昔ブータンやインド・ケララ州の伝統舞踊を見に行ったときの、なんだか判らないうちに眠くなった。まあ、そういうもんかと思う。映画は80分ほどで、案外短かった。真ん中で踊ると映画に差し支えるだろうから、ダンスはどうしても目の端になる。日本で初めてダンスを取り入れたというが、効果の判定は難しい。しかし、一番の問題は作者の「神秘主義」で、神秘主義の伝統が日本とつながると言ってたけど、今ひとつ理解できない。日本は神秘主義というより世俗的な社会だと思う。

 今回ガリン・ヌグロホの映画作品もかなり上映された。新作の「メモリーズ・オブ・マイ・ボディ」は4日、7日の夜に有楽町のスバル座で上映される。ジャワの女形ダンサーを描くという。「地域の芸能に根付くLGBTの伝統」とチラシに出ている。ベースとしてはイスラム教であるインドネシアで、なかなか取り上げにくいテーマだろう。今までも政治だけじゃなく、文化的、地域的にも危険なテーマをずいぶん取り上げて来たという。娘のカミラ・アンディニ(1986~)も映画監督で、東京フィルメックス最優秀作品賞の「見えるもの、見えざるもの」が上映される。

 僕はガリン・ヌグロホの初期作品をを2作見た。デビュー作の「一切れのパンの愛」(1991)は川崎市民ミュージアムまで見に行った。これは親子間のトラウマで妻とセックスできない青年が、モデルの妻、写真家の友人とインドネシア各地を撮影旅行してゆく。まだまだ手法的には初期という感じだが、テーマがインドネシアとしては大胆だったんだと思う。ロード・ムーヴィーとしても新鮮で、ジャワ島やバリ島の自然や民俗も面白い。写真家の友人も幼なじみで、同じ女性に思いを寄せていた。危うい夫婦関係を描いていて、東南アジア映画には珍しい。直接の性描写はもちろんないけど。

 その前に「サタンジャワ」のプレイベントで、第2作「天使からの手紙」(1993)を見た。ガリン・ヌグロホの映画はは東京国際映画祭に12本上映されているそうだ。この映画は第7回東京国際映画祭ヤングシネマ部門ゴールド賞を受賞した。かなりファンタジックな作品だが、中身は重い。古い習慣の残る村に住む少年ルワは、両親を失ってから天使に手紙を書くようになるが、ある日返事が来る…。イスラム教はコーラン以前の新旧聖書も認めるから、天使も信じている。でも古い伝統的な慣習も強い。この映画はこの前見た「マルリナの明日」に出てきたスンバ島で撮影された。少年の素朴な行動が村どうしの戦争に発展してしまう様を淡々と描いている。スンバ島の奇妙なとんがった家がフシギである。
(スンバ島の村)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルイマン監督の映画-映画芸術の極北

2019年02月14日 22時55分44秒 |  〃 (世界の映画監督)
 スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman、1918.7.14~2007.7.30)は2018年に生誕百年を迎え、日本でも大規模な特集上映が行われた。東京では恵比寿ガーデンシネマだったので、真夏で駅から遠く2作見ただけ。数年前に「三大傑作選」と称して「第七の封印」「野いちご」「処女の泉」のデジタル版が上映された。最近、池袋の新文芸坐で特集があり数作品を見直した。もともと若いころにほとんど見ているんだけど、改めて見ると考え方も変わる。上映素材があるんだから、またどこかで上映もあるだろう。まとめて感想を書いておきたい。
 (ベルイマン監督) 
 ベルイマンにはいくつもの大傑作があり、映画史上のトップ10に入るような映画監督だ。特に初期の「野いちご」「処女の泉」は改めて「ほとんど完璧な映画」だと思った。僕が最初に見たベルイマン映画は多分「野いちご」(1957)。ATGで不入りの映画があって、過去の名作上映に切り替わった時に見たと思う。長年の功績に対し名誉学位を受ける老人が、ストックホルムから車でルンドまで向かう。その一日を息子の妻や途中で会った若者たちなどを通して描く。夢のシーンなどシュールレアリスム的な描写も印象的。思えばまだ30代で「老い」に関する映画をよく作れたものだ。たった91分なんだけど、もすごく豊饒な映画体験に浸れる。1962年キネ旬ベストワン
 (野いちご)
 日本公開が逆になったけど、「処女の泉」(1960)も驚くような強さを持つ映画。黒澤明「羅生門」の影響があるというが、中世を舞台にするモノクロ映画という共通点はあるが「処女の泉」はもっと雄渾で神話的な映画だと思う。近代以前の「自力救済」の世の中を生きる人々を圧倒的な力強さで描いている。1961年キネ旬ベストワン。その前の「第七の封印」(1957)は、これも中世を舞台に十字軍から帰る騎士が死神と命を懸けたチェスをする。およそ今までの映画でテーマとされたことのないような「哲学的映画」だった。今回は見る時間がなかったんだけど、文句のつけようのない完成度の「野いちご」「処女の泉」に比べて、多少判りにくい点も逆に面白くて魅力的だと思う。
 (処女の泉)
 そういう難しい映画を作ったベルイマン監督だけど、最初からそんな傑作は撮れない。初期にはスウェーデン映画に多い、リアリズムをもとにユーモアや社会性を加えた青春映画をたくさん作っていた。今回初公開の「夏の遊び」、昨年映画アーカイブで上映された「牢獄」「道化師の夜」、日本でも公開された(僕は未見)「不良少女モニカ」「愛のレッスン」など。「夏の遊び」(1951)はいかにもスウェーデンらしい風土性と編集の妙、青春のほろ苦さを描いている。98分の映画で、ベルイマンの初期映画はほとんど90分内外。いかに今の映画が「長すぎる」かがよく判る。

 110分ある「夏の夜は三たび微笑む」(1955)は初期には珍しく長い。これはまたユーモアたっぷりの艶笑コメディで、すごく面白い。よく出来ていて、カンヌ映画祭で受賞してベルイマンが世界に知られるきっかけになったという。そういうユーモアは中期には影をひそめるが、本当はベルイマンの本質にあるんだと思う。1982年に作られた畢生の大作「ファニーとアレクサンデル」は311分もあって、今回は体力的に見逃したんだけど、公開時に見たときの記憶は圧倒的だ。ある一族の悲しみと喜びを描きつくしたような至福の映画で、一種の大らかなユーモアがあった。その後、映画はやりつくしたと語り、舞台やオペラ演出に専念する。もともとベルイマン映画は舞台劇的なところがあって、日本でも公開されたモーツァルトの「魔笛」(1975)のテレビ映画も素晴らしかった。

 ベルイマン映画は「映画芸術の極北」だと思ってきた。この「極北」とは「物事が極限にまで達したところ」と言った意味で使っているが、イメージ的に寒い感じがベルイマン映画にはある。舞台がスウェーデンだし、風景は寒々しい。それもあるんだけど、人々が悩み傷つき傷つけあうさまを冷徹に描き出す。そんな映画は他にあるだろうか。僕はフェリーニヴィスコンティのような豊饒さ、時にはゴチャゴチャするぐらい盛りだくさんの映画の方が好きだ。厳しく削り続けるような映画、カール・ドライヤーロベール・ブレッソンなどはそれまでにもあった。でもベルイマンのように、「神の沈黙」をテーマにしたり、家族の憎しみあいを描いた映画監督はいない。

 初めて見た「鏡の中にあるごとく」(1961)は孤島にやってきた家族を見つめる。作家の父は狂気にいたる娘を冷徹の描写するが、なかなかドラマ的で興味深かった。しかし、続く「冬の光」(1962)、「沈黙」(1963)になると、もう付いていけない。昔見たときはもっと熱中できたように思うが、特に「冬の光」など多神教的風土に生きるものとしてはなんでこんなに悩んでいるのとつい思ってしまった。「神の沈黙」三部作と呼び、形而上的なテーマ設定といい、極限まで切り詰められた人物描写といい、今からみれば驚くほどつまらない。ウッディ・アレンなどに多くの影響を与えたが、今じゃもういいんじゃないか。「仮面/ペルソナ」(1968)も同様。

 僕が最初に見た同時代のベルイマン映画は「叫びとささやき」(1972)。これは初のカラー映画で、世界の主要監督では黒澤明「どですかでん」(1970)と並んで最も遅いカラー映画だろう。しかし全編にわたって「」をイメージカラーとして、異様なまでの様式的映像に興奮したものだ。今回久方ぶりに見て、映像以上に姉妹間の愛憎に驚かされた。後期のベルイマン映画は家族の争いを描くものが多い。「ある結婚の風景」(1973)や「秋のソナタ」(1978)などベストテンに入選したが、夫婦、親子間のいさかいをここまで突き詰めては、見ている側も見るのが辛い。人間存在の本質に孤独があるのは確かだが、ここまで傷つけあうかと正直思う。「秋のソナタ」はイングリッド・バーグマンが主演で、確かに見ごたえはある。(今回は上映権切れ。)
 (叫びとささやき)
 まだ見ている映画はあるが、もう大体書いたからいいだろう。イングマール・ベルイマン(そもそもベルイマンじゃなくべリーマンに近いとも言うが。イングリッド・バーグマンと同じ姓だが、バーグマンは英語読み)は確かにすごい芸術家だと思う。見てないと映画史の話ができない監督だ。このようなテーマや作り方があるんだと世界に示した意義は大きい。今見るとつまらないのも多いなと思ったが、60年代には意味があったのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィリピンのキドラック・タヒミック監督

2019年01月27日 20時55分22秒 |  〃 (世界の映画監督)
 見てからだと遅くなるので、フィリピンキドラック・タヒミック監督の紹介。東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムでキドラック・タヒミック監督(1942~)の特集上映が始まった。(2月22日まで。)今ではフィリピンには、ラブ・ディアスブリランテ・メンドーサなどの世界的巨匠がいるが、僕が初めて見たフィリピン映画は、タヒミックの「悪夢の香り」だった。
 (キドラック・タヒミック)
 1982年に国際交流基金(当時)が最初の映画事業として、南アジアの映画をまとめて紹介したことがある。以後、アジアやアフリカ、イスラム圏の映画を続々と紹介してくれてありがたかった。最初はタイ映画「田舎の先生」やインドのアラヴィンダン「魔法使いのおじいさん」など印象深い映画が含まれていた。その中に一本だけ、非常に独特な個人映画としてタヒミックの「悪夢の香り」が選ばれていた。アメリカでの配給権をフランシス・フォード・コッポラが獲得したという映画である。

 最近ジョナス・メカスの訃報が伝えられた。映画会社ではなく、個人で映画を撮り続けたアメリカの映像作家である。映画製作はお金がかかるので、本格的な映画は会社が製作したものが圧倒的に多い。今はデジタルカメラになり、多くの人が個人で映画を撮ることもできる。日本でも「カメラを止めるな!」が300万で作られたと話題になったが、それでも300万はかかるのでそう安くはない。そんな映画をテーマ的にも妥協せず、個人で映画を取り続けた人が世界には何人かいる。アジアで代表的な人が、このフィリピンのキドラック・タヒミック監督なのである。

 「悪夢の香り」(1977)は独特なポップな感性で、宇宙飛行士に憧れるフィリピン青年を描いていた。自分を主人公にしたパーソナル・フィルムであり、エッセイ的な映画と言える。以後、時々タヒミックはどうしているんだろうと思ったけれど、その間「制作期間35年」という「現実とファンタジーの境界を超えた」映画を撮り続けていた。それが2015年のベルリン映画祭でカリガリ賞を受賞した「500年の航海」というマゼランの映画である。まさにマゼランの航海から500年、侵略された側のフィリピンから世界史を描き出すのが「500年の航海」だ。
 (「500年の航海」)
 この間に作られた多くの映画も上映される。3時間近くに渡り子どもたちの成長を追う「虹のアルバム」、フィリピンの武器だったというヨーヨーを描く「月でヨーヨー」、竹を通してフィリピンと日本を描く「竹寺モナムール」、ふんどしの考察「フィリピンふんどし 日本の夏」など、劇映画ではなく「個人的観察」をエッセイ的に作り続けたタヒミックの面目を示すような映画ばかりだ。映画ファンというより東南アジアに関心がある人向けなのかもしれない。一応紹介しておく次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画

2018年12月04日 22時57分00秒 |  〃 (世界の映画監督)
 イタリアの映画監督、ベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertolucci)が亡くなった。1941.3.16~2018.11.26、77歳。21世紀に入ってからは闘病生活が伝えられていた。2012年に「孤独な天使たち」が作られたが、実質的には20世紀の映画監督だったと言える。訃報特集で書くと長くなりそうなので、ベルトルッチ監督の映画についてまとめて書いておくことにする。

 ベルトルッチは不思議な、というか困った映画監督だったと思う。世界的に有名になる前の作品は素晴らしいけど、有名になってからはあまり良くない。ベルトルッチは1961年にピエル・パオロ・パゾリーニのデビュー作「アッカトーネ」の助監督についた。そのままローマ大学を中退して、1962年に「殺し」で監督デビュー。二十歳を超えたばかりで、恐るべき早熟の才能である。そして1964年には自伝的と言われる「革命前夜」を発表して広く知られた。
 (革命前夜)
 これらの作品は長く日本では公開されず、80年代末のミニシアターブームでやっと見ることができた。思わせぶりな「革命前夜」という題名だが、ブルジョワ出身でありコミュニストでもある主人公の生活を描く映画だった。ベルトルッチの「革命」は70年代初頭にやってくる。1970年に作られた「暗殺のオペラ」と「暗殺の森」の二つの映画である。前者はボルヘス、後者はモラヴィアの映画化だが、原作を自在に織りなおして自分のスタイルで語っている。特に後者の「暗殺の森」は完成度が高い。2013年に「『暗殺の森』とベルトルッチの映画」を書いているので、ここでは省略する。

 日本で初公開された映画は「暗殺の森」だったが、小規模な不幸な紹介だった。そのベルトルッチが世界的にブレイクしたのが、1972年の「ラストタンゴ・イン・パリ」で、あからさまな性描写がスキャンダルのように報じられた。「ゴッドファーザー」で久方ぶりに世界の話題になったマーロン・ブランドとまだ19歳の無名に近いマリア・シュナイダーが主演した。パリで部屋を探していた中年男と若い女性が出会う。二人は何もない部屋で先行きのない性交を続ける。

 70年代初頭の暗い世相を反映するような映画で、僕はこの映画をどう評価していいのか戸惑った。その後、この映画には重大な問題があることが明らかになった。マリア・シュナイダーには説明のないまま、レイプのようなセックスシーンが撮られたというのである。つまりシナリオに書かれていたシーンを演じたのではなかった。この映画は主演の二人、特にマリア・シュナイダーに大きな傷を残したとされる。今ではその撮影方法はアウトだろう。マーロン・ブランドの存在感や全体に漂う暗い抒情は捨てがたいが、今では当時と違った意味で「問題作」である。

 次の「1900年」(1976)はノーカット版316分、当時の公開版でも4時間を超える超大作だった。イタリアの20世紀前半を2部作で描いている。映画は1900年にヴェルディが死んだというところから、ファシズム崩壊までを一つの村の人々を追いながら描き続ける。主演にロバート・デ・ニーロジェラール・ドパルデューと米仏の名優を起用、実に見応えがあった。なかなか日本公開されなかったが、1982年にやっと公開されて嬉しかった。イタリアのファシズムの諸様相をこの映画で理解することができた思いがする。この映画もぜひデジタル版で見直してみたい。

 はっきり言ってベルトルッチはここまでだった。いや「ラスト・エンペラー」(1987)があるというかもしれない。でもあの映画は紫禁城でロケしたという壮大さ、清朝最後の皇帝から「満州国」皇帝へと歩んだ溥儀という人物の人生行路。その両者をウリにしたこけおどし的な超大作だったと思う。現代史に不案内な人は知らない話かもしれないけど、「わが生涯」をずっと前に読んでたから絵解きのような映画だなと思って見ていた。見直せば貴重なロケに感謝するかもしれないが。

 ポール・ボウルズ原作の「シェルタリング・スカイ」は僕がモロッコを知らないから、面白く見た。チベットを舞台にしたり、知らない国を描くとドラマとしては弱くなったと思う。それがベルトルッチの問題で、自国を離れてはいけない人だった。2003年のフランス五月革命を背景にした「ドリーマーズ」はムードに流されてしまった失敗作だった。そういう「こけおどし」的な作風は、実は「暗殺のオペラ」「暗殺の森」にもあった。作家的野心が外国での超大作に向かわなければ良かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒッチコック映画の快楽

2018年01月18日 23時19分58秒 |  〃 (世界の映画監督)
 僕は昔から「初詣」というものをしたことがない。文化財としてお寺や神社に行くことはあるが、信仰心がないから、わざわざ混んでいるときに行きたくない。代わりというわけでもないけど、去年から新年にかけては、シネマヴェーラ渋谷でやっていたアルフレッド・ヒッチコック(1899~1980)監督特集に通っていた。元日は休館だけど、2日からやっていたから、新作映画や展覧会、寄席なんかを犠牲にして通った。全部見るつもりが疲れて一番組をパスしてしまったが、全部で20本見た。

 今ではサスペンス映画の技法を確立した偉大な監督だと誰もが認識しているが、現役当時はそこまでの高い評価は受けていなかった。なんとアカデミー賞監督賞も一回も受賞していない。それどころかノミネートさえ、「レベッカ」「救命艇」「白い恐怖」「裏窓」「サイコ」の5回しかない。この間、ウィリアム・ワイラーやビリー・ワイルダーが何度もノミネートされていることを思えば(ワイラーは3回受賞9回ノミネート、ワイルダーは2回受賞6回ノミネート)、余りにも不当な評価だったと言える。

 ヒッチコックが英国生まれだからとも言われるが、ワイラーもワイルダーもドイツ系(ワイラーは当時ドイツ領のアルザス、ワイルダーは現ポーランド、当時オーストリア帝国に生まれた。どちらもユダヤ系)なんだから、やはりサスペンス映画が低い評価を受けていたということだと思う。テレビの「ヒッチコック劇場」という番組で知名度が高く、とにかく面白いから映画もヒットすることが多かった。でも、日本でのベストテンにもあまり入っていない。(「断崖」が1位、「疑惑の影」が3位、「鳥」が4位。)

 フランソワ・トリュフォーなどヨーロッパで高い評価を受けて、映画技術の高さが認識されるようになった。今ではヒッチコックと言えば、優れた技術で映画を作ったイメージもある。だけど、今回改めて思ったけど、ヒッチコック映画を見てもテクニックのことなど何も考えない。テクニックを感じさせないのが、最高のテクニックだと思うが、ヒッチコックはその域に達している。ヒッチコックは自分の映画にチラッと顔を出すことで知られているが、監督の姿が気になるような映画は面白くない。よく出来た作品ではどこに出てたか全く気にならずに、いつのまにかエンドマークが出ている。

 全部の映画を細かく書いても仕方ないから、簡単に。今回はイギリス時代の作品がいっぱい入っていて、逆に後期の作品はない。1953年の「私は告白する」が最後で、1954年の「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」に始まり、「めまい」「北北西に進路を取れ」「サイコ」「」と続く傑作群は一本もないけど、それらは他の映画館でも時々上映されるし、映画ファンなら見てるだろうということだろう。

 イギリス時代の映画は25本あるが、そのうち無声3本、発声8本をやった。うち2本が見逃し。最初に評価された「下宿人」(1927)は金髪女性連続殺人犯をめぐる捜査と謎の下宿人。古いけど面白い。「暗殺者の家」「三十九夜」「間諜最後の日」「サボタージュ」と趣向は違っても、いずれもスパイ映画。「間諜最後の日」はサマセット・モーム「アシェンデン」の映画化である。

 そして、「バルカン超特急」(1938)という大傑作。今回は同じスタッフで作られたキャロル・リード監督の「ミュンヘンへの夜行列車」と一緒に上映された。小さな映画館ながら場内は超満員で、この番組構成の妙が評価されたのだろう。「バルカン超特急」はヒッチコック全体を通しても最高傑作レベルだと思う。見るのは多分3度目だと思うが、何回見ても飽きずに楽しめる。鉄道ミステリーとしても最高だと思う。これもまあスパイ映画だが、老女をいかに列車で消すか。そのアイディアを「東欧」を走る国際列車という設定でムードを高める。「ミュンヘンへの夜行列車」もスパイ映画だが、ドイツに入ってからの怒涛の展開が面白い。この2本立てはまたやってくれることと期待したい。

 イギリスの田舎を舞台にした「第3逃亡者」も、とぼけた描写が楽しい。スパイ映画じゃないけど、「巻き込まれ型」であることは共通。「バルカン超特急」などが評価されハリウッドに招かれ、第二次大戦直後にたくさんの「反ナチス映画」を作ってアメリカ世論に訴えている。「海外特派員」(1940)は中でも有名で、最高傑作レベル。当然同時代には日本未公開で、確か70年代に初公開された。面白くて2回見てると思う。オランダの風車での対決が有名だし、その直前の雨の中の暗殺も素晴らしい。アメリカが参戦した後の「逃走迷路」(1942)も面白い。典型的な「巻き込まれ型」スパイ映画で、西海岸からニューヨークへ、そしてラストの「自由の女神」のスリル。

 アメリカ映画第一作は、デュ=モーリア原作のゴシックロマン「レベッカ」(1940)。これでいきなりアカデミー賞作品賞を取った。以前見た時に面白かったが細部は忘れてしまったので、今回もドキドキしながら見てしまった。イギリス旧家のお屋敷にまつわるドロドロの人間模様がスリルたっぷりに描かれる。「疑惑の影」(1943)も少女が叔父を疑いはじめて行く様を丹念に描く。これも前に見てるけど、面白かった。「スミス夫妻」(1941)はヒッチコックらしからぬコメディ。「救命艇」(1944)はスタインベック原作だというが、ドイツ軍の魚雷で沈没して生き残って漂流する話。両方ともに案外面白くない。

 イングリッド・バーグマンが出た「汚名」(1946)はラブシーンばかり有名で、スパイ映画としての興趣は弱い。「山羊座のもとに」(1949)はほとんど知られていないと思うが僕も初めて見た。19世紀のオーストラリアが舞台という異色作で、殺人罪で流刑された恋人を追って令嬢のバーグマンがやって来たが、今は関係が冷えている。「疑惑の影」のおじさん、ジョセフ・コットンがバーグマンの夫で、現地社会から爪はじきされる夫の苦悩を演じている。大ロマンではあるが、成功はしてないだろう。

 面白くないのは「パラダイン夫人の恋」(1947)も同じで、イタリア出身のアリダ・ヴァリが素晴らしく美しい「犯人」で、弁護士のグレゴリー・ペックもいかれてしまう。真相はいかにというけど、法廷ものとしては少し異色すぎる設定だろう。もひとつ有名な「ロープ」(1948)は「技術」が前面に出すぎた失敗作だろう。全編を「ワンシーン・ワンカット」で撮ったわけだが、もちろん今のデジタル時代じゃないから、フィルム一巻分以上を続けて撮れるわけがない。そこをどう解決したかは、見てればすぐ判る。なんだという感じで、そこまでしてワンカット風に撮影する意味があるか。それより「時間」を限定したためにどうしても物語に問題が出てくる。まあ異色作ということだろう。

 こうしてみると、前から知ってる映画はやはり面白く、初めて見る映画はそれほどではない。ヒッチコックは50年代以後は大体同時代に公開されているが、特に40年代に未公開が多かった。70年代以後のミニシアターブームで、けっこう昔の映画がたくさん公開され、主要なヒッチコック映画は大体見てしまった。傑作と言える作品はすごく面白いけど、スパイ映画としての設定はかなり変だ。「海外特派員」ではオランダの平和団体が戦争を防げるかどうかのカギを握っている。どうして? 「バルカン超特急」の情報伝達法も理解不能。「汚名」もおかしいし、「逃走迷路」でもどうしてこんなに謎の組織が大きくてテロができるのか判らない。

 話が変なんだけど、その後の「北北西に進路を取れ」などでも、市井の善人がスパイ事件に巻き込まれる。大昔ならあり得ないないが、「総力戦」時代になり、軍需産業が戦場以上に大事になり「銃後の護り」が重大な意味を持つようになった。そしてナチスや共産主義という「イデオロギー」との戦いの時代になったから、「敵」はどこにいるか判らない。逆にポーランドのイエジー・カワレロウィッチの「」でも、同じような不安が「西側のスパイ」として描かれる。日本でも山本薩夫「スパイ」や熊井啓「日本列島」のように、どこで何が起きるか判らないという冷戦体制の恐怖が描かれた。ヒッチコックの映画も、そのような時代に「巻き込まれた」人間の不安を形象化したということだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「冒涜」の映画作家、ルイス・ブニュエル再見

2018年01月05日 21時12分18秒 |  〃 (世界の映画監督)
 渋谷のシアター・イメージフォーラムで、ルイス・ブニュエル監督の作品を特集上映している。数年前に四方田犬彦の大著「ルイス・ブニュエル」が出て(未読)、そういえばブニュエルの映画をしばらく見てないなあと思ったものだ。ベルイマンやブレッソンの映画だっていくつか見られることを思えば、ブニュエルが見られないのは映画史的な抜け落ちというべきだ。
 (ルイス・ブニュエル監督)
 今回は1962年の「皆殺しの天使」(カンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞)を中心に、1961年の「ビリディアナ」(カンヌ映画祭パルムドール)、1965年の「砂漠のシモン」(ヴェネツィア映画祭審査員特別賞)と60年代前半の傑作群を上映している。(「砂漠のシモン」は48分の中編なので、ダリと共同監督した伝説の短編「アンダルシアの犬」を併映している。)「ビリディアナ」は珍しく64年に日本公開されているが、「皆殺しの天使」は1981年になって公開された。「砂漠のシモン」はDVDは出てたが、初めての劇場公開だと思う。「砂漠のシモン」は初めてだが、他は前に見ている。
  (皆殺しの天使)
 連続で見るのは疲れそうだが、一番効率的だから頑張ることにした。「皆殺しの天使」はオペラにもなったということだけど、究極の不条理劇である。メキシコで製作されている。あるお屋敷でパーティが開かれるが、夜も更ければ皆帰るはずが何故か誰も帰らない。帰らないで朝まで飲んだりしているのは勝手だが、朝になっても帰らない。気が付いてみれば、帰れなくなっている。何か物理的に閉じ込められたわけでもないのに、誰も部屋を出て行けない。そんなバカなという映画である。

 そんな環境に置かれると、果たして人間はどうなってしまうのか。これは何かの寓意か。皆が自分たちで思い込んだ迷路に迷い込んでいて、脱出できない。「核兵器」とか「原子力発電所」などは、みんなで一緒にエイヤっと止めてしまえば良さそうなもんだけど、抜け出せない部屋に入り込んだような状態と言えるかも。それにしても、ここでブニュエルが描く「人間性への悪意」はどうだろう。こんな設定の映画を作ったこと自体が、いかにブニュエルがトンデモ爺さんだったかを示している。

 ルイス・ブニュエル(1900~1983)は、スペインに生まれて「アンダルシアの犬」「黄金時代」「糧なき土地」など常に物議を呼ぶ映画を作って、独裁下のスペインでは映画を撮れなくなる。のちにメキシコ国籍を取り、多くの映画を監督した。1950年製作で、日本でも高く評価された「忘れられた人々」以外は低予算の不思議映画が多い。初期作品から、ブニュエルはシュールレアリスムと言われるが、リアリズム映画もあれば、B級テイストの娯楽作も多い。80年代にメキシコ時代の映画がたくさん上映されたが「幻影は市電に乗って旅をする」や「昇天峠」などメチャクチャ面白かった。

 「ビリディアナ」はそんなブニュエルがスペインに帰って作ってカンヌで大賞を取った。これは反フランコ側からは非難されたが、結局この映画は反カトリックと言われて教会の圧力でスペインでは上映禁止になった。もうすぐ修道女になるビリディアナは、院長に言われて疎遠な叔父に最後に会いに行く。そこで思いがけぬ叔父の行動、運命の変転に見舞われ、彼女の人生は変わってしまうのだが…。その内容は書かないことにするが、この背徳、この悪意は今も色あせない。
 (ビリディアナ)
 もっとも現在のスペインには、ペドロ・アルモドバルという超ド級の冒涜監督がいるから、冒涜度は多少失せた気がする。でも、完成度の高さは並ではない。聖女が堕ちていく様を見つめるブニュエルの目は冷徹である。その後、彼はフランスでジャンヌ・モロー主演の「小間使いの日記」、カトリーヌ・ドヌーヴの「昼顔」「哀しみのトリスターナ」など冒涜映画の名作を作っていく。カトリーヌ・ドヌーヴのような美女を相手に、よくもここまで悪意ある映画を作れたものだ。でも、それが面白い。

 「砂漠のシモン」は製作が中途で中断したともいうが、聖人とあがめられ荒野で修行を続けるシモンに悪魔が試練を仕掛ける。このように、ブニュエルにはキリスト教(の教会組織)に対する反感や批判がよく描かれる。それもスペインの特徴かもしれないが、僕にはこの映画はあまり判らなかった。70年代に作って評価も高い「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」や「自由の幻想」などが素晴らしかった。映画は何でも描けるということを知った気がする。今回見直してみると、映画手法そのものは案外普通で、細かいカット割りなど昔風のきちんとした映画に見えてくる。テーマは飛んでいたけど、方法は案外異端と言えないのかもしれない。僕は昔から「ビリディアナ」が最大傑作レベルだと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャン=ピエール・メルヴィルの映画

2017年11月11日 23時08分08秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督、ジャン=ピエール・メルヴィル(1917~1973)の生誕百年ということで、特集上映が行われている。またフィルムセンターでは「生誕100年 ジャン=ピエール・メルヴィル、暗黒映画の美」が行われている。それは見てないんだけど、ぴあフィルムフェスティバルでも特集され「影の軍隊」(1969)を見た。今回「仁義」(1970)、「いぬ」(1962)を見て、今までに「恐るべき子供たち」(1950)や「賭博師ボブ」(1955)、「サムライ」(1967)などを見ている。

 ジャン=ピエール・メルヴィルという人は、僕が映画を見始めたころには、フランスでスタイリッシュなギャング映画を作る監督というイメージだった。それに間違いはないけど、あまりにも厳しく暗い独特な世界に驚いてしまう。もともと世界でも珍しいインディペンデント映画作家だった。映画会社に雇われた監督が会社の撮影所で撮る時代に、自分でレジスタンス文学の傑作「海の沈黙」を映画化した。それがコクトーに評価され「恐るべき子供たち」の映画化を任される。

 後には「ヌーヴェルヴァーグの父」と言われたりするし、ゴダールの「勝手にしやがれ」に出演したりもしている。でもやっぱりメルヴィルと言えば、アラン・ドロンジャン=ポール・ベルモンドなどの大スターを使ったギャング映画だろう。「サムライ」はもちろん日本の「侍」から来ているが、孤高の暗殺者をドロンがスタイリッシュに演じて忘れがたい。後に与えた影響も大きいし、僕も前に二度見た。

 日本なら森一生監督が市川雷蔵主演で作った「ある殺し屋」シリーズ。あるいは香港のジョニー・トー監督の「冷たい雨に撃て!約束の銃弾を」など多くの作品などが似ている。クールで非情、感情を殺して任務としての殺人を果たしていく。内面の葛藤は描かれないので判らない。そういう映画だけど、メルヴィル(ちなみにこれはアメリカの作家メルヴィルから取った)の映画がどこから来たか。

 「影の軍隊」を見て、レジスタンス描写のあまりの苛烈さに衝撃を受けた。ドイツに対する抵抗伝説のような映画が多いが、戦争なんだから「殺し合い」だ。リーダーは部下を死地に追いやっても生き延びる必要があるし、裏切者は殺さなければならない。その非情な現実を一切のセンチメンタリズムなしに描いている。20代前半の若いメルヴィル(彼はユダヤ人だった)にとって、戦争がいかに厳しく辛いものだったか、胸に迫ってくるような「問題作」である。楽しいかというと、苦しいような映画。

 そういう体験をしたメルヴィルには、やがて若きヌーヴェルヴァーグ作家たちが否定する当時のフランスに多かった情緒的、感傷的な恋愛映画、文芸映画がまったく肌に合わなかったこともよく判る。彼の心を捉えたのは、40年代、50年代のアメリカで営々と作られていたギャング映画だった。それもB級映画にあるような、筋立ても破綻しているけど、ムードで見せてしまうような乾いたハードボイルド。フランスで「フィルム・ノワール」と命名される映画群である。

 「仁義」「いぬ」を見ていると、アメリカ映画的なムードを感じざるを得ない。フランスでこれほどピストルを撃ちまくるかどうかも疑問だが、「仁義」のドロンなんかアメリカ車を乗り回している。カラーだけど、ほとんど夜か雨のシーンで、まるでモノクロ映画の印象。「いぬ」はモノクロだから、メルヴィル美学が一番発揮されている気がする。トリュフォーやシャブロルが撮った犯罪映画は、やっぱりフランス映画だなという感じなのに対し、メルヴィル映画はフランス語をしゃべらなければアメリカ映画でも通じるんじゃないか。それぐらい乾いたタッチである。
 (「仁義」)
 もっとも見ていてよく判らない感じもする。名前がすぐに覚えられないし、誰が誰だか主役以外はこんがらがってくる。「仁義」も「いぬ」も犯罪者側と警察側を並行して描くが、それぞれ策略を弄するから筋立ても複雑になる。「仁義」はドロンの他、イヴ・モンタン、ジャン=マリア・ヴォロンテなど豪華な配役でフランスでは大ヒットしたという。「いぬ」はベルモンドが若々しく、誰が「いぬ=密告者」なのか緊迫してる。でもそれぞれ破滅に向かう物語で、ノワール映画は冷酷である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロベルト・ロッセリーニのバーグマン時代-イタリア映画の巨匠③

2016年11月30日 23時35分33秒 |  〃 (世界の映画監督)
 「イタリア映画の巨匠」のミニシリーズは3回で終わり。最後に「ネオ・リアリスモ」の代表者ともいうべきロベルト・ロッセリーニ(1906~1977)を取り上げる。ロッセリーニは、僕にとって長らく「伝説的」ともいうべき監督だった。生没年を見ると、前回書いたヴィスコンティとほぼ同じなんだけど、世界的に認められたのはロッセリーニが断然早い。そして、僕が映画を見始めたころには、新作がまったく見られなかった。フェリーニやヴィスコンティ、アントニオーニ、そしてヴィットリオ・デ・シーカだって、新作が公開されていたのに。だから、よく判らない昔の巨匠に思えてしまうのである。

 第二次世界大戦は、それまでの歴史に例を見ない巨大な災厄であり、ものすごく大量の「無惨な死」をもたらした。直接の戦場にならなかったアメリカはちょっと違うけど、ヨーロッパやアジアの各国では、文化のあり方が変わってしまった。映画でそのことを最初に示したのは、イタリアの「ネオ・リアリスモ」だったわけである。日本は占領中だったから、外国映画の受容にズレがあった。未公開作品もあった。(共産党員作家ヴィスコンティの「揺れる大地」は公開されなかった。)

 日本ではほぼ4本の映画、ロッセリーニの「無防備都市」(1945、日本では1950年ベストテン4位)、「戦火のかなた」(1946、日本では1949年ベストワン)、ヴィットリオ・デ・シーカの「靴みがき」(1946、日本では1950年ベストテン7位)、「自転車泥棒」(1948、日本では1950年ベストワン)がネオ・リアリスモの代表作と言われる。つまり、日本では「逆コース」時代に公開され、49、50と続けてベストワンになり、1950年にはベストテンのうち3つを占めた。時代相もあって、当時の人々に強い影響を与えたのは当然だ。

 これらの映画はフィルムセンターにあって、僕も若いときに見ている。それは「映画史的名作」という感じだった。しかし、その後のロッセリーニ映画は全然見られない。キネ旬のベストテンを調べると、1960年に「ロベレ将軍」(4位)、1961年に「ローマで夜だった」(8位)が入選しているが、まったく見る機会がなかった。「ロベレ将軍」は近年デジタル版が公開され、デ・シーカ主演のたいそう立派な抵抗映画だった。一方、「ローマで夜だった」の方はいまだに見る機会がない。

 その間にロッセリーニは何本も作っているけど、日本ではほとんど公開されなかった。(「ドイツ零年」などいくつは公開されているが。)そして、その間は「失敗作の時代」と言われてきた。その期間はほぼ「バーグマン時代」と言っていい。それらの映画は世界的に再評価されてきていて、日本でも90年ころのミニ・シアターブームの時に上映されたはずだ。僕も何本か見て、これは傑作だと思った記憶がある。

 ところで、今書いた「バーグマン時代」というのは、スウェーデン出身の大女優、すでにアカデミー賞主演女優賞を受けていた超人気スターのイングリッド・バーグマンと結婚して、バーグマン主演映画を続々と作っていた時代のことである。有名な話だけど、バーグマンは「無防備都市」を見て感激し、どんな映画でもいいから出演したいと手紙を送った。その結果「ストロンボリ」(1950)に出演することになり、撮影中に二人は愛し合うようになった。でも、どっちも配偶者と子どもがいた「ダブル不倫」だったうえ、アメリカは「マッカーシズム」(反共ヒステリー時代)さなかだったから、大問題になった。

 映画史上最大級のスキャンダルだったけれど、結局は撮影中にバーグマンは妊娠した。(男児を産み、その後双子姉妹がある。一人は女優のイザベラ・ロッセリーニ。)二人は1950年に結婚したが、1957年に離婚する。その間にロッセりーニは5本のバーグマン主演映画を撮っている。そして、せっかく美女を妻としながら、バーグマンをいじめ抜くような映画ばかりを作っている。それも、ストーリイもはっきりせず、現代人の不安や悩みを象徴的に描くような映画を。それは当時は全く受け入れられず、訳の分からない失敗作とされてきた。でも、今見ると、実によく判る傑作ではないか。

 「ストロンボリ」(1950)は、中でも僕は傑作だと思う。ストロンボリというのは、イタリア南部、シチリア島の北にある小火山島のこと。ここは噴火が相次ぐことで知られ、今も時々噴火している。流動性の低いマグマが間歇的に吹き上がる火山噴火を「ストロンボリ式噴火」というほど、火山学でも有名な火山島である。ここ出身の男と結婚してストロンボリ島に来てしまった女が、周囲の目に追い詰められて、ついに家出してストロンボリ火山をあてもなくさまよう…。
 (ストロンボリ)
 ほとんどトンデモ映画的な展開なんだけど、もともとバーグマンの役柄は「難民」である。リトアニアからポーランドに逃れ、ドイツ占領下で生き抜いたが、ドイツ敗戦に伴ってなんとか偽造旅券でイタリアに脱出したという設定である。難民収容所で男性棟にいた男と知り合い、求婚を受け入れてストロンボリに渡った。まさか夫の故郷がこんな絶海の火山島だと知らなかったのである。そこでは気概ある男はアメリカにわたり、残った女たちは因習のとりこになっている。外国女が奔放にふるまうと、掟破りの女として排斥され、それが夫の心も狂わせていく。火山をさまよう女としては、原節子が焼岳を登る「新しき土」、グアテマラの先住民少女が火山をさまよう「火の山のマリア」があるが、一番危険な感じ。

 続いて「ヨーロッパ一九五一年」(1952)は、アメリカ大企業の幹部夫人としてイタリアに来たという設定。だけど、忙しさにかまけて幼い息子をないがしろにすると、精神的に不安定な子は自殺してしまう。そのことで自責の念にかられた妻は、一切の家事を放棄して、個人的な「慈善」に熱中するようになる。それが行き過ぎて、精神的失調と見なされて精神病院に閉じ込められる。なんの救いもない終わり方に驚くが、そこにこそロッセリーニの精神性がうかがわれる。「子どもの自殺」や「追いつめられる母」、「こころの病」と、現代から見るとこの映画はまさに「現代の不安」を描いていて、身に迫る。これも驚くべき先見性を持っていた傑作だと思う。狂気か究極の善意か、バーグマンの演技もすさまじい。
 (ヨーロッパ一九五一年)
 そして、次に「イタリア旅行」。夫婦仲が冷えている夫婦が、ナポリの別荘を相続してイタリアにやってくる。夫はもう売り払ってしまうつもり。ローマから車でドライブしながら、途中で知り合いを訪ねたり、アヴァンチュールがありそうだったり…、いろいろありつつ夫婦仲はどうなる。という「ロードムービー」の古典で、最後がちょっと甘いが、風景も面白く、イタリアを旅行する外国人という設定も面白い。これは最高傑作という人もいるようだが、僕はそこまでは買わない。

 日本で見られるバーグマン時代のロッセリーニは、以上の3本だと思う。監督の別の映画もやっていたけど、時間が取れずに見逃した。「無防備都市」も何十年ぶりに見直したが、今も迫力たっぷりだったけど、この手の映画はその後いくつもあるなあとも思った。もう「古典」ということなんだろう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルキノ・ヴィスコンティ、ブーム再び?-イタリア映画の巨匠②

2016年11月28日 21時30分55秒 |  〃 (世界の映画監督)
 イタリアの巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ(1906~1976)は、今年が生誕110年、没後40年である。もう高い評価と人気はゆるぎなく、毎年どこかで何かをやっている。「山猫」「ルードヴィヒ」などは昨年公開されたと思う。今後、12月末から「若者のすべて」「郵便配達は二度ベルを鳴らす」「揺れる大地」が新宿武蔵野館で連続上映される。そして、もう40年も前になるが、日本のヴィスコンティ再評価とブームをもたらした「家族の肖像」(デジタル完全修復版)が、岩波ホールでリバイバルされる。

 いまヴィスコンティのフィルモグラフィを見ると、長編映画は生涯に14本しか作っていない。案外少ないのに驚くが、僕は全部見ている。1969年の「地獄に堕ちた勇者ども」以後はリアルタイムで見ているが、その時点では日本未公開作品作品も多かった。1971年の「ベニスに死す」がベストワンになったものの商業的には惨敗だったことから、しばらくヴィスコンティは公開されなくなった。岩波ホールが「家族の肖像」をヒットさせてから、ミニシアターブームに乗ってヴィスコンティ映画が公開されるようになった。

 ヴィスコンティはよく「赤い貴族」と言われるが、まぎれもなく貴族の家系である。ルネサンス期の歴史書を読むとよく出てくるミラノのヴィスコンティ家だが、さすがに本家ではなくて傍流らしい。それでも父は公爵で、お城で育ったという。そうした育ちからも来る、壮麗な映像世界、ヨーロッパのホンモノを知っているぞというような映画が、ちょうどヨーロッパ旅行なんかに出かけられるようになった日本人に受けたのかもしれない。だから、日本のヴィスコンティ受容は、「後期の大作」中心になったきらいがある。

 一方、ルキノ・ヴィスコンティは、戦時中の1942年に「郵便配達は二度ベルを鳴らす」でデビューした「戦中派」で、「ネオ・リアリスモ」の元祖だった。イタリア共産党に入党し、「赤い貴族」の映画作家だったわけである。そういう苛烈なまでの「リアリズム作家」という面を忘れてはいけないと思う。特に1948年の「揺れる大地」はシチリア島の漁村に密着ロケしたリアリズム映画の最高傑作で、世界映画史に残る大傑作である。とにかくすごい迫力で、圧倒されること請け合い。日本公開は遅れたが、フィルムセンターにフィルムがあって昔に2回見た。今回デジタル版で公開されるのが楽しみ。
 (揺れる大地)
 今回シネマヴェーラ渋谷でやったのは、「ベリッシマ」(1951)という第3作である。これは確か「俳優座シネマテン」で見たと思う。六本木の俳優座劇場で、演劇公演が終わった後の夜10時から映画を上映するという企画があったのである。1981年と記録にある。時間的に見るのが大変だが、若いから見に行った。そして、ずいぶんあきれ返って辟易(へきえき)した記憶がよみがえってきた。
 (ベリッシマ)
 ベリッシマというのは「最も美しい女」ということで、映画出演のための「美少女コンテスト」に娘を出そうと走り回る母親アンナ・マニャーニが凄すぎる。「無防備都市」で注目され、1955年には「バラの刺青」でアカデミー主演女優賞を取った女優である。取りつかれたように娘の売り出しに奔走する貧しい母親を全身で演じている。それは凄いが、見てる方が付いてけないぐらい。トンデモ映画に入れた方がいいけど、あくまでもリアリズムというところが凄いのである。後に活躍するフランチェスコ・ロージとフランコ・ゼッフィレリが助監督を務めている。日本にもこういう親はいそうだな。

 1960年の「若者のすべて」はアラン・ドロン主演の大作だけど、中身は厳しいリアリズムの青春映画。ここまでが「現実を描くリアリズム作家」だった。次の「山猫」(1963)から「歴史絵巻」路線が始まる。もっとも「熊座の淡き星影」(1965)や「異邦人」(1967)は位置づけが難しい。「山猫」から「ベニスに死す」までを「文芸名作路線」とするべきかもしれない。
 (若者のすべて)
 ところで、多分上映権が切れて以来、映画館でやってないと思うのが、「地獄に堕ちた野郎ども」(1969)である。これこそ退廃の極致で、ナチスの実態を暴露するとともに、美と退廃と抵抗の狭間に生きる人間の姿を描いた傑作である。アメリカ資本で作られたから権利関係が難しいのかもしれないが、これこそリバイバルを待ち望む映画である。これに比べれば、世にあまたあるナチス映画やホラー映画など、すぐに忘れてしまうような薄い映画としか思えない。そして、遺作となった「イノセント」(1976)。僕が一番好きなヴィスコンティ映画で、典雅な恋愛映画にしてトラウマ必至の怪作でもある。とにかく、ルキノ・ヴィスコンティに比べれば、最近の映画は薄っぺらで見るに堪えないと思ってしまう。若いうちに見ておかないと。(それはフェリーニも同様だけど。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェデリコ・フェリーニと初期作品-イタリア映画の巨匠①

2016年11月27日 21時49分17秒 |  〃 (世界の映画監督)
 シネマヴェーラ渋谷でイタリアの「ネオ・リアリスモ」の特集が行われていた。もう終わっているが、忙しいうえにもともと見ている映画が多いから、2回しか行けなかったのが残念。でも、ここで日本未公開だったフェデリコ・フェリーニの初期作品2作を見ることができた。もう新作がない監督は、なかなかブログに書かないから、この機会にちょっとイタリア映画の巨匠について書いてみたい。

 フェデリコ・フェリーニ(1920~1993)が亡くなって、もう20年以上経つのか。長い映画史を通じて、国内外を通じて僕の一番好きな映画監督である。「サテリコン」(1969)以後の作品は、すべて同時代に見てきた。最後のころは、どうも創作力が落ちたと思っていたが、それでもフェリーニの新作を見逃すわけにはいかなかった。今回2本見て(オムニバス映画の何本かを除き)、長編は全部見たことになる。

 フェリーニはロッセリーニの「無防備都市」の脚本を担当した後、1950年の「寄席の脚光」で監督デビューを果たす。ただしアルベルト・ラトゥアーダとの共同監督となっている。ラトゥアーダは青春映画やコメディ、文芸ものなど多数の商業映画を作り、日本でも結構公開されている。大した映画はないけど、演出力はそれなりなんだろう。
 (左がジュリエッタ・マシーナ)
 映画は旅芸人一座が列車で旅立つところから始まる。やっぱりフェリーニ的世界である。そこにスターを夢見る少女が強引に押しかけ入団にやってくる。中年の団長はジュリエッタ・マシーナという相方がいながら、美人の新人を寵愛する。お金がないから雇えないと言われながら、居座ってしまった新人女優のダンスが評判になって…。人気が出てきた新人をもっと売り込もうとする団長、見捨てられた団員たち、そして最後には…という、旅芸人もの、あるいは「新人女優のし上がりもの」の定番的展開でつづられる旅芸人と中年役者の哀歓の日々である。

 次の作品は1952年の「白い酋長」で、フェリーニ単独監督の最初。「白い酋長」っていうのは、劇中劇(映画内映画)として作られているイタリア風西部劇の主人公のことである。ローマに新婚旅行でやってきた若妻は、夫を差し置いて大ファンの「白い酋長」に会いに行く。夫はそれなりの家柄らしく、親戚がローマ教皇との面会をセッティングしているのに、妻は行方不明に。一方、妻は「白い酋長」になかなか会えず、よく判らないうちに映画の撮影現場の海に連れていかれる。酋長は彼女を船で海に連れ出す。夫は妻は病気と言いつくろってごまかすが、翌日に延ばした教皇面会に間に合うか…。この映画は、ニーノ・ロータが映画音楽を担当した最初の作品で、この後最終作まで音楽を担当した。

 まあ、今から見れば、両作とも「フェリーニ初期」という目で見て、それなりに楽しめる。だけど、当時この映画を見ただけでは、やはり日本公開は難しい。映画作品的にも、演出技法的にも、まあ普通に楽しめるといった程度だと思う。しかし、今から見て「フェリーニ的特徴」をいくつか見て取ることもできる。一つは劇としての構成。登場人物のドラマという以上に、映画内の人物が遍歴していくさまを見つめるという作品である。それは「」や「甘い生活」も同じで、「サテリコン」や「カサノバ」のような原作がある作品も同様である。イタリアの古典「神曲」や「デカメロン」にも共通するような問題で、そういう「遍歴もの」の伝統があるんだろう。

 もう一つは、旅芝居映画撮影など、自分の好きな世界、それも「見世物的祝祭空間」を描いていること。この後も、サーカスを描いた「」、「フェリーニの道化師」、映画撮影が出てくる「甘い生活」、舞台芸人を描く「ジンジャーとフレッド」など様々な作品で、同じような世界を描いている。旅芸人の映画を見ていると、やっぱりフェリーニだなあと思う。そして、どっちもジュリエッタ・マシーナが出ている。言わずと知れたフェリーニの妻であり、フェリーニの死後半年で亡くなった彼女は、脇役ではあるけど最初の映画から出ていたのである。

 フェリーニは、次の「青春群像」(1953)で自己の世界を確立し、「」(1954)で世界的巨匠となった。その後、「フェリーニのアマルコルド」(1973)まで全作品で傑作を連発し続けた。その傑作の中でも、もちろん「甘い生活」(1959)と「8 1/2」(1963)が、傑作中の傑作であり、映画史上でももっとも素晴らしい大傑作である。人生と世界の複雑さを余すところなく描き、同時に人生の哀愁、日々の倦怠を見つめ、深い感動を見る者に与える。フェリーニは見世物的な圧倒的快楽心のうち深くに通じる懐かしさを描き続けた。イタリア社会と自己の脳内の「地獄めぐり」のような作品群は永遠の輝き続けるだろう。

 フィギュアスケートのNHK杯を見ていたら、男子の田中刑事選手が、音楽に「フェデリコ・フェリーニ・メドレー」を使って流麗に滑っていた。(3位となった。)まあ、フェリーニというか、ニーノ・ロータ・メドレーだけど、今もフェリーニが生きてるんだなあとうれしく思った。2020年が生誕百年。4年後に向けて、多くの作品上映や再評価などが進むことを願う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・アンジェイ・ワイダ

2016年10月11日 22時57分58秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda 1926~2016.10.9)が亡くなった。90歳。今もなお現役の監督で、新作が作られたばかりだという。新藤兼人やアラン・レネなどに続き、1950年代から映画を作り続けてきた世界的映画監督はこれで姿を消すことになる。

 アンジェイ・ワイダの訃報は、夕刊を見て知った。新聞休刊日だったので、朝刊はなかった。この間、パソコンやケータイ電話でニュースを簡単に見ていたが、ワイダの訃報に気付かなかった。これほどの映画監督が亡くなったというのに。しかも日本との関係が非常に深かった。やはり紙の新聞がないと困るということでもあるが、もうワイダ監督の知名度も落ちてきたのかもしれない。

 アンジェイ・ワイダの名前が映画を超えて語られていたのは、50年代後半から60年代、そして1970年代後半から80年代前半のころだろう。映画で言えば、「灰とダイヤモンド」(1958)と「大理石の男」(1977)がそれぞれの時期の代表作ということになる。しかし、そういう映画の問題を超えて、前期はスターリン死後の「雪どけ」が東欧各国に広がった時期、後期は冷戦末期のポーランドで自主労組「連帯」が結成された時期という政治的、思想的な背景を持っていた。それを知らない人が多くなると、「アンジェイ・ワイダ」という名前の神話的輝きが伝わらなくなるんだろう。

 戦後の世界映画では、まず40年代後期にイタリアのネオ・レアリスモが注目され、50年代前半になると黒澤明や溝口健二らの日本映画が発見された。それに続いたのが、50年代後半の「ポーランド派」だった。ポーランドは独ソ不可侵条約の密約により、第二次大戦中は独ソに分割占領されていた。イギリスに亡命政府があったけど、ソ連軍によってナチスから解放され、戦後は「社会主義国」となった。まあ、事実上「ソ連の植民地」である。スターリン死後に東欧各国で反乱が起きるが、ポーランドでもポズナニ暴動が起きて、指導者がゴムルカに交代した。そんな時期にワイダは映画を作り始めた。

 もともとは青年期に浮世絵を見て芸術家を志したという。戦時中は対独レジスタンス活動を行った。戦後に古都クラクフの美術大学に進み、その後ウッチ映画大学に進んだ。1955年に「世代」で監督デビュー。その後、「地下水道」(1957、カンヌ映画祭審査員賞)、「灰とダイヤモンド」(1958、ヴェネツィア映画祭国際映画批評家連盟賞)で世界的に認められた。でも、「地下水道」はワルシャワで蜂起した国内抵抗派(共産党系ではない)が描かれているし、「灰とダイヤモンド」はドイツ降伏後に亡命政府派の青年が追い詰められていくさまを描いていた。どっちも「危険なテーマ」だった。

 「世代」は日本公開が遅れたが、他の2本は日本でも大きく評価された。(「灰とダイヤモンド」は59年ベストテン2位。)僕は70年代初めにフィルムセンターか自主上映で見たと思う。非常に深い感銘を受けた記憶がある。特に「灰とダイヤモンド」は、「時代に裏切られる青年」をパセティックに(悲愴に)描き出し、60年安保や学生反乱に重ねて熱狂的に受け入れる人がいた。僕もラストに死んでいく主人公、ズビグニエフ・チブルスキーの名前はすぐに覚えた。単なる映画を超える「時代の象徴」だった。「地下水道」は最近見直す機会があったが、テーマ的な問題作という以上に、白黒映画の美学的構図の素晴らしさが印象的だった。(下の写真、前が「地下水道」、後が「灰とダイヤモンド」)
  
 その後、60年代から70年代にかけては、政治的なテーマの映画より、文芸映画のような作品が多く、日本公開もされなかった映画が多い。ポーランド社会も停滞していった時期である。1975年の「約束の土地」はポーランド文芸大作の大傑作で、近代化に向かう中で揺れる若者たちが印象的。続いて、久しぶりに政治的なテーマの「大理石の男」(1977)が作られる。スターリン時代に「労働英雄」として石像が作られた男、その男が政府から迫害されていった歴史を追う若い世代を描いた。国内で大ヒットしたが、海外上映は当初禁止された。(その後カンヌに出品され受賞。)自由に映画が作れる社会ではなかったから、そういう映画が作れる時代に変わりつつあったということだろう。続編の「鉄の男」(1981)も作られ、カンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を獲得している。

 その後は、歴史や文学作品の映画化が多かった。フランス革命の指導者「ダントン」やナチスにとらわれた「コルチャック先生」、ドストエフスキー原作の「悪霊」、坂東玉三郎が演じた「ナスターシャ」など。それらは立派な作品ではあるものの、立派すぎるというか、もう時代との緊張感が薄まっているような感じを受けたものである。その時代の作品は、大体岩波ホールで公開されていた。近年も「菖蒲」や「ワレサ 連帯の男」などが岩波ホールで上映されたが、もう黒澤明やフェデリコ・フェリーニの晩年のような感じだったと思う。映画的な完成度はかつてと比べられないけど、やっぱり僕は見続けていた。(それだけの恩義は受けていると思うのである。)

 こうしてみると、政治的、社会的な映画を作ったという感じになるが、僕はワイダの本質は違うんだろうと思う。本質というか、彼のベースにあるのは「抒情詩人」だったのではないか。また、ソ連からの自由を求めた映画で有名になったが、ホントは「ロシア文学」の愛好者だった。だけど、そういう「文学青年」は、ポーランド現代史では政治を避けられなかった。何よりもポーランドを愛した愛国者だったワイダは、最後になってポーランド文学の最高傑作と言われる叙事詩「パン・ダデウシュ物語」(1999)を映画化している。これも大変立派な作品だったが、ポーランド文化に詳しくないと付いていけないぐらい、ポーランド的な作品だったと思う。

 そして、「カティンの森」(2007)を作った。これは第二次大戦初期にポーランド国軍の将校多数(2万人を超える)をソ連軍が虐殺した事件を描いている。ワイダ監督の父親もこの事件で虐殺された一人だった。独ソ戦直後に死体が発見され、ドイツはソ連の犯行として非難したが、ソ連は逆にドイツの犯行と主張した。戦後になっても「論争」が続き、ポーランド国内では語ることができなかった。とっくの昔にソ連の犯行と確認されているから、今ではこの事件を描いても政治的な問題性は持たないが、80歳になった監督はこれを作らずにはいられないという執念が感じられた。戦争と人間をめぐって考え込まされる、日本にとっても無縁ではない映画になっていた。

 そういう風に、ポーランドの歴史と文化の語り部のような映画人生だったけれど、僕は「白樺の林」(1970)のような文学的、詩的な作品が好きである。それと「影なす境」(1976)の題で、フィルムセンターのポーランド映画特集で大昔に英語字幕付きで上映されただけの映画がある。これはポーランド出身の作家、コンラッドの「陰影線(シャドウ・ライン)」という小説の映画化なんだけど、航海で極限状況を経験する船長の話で、映像的にも素晴らしかった。日本語字幕付きでちゃんと見てみたい作品である。クラクフに日本美術技術センターを作るなど、日本文化を愛好したことでも知られている。

 年齢が年齢だけにやむを得ないんだけど、惜しい人をなくしたと思う。とにかくポーランド映画史上、空前絶後の最大の巨匠に間違いない。ポーランドの状況が日本でも熱く語られた時期があるんだということも、今では理解できないかもしれない。「自主労組連帯」の持つ思想的意義は、むしろ今の日本にこそあるのかもしれない。今こそ改めて振り返られるべき映画群だと思う。(毎月書いている追悼特集の9月をまだ書いていない。加藤紘一、シモン・ペレス、アーノルド・パーマーなど、今では現役ではない人ばかりなので、来月にまとめて書く予定。)
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼アッバス・キアロスタミ

2016年07月07日 21時10分00秒 |  〃 (世界の映画監督)
 イランの映画監督アッバス・キアロスタミ(1940~2016)が4日に亡くなった。76歳。パリでがん治療中だったという。アベノミクスなどを書いていて遅くなってしまったが、やっぱり書いておきたい。

 1970年代から活躍していたけれど、日本で公開された「友だちのうちはどこ?」(1987)でキアロスタミの名を知った。1993年のことで、その年のキネ旬8位に選ばれている。ロカルノ映画祭で評判になっていたことは聞いていたが、実際に初めて見て、その素朴で温かく、同時にたくらみに満ちた演出やカメラワークに感嘆した。イランの農村地帯の風景など、いわゆる「ジグザグ道」も興味深かった。今の日本の若者が見れば、なんでスマホないの? という感じかもしれないが。(その後のキアロスタミ、あるいは他の監督の映画を見ても、イランでもケータイの普及は進んでいるようだが。

 イランは、1979年のイスラム革命、それに続くイラン・イラク戦争で、芸術上の自由な活動が大きく制限される状況が続いた。そんな中で「児童映画」は比較的制限が少なく、だから児童映画の名作がたくさん作られたのだと言われる。確かにそういう側面はあるだろう。と同時に、戦時体制、宗教支配のもとで、人々の心も子どもが出てくる映画を望んだのではないだろうか。

 キアロスタミは最近まで活動していたが、21世紀になってからの作品には衰えが見られた。20世紀末に続々と日本公開された映画が、やはり素晴らしかったと思う。だから、若い人の中には、あまり知らない人もいるのではないか。だけど、間違いなく20世紀末の最も重要な映画作家の一人である。小津安二郎の影響を公言し、アキラ・クロサワとイニシャルが同じだと喜ぶキアロスタミは、日本映画界にとっても重要な映画作家だった。遺作となった「ライク・サムワン・イン・ラブ」は日本人俳優を使い、日本で撮影された映画だった。あまり評判にはならなかったが、結構面白かったと思う。

 「友だちのうちはどこ?」に続き、イランで起こった大地震を扱う「そして人生は続く」「オリーブの林をぬけて」「クローズアップ」と続々と公開され、93、94、95と3年連続でキネ旬ベストテンに入っている。そして、97年のカンヌ映画祭で(今村昌平の「うなぎ」とともに)パルムドールを受賞した「桜桃の味」が作られた。テヘラン近郊の砂漠地帯を舞台に、イスラム教ではタブーである「自殺」をテーマとする傑作である。その後、1999年にベネツィア映画祭審査員賞の「風が吹くまま」を作る。ここら辺までが重要な作品が連続した時代。

 もともとドキュメンタリー作品も多く、事実だか虚構だか判らないような作品が多い。劇映画で社会のありようを壮大に描くというような作家ではなかった。作品の中には、スケッチのような、シネマエッセイというような作品も多い。それが20世紀末のイラン社会を描くのに適した方法であり、同時に世界にも訴えたところである。何が真実で何がドラマだか、なんだか判らないような世界を日々生きているのだから。淡彩に過ぎると思うときもあったけど、「ハイク」という芸術形式に親しんでいる日本人には向いていた。監督も日本文化に親近感を持った。

 キアロスタミ映画が日本でも評価されたことから、モフセン・マフバルバフなど他のイラン監督作品も続々と公開された。欧米や東アジア以外の映画が、ベストテンに入選したのは、非常に珍しい。イランはこの間、特異な宗教国家として、人権や核開発など多くの問題を指摘されてきた。だけど、イランの民衆の多くは平和を愛好し、思いやりや温かさを持っていることを、僕は多くのイラン映画で知ることができた。同時に、イランで官僚主義や多くの理不尽が起きていることも、映画で垣間見ることができた。大体、キアロスタミやマフバルバフも、近年は外国でしか映画が撮れなかった。最後にイランで撮れなかったことは、心残りではなかったかと思う。今後追悼上映なども行われると思うが、ぜひ知ってほしい映画世界である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エリック・ロメールと映画の快楽

2016年06月04日 23時03分13秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスのヌーヴェルヴァーグを代表する映画監督の一人、エリック・ロメール(Éric Rohmer 1920~2010)の映画8本が「ロメールと女たち」と題されて、角川シネマ有楽町で上映されている。(10日まで。)昔いっぱい見た監督で、今回の上映作も(劇場初公開の「コレクションする女」を除き)全部見ている。ロメール映画はある時期まで日本では見られなかったが、80年代後半から続々と新作が公開された。同時代に見たときは、能天気というか、美しいけど中身が薄い「美少女艶笑譚」みたいな映画ばかりで、何だと思うことが多かった。だから、見直すつもりもなかったんだけど、これが面白い。

 ロメール映画と言えば、「ヴァカンス」である。ヴァカンスを楽しむはずが、うまくいかなかったり、様々な出来事が起こるが、ともかく夏のヴァカンスが描かれることが多い。そこで、大人の男と女、そして少女(時に少年も)が出てきて、恋愛あるいは恋愛遊戯を繰り広げる。それを軽妙かつ自由な映像で見せていくところが、「ヌーヴェルヴァーグ」という感じ。日本人からすると「恵まれた」感じをどうしても受けてしまうが、別に大金持ちの世界ではない。お金がない若者もよく出てくる。フランスじゃ、誰でも5週間のヴァカンスを取る権利があるのである。

 映画館のホームページには、以下のようにある。「フランスの美しい風景の中で織りなす8つの恋物語を、全作品デジタル・リマスター版で上映いたします。可憐な少女たちをエロティックに描き、大人の女の無垢さを映し出す珠玉の恋愛映画たち。初夏にぴったりな8つの恋物語を、ぜひお楽しみください。」まあ、確かにそういう世界の映画であるのは間違いない。

 だけど、今見ると、この自由な感じは何だろうと感嘆する。そして、決して単なる恋愛映画ではないということも。ブランドもので固めたオシャレではなく、「普通の人々」の気軽なオシャレで自由な様子を描いている。それにフランス人のなんと議論好きなことか。映像も素晴らしいけど、同時に「言語の映画」でもある。日本で本格的に公開された最初のロメール映画「海辺のポーリーヌ」(1983、ベルリン映画祭銀熊賞)なんか、まさに「ヴァカンス美少女映画」の見本のような映画だけど、15歳のポーリーヌと年上のいとこマリオンをめぐる男と女のさや当ては、よくしゃべり、議論を交わす恋愛討論映画である。映像と音楽で盛り上げて、当人たちは黙っている日本とは大違い。これがヨーロッパの底力。

 日本公開は1989年だった「クレールの膝」(1970)は、公開当時見た時に一番面白かったロメール映画。何しろ「エロの極致」である。と言ってもエロスの対象は「ひざ」なんだから、驚き。しかも、タイトルロールのクレールはなかなか登場せず、妹のローラが恋愛ごっこの対象として延々と撮られている。これもヴァカンスのアヌシー湖畔の物語。冒頭のモーターボートが橋をくぐるシーンから素晴らしい名場面の数々。(後にアカデミー撮影賞を二度受賞するネストール・アルメンドロスの撮影。)男が友人の女性作家と再会し、少女姉妹を紹介される。だが、その段階ではクレールはまだ帰ってきていない。やっとクレールが登場するが、男友達とべったり。ところが、偶然「クレールの膝」に男は魅せられてしまい…。って、嘘でしょうというような設定を納得させてしまうから映像の力はすごい。

 「クレールの膝」は初めて見ると、エロティシズムを感じると思うが、今回見ると「いちいち言語で説明する」のがやはりフランス映画だなあと思った。もっとすごい言語の力を発揮するのは、「モード家の一夜」(1968)。今回唯一のモノクロ映画だが、アルメンドロスの撮影の美しさに絶句する。中身はほとんど議論で進行し、それもパスカルとか信仰の話が多い。ジャン・ルイ・トランティニャンは旧友とともに女医を訪れ、一夜を過ごすが何も起こらないというだけの話。それと教会で知り合った名も知らぬブロンド女性への恋心。その二人の女性とのやり取りだけで見せてゆく。すごいな、フランスは。ちなみに、男は「技師」とされ、カナダ、チリ、アメリカが長かったという。フランス中部のクレルモン=フェランの話だが、ここはタイヤメーカー、ミシュランの本社があるというから、ミシュラン勤務だったのか。

 最も軽い「レネットとミラベル 四つの冒険」(1986)は、偶然知り合った若い二人の女性を描く。パリの学生ミラベルは田舎旅行で自転車がパンクして、それを田舎で絵を描いていたレネットが助けて友達になる。レネットは翌年パリの美術学校に入り、一緒に部屋をシェアする。この二人の「日常生活の冒険」を描いていくわけだが、この二人もちゃんと意見を持っていて、たとえば路上で物乞いにあったらお金を与えるかどうかで大議論が始まる。すごく楽しい映画で、パリ風景の美しさも特筆すべきものだが、軽くて楽しい映画だけど、主人公たちがきちんと意見を言えて世界観を持っている。議論を描くだけで映画が成立する。そんな日常が日本にはないのに、「アクティブ・ラーニング」とか「18歳選挙権」とか始めてしまう。大丈夫なんだろうかと思う人は、「おフランス」の軽い恋愛映画を見るのもいいのではないか。フランス人はホントに10着しか服を持たないのか気になる人も。

 日本では当初クロード・シャブロル(「いとこ同士」など)、ジャン=リュック・ゴダール(「勝手にしやがれ」)、フランソワ・トリュフォー(「大人は判ってくれない」)の3人が「ヌーヴェルヴァーグ」として紹介された。また、同じくアラン・レネルイ・マルなどの映画も紹介されたが、他の監督は長いこと公開されなかった。このエリック・ロメールやジャック・リヴェット、ジャック・ロジェなど長いこと紹介されなかった。それどころか、今になっても日本では見ることができない多くの監督が存在する。

 それぞれがかなり違う作風であるが、「自由な作り方」以外にも共通点がある。それが「言語への信頼」。ゴダール映画は政治映画化した時期はもちろん、それ以外にも映像と同じくらい「言語」で表現している。映像派のように思いがちのトリュフォーだって、文学趣味は紛れもないし、「野生の少年」のように「言語」への信頼がベースにある。多分、フランス文化そのものが、「フランス語」というものによって成立しているという考えが強いのだと思う。それとともに、日常的に「議論」が日本よりも生活の中に存在するんだろう。まあ、ロメール映画も一つの「典型」であり、常にだれもが恋愛を議論する人ばかりではないと思うけど。

 「海辺のポーリーヌ」の「海辺」はノルマンジーで、コートダジュールではない。パリからはもっと近いから、映画でも北や西の海もよく出てくる。「クレールの膝」はアヌシーが舞台だが、映画ファンには国際アニメーション映画祭で有名な場所だが、どこにあるか知らなかった。フランスでもほとんどスイスに近いところで、アルプス山脈のふもと。海に山にと美しい景色を映像で見られる。だけど、海でも山でも美しさでは日本も負けていない、というかしのいでいるかもしれない。だけど、夏に一カ月も長期滞在するという文化がないから、こういう映画が出てくるはずがない。やはりうらやましい。

 これらの映画は、80年代に主にシネ・ヴィアン六本木で公開された。「シネヴィヴァン六本木 栄光の軌跡」という公開全作品を網羅しているサイトがあるが、ゴダール「パッション」で1983年に出発したこの映画館では、ほとんどすべての映画を見ていたことに自分でも驚く。タルコフスキー「ノスタルジア」や小川紳介「ニッポン国古屋敷村」、ヴィクトル・エリセ「ミツバチのささやき」「エル・スール」などが並ぶ公開映画一覧は今見ても壮観。ロメール作品は、87年1月に「満月の夜」が公開されたのを皮切りに、「緑の光線」、「友だちの恋人」、「レネットとミラベル 四つの冒険」、「クレールの膝」と80年代だけで5本も公開された。90年代に入ると、以上に「モード家の一夜」を合わせた特集上映。そして四季の物語シリーズの第一作「春のソナタ」、続いて旧作「獅子座」をはさんで、「冬物語」「木と市長と文化会館」「パリのランデブー」、「秋物語」と続く。その間に旧作の「愛の昼下がり/O公爵夫人/飛行士の妻/美しき結婚」の連続上映もあった。最後のころはもう全部は見ていないが、99年をもって閉館したミニシアターにとって、ロメール作品が非常に重要だったことが判る。ある種「80年代」っぽいというか、一種の空白感も含めて時代性も感じられるかもしれない。「セゾン系映画館」を代表するような映画館、シネヴィヴァン六本木という場所を思い出すにはロメール映画が一番。「おししい生活」を象徴するような映画かもしれない。アンスティチュ・フランセ東京でもロメール作品の上映があるので、できればこの機会にいろいろと見直してみたいと思ってるところ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サミュエル・フラーとジャンル映画

2016年05月07日 23時06分09秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ニュースの話に本の話、さらに季節が春を迎え散歩の記録と書きたいことがたまり続けているが、昨日まで3本見たサミュエル・フラー(1912~1997)の映画の話をまず最初に。サミュエル・フラーという人は、アメリカで低予算の戦争映画、西部劇、アクション映画などをたくさん作った映画監督である。それは「B級映画」と言われるような映画がほとんどだが、フランスで「カイエ・デュ・シネマ」に拠る若い批評家に「映画作家」として「発見」された。ゴダールの最高傑作「気狂いピエロ」(夏にデジタル修復版が公開される)に出演して「映画は戦場だ」と永遠に映画史に残る名セリフを残した。

 今度長い自伝が翻訳されたのを機に、連続上映が行われた。また昨年のぴあフィルムフェスティバル(PFF)で特集上映が行われた。連続上映が渋谷のユーロスペースで行われた時には行きそびれたが、連休中に池袋の新文芸坐でレイトショーで上映された機会に、3つの映画を全部見た。これがやっぱりとても面白い。去年のPFFでも何本か見たけど、やっぱり面白かった。この面白さは何なのだろう。(なお、「自伝」は6千円もする分厚い本なので買ってない。)

 昨日見たのは「チャイナ・ゲート」(1957)。これは映画のジャンルとしては、インドシナ戦争中の露骨な反共戦争映画である。中国からベトナムへ入る国境の町。そこに「レッド・チャイナ」から支援された武器を収めた倉庫がある。これを爆破する命令を受けた外国人部隊の話。まだアメリカが本格的に介入した「ベトナム戦争」以前の時代で、植民地の宗主国フランス軍がホー・チ・ミン率いる「ベトミン」と戦っている。この映画にあるように、またグレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」に描かれているように、実は50年代からアメリカはこの戦争に深くコミットしていた。

 そういう意味でも興味深いけど、もちろんこの映画の魅力は別のところにある。作戦を指揮するアメリカ人ブロックは、現地の案内人として混血のリア(「ラッキー・レッグズ」(幸運の脚)とあだ名される)を雇うが、二人は実は前に結婚していた過去があった。しかし、生まれた子どもが母の中国系の顔立ちを受け継いでいたために、ブロックは妻を捨てたのである。今回リアは息子をアメリカに送ることを条件に作戦に協力することにした。という「過去の因縁」を抱えつつ、ここで敵味方を超えて商売してきたリアの巧みな案内で彼らは兵器庫に近づいていく。中越国境がメコンデルタみたいでおかしいが。

 その戦争映画的展開も結構演出が冴えているが、やはり目玉はリアを演じるアンジ―・ディキンソン。「リオ・ブラボー」に出ていた、あの女優。後にバート・バカラックと結婚した。(その後離婚。)なんで「混血」(フランス人の父と中国系の山岳少数民族の母らしい)なんだと思うが、実際「幸運の脚」を披露しまくり、しかも完全に中国系の男の子の母という役。一行の中には、アメリカ出身の黒人兵もいて、そのゴールディはなんとナット・キング・コールが演じている。僕は大好きで何枚もCDを持っているが、こんな映画に準主演していたとは。そしてヴィクター・ヤングの作った主題歌も歌っている。「チャイナ・ゲイト」と低音で歌う声が耳について離れない。

 「戦争映画」、それも「反共」を掲げた安手の「ジャンル映画」なんだけど、実際の印象は人種問題をテーマにした心理サスペンスである。「アジア」と「人種差別」はフラーが長くこだわり続けるテーマ。「ホワイト・ドッグ」という黒人を襲うように躾けられた犬という過激な発想の映画を後に作る。この映画の前には、「東京暗黒街・竹の家」という日本を舞台にした変てこな映画も作った。(ラストで浅草松屋の屋上にあった屋上遊園地が出てくることは川本三郎氏が紹介して有名になった。)それは昨年のPFFで初めて見たが、全く変な映画だった。

 「チャイナ・ゲート」だけで長くなってしまったが、最初に見た「裸のキッス」(1964)もすごい。都会で体を売っていた女がすべてを清算して田舎の町に降りる。一日だけ警官と付き合うが、その後病院で身体障害児のケアをする仕事を得る。そこで認められ、病院の経営者、この町そのものを作った一族の名門に見初められる。こうして幸福な玉の輿が訪れるかと思ったら…。この女性を演じるコンスタンス・タワーズという女優が素晴らしく、冒頭から目が離せない。テイストは明らかにB級の心理サスペンスなんだけど、演出が冴えている。完璧に映画に心をつかまれてしまう。

 「ショック集団」(1963)になると、新聞記者による犯人探しという「ミステリー」というジャンル映画の枠を借りた、完全に独自なシュルリアリズム映画になっている。何しろ、事件は精神病院で起こり、そのため記者は自分も精神病を詐病して入院して真相を突き止めようというトンデモ映画である。3人の目撃者をめぐる超現実的な映像を散々展開している。(アジアの兵役経験のある患者には、鎌倉大仏の映像が出てくる。「東京暗黒街・竹の家」を撮影した時に自分で撮りためていた16ミリフィルムだという。)精神を病む黒人青年は、なんと自分がクー・クラックス・クランになって黒人を迫害する幻想を抱いている。ここでも「人種」という問題が出てくる。そして、やがて記者本人にも精神の破綻が訪れ、犯人を突き止めてピュリッツァー賞を得た時には人格が崩壊している。という展開はやはり「精神疾患」への誤解のようなものがうかがわれる。とはいえ、やはり「ジャンル映画」の枠を借りて突き抜けてしまうという、いかにもフラー映画らしい作品には違いない。

 去年見た「ストリート・オブ・ノー・リターン」(1989)はフラー最後の作品で、公開当時見逃したのだが、やはり「メロドラマ」の枠を借りた男の復讐譚が見事に描かれている。暗黒街のボスに復讐するために、人種暴動の起こる街を駆けめぐるキース・キャラダイン。ボスにのどを切られて、人気歌手が声を出せなくなったという設定もすごい。フラーの場合、作られた映画はほぼ「ジャンル映画」と言ってよい。ごく一部の監督を除き、商業映画はまずペイするために、娯楽映画のさまざまなジャンルの一つとして企画される。時代劇、西部劇、メロドラマ、青春ロマンス等々。そして、特に昔は映画興行を維持するために、面白い映画を早撮りする監督に需要があった。大作がこけたり、製作延期になったりしたときに、観客を満足させる小品映画も無くてはならない。2本立てなら、一本は大スターが出る映画で、もう一本はB級スターが出る映画。

 だけど、時にはそういう映画の中から、「ジャンル映画」を極めて突き抜けるような作品が出てくる。映画祭やベストテン、あるいはヒット・ランキングなんかではスルーされるけど、そういう映画を「発見」することは映画ファンの喜びである。日本映画だと、鈴木清順の映画「けんかえれじい」とか「刺青一代」なんか。あるいは中川信夫の「東海道四谷怪談」。若松孝二のピンク映画時代、「犯された白衣」「胎児が密漁する時」なんかもそうだろうか。清順の「東京流れ者」や「殺しの烙印」になると、ジャンル映画の自己パロディになる。ジャンル映画(あるいはジャンル小説、ジャンル漫画など)は、展開がパターン化しているから、ある程度極めると自己パロディをするか、「A級」になりたくなるんだろう。でも、サミュエル・フラーは一貫して「B級映画作家」だった。そこが凄い。実際、一度見始めると眠気を覚えない展開が続き、これが映画だという感じを覚える。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生誕百年、オーソン・ウェルズの映画

2015年10月25日 21時53分21秒 |  〃 (世界の映画監督)
 東京国際映画祭が始まっているが、例によって僕の見たい映画は行きにくい時間に集中している。今年はフィリピン映画が特集されていて、ぜひ見たいと思ったのだが。そんな中で、フィルムセンターでは映画祭関連企画として「生誕百年 オーソン・ウェルズ 天才の発見」を行っている。これは企画発表時から、今年一番期待していた。オーソン・ウェルズは、日本で現在見られない映画が多く、あの「天才児」の全貌を長く評価できないでいるからである。

 オーソン・ウェルズ(1915~1985)は、日本では70年代半ばに出たニッカのウィスキーのCMで広く知られた。「容貌魁偉」の風貌を生かして、「第三の男」をはじめとする印象的な俳優としても知られていた。でも、大恐慌下の演劇活動、全米をパニックに陥れたラジオドラマ「宇宙戦争」、そしてハリウッドに招かれて、僅か25歳にして作った「市民ケーン」。製作、脚本、監督、主演を兼ね、映画史を書きかえる傑作だったが、モデルとなったハースト系新聞に攻撃され「呪われた映画」になってしまった。日本では、遅れて1966年に公開され、ベストワンになっている。そのような「伝説の人」だった。

 だけど、今回のプログラムに「市民ケーン」はない。まあ、何回か見ているし、映画ファンには周知の作品だから、それはいいかもしれないが、第2作の「偉大なるアンバーソン家の人々」が入っていないのは残念。日本では70年代後半から80年代にかけて、ミニシアターで過去のウェルズ作品がかなり公開された。それ以前に、同時代的に公開されたのは、多分「マクベス」(1948)と「審判」(1963)ぐらいではないかと思う。カフカ原作の「審判」は、今まで見る機会がなく今回初めて見たが、実に美しいモノクロ撮影に圧倒された。美術、演出とあいまって、「前衛的映画」として成功している。もっとも、何が何だかわからないとも言えるが、それは原作の設定から来るんだから仕方ない。

 ウェルズはシェークスピアを「マクベス」「オセロ」と作ったが、どっちも上映がない。65年に作った「フォルスタッフ」は上映されるが、日本公開時に見たので、今日の上映はパスした。実に素晴らしく、中世イギリスを再現した映画で、ウェルズの演出も演技も印象的だった。一方、「フィルム・ノワール」系でも、あの面白い「黒い罠」がないのは残念。だけど、「上海から来た女」(1947)が「復元版」として上映される。これは金曜の夜に見たが、あまりの映像の美しさに絶句した。「ファム・ファタール」ものの素晴らしい傑作である。当時ウェルズの妻だったリタ・ヘイワースの美貌。(「ショーシャンクの空に」で貼ってあったポスターの人である。)そして、ラストに潜り込む遊園地の中を逃げ回るシーンの素晴らしさ。あまりにも有名な「鏡のシーン」に改めて呆然となる。日本で遅れて公開された時に見ているが、これは何度見ても素晴らしい映画だと思った。(もう一回見ようかな。)

 全く見たことがないのが、「Mr.アーカディン」(1955)や「不滅の物語」(1968)である。後者はデンマークのイサク・ディーネセンの原作による58分の作品で、テレビと劇場双方の公開を考えて作ったと書いてある。他に、最後の作品「フェイク」(1973)と、ウェルズについてのドキュメンタリー2本、企画に協力しているミュンヘン映画博物館のディレクターによる講演が企画されている。見られない映画が案外多いのだが、とにかく非常に貴重な機会であることは間違いない。

 オーソン・ウェルズはアメリカの映画監督だが、第一作からハリウッド映画の枠を超越して作り続けた、真の天才監督である。そこがハリウッドに入れられず、完成しない映画、ズタズタにされた映画が多い「呪われた」監督の系譜にある。これほどの巨人はアメリカに受け入れられないのだろう。戦後もむしろヨーロッパで作り続けた。今回は懐かしいニッカのコマーシャルも上映されている。「マッサン」の後だから、なんだか感慨深いものがある。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする