「東映実録映画」が作られた70年代半ばの時代的背景を振り返っておきたい。当時は産業としての日本映画にとって転換期だった。60年代までは撮影所で続々と作られた娯楽映画が、系列の映画館で毎週のように公開された。しかし、71年暮れに大手会社の大映が倒産し、また日活が一般映画の製作を中止してポルノ映画に特化すると発表した。それは非常に大きな衝撃を映画界に与えた。
映画の興行収入は、近年は日本映画が外国映画を上回っている。しかし、80年代、90年代は圧倒的に外国映画が上回っていた。初めて外国映画が邦画収入を抜いたのは、1975年である。以後、多少増減はあるものの、それまでの「邦画絶対時代」は変わったのである。それはテレビの普及に加えて、高度成長に伴う都市化や高学歴化で洋画に親しむ人が増えたことも大きいだろう。
こうして今までの日本映画の製作、興行のあり方はこの時代以後に大きく変わる。大手会社の松竹だけは、「男はつらいよ」というキラー・コンテンツを擁していたけれど、72年ごろからは系列館での上映に先立って、洋画専門館で一本立てロードショーを行うようになった。「洋画ファンでも見る価値がある邦画」というのが、宣伝になる時代になっていたのである。
その頃アメリカでは「ゴッドファーザー」(1972)が大ヒットしていた。日本でもヒットし、作品的な評価も高かった。その後世界的に「実録ギャング映画」が多く作られた。大きな世界映画史的な目で見れば、直接の影響は少ないとしても「東映実録映画」もその中に数えるべきなのかもしれない。それらの映画は、ギャング団のメンバーを美化するのではなく、抗争の中の様々な側面を(家族の様子なども含めて)描き出していくことが大きな特徴である。
ところで、日本で1973年ごろの時代に生きていた人は、何か時代が大きく変わったことを実感していたと思う。73年秋の「オイル・ショック」で高度成長が終わり、低成長時代が始まった。その年の後半から「狂乱物価」と言われた物価上昇が始まり、1974年の物価上昇率はなんと31.4%を記録した。一方、73年初めに長く続いたベトナム和平会談が終結し、「パリ和平協定」が結ばれた。それを受けて、「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が解散した。72年に連合赤軍による「集団リンチ事件」と「あさま山荘事件」が起こり、60年代末期からの「革命の季節」も跡形もなく消え去っていった。
「仁義なき戦い」の第3部は「代理戦争」と題されていたが、この言葉は当時の一般用語で基礎常識である。これは元々「米ソの代理戦争」という風に使われ、ベトナム戦争がその代表だった。そのような冷戦下の用語を「ヤクザ戦争」に援用したわけだが、それ以前からよく使われていたと思う。「東映実録映画」では、よく冒頭に「この映画に出てくる団体名は架空のものである」などと字幕で説明される。そして、地方に進出する架空の暴力団が出てくるが、それは「山口組」のことなのである。
戦後初期に東京で「活躍」した安藤組を、その当時の親分でその後映画俳優となった安藤昇主演で映画化した作品もいくつかある。だけど、「仁義なき戦い」シリーズを含めて、実録映画に出てくる抗争事件は実は全国制覇を目指す山口組を何らかの形で描く「一大山口組サーガ」という側面を持っていた。何でそんなことが可能だったのか。もちろん、実録映画に出てくるモデル関係者も、組織暴力団封じ込めをねらう警察庁も東映に陰に陽に圧力をかけていた。高倉健を主演にして作られた山口組三代目を描くシリーズが2作で中止になったのは警察の圧力による。
この問題は非常に重大なので、また別に書きたいと思うけど、ギャング映画はともすれば「ギャング美化」と非難された歴史がある。そのためラストでは警察に自首したり、警察側が勝利することは世界的なお約束になっている。でも現実でもヤクザ抗争は最終的には押さえ込まれるわけで、最後の一人まで戦って双方の組織全員が死ぬなんていう抗争事件はない。だから、「東映実録映画」では当然のように、若い者だけが犠牲になり、最後はボス同士が妥協して手打ちとなる。
現実にそうなんだから、そのようなプロセスになる宿命を実録映画は持っていた。そこをいかにリアルに描き出すかが腕の見せどころである。そのリアルさと生き生きとした描写で一番評価されていたのは、深作欣二の何本かの作品である。キネマ旬報ベストテンに入選している実録映画は、深作映画の5本だけである。作品的な評価だけでなく、ヒットもしていたから、深作欣二はより深いテーマに踏み入っていく。だけど、実際にはそれらの作品はあまりヒットせず、東映は深作欣二に「新仁義なき戦い」と題したシリーズを作らせることになった。
ヤクザ抗争というのは、血で血を洗う凄絶なものなはずである。任侠映画では、あるいは東映や大映の時代劇でも、善玉と悪玉が抗争して善が勝って終わる。その争いでは人が多数死んでいるが、様式化された舞踊のようなアクションで描かれるのが普通だった。でも、実録映画では血まみれの死にざまが延々と描写される。そのような運命を生きるしかない下積みの組員の姿が印象的だった。そういう構造は何もギャングだけのものではない。あらゆる「運動」につきものの宿命だろう。
そこを突き詰めると、凄絶な死に向かっていく破滅的な映画になるはずだ。そうなると映画が陰惨な印象になり、作品的にはともかく興行的にはつらくなる。今見直すと、松方弘樹の映画にはその陽性なキャラクターを生かしたコメディタッチのものが多くて、今見ても面白い。それでも題名だけは「脱獄広島殺人囚」とか「強盗放火殺人囚」とかいったものすごい題名を付けられている。その方が受けると思われていた時代なんだろうと思う。実録というより、まったく作り物の「暴動島根刑務所」の破天荒が面白く、ラストの「手錠のままの脱獄」シーンはとても面白かった。
そういう映画もあったわけだけど、実録映画は大体が破滅的な印象が強い。その極北的な作品は、明らかに「仁義の墓場」(1975)である。破滅へ突き進む実在のヤクザ石川力夫を渡哲也が演じ、その壮烈な人生は強烈な印象を残す。強烈すぎて、あんまり見たくないほどだ。(だから今回は見てない。)このような映画がなぜ作れたのか。これはどうしても、当時の革命の季節終焉後に吹きすさんだ「内ゲバ」の時代のことを思い起こさないわけにはいかない。今じゃ「内ゲバ」ってなんだと言われるかもしれないけど、あの時代の重苦しいムードを今に伝えるのが実録映画なんじゃないだろうか。
(「仁義の墓場」)
1977年のドイツの連続テロ事件を描いたファスビンダーやシュレンドルフの映画「秋のドイツ」という映画がある。日本でその映画に当たるものは、1975年の「仁義の墓場」ではないだろうか。この題名は実に深い意味を持っていたのではないかと思う。「仁義の墓場」が公開された1975年2月は、後に東アジア反日武装戦線によるものと判明する連続企業爆破事件が続いていた時期だった。
映画の興行収入は、近年は日本映画が外国映画を上回っている。しかし、80年代、90年代は圧倒的に外国映画が上回っていた。初めて外国映画が邦画収入を抜いたのは、1975年である。以後、多少増減はあるものの、それまでの「邦画絶対時代」は変わったのである。それはテレビの普及に加えて、高度成長に伴う都市化や高学歴化で洋画に親しむ人が増えたことも大きいだろう。
こうして今までの日本映画の製作、興行のあり方はこの時代以後に大きく変わる。大手会社の松竹だけは、「男はつらいよ」というキラー・コンテンツを擁していたけれど、72年ごろからは系列館での上映に先立って、洋画専門館で一本立てロードショーを行うようになった。「洋画ファンでも見る価値がある邦画」というのが、宣伝になる時代になっていたのである。
その頃アメリカでは「ゴッドファーザー」(1972)が大ヒットしていた。日本でもヒットし、作品的な評価も高かった。その後世界的に「実録ギャング映画」が多く作られた。大きな世界映画史的な目で見れば、直接の影響は少ないとしても「東映実録映画」もその中に数えるべきなのかもしれない。それらの映画は、ギャング団のメンバーを美化するのではなく、抗争の中の様々な側面を(家族の様子なども含めて)描き出していくことが大きな特徴である。
ところで、日本で1973年ごろの時代に生きていた人は、何か時代が大きく変わったことを実感していたと思う。73年秋の「オイル・ショック」で高度成長が終わり、低成長時代が始まった。その年の後半から「狂乱物価」と言われた物価上昇が始まり、1974年の物価上昇率はなんと31.4%を記録した。一方、73年初めに長く続いたベトナム和平会談が終結し、「パリ和平協定」が結ばれた。それを受けて、「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が解散した。72年に連合赤軍による「集団リンチ事件」と「あさま山荘事件」が起こり、60年代末期からの「革命の季節」も跡形もなく消え去っていった。
「仁義なき戦い」の第3部は「代理戦争」と題されていたが、この言葉は当時の一般用語で基礎常識である。これは元々「米ソの代理戦争」という風に使われ、ベトナム戦争がその代表だった。そのような冷戦下の用語を「ヤクザ戦争」に援用したわけだが、それ以前からよく使われていたと思う。「東映実録映画」では、よく冒頭に「この映画に出てくる団体名は架空のものである」などと字幕で説明される。そして、地方に進出する架空の暴力団が出てくるが、それは「山口組」のことなのである。
戦後初期に東京で「活躍」した安藤組を、その当時の親分でその後映画俳優となった安藤昇主演で映画化した作品もいくつかある。だけど、「仁義なき戦い」シリーズを含めて、実録映画に出てくる抗争事件は実は全国制覇を目指す山口組を何らかの形で描く「一大山口組サーガ」という側面を持っていた。何でそんなことが可能だったのか。もちろん、実録映画に出てくるモデル関係者も、組織暴力団封じ込めをねらう警察庁も東映に陰に陽に圧力をかけていた。高倉健を主演にして作られた山口組三代目を描くシリーズが2作で中止になったのは警察の圧力による。
この問題は非常に重大なので、また別に書きたいと思うけど、ギャング映画はともすれば「ギャング美化」と非難された歴史がある。そのためラストでは警察に自首したり、警察側が勝利することは世界的なお約束になっている。でも現実でもヤクザ抗争は最終的には押さえ込まれるわけで、最後の一人まで戦って双方の組織全員が死ぬなんていう抗争事件はない。だから、「東映実録映画」では当然のように、若い者だけが犠牲になり、最後はボス同士が妥協して手打ちとなる。
現実にそうなんだから、そのようなプロセスになる宿命を実録映画は持っていた。そこをいかにリアルに描き出すかが腕の見せどころである。そのリアルさと生き生きとした描写で一番評価されていたのは、深作欣二の何本かの作品である。キネマ旬報ベストテンに入選している実録映画は、深作映画の5本だけである。作品的な評価だけでなく、ヒットもしていたから、深作欣二はより深いテーマに踏み入っていく。だけど、実際にはそれらの作品はあまりヒットせず、東映は深作欣二に「新仁義なき戦い」と題したシリーズを作らせることになった。
ヤクザ抗争というのは、血で血を洗う凄絶なものなはずである。任侠映画では、あるいは東映や大映の時代劇でも、善玉と悪玉が抗争して善が勝って終わる。その争いでは人が多数死んでいるが、様式化された舞踊のようなアクションで描かれるのが普通だった。でも、実録映画では血まみれの死にざまが延々と描写される。そのような運命を生きるしかない下積みの組員の姿が印象的だった。そういう構造は何もギャングだけのものではない。あらゆる「運動」につきものの宿命だろう。
そこを突き詰めると、凄絶な死に向かっていく破滅的な映画になるはずだ。そうなると映画が陰惨な印象になり、作品的にはともかく興行的にはつらくなる。今見直すと、松方弘樹の映画にはその陽性なキャラクターを生かしたコメディタッチのものが多くて、今見ても面白い。それでも題名だけは「脱獄広島殺人囚」とか「強盗放火殺人囚」とかいったものすごい題名を付けられている。その方が受けると思われていた時代なんだろうと思う。実録というより、まったく作り物の「暴動島根刑務所」の破天荒が面白く、ラストの「手錠のままの脱獄」シーンはとても面白かった。
そういう映画もあったわけだけど、実録映画は大体が破滅的な印象が強い。その極北的な作品は、明らかに「仁義の墓場」(1975)である。破滅へ突き進む実在のヤクザ石川力夫を渡哲也が演じ、その壮烈な人生は強烈な印象を残す。強烈すぎて、あんまり見たくないほどだ。(だから今回は見てない。)このような映画がなぜ作れたのか。これはどうしても、当時の革命の季節終焉後に吹きすさんだ「内ゲバ」の時代のことを思い起こさないわけにはいかない。今じゃ「内ゲバ」ってなんだと言われるかもしれないけど、あの時代の重苦しいムードを今に伝えるのが実録映画なんじゃないだろうか。

1977年のドイツの連続テロ事件を描いたファスビンダーやシュレンドルフの映画「秋のドイツ」という映画がある。日本でその映画に当たるものは、1975年の「仁義の墓場」ではないだろうか。この題名は実に深い意味を持っていたのではないかと思う。「仁義の墓場」が公開された1975年2月は、後に東アジア反日武装戦線によるものと判明する連続企業爆破事件が続いていた時期だった。