尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

東映実録映画とは何だったのか②-凄惨な「内ゲバ」の時代

2017年04月21日 23時39分24秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「東映実録映画」が作られた70年代半ばの時代的背景を振り返っておきたい。当時は産業としての日本映画にとって転換期だった。60年代までは撮影所で続々と作られた娯楽映画が、系列の映画館で毎週のように公開された。しかし、71年暮れに大手会社の大映が倒産し、また日活が一般映画の製作を中止してポルノ映画に特化すると発表した。それは非常に大きな衝撃を映画界に与えた。

 映画の興行収入は、近年は日本映画が外国映画を上回っている。しかし、80年代、90年代は圧倒的に外国映画が上回っていた。初めて外国映画が邦画収入を抜いたのは、1975年である。以後、多少増減はあるものの、それまでの「邦画絶対時代」は変わったのである。それはテレビの普及に加えて、高度成長に伴う都市化や高学歴化で洋画に親しむ人が増えたことも大きいだろう。

 こうして今までの日本映画の製作、興行のあり方はこの時代以後に大きく変わる。大手会社の松竹だけは、「男はつらいよ」というキラー・コンテンツを擁していたけれど、72年ごろからは系列館での上映に先立って、洋画専門館で一本立てロードショーを行うようになった。「洋画ファンでも見る価値がある邦画」というのが、宣伝になる時代になっていたのである。

 その頃アメリカでは「ゴッドファーザー」(1972)が大ヒットしていた。日本でもヒットし、作品的な評価も高かった。その後世界的に「実録ギャング映画」が多く作られた。大きな世界映画史的な目で見れば、直接の影響は少ないとしても「東映実録映画」もその中に数えるべきなのかもしれない。それらの映画は、ギャング団のメンバーを美化するのではなく、抗争の中の様々な側面を(家族の様子なども含めて)描き出していくことが大きな特徴である。

 ところで、日本で1973年ごろの時代に生きていた人は、何か時代が大きく変わったことを実感していたと思う。73年秋の「オイル・ショック」で高度成長が終わり、低成長時代が始まった。その年の後半から「狂乱物価」と言われた物価上昇が始まり、1974年の物価上昇率はなんと31.4%を記録した。一方、73年初めに長く続いたベトナム和平会談が終結し、「パリ和平協定」が結ばれた。それを受けて、「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が解散した。72年に連合赤軍による「集団リンチ事件」と「あさま山荘事件」が起こり、60年代末期からの「革命の季節」も跡形もなく消え去っていった。

 「仁義なき戦い」の第3部は「代理戦争」と題されていたが、この言葉は当時の一般用語で基礎常識である。これは元々「米ソの代理戦争」という風に使われ、ベトナム戦争がその代表だった。そのような冷戦下の用語を「ヤクザ戦争」に援用したわけだが、それ以前からよく使われていたと思う。「東映実録映画」では、よく冒頭に「この映画に出てくる団体名は架空のものである」などと字幕で説明される。そして、地方に進出する架空の暴力団が出てくるが、それは「山口組」のことなのである。

 戦後初期に東京で「活躍」した安藤組を、その当時の親分でその後映画俳優となった安藤昇主演で映画化した作品もいくつかある。だけど、「仁義なき戦い」シリーズを含めて、実録映画に出てくる抗争事件は実は全国制覇を目指す山口組を何らかの形で描く「一大山口組サーガ」という側面を持っていた。何でそんなことが可能だったのか。もちろん、実録映画に出てくるモデル関係者も、組織暴力団封じ込めをねらう警察庁も東映に陰に陽に圧力をかけていた。高倉健を主演にして作られた山口組三代目を描くシリーズが2作で中止になったのは警察の圧力による。

 この問題は非常に重大なので、また別に書きたいと思うけど、ギャング映画はともすれば「ギャング美化」と非難された歴史がある。そのためラストでは警察に自首したり、警察側が勝利することは世界的なお約束になっている。でも現実でもヤクザ抗争は最終的には押さえ込まれるわけで、最後の一人まで戦って双方の組織全員が死ぬなんていう抗争事件はない。だから、「東映実録映画」では当然のように、若い者だけが犠牲になり、最後はボス同士が妥協して手打ちとなる

 現実にそうなんだから、そのようなプロセスになる宿命を実録映画は持っていた。そこをいかにリアルに描き出すかが腕の見せどころである。そのリアルさと生き生きとした描写で一番評価されていたのは、深作欣二の何本かの作品である。キネマ旬報ベストテンに入選している実録映画は、深作映画の5本だけである。作品的な評価だけでなく、ヒットもしていたから、深作欣二はより深いテーマに踏み入っていく。だけど、実際にはそれらの作品はあまりヒットせず、東映は深作欣二に「新仁義なき戦い」と題したシリーズを作らせることになった。

 ヤクザ抗争というのは、血で血を洗う凄絶なものなはずである。任侠映画では、あるいは東映や大映の時代劇でも、善玉と悪玉が抗争して善が勝って終わる。その争いでは人が多数死んでいるが、様式化された舞踊のようなアクションで描かれるのが普通だった。でも、実録映画では血まみれの死にざまが延々と描写される。そのような運命を生きるしかない下積みの組員の姿が印象的だった。そういう構造は何もギャングだけのものではない。あらゆる「運動」につきものの宿命だろう。

 そこを突き詰めると、凄絶な死に向かっていく破滅的な映画になるはずだ。そうなると映画が陰惨な印象になり、作品的にはともかく興行的にはつらくなる。今見直すと、松方弘樹の映画にはその陽性なキャラクターを生かしたコメディタッチのものが多くて、今見ても面白い。それでも題名だけは「脱獄広島殺人囚」とか「強盗放火殺人囚」とかいったものすごい題名を付けられている。その方が受けると思われていた時代なんだろうと思う。実録というより、まったく作り物の「暴動島根刑務所」の破天荒が面白く、ラストの「手錠のままの脱獄」シーンはとても面白かった。

 そういう映画もあったわけだけど、実録映画は大体が破滅的な印象が強い。その極北的な作品は、明らかに「仁義の墓場」(1975)である。破滅へ突き進む実在のヤクザ石川力夫を渡哲也が演じ、その壮烈な人生は強烈な印象を残す。強烈すぎて、あんまり見たくないほどだ。(だから今回は見てない。)このような映画がなぜ作れたのか。これはどうしても、当時の革命の季節終焉後に吹きすさんだ「内ゲバ」の時代のことを思い起こさないわけにはいかない。今じゃ「内ゲバ」ってなんだと言われるかもしれないけど、あの時代の重苦しいムードを今に伝えるのが実録映画なんじゃないだろうか。
(「仁義の墓場」)
 1977年のドイツの連続テロ事件を描いたファスビンダーやシュレンドルフの映画「秋のドイツ」という映画がある。日本でその映画に当たるものは、1975年の「仁義の墓場」ではないだろうか。この題名は実に深い意味を持っていたのではないかと思う。「仁義の墓場」が公開された1975年2月は、後に東アジア反日武装戦線によるものと判明する連続企業爆破事件が続いていた時期だった。
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東映実録映画とは何だったのか①-「活動写真」の輝き

2017年04月20日 21時40分13秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷で「抗争と流血 東映実録路線の時代」という特集上映があった。多分その企画の方が先なんだろうと思うけど、ほとんどの「実録映画」に出演した松方弘樹が亡くなり、新文芸座で追悼上映があった。(さらに渡瀬恒彦も亡くなって、来月に新文芸坐で追悼上映がある。)

 その中の何本かを見たので、改めて「実録映画とは何だのか」を考えてみたい。実録路線最後を飾ると言われる「北陸代理戦争」から40年。その映画のモデルだった川内弘が、映画と同じように殺害された事件はちょうど1977年4月13日に起きていた。まさに40年前のできごとである。

 いま「昭和天皇実録」が刊行されている。この前、中公新書「六国史」を読んで、そう言えば「実録」という言葉は、多分879年に完成した「日本文徳天皇実録」が初見なんではないかと思った。もともと天皇に関する「実際の記録」を意味するんだろうけど、大昔の六国史でも現代の「昭和天皇実録」でもすべてが記録されているわけではない。注意深く「取捨選択」が行われている。

 僕は歴史が専門だけど、70年代からの映画マニアとしては、「実録」と言えば「東映実録映画」を最初に思い浮かべる。1973年1月の「仁義なき戦い」大ヒットを受けて、東映で続々と作られた作品群である。「北陸代理戦争」以後も何本かは作られていて、全部を合わせると50本近い。それらは「現実の事件」に材を取ったものが多い。だから「実録」と言われるわけだが、もちろん現実のモデルがいる暴力団抗争事件をそのまま映画化できるわけがない。当然「取捨選択」が施された。

 実録映画がそれほど作られたのは、映画界内部の問題映画外の社会的事情があると思う。東映という会社は、50年代から60年代初期には「時代劇」を中心にしていた。60年代半ばから70年代初期には「任侠映画」を続々と送り出した。「任侠映画」と「実録映画」は、ヤクザが主人公であることは共通している。だけど、映画の作りというか画面のタッチは全然違う。

 時代劇と任侠映画は、娯楽映画シリーズとして作られ、月に何本も公開された。筋はパターン化しているし、俳優を見れば善玉か悪役かが判る。だから安心して見ていられる。だけど、60年代半ばから、テレビが最大の娯楽になり、判りやすい時代劇はテレビに移行していった。また、シリーズ映画はパターンが定型化しているので、10本程度続くと飽きられてくる。製作側も違うものを作りたくなる。人気俳優も人間だから、10年たつと10歳年とるわけで、アクションものや恋愛映画の主人公がきつくなる。

 東映任侠映画の場合、高倉健鶴田浩二を二枚看板にしていたが、後期になると二人と同じぐらい藤純子の人気が高かった。しかし、彼女は結婚のため72年で(いったん)映画界を引退したので、東映は営業的に新路線が強く求めていた。そういう要素はあったものの、そこに広島ヤクザ抗争を実際に主要登場人物として「活躍」した美能幸三(映画では広能昌三)が出所してきて、手記「仁義なき戦い」を書かなかったら、映画化されることはなかった。その意味では「偶然」も大きな要因になった。

 その「仁義なき戦い」は傑作となり、大ヒットした。なぜかという問題への答えはいくつもあるけれど、脚本の笠原和夫、監督の深作欣二の実力がまさにピークに達しようとしていたことが大きい。と同時に、「実録映画」はその本質として善玉と悪役が決まっていない。昨日の友は今日の敵。離合集散が激しく、主要人物もどんどん死んでいく。主人公格の人物たちも、ホンネで行動している。

 そういう映画だから、今まで必ずしも恵まれなかった役者にも、活躍の場が広がることになる。パターン化された映画では、悪役はそれほど印象に残らないし、残ってはならない。だが、実録映画では「チョイ役」の俳優でも、その暴発で抗争の局面がガラッと変わることもあり、脇役俳優の出番がグッと大きくなった。東映の大部屋俳優たちの「ピラニア軍団」が有名になり、川谷拓三のような印象的な脇役が大活躍した。見ている側としては、その俳優たちの生き生きとした演技が一番面白かった。

 「北陸代理戦争」で主人公の妻を演じた高橋洋子のトークがあったけど、そこで印象的だったのは松方弘樹は映画のことを「シャシン」と言っていたという話だった。「シャシン」とはつまり「活動写真」のことだけど、英語でも映画を「motion picture」というように、「動き」あっての映画だろう。その動きは何もアクションだけには限らない。ストーリイ展開の動きも、俳優たちのアクションも、実録映画シリーズほど「動き」が印象的だった映画群はないと思う。それが一番の魅力だった。

 映画としては「仁義なき戦い」シリーズの「代理戦争」「頂上作戦」が最も面白いと思う。このシリーズは何回か通して見ているけど、津島利章のテーマ音楽が流れるだけで、初めて見た時の高揚感が戻ってくる感じがする。第一作の「仁義なき戦い」は確かに面白いけど、後のことを知ると「序章」という気がしてくる。深作欣二は前年に「軍旗はためく下に」「現代やくざ・人斬り与太」「人斬り与太・狂犬三兄弟」を撮っている。「軍旗…」は直木賞受賞作を映画化した反戦映画だが、戦後史を再考する志は共通している。「人斬り与太」シリーズは菅原文太主演で、映画のタッチは「仁義なき戦い」と共通している。深作監督が大ブレイクするのも当然だった。ある意味で「実録映画路線」は1972年から始まっていたとも言えるだろう。その後続々と作られる映画に描かれた問題は次回に考えたい。
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「リンダ リンダ リンダ」と「ナビィの恋」

2017年01月02日 22時59分49秒 |  〃  (旧作日本映画)
 2016年の映画見納めは、キネカ大森の名画座二本立て。「ナビィの恋」と「リンダ リンダ リンダ」。あまりに面白かったので、書いておくことにしよう。日本の10年ちょっと前の映画は、なかなかスクリーンで再会しにくい。もっと昔の映画の方が、デジタル化されて上映されている。フィルム映画の上映環境が少なくなる昨今、こういう機会は貴重だと思う。(どちらもフィルム上映。)

 世界中で作られている音楽映画、その数多しといえど、日本のこの2本も最も面白いものの中に入るだろう。2016年も「シング・ストリート」や「ハートビート」、ここで書かなかったけれど「ストリート・オーケストラ」(ブラジルの貧民街の子どもたちでクラシックのオーケストラを作る)や「イエスタデイ」(ノルウェイの少年がビートルズに憧れてバンドを作る)など、なかなか面白い音楽映画があった。

 でも、僕は「リンダ リンダ リンダ」はもっと面白いと思う。ごひいきの山下敦弘(のぶひろ)監督のリズムがあってるということでもある。2005年のキネ旬6位選出。高校文化祭映画としても、「青春デンデケデケデケ」を超えてベストワンだと思う。この映画のいいところは、初めからやる気いっぱいの部活動じゃなくて、ゴタゴタ続きで出るか出ないかというところからもめてることである。

 この映画では、軽音部の女子バンドの中で、ケンカしてケガもして、一度空中分解しているらしい。もう文化祭前日だというのに。そこが超リアルで、現実に教師として経験したトラブルを想起せざるを得ない。抜けた人を除いて、それでもやろうというのが集まる。抜けたメンバーが書いたオリジナル曲はできないから、部室であれこれ何やろうと相談して…突然ブルーハーツの「リンダ リンダ リンダ」をやろうと盛り上がる。だけど、ヴォーカルがない。と目についたのが、韓国からの留学生ソンさん。

 突然留学生がいるというのがおかしいけれど、ここでペ・ドゥナをキャスティングしたのが、この映画の成功の最大原因だろう。僕の大好きなペ・ドゥナがでているだけでうれしいんだけど、年齢不詳だけに高校生でも通じる。(1979年生まれだからホントは苦しいはずだが。)そして一生懸命歌の練習をしている。夜の体育館の舞台で幻のメンバー紹介をしている場面は、映画史に残る名場面だと思う。そして、まだ名前を認識していなかった時代の松山ケンイチが思わぬ形でソンさんに絡んでいた…!

 バンドの主要メンバーは、前田亜季香椎由宇、そして音楽活動中心という関根史織(Base Ball Bear)。香椎由宇って誰だっけと思ったら、オダギリジョー夫人である。10代で演じている役柄は等身大の女子高生バンドという感じで、現実に会ってきた高校生のだれかれをつい思い出してしまう。顔立ちもそうだけど、性格付けなんかに、相似たものを思い出してしまうのである。そして、いろいろあって(お約束的にいろいろある)、最後に体育館で演奏ということになる。いや、良かった。

 もう一本、「ナビィの恋」は音楽映画でもあるとともに、「沖縄映画」という位置づけをした方がいい映画である。でも、全編にわたって音楽が満ちていて、琉歌ばかりでなく、なぜかアイルランド人が来ていてフィドルを弾いている。主演のナビィ役の平良とみ、夫役の登川誠仁(のぼりかわ・せいじん)はともに亡くなっているので、こっちは追悼的な気分で見ることにもなる。

 京都出身ながら沖縄で映画製作を続けている中江裕司監督が、1999年に製作した最高傑作である。東京では2000年に公開され、キネ旬の第2位にランクインした。当時は大評判となり、沖縄サミットを前に急逝した小渕総理も見に行った。今見直しても素晴らしい出来栄えで、思いが歌とともに深く揺さぶられる。風景も美しいし、編集のリズムもきびきびしていて飽きない。

 東京から沖縄・粟国島(あぐにじま)に戻ってきた奈々子(西田尚美)。家にはオバアのナビィ(平良とみ)がブーゲンビリアの世話をして過ごしている。おじいは毎日牛の世話に出かけている。そんなナビィは最近どうも様子がおかしい。船で一緒だった謎の人物が関わっているらしい。そのサンラーは60年前にナビィと恋仲になったが、ユタの「認めない」というお告げで島を追放される。そうして今やっと、ブラジルから戻ってきたのである。という古い古い恋の物語を劇中では、白黒の無声映画で表現する。

 一方、フラッとやってきた福之助(村上淳)はおじいの仕事を手伝いながら、いつの間にか家に住みついている。連絡船の運転手、ケンジも奈々子に夢中で、老若二人のヒロインの周辺はザワザワしてくるのだが…。という主筋が歌に乗せ語られていく。一種のミュージカル的手法でもあるけど、沖縄の風土ではそれもリアリズムかなと思わせる。奈々子の家は東金城家で、「あがりかなぐすく」と読ませる。 

 舞台の粟国島は、那覇の北東にある小島。人口743人という。最近は製塩で知られている。この島の魅力も映画の力になっている。一種「現代の神話」のような感じでもあるけど、共同体的なありようの不自由さも感じられる。音楽がいっぱいで、その魅力で輝いているような映画だと思う。中江監督はこの映画の後は、本格的な劇映画を作っていない。そろそろ期待したいところ。

 どっちも公開当時に見た時から、また見たいと思うような映画だった。今回も気持ちが満たされたような映画体験で、音楽の力は大きいなと思う。沖縄映画という意味では、その最高峰とも言える高嶺剛監督がいるが、しばらくぶりの新作がもうすぐ東京で公開される。それに伴って今までの特集上映もある。2017年最初の期待は高嶺剛特集。
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映画「脱出」と荒木一郎トークショー

2016年10月23日 21時33分33秒 |  〃  (旧作日本映画)
 22日にシネマヴェーラ渋谷で行われた荒木一郎トークショー。立ち見(まあ、通路に座り見だが)だったけど、まあ滅多にないからと思って見ることにした。これがとても面白くて、荒木一郎の天才性の片鱗を十分に堪能することができた。トークの前に、映画「脱出」の上映。「脱出」と言われると、僕なんかは、1972年に公開されたアメリカ映画「脱出」を思い出してしまう。ジョン・ブアマン監督の、今ではカルト的人気を誇るサバイバル・ムービーで、最近原作が新潮文庫で復刊された。

 まったく同じ年に、日本でも「脱出」という映画が作られ、公開されずにお蔵入りした。ただ一本残るフィルムが今回発掘されて、荒木一郎特集で特別上映された。途中でフィルムのブレが多い時間があり、また全体にカラー画面の退色が著しい。だけど、話自体は通じる。西村京太郎原作の犯罪映画だけど、それほど大した映画でもない。和田嘉訓監督の演出を荒木が批判的に回顧していたけど、まあそういうことなのかもしれない。でも原作そのものが面白くないんじゃないかと思う。

 明日ブラジルに向かうことを夢見る黒人系青年がいる。(黒人米兵と日本人の母親との間の子どもなんだろう。)世話になったバーにあいさつに来たら、白人客に暴言を浴び、店の外で争う。その白人は頭を壁に打ち付けて死んだように見える。同じ施設で育った女友だちの勤める店に逃げていくと、そこにいた週刊誌記者の荒木一郎が事件を知る。荒木は青年をブラジルに逃がしてやろうと客同士に持ち掛け、集団で女友だちに部屋に行く。そこに怪しい男が現れ、一緒に横浜のなじみ客の家に押しかけ、占拠する。ここに登場した男たちの素性は一体何か。

 たまたま同じ店の客だったというだけで「逃がしてやろう」となるのは、70年代初期に「反体制」的な熱気が残っているということである。だけど、お互いに何者かわからないのに、そんな危ないことをしでかす。中に「過激派」の幹部がいて、結局引きずられていくことになる。その後の展開も理解できないことが多く、荒木一郎も何のためにいるんだか、取材のために始めたことなのか、よく理解できない。

 「過激派勢力」による占拠事件という風にとらえると、連合赤軍の「あさま山荘事件」を思い起こさせると言われるのも判らないではない。でも、それも大げさすぎる単純な犯罪映画だと思う。作品に力があれば、どこかの時点で公開されていたのではないか。大スターが出ているわけでもなく、そのまま公開の機会を失ったということなんだろう。

 それよりブラジルへの客船、「ぶらじる丸」が出てくるのが貴重ではないか。戦後のエネルギー政策転換などによるブラジル移民を大量に乗せていった客船である。講和条約後に作られた大型商船で、1954年に竣工した。ホノルルへの立ち寄りもあり、ある時期までは好調だったが、日本の経済成長とともに南米移民が少なくなり、客が少なくなった。1973年が最後の航海で、それも「第一回日中青年友好の船」だという。年3回程度の航海だったというから、1972年製作のこの映画でも本当の航海シーンではなかったのかもしれない。(船自体は明らかに「ぶらじる丸」だと思うんだけど。なお、その後鳥羽市で海上パビリオンとして利用されていたが、1996年に閉館。中国に買い取られて、広東省湛江市で今も海上パビリオンとして使われているという。)

 その後、映画に出演していたフラワー・メグとともに、黒いメガネ姿の荒木一郎が登壇。この映画を含めて、いろんな映画の思い出を語った。次の特集の芹明香をはじめ、池玲子や杉本美樹などは荒木一郎のプロに所属していた。芹明香の売り出し時のエピソードなども興味津々。杉本美樹が出るのと同時に出演を依頼された「0課の女」では、途中で死ぬはずが監督の意向でセリフもないままずっと活躍していく。「芝居をする」ということと「映画を撮る」ことの違い。「白い指の戯れ」でもベッドシーンは大体荒木一郎が自分で演出してしまったという話。

 結局、歌手や俳優として若いときから活躍してきて、カメラに向かってどう演技すればいいかと熟知している。脇役の時は主役を食うように計算し、主演の時は映画全体を考えて演技を付ける。その緩急が判っている人、映画の演出を判っている監督は少ないという。経験した中では、東映の中島貞夫が一番だという。中島監督作品にはたくさん出ているが、「現代やくざ 血桜三兄弟」は脚本がよく出来ていたという。ホンがいいと、現場の演出で変えられるところが小さく、脇役としてはつまらない。でも、その中で渡瀬恒彦に演技を指導し、脇役として存在感を発揮していく。でもカットされてしまった場面もあるという話。話は尽きないけど、実に面白い話が満杯で、何事につけ天才と言われるだけのことがあるなあと感心した次第。
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「白い指の戯れ」「殺し屋人別帳」「地底の歌」「泉」

2016年10月19日 22時37分14秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今回のタイトルは昨日見た映画の名前。4本も見てしまったのだけど、今までそういうときのタイトルは「昨日見た4本の映画」などと書いていた。そうすると、後で自分でも何の記事を書いたのか判らなくなるので、今回は名前を列記してみたわけ。世の中には、どうしても見なくてはいけない映画なんかない。古い映画の場合は、映像素材自体は残ってるから今やってるわけだから、また機会があるに決まってる。でも特に珍しい映画の場合は、逃がせない気持ちになる。

 昨日はまずシネマヴェーラ渋谷で荒木一郎特集。見なくてもいいかと思ったんだけど、時間的に間に合いそうなので、「白い指の戯れ」(村川透監督、1972)を3回目。日活ロマンポルノだけど、今のレベルからすると(というか当時でもそうなんだけど)、ポルノグラフィー度は低い。「スリ」に生きる青年(荒木)にひかれてゆく若い女性(伊佐山ひろ子)。数年前に日活100年の時に見直したときは、「赫い髪の女」なんかと一緒なので、甘々すぎて今じゃもう見れないなと思った。

 でも、単品で見れば伊佐山ひろ子が可愛くて、見ていて飽きない。まあ、これと「一条さゆり 濡れた欲情」でキネ旬主演女優賞というのは、確かにどうかと思う。それはキネ旬ベストテン史上最大の「スキャンダル」となったけど、当時の勢いはすごかった。荒木一郎が町の看板を逆読みしていくシーンは、僕も公開当時にマネして歩いたもんだった。ロベール・ブレッソンや黒木和雄の「スリ」、あるいは福田純の「大日本スリ集団」、ウィル・スミスが天才詐欺師を演じた「フォーカス」(未見)など、スリ映画はかなりある。この映画はロマンティックで、犯罪の描き方に時代性がある。それと低予算の日活ロマンポルノは、東京ロケ映画として価値が高い。渋谷駅前や新宿御苑の地下鉄、八王子の映像などが貴重。

 続いて、併映の石井輝男監督「殺し屋人別帳」(1970)。日本のB級映画の巨匠、石井輝男だけど、あまりに作品が多いので見てない作品がまだ多数ある。今じゃカルト的人気を誇る「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」の次に作ったギャング映画が「殺し屋人別帳」である。渡瀬恒彦のデビュー作。いつも変な役柄の荒木一郎が、ごく普通の善玉ヤクザの兄貴をやっていて、それが逆に貴重かも。なんといっても、佐藤允の殺し屋「鉄」がいつも「フランシーヌの場合」を口笛で吹きながらフランス語をしゃべるという役で笑える。大正琴を抱えた流しのアラカン(嵐寛寿郎)が名うての老殺し屋とか、小池朝雄、由利徹に小川ローザとか脇役が凄すぎて、荒木一郎が全然目立たないぐらい。

 石井輝男は最晩年に「ゲンセンカン主人」や「ねじ式」を撮って、ちょっとアートっぽくなったけど、東映エログロ路線とか、ひんしゅくを買うような映画を作ってきた。「網走番外地」シリーズを撮った人だけど、新東宝時代のラインシリーズ東映初期のギャング映画なんかが面白いと僕は思う。晩年を除き、ずっと大手で撮ったからロジャー・コーマンとは比べられない。でも娯楽映画の王道を行くマキノ雅弘などと違い、あくまでもB級テイストで撮り続けた石井輝男はきっとまだまだ発見を待っているように思う。どんな映画ファンだって、全部見ている人はいないんだから。なお、渡瀬の主題歌を含め「じんべつちょう」と読ませている。「宗門人別改」から来るんだから「にんべつ」と読むべきではないか。

 そこから、交通費がムダだけど、神保町シアターに野口博志監督「地底の歌」(1957)を見に行く。平林たい子原作の映画で、それは1963年の鈴木清順監督「関東無宿」と同じである。「関東無宿」しか見てない人が(コアな映画ファンでも)多いと思う。当たり前ながら、原作が同じなんだから話はそっくり。木村威夫の美術はないけれど。「関東無宿」は、小林旭が主役で、若い女優が松原智恵子、年上の女が伊藤弘子、その夫のイカサマ師が伊藤雄之助。「地底の歌」では、同じ役が名和宏、坪内美詠子、山根寿子、菅井一郎。古い映画ファンなら知ってるかもしれないが、ずいぶん渋い。その代り、チンピラの「ダイヤモンドの冬」を石原裕次郎がやっている。

 「関東無宿」が魅力ある清順映画なことは確かだけど、話がどうも変な感じがする。そこは「地底の歌」の方がリアリズムで判りやすいかもしれない。名和宏が山根寿子にひかれる方が納得できるし。案外しっかりした演出で、見ごたえがある「文芸映画」になっている。「関東無宿」は品川が舞台だったが、「地底の歌」は東京東部で撮っている。冒頭が錦糸町駅で、当時の楽天地が見える。そこに女子高生三人組がやってくる。ということは、彼女たちは両国高校だったのか? その後、花子が連れていかれる場所も、成田と明示されていて京成成田駅が出てくる。当時のロケは、今見るととても貴重。

 そこから、また渋谷に戻って、ユーロスペースで小林正樹監督の「」(1956)という初期作品。まあ8本目で、「あなた買います」の次だから、初期でもないか。全然上映機会がない映画で、僕も今回初めて小林監督にそんな映画があるかと意識した次第。岸田國士原作を松山善三が脚色しているが、とにかく変な映画。佐分利信ははっきりしないし、佐田啓二は大声でいつも怒っている。映画内で誰も結ばれない変な、とても受けそうもないメロドラマだが、むしろ水源地をめぐる社会派映画というべきか。疲れているのに2時間以上を眠くさせずに見させてしまう力はある。有馬稲子が異様に美しく、その意味では黒澤明「白痴」の原節子を思い起こさせる。これほどヒロインが美しすぎると、映画内であっても誰とも結びつけられないのか。ここまで「女優が異様に美しい映画」も珍しい。
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荒木一郎と芹明香の映画

2016年10月16日 21時37分07秒 |  〃  (旧作日本映画)
 ユーロスペースの一階上の「シネマヴェーラ渋谷」で、荒木一郎の特集が始まった。その次は芹明香の特集。荒木一郎(1944~)は、僕は歌手として知った。「空に星があるように」。女優荒木道子の子で、青山学院高等部卒業後、文学座に属すとウィキペディアに出ている。その後、映画で不思議なムードの脇役として知られるようになるが、事件を起こしたりして、なかなかお騒がせの人生だったような記憶がある。大島渚監督の「日本春歌考」という僕の大好きな映画で、主演の大学受験生をやっていた。(年齢的にちょっときついけど。)
(荒木一郎)
 その後、日活ロマポルノ初期の佳作、「白き指の戯れ」(1972)で主演をした。これは同時代に見て、とても感激した映画なんだけど、数年前に見直したら「こんな映画だったのか」とビックリした。72年にキネ旬ベストテンに入選している。再評価が必要だと思う羽仁進監督の「午前中の時間割」は、ATG製作の不思議な感じの映画。若いころに2度見たけど、その後見てない。国木田独歩のひ孫という国木田アコが出ている「女子高生映画」。実験映画でもあり、今見るとどうなんだろうか。公開当時(1972年)、高校で生徒会活動をしていて、生徒会あてに割引券が送られてきたのを利用して見た記憶がある。

 今日見たのが、「0課の女 赤い手錠(わっぱ)」。1974年、野田幸男監督の東映セクシーバイオレンス映画の大傑作である。赤いトレンチコートに、赤い警察手帳、赤い手錠を使いまくる杉本美樹の無表情かつ棒読みセリフにノックアウト必至の名(迷)作である。昔から大好きで、もう4回目ぐらいだと思う。今回久しぶりに見たらラストの銃撃戦は、ジョニー・トーの「冷たい雨に撃て!約束の銃弾を」だなと思った。荒木一郎はナイフ使いの犯人一味。それにしても、東映では緋牡丹博徒やさそりなど、60年代末から70年代にかけて、女優によるアクション映画が量産された。その映画社会学的な意味は解明されていないんじゃないかと思う。

 もう一本、中島貞夫監督「現代やくざ 血桜三兄弟」も、前に見てるけど面白かった。この映画の「モグラ」という荒木一郎の役柄は、脇役の中でも特に印象深いものではないかと思う。中島貞夫監督の出世作「893愚連隊」でも大活躍をしている。ところで今回の目玉上映は、和田嘉訓(よしのり)監督の未公開作「脱出」だろう。「自動車泥棒」「銭ゲバ」の他、ドリフターズ映画などを作った監督だが、恵まれない映画人生だった。1972年の「脱出」は、同年のあさま山荘事件と似ているとの理由でお蔵入り。よくフィルムが残っていたものだと思うが、貴重という他に言いようのない上映である。

 2週間の荒木一郎特集が終わると、今度は芹明香(せり・めいか)の特集。日活ロマンポルノ初期のミューズである。というか、ミューズは宮下順子とか中川梨絵とか片桐夕子だけど、芹明香は主演級を食っちゃうほどの異様な存在感を発揮した。美人ではないけど、すごい印象的で、あれは誰だと一瞬で覚えてしまうような存在だった。最高傑作は、誰が見ても田中登監督の「㊙色情めす市場」(1974)だろう。大阪の最下層を生きる街に生きる人生を描き切った大傑作。これも公開当時から3回か4回は見てるので、今回見るかどうかは判らないけど、一度は見るべき日本映画ではないか。
(芹明香)
 僕が最初に名前を覚えたのは、多分神代辰巳監督の「濡れた欲情 特出し21人」(1974)かなと思う。日活ロマンポルノは名前が凄いけど、というか中身もストリッパーの世界だけど、特に神代監督作品などは骨があって素晴らしい。この映画も僕には思い出深いけど、数年前に見直したらなんだか案外だった記憶がある。その他、名前を見るだけではすごい映画が多いけど、「㊙色情めす市場」だってシナリオ段階の原題は「受胎告知」なのである。今になると、そっちの方がずっとわかりやすい。ずいぶん見てない映画も多いので、(14本中8本見てない)期待している。(ただし、深作欣二「仁義の墓場」だけは、数年前に見直して、人生で2回見ればそれでいいと強く思ったほど、本格的に陰惨なので、今回はパス。)荒木一郎も芹明香も本人を呼んだトークショーがある。
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映画「ドグラマグラ」再見

2016年06月15日 23時25分36秒 |  〃  (旧作日本映画)
 舛添知事はさっさと辞めてしまった。まあ、誰しも自分がかわいいので、やむを得ないだろう。その問題は明日以後に触れたい。女優の中川梨絵白川由美の訃報も伝えられている。それもいずれまとめて書きたいと思う。新作映画も結構見ているけど、「レヴェナント」や「海よりもまだ深く」も、それだけですぐに記事を書くほどお勧めでもないなと思う。「64」は前編がとても良かったので、後編も見て書きたいと思っているけど、まだ見ていない。

 ところで、キネカ大森で「夢野久作没後80年」と銘打って、夢野久作原作の映画を2週間にわたって上映している。一週目の17日までが、「ドグラマグラ」と「ユメノ銀河」。18日から24日までが「ドグラマグラ」と「夢野久作の少女地獄」。何とまあ、夢野久作没年の記念企画なんてあるのか。「ユメノ銀河」(石井聡互監督、1997)だけ見ていないので、今週行くことにした。

 最初に「ユメノ銀河」を見て、モノクロの美しい画面に魅せられてしまった。「少女地獄」の中の「殺人リレー」の映画化。もっとも原作は読んでから何十年もたっていて、すっかり忘れている。石井監督は2010年に岳龍と改名し、最近も「蜜のあわれ」などを発表している。1997年の発表当時、それほど評判にならなかったように思う。調べてみたら、キネマ旬報の48位だった。(1位は「うなぎ」、2位は「もののけ姫」の年。)多分、イマドキ映画としては珍しいほどの「前衛」的なムードになっているのが受けなかったのだろう。60年代末の個人映画、たとえば金井勝の映画のような趣がある。

 バス車掌のトミ子は、別の町で車掌をしている友人が婚約者の運転手にひかれて死亡したことを知る。友人の手紙が死後に届き、殺されるかもしれないと書いてあった。その運転手・新高がトミ子の会社に就職してきて、トミ子と組むことになる。あえて新高に接近したものの、彼を愛するようになるトミ子。まさに「命を懸けた恋」の行方はどうなるか。蒸気機関車や洞窟など、古びた設定が心に残る。映像も古い感じで作られている。バス運転手役の浅野忠信が若いのが印象に残る。

 ところで、夢野久作(1889~1936)は、昭和戦前期に活躍した「異端の小説家」として知られる。福岡出身で、実父は杉山茂丸。右翼結社として有名な玄洋社の大物である。頭山満と並んで「政界の黒幕」として有名な国家主義者だった。子どもはインド緑化の父といわれる杉山龍丸。孫の杉山満丸氏は祖父の研究をしている評論家で、今回もキネカ大森でトークしている。というようなことは、60年代、70年代にはずいぶん重要な情報だったのだが、今ではどうでもいいかもしれない。でも当時は、父が右翼の巨頭だったということが、夢野久作を読むときの危険な魅力を増していた。

 60年代末期に、三一書房から夢野久作全集が出て、初めて全貌が知られるようになった。しかし、僕が読んだのはそれではなく、角川文庫から70年代後半に続々と出たときである。それらは乱歩とはまた違った怪しい魅力に満ちていた。特に「氷の涯」や「犬神博士」が僕は大好きだった。現代教養文庫(というのもあった。後に倒産)からも、小栗虫太郎、久生十蘭、橘外男などと並んで選集が出ていた。これらの人々が、いわば戦前の「異端」作家の人々と言える。そして、「ドグラマグラ」(1935)は急死する前年に出版された畢生の大作である。だけど、読んでも全然判らない。
(夢野久作)
 「ドグラマグラ」と並んで「黒死館殺人事件」(小栗虫太郎)、そして「虚無への供物」(中井英夫)を、よく日本のミステリー史上の「三大奇書」という。それに加えて、四大とか五大とかいうのもあるが、僕は一番訳判らないのが「ドグラマグラ」だと思う。「黒死館」は確かに奇書中の奇書だし、読みにくいけど、「探偵小説」としては判る気がする。「虚無への供物」は筋もわかるし、感覚も通じる。時代性も感じられて面白い。「ドグラマグラ」は何十年も前に一度読んだだけだが、正直判ったとは思えなかった。1988年に松本俊夫監督が映画化して、なるほどこういう話かと初めて判った気がした。

 いやあ、松本俊夫(1932~2017)が映画化するんだと当時は驚いたものだ。松本俊夫の名前も今では知らない人が多いかもしれない。劇映画というより、実験映画作家や映画理論家として知られた人物である。劇映画としては、ATGで撮った「薔薇の葬列」(1969、16歳のピーター主演の本格的ゲイ映画)や「修羅」(1971、南北の「盟三五大切」の映画化)で知られる。豊川海軍工廠の大空襲を描いた、というか秋吉久美子の初主演で知られた「16歳の戦争」(1973)という異色の戦争映画もある。この映画は3年間お蔵入りしたあげく、自主上映された。

 ということで、1988年作の「ドグラマグラ」。映画をめぐる情報ばかりを書いているが、要するに判ったようで判らないのである。今見ると、精神病院の医師である正木博士を桂枝雀がやっているのが、貴重というか「怪演」に圧倒される。ある意味で痛ましい。枝雀(しじゃく)は上方の爆笑落語家として知られたが、1999年に自殺を図り回復することなく亡くなった。重いうつ病を何度か患っていたという。若林博士役の室田日出男も2002年に64歳で亡くなった。東映のピラニア軍団の中心だったが、次第に他社やテレビで大役をやる主役級の俳優になった。ずいぶん見ているから懐かしい。美術を担当した木村威夫も亡くなったし、脚本を松本俊夫と共同で書いた大和屋竺(やまとや・あつし)も、早く1993年に亡くなった。見ていると、これらの人々をしのびながら見るという気持ちが強かった。
(映画「ドグラマグラ」の桂枝雀)
 中身を書いてないけど、僕にはうまく要約することができない。面白いし、ムードはあるが、内容をどうこういうような映画、あるいは小説ではないのかもしれない。
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「春だ ドリフだ 全員集合!!」

2016年05月23日 22時38分19秒 |  〃  (旧作日本映画)
 フィルムセンターで21日に見た映画の話。「春だ ドリフだ 全員集合!!」は、1971年12月29日に松竹で封切られた松竹映画で、16本作られた松竹のザ・ドリフターズ映画「全員集合」シリーズの第8作目。(題名に「全員集合」が入らない松竹ドリフ映画も含めると13作目。)この映画から寅さんシリーズの併映作となり、1975年までシリーズが続いた。「全員集合」シリーズは全部、渡邊祐介監督。

 なんでこの映画が見たかったかというと、フィルムセンターの案内文に以下のようにあったからである。「本作では、いかりや長介が落語家いかり亭に扮し、彼の師匠役に三遊亭円生。いかり亭の善意からの行動は思いがけぬ大騒動となり、彼の真打昇進の件も絡んで、師匠(円生)は協会の有力者(柳家小さん)に重大宣言をするに至ってしまう。」

 ドリフターズというより、この円生小さん、この名前に驚いた。それに「重大発言」って何だ。円生と小さんが衝突するんだったら。ほとんど後の「落語協会分裂の予見映画」ではないか。後でウィキペディアを見たら、そこにも「落語界が舞台だが、7年後の落語協会分裂騒動を予見するような内容になった。」と記述されているではないか。

 さて、では見た結果どうだったかというと…。いかりや長介演じる二つ目の落語家(最初は「なまづ家源五郎」、その後改名して「いかり亭長楽」)が伊賀上野で小柳ルミ子の知り合いだと大ぼらを吹いて、ルミ子の巡業を請け負って金までもらってくる。もちろん相手にされず、師匠にも説教され改名させられる。腐って飲んでいると、地方から出てきた加藤茶と知り合い強引に弟子にする。師弟は長屋の2階で極貧生活。長楽は隣家の長山藍子に惚れているが、藍子は芸者をしながらヤクザな兄(荒井注)や妹を養っている。その藍子に危機が訪れ、メンバーはそろって箱根へ押しかける。そこでのハチャメチャが、真打昇進を決めるため同じ箱根の旅館にきていた円生師匠と小さん師匠に見つかってしまい…。せっかくの昇進話はチャラになり、かえって弟子だった茶楽(加藤茶)が先に売れ始めてしまう…。もちろん、他のメンバー、高木ブー、仲本工事の役もあって、五人が「全員集合」である。(まだ志村けんはメンバーではない時期。)

 円生師匠は怒ってしまって、「お前の真打昇進は取り消しだ」と宣告するのだから、もちろん怒って協会を飛び出したりしない。だから、全然「予見映画」ではなかったけど、円生と小さんが出てくるという意味では貴重なフィルムだろう。ドリフの映画は実は初めて。というか、男はつらいよシリーズも松竹の劇場で見たことがない。東宝や東映も似たようなもので、日本映画の新作は池袋の文芸地下や銀座の並木座で見ていた。ドリフ映画は作品的には評価されず、ほとんど名画座には下りていないはず。東宝は60年代初めからクレージーキャッツの映画シリーズ(「日本一」シリーズなど)を営々と作り続けていた。それに対して、ドリフターズ映画は松竹がほとんど作っている。(東宝にも5本ある。)

 しかし、こういうシリーズはグループ全員に役を割り当てなければならず、ストーリイ展開に無理が出てくる。東宝クレージーシリーズは、そのアナーキーなまでの能天気ぶりが後に評価されていくが、ドリフ映画はなんだかちょっと設定が暗く、展開も(この映画を見る限り)ちょっとまだるっこしい。その意味では、やはり今となっては面白さはあまり感じられない。ドリフターズは長い間テレビで大人気だったから、公開当時はスクリーンに出てきただけで大喝采だったのだと思う。「男はつらいよ」シリーズの渥美清や、テレビで絶頂期の「コント55号」(萩本欣一、坂上二郎)なども、ほんとに出てくるだけでおかしかった。そういう時期が終わると、これはどうもというシーンが多くなるのはやむを得ない。

 なお、落語協会分裂騒動というのは、五代目柳家小さん会長の真打ち量産に対して、前会長の6代目三遊亭圓生が反対して、その問題が尾を引いていて、1978年に圓生一門が協会を脱退した事件である。一時は立川談志、古今亭志ん朝も含めて大問題となったが、結局席亭の賛成が得られず、圓生一門が「落語三遊協会」を結成した。その後、圓生の没後も弟子の5代目三遊亭圓楽をリーダーにして協会に復帰せず、圓楽没後も「円楽一門会」として活動している。その後、立川談志も協会を脱退、「落語立川流」を立ちあげ、東京では「落語芸術協会」を合わせて4派体制となっている。(円楽一門と立川流は寄席の定席には出られない状態が続いている。)
(中央=圓生、右=小さん)
 「昭和の名人」が出てくる劇映画としては、桂文楽(8代目)が千葉泰樹監督「羽織の大将」(1960)に出ている。落語家を目指すフランキー堺の師匠役で、桂文楽の高座姿もたっぷり出てくる。一方、並び称される古今亭志ん生(5代目)は島耕二監督「銀座カンカン娘」(1949)に落語家新笑役で出ている。落語家の家に、高峰秀子と笠置シヅ子が下宿するという設定で、志ん生の落語も出てくる。一方、落語家役ではなく一般映画に出ていることも結構あり、有名漫画の映画化「博多っ子純情」(1978、曽根中生監督)には桂歌丸桂米丸が出ている。また、市川崑監督版「細雪」には、四女の恋人(の一人)役で桂小米朝(現・5代目桂米團治)が出ている。直接の落語映画以外にもかなり出ている。

 ところで、フィルムセンターの特集は、「生誕百年 木下忠司の映画音楽」である。木下恵介監督の実弟で、兄の作品「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」などの音楽を担当している。同じ姓だから関係あるのかなと思っていて、いつの時からか兄弟だと知った。兄の関係から松竹映画が多いが、その後見ていると東映映画も結構担当していることを知った。藤純子引退映画である「関東緋桜一家」などで、へえと思った記憶がある。今回「生誕百年」ということだが、まだ存命で先にフィルムセンターを訪れた時のことが、共同通信の立花珠樹さんの記事で紹介されてビックリした。
 今回紹介した「春だ ドリフだ 全員集合!!」は、6月10日(金)夜7時にもう一回上映がある。
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滝沢英輔監督の仕事-芦川いづみの映画再び④

2016年03月25日 23時24分42秒 |  〃  (旧作日本映画)
  
 神保町シアターの「芦川いづみ特集アンコール」の写真を撮っていたことを思い出したので、記念に最初に載せておきたい。ところで、この特集には滝沢英輔監督作品が4本含まれていた。そのうちの「あじさいの歌」は前に書いた。その時には3本と書いてしまったけど、後で見たら最終週に上映の「無法一代」も滝沢監督ではないか。いずれも見応えがある作品で、しっかりした演出力が光る映画だった。だけどまあ、作品世界も演出技法も古くて、しっとりした昔風の情緒はあるけど、いまさら取り立てて再評価の声を挙げようと思っているわけではない。

 日活は日本で一番古い映画会社だが、戦時中に製作部門が統廃合され「大映」が作られた。戦後しばらくしてから製作を再開したが、なかなか方向が定まらなかった。最初の頃は「文芸映画」を多作したが、あまりヒットせず、結局「太陽の季節」があたり、原作者の石原慎太郎の弟、石原裕次郎を見出して、アクション映画青春映画に活路を見出した。芦川いづみという女優も、今までに何回か書いているように、石坂洋次郎や源氏鶏太などの映画化作品で、裕次郎の相手役として存在感を発揮した。だけど、今日書く滝沢監督作品は(「あじさいの歌」などを除き)古い感じの「文芸映画」になる。

 製作年の順番ではないが、見た順に「佳人」(1958)から書きたい。これは藤井重夫(1916~1979)原作の映画化だが、藤井重夫と言っても今では誰も知らないだろう。僕も記憶の片隅に引っ掛かりを感じたものの、最初は誰だか判らなかった。調べて思い出したが、1965年上半期の直木賞を「虹」で受賞した作家である。選評では「甘さ」が指摘されている。(そう指摘したのは源氏鶏太。)その藤井が書いた「佳人」は1951年に芥川賞の候補となった。結局、直木賞を受けたが、その後忘れられた作家になった人である。ウィキペディアで調べると、兵庫県北部の豊岡出身で、「佳人」も豊岡が舞台になっている。また城崎温泉も出てきてロケされている(と思う。)
(「佳人」)
 話は久しぶりに故郷に帰る青年・しげる(葉山良二)の回想で始まる。戦前の豊岡のこと、身体が弱かった幼なじみの少女・つぶら(芦川いづみ)は、外に出ることもかなわず、しげるしか相手になってあげる者もいなかった。やがて二人の間に純愛が芽生えるが、青年は戦争に取られる。つぶらの送った石をお守りに戦争を生き抜いて、故郷に戻ったのは、つぶらが兄の友人だった金子信雄と結婚する日だった。兄は戦争で心を病んで自殺し、県会議員だった父も死んだ。財産もなくなったつぶらの家を援助した金子信雄は、亡き父の地盤欲しさに愛もない結婚を強要する、という哀切な物語。何とか救い出そうと葉山らが画策するのだが、悲しい展開が待っている。戦争で儲けて得するもの(金子)と戦争でひたすら悲しい目に会うもの(芦川)がくっきりと描き分けられている。

 金子信雄は「仁義なき戦い」や料理番組で知られた演劇人だが、日活アクションで多くの悪役をやっていた。この映画の憎々しいまでの役作りは実に印象的で、感傷的なカップルに涙するためには悪役の演技力が決め手だという大衆映画の作りがよく判る映画だ。しかし、センチメンタルに過ぎるのは間違いない。また、厳格な父は宇野重吉が演じている。他の2本にも出ているし、前回書いた源氏鶏太映画にも全部出ている。民藝の役者は日活によく出ているわけだが、中でも日活で何本か監督までしている宇野重吉が一番出ているのではないか。渡辺美佐子も儲け役で出ている。

 「祈るひと」(1959)は僕の好きな田宮虎彦の原作で、複雑な家庭に育った芦川いづみが、悩みながら自立を目指す。その「家庭の秘密」の処理が難しく、あまり面白くなかった。
(「祈るひと」)
 「無法一代」(1957)は研ぎ澄まされた構図で語られる悲しい物語である。「洲崎パラダイス」と同じく三橋達也、新珠三千代だが、あの映画では食い詰めていた二人だが、こっちでは明治の京都で遊郭の主人になろうとする。芦川いづみは、その廓で働かされる貧しい少女で、実に悲しい人生行路をたどる。その哀切なようすをうまく演じている。原作は京都で共産党の府会議員をしていた党員作家西口克己のベストセラー「」。さまざまな映画(溝口健二「赤線地帯」など)で、遊郭の主人側の言い分のエゴイストぶりが辛辣に描かれているが、この映画のように一からのし上がる主人が出てくるのは珍しい。今ではきちんと理解されていない昔の遊郭がきちんと描かれている。 
(「無法一代」)
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源氏鶏太の映画-芦川いづみの映画再び③

2016年03月24日 23時28分10秒 |  〃  (旧作日本映画)
 映画はフィルムセンターで根岸吉太郎監督の作品を見てるので、新作がなかなか見られない。その間に、今ごろ見た「映画ビリギャル」を3回も書いてしまった。そう言えば、今日になって突然、先月神保町シアターでやっていた芦川いづみの特集を全部見たことを思いだした。スタンプラリーをやっていたので、去年見たばかりの映画もついでに見ちゃったのである。で、招待券を2枚くれるということだったけど、どうなっているんだろうと思ったら家に帰ったら届いていた。それも縁だから、ちょっと戻って芦川いづみの映画、というか日本の50年代、60年代を映画を通して考えるということだが、少し書いておきたいと思う。まず、直木賞作家・源氏鶏太(げんじ・けいた、1912~1985)の原作映画。

 源氏鶏太は、1951年に「英語屋さん」で直木賞を受賞し、その後サラリーマン小説をものすごくたくさん書いた。それらの小説はどんどん映画化され、80本にもなるとウィキペディアにある。ラピュタ阿佐ヶ谷で2011年の「3・11」前後に特集をやったけれど見なかった。一番有名で重要な作品は「三等重役」だと思うが、これが東宝で映画化され「社長シリーズ」につながっていく。「三等重役」とは、戦後になって戦時中の役員が追放されたため特進できた軽量重役を指す言葉。流行語にもなった。

 昔は山のように各文庫に入っていたけど、読むこともないままもう全部消えてしまった。松本清張や司馬遼太郎なんかを除き、30年ぐらい前にいっぱい出てた「大衆文学」は時代の流れに耐えられなかったものが多いのである。特に「サラリーマン小説」なんかだと、今の時代とは離れすぎているだろう。でも、今となっては高度成長期を読み解く「考古遺跡」のような意味が出てきたかもしれない。

 芦川いづみ映画ではないが、近ごろ源氏鶏太の小説が久しぶりに文庫に収録された。ちくま文庫の「青空娘」である。これは増村保造監督、若尾文子主演で映画化された。とてもよく出来た青春明朗編で、20本近く組んだ増村=若尾映画の最初の作品である。読んでみたら、これが映画と全く同じなことにビックリした。同じというか、結末は違っているし、細部の登場人物も少し違う。だけど、作品に漂うムードが全く同じと言ってもいいのである。「語り口」が同じなのである。とても読みやすく、誰でもスラスラ読める。「明星」連載という「少女小説」であり、「昭和のラノベ」を楽しめる。同じコンビによる「最高殊勲夫人」も源氏原作。これもよく出来ていて、面白く見られる映画である。

 今回3本見た石原裕次郎=芦川いづみの源氏鶏太映画は、はっきり言ってしまえば、石坂洋次郎原作映画の足元にも遠く及ばない映画ばかりだ。もっとも、見る前から大した期待はしていない。芦川いづみと裕次郎が、さわやかコンビで会社にはびこる悪を懲らしめるのを、ただ楽しんで見ていればいいのである。「喧嘩太郎」(舛田利雄監督、1960)、「堂々たる人生」(牛原陽一監督、1961)、「青年の椅子」(西河克己監督、1962)と監督は娯楽映画の名手が揃っていて、それなりに楽しめる。

 何がダメかと言うと、物語そのものに魅力がないということに尽きる。東宝の植木等の無責任男が作られようという時代に、源氏原作の浮世離れした設定は魅力が乏しい。もっともそれは物語の話で、「喧嘩太郎」のように芦川いづみが「婦人警官」(当時の呼び方)になったりするのは見応えがある。裕次郎の会社の不正を警察も追及していて、会社の正義派と「婦警」が協力する。話はムチャだが、以下の写真にある警官姿は一見の価値あり。
(喧嘩太郎)
 浅草の玩具会社の社員裕次郎と、そこに押しかけ社員となる芦川いづみが、倒産寸前の会社を救うという「堂々たる人生」も楽しいことは楽しい。展開が不思議なんだけど、まあいいだろうという映画。僕が一番面白かったのは「青年の椅子」で、会社の一大事の鬼怒川温泉での得意先接待で、裕次郎と「タイピスト」の芦川が親しくなる。だけど、彼女は藤村有弘と婚約しているが、藤村は会社乗っ取りの陰謀をたくらむ一派にいる。正義派の営業部長、宇野重吉が苦境に立たされるのを、裕次郎と芦川で助けて会社を救う話。芦川いづみは、得意の和文タイプで藤村に婚約解消を告げ、同時に裕次郎からの「プロポーズ受け入れ」を事前にタイプしておくのがおかしい。
(青年の椅子)
 ただのタイピストが接待で重要な役をするのもおかしいし、その後の展開もどうかと思う。でもまあ、お得意先を温泉に接待するのが一年の重大事だというあたりに、当時の慣習が現れている。水谷良恵(現・二代目水谷八重子)が重要な役で出ているのも貴重である。話に現実味がなくても、当時の東京の風景などにも時代相が出ていて、そういう見所もある。
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「あじさいの歌」-芦川いづみの映画再び②

2016年02月09日 00時03分48秒 |  〃  (旧作日本映画)
 芦川いづみ映画の第2弾。前回の特集では中平康監督作品が多かったが、今回は滝沢英輔監督作品と西河克己監督作品が3本選ばれている。第1回で西河克己監督作品を書いたので、今回は滝沢作品について。ただし、「祈るひと」(1959)という映画は来週上映で、また見ていない。この映画は僕の大好きな田宮虎彦の原作なので楽しみ。そこで「佳人」(1958)と「あじさいの歌」(1960)。

 「佳人」は上映が終了してしまったので、今週やっている「あじさいの歌」から。この映画は石坂洋次郎原作で、石原裕次郎主演で作られた何本もの映画の一つ。それまでの「乳母車」「陽のあたる坂道」「若い川の流れ」は田坂具隆監督だった。(芦川いづみは全作に出ているが、後者2作の女優トップは北原三枝。)しかし、「あじさいの歌」は滝沢英輔監督(1902~1965)である。田坂監督は東映に移り、この年は中村錦之介主演で「親鸞」「続親鸞」を作っているのだからやむを得ない。

 「あじさいの歌」は散歩しながらデッサンしている建築デザイナーの青年(石原裕次郎)が、偶然お寺の階段で捻挫している老人(東野英治郎)を助けるところから始まる。おぶって帰ると、このヘンクツな老人が実は大富豪で、豪華な洋館に住んでいる。そして、そこに美しい一人娘がいる。女性不信から離婚して女を近づけない老人は、娘にも学校教育を受けさせず、中学からは家に家庭教師を呼んで教育している。テニスコートまである大邸宅なんだけど、この家では時間が死んでいて、娘は「囚われの美女」なのである。そして、もちろん青年は美女に恋するようになる。
(あじさいの歌)
 僕が初めて見た芦川いづみの映画は、多分この「あじさいの歌」である。見たのは40年以上前の文芸坐オールナイトで「あじさいの歌」「陽のあたる坂道」「あいつと私」の3本だった。順番は覚えていないが、多分今書いた通り。この洋館と芦川いづみの魅力にはまってしまった。これほどロマネスクな設定が日本で可能なのか。まるでフランス文学の「グラン・モーヌ」(アラン・フルニエ)を思わせる。映画の中の洋館は明らかにロケだが、見たことがないところである。検索してみたら、横浜市の野毛山公園近くの旧横浜銀行頭取邸だと出ていた。この邸宅はどうなっているのだろうか。

 さて、もう細かく筋書きを書くこともないだろう。どこにいるともしれない母親、そして裕次郎をめぐる恋のさや当て。父が心配して、大きくなった娘が世に出るための「お友達」を選ぶ。選ばれた中原早苗は、実は偶然にも裕次郎とも知り合いなのであった。そして、中原早苗の兄、小高雄二は芦川いづみを好きになる。大体、この時期の日活ラブロマンスでは中原早苗と小高雄二が、恋敵的な役柄を割り振られている。けっして絶世の美人とは言えない、後の深作欣二夫人の中原早苗が僕は大好きだ。それはともかく、ロングヘアの芦川いづみが、初めて(?)美容院に行って、バッサリ切ってしまってショートにする場面の、「ローマの休日」のような極上シーンは見逃せない。まあ、これが初めて街に出る女の子なのかなどと言うのはヤボで、芦川いづみの魅力に浸るしかない。

 監督が変わったからというより、原作そのものの違いが大きいと思うが、「あじさいの歌」はそれまでの洋次郎+裕次郎映画の中では異色である。他の映画は「もつれた人間関係」が、関係者の「言語による討論」により理性的な解決が図られる。日本ではありえないような「理想」だが、ブルジョワ家庭という設定と裕次郎の肉体によって、むりやり見る者を説得してしまう。その「戦後民主主義」的な言語感覚とそれを具現化するような映画空間(美術など)の魅力が忘れがたい。

 「あじさいの歌」も、関係者の凍結された時間が解凍される設定は共通している。だけど、「言語」へのこだわりが少ない。物語としての魅力と登場人物によって見せる、普通のラブロマンスに近い。「洋館」の魅力という「建物映画」の系譜に位置づけることもできる。また、母親が大阪に行って赤線経営をしていたとされたり、裕次郎と中原早苗が性的に関係したかのようなシーンがある。石坂洋次郎は一貫して、恋愛やセックスを明るく健全なものとして語った作家である。だけど、これまでは不倫や芸者などが出て来ても、ドロドロした感じは少なく、さらっと描かれていた。もう時代も変わってきて、次の「あいつと私」ではもっと正面から性の問題が扱われる。この映画は芦川いづみと洋館の魅力で、清潔な感じに仕上がっていて、実に魅惑的だと思う。

 滝沢英輔は、戦前に京都で若い映画人の集まり「鳴滝組」に参加していた。日中戦争で戦病死した伝説の天才・山中貞雄、「無法松の一生」を監督した稲垣浩などが参加していたことで有名な集団である。滝沢はそれ以前にマキノ雅弘(当時は正博)監督のもとで「浪人街」の助監督だった。監督としても「パイプの三吉」という映画が1929年のキネマ旬報ベストテン7位に入っている。その後東宝に移り、1937年に「戦国群盗伝」前後編を完成させた。これが有名だが、その後も戦中戦後の東宝で時代劇を作り、製作を再開した日活に移っても、時代劇やメロドラマをたくさん残している。戦後の作品はほとんど忘れられた感じだが、さすがに演出力は確かである。他にも面白い映画があるのかもしれない。職人的娯楽映画の作り手として、再評価が必要か。
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芦川いづみの映画再び①

2016年02月07日 00時01分00秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、「恋する女優 芦川いづみ アンコール」を上映中。性懲りもなく再び通って見ているが、そうすると他の新作映画や演劇、美術などのヒマが取れない。のみならず、市川崑監督や田中登監督などの特集も行われていて、そっちも行くつもりが時間が取れない。まあ、家から近い神保町シアターを優先させるが、ボケッと芦川いづみを眺めているのもいい。

 あまり書くつもりもなく、趣味で見ているだけでいいと思ったのだが、いろいろ見ていると書きたくなってくる。第2週の6日には「春の夜の出来事」など3本見てしまった。その映画の事をちょっと書きたくなった。まあ、映画としてはちょっとしゃれた小品というだけで、それほど大した映画ではない。1955年の西河克己監督作品。西河監督は後に吉永小百合主演で「伊豆の踊子」「絶唱」などをいっぱい作ったが、さらに70年代になると、百恵・友和主演で「伊豆の踊子」「絶唱」をまた作った。僕が同時代で知っているのはそっちの方だが、日本を代表する職人監督の一人。

 「春の夜の出来事」は大富豪の財閥当主が偽名で自分の会社の懸賞に応募したら当たってしまい、身分を隠して雪の赤倉観光ホテルに出かけていく。家族は心配して、執事の吉岡(伊藤雄之助)が社長と偽って付いていくことになる。まだ心配なので、身分を偽っていく客がいるから配慮して欲しいとホテルに電話してしまう。ところで、もう一人懸賞の当選者がいて、そっちは若い失業青年なんだけど、ホテルはこっちの青年を富豪と勘違いし、本当の富豪には粗雑な扱いをしてしまう。そこでドタバタがいろいろあり、吉岡が家族を呼んでしまう。そこで娘の芦川いづみが女中頭の東山千栄子と赤倉にやってくるが、娘と青年が運命的に出会ってしまい…という軽いコメディである。

 脚本は中平康河夢吉とクレジットされていて、河夢吉はペンネームだろうが、このソフィスティケート感覚は中平の持ち味だろう。西河監督のごく初期作品で、富豪は若原雅夫、青年は三島耕だから、それほど重視された作品ではないだろう。だから赤倉観光ホテルとタイアップして作っているのかと思うが、この実在ホテルがよく名前を使わせてくれたような設定。でも、あの特徴的な建物が出てくるからロケしている。パーティ場面などはセットだろうが。当時は妙高高原駅が「田口」と言ったが、その駅も出ている。だけど、この日本を代表する名ホテルをチラシは「山間のリゾートホテル」、某サイトは「赤倉グランドホテル」と表記している。
(赤倉観光ホテル)
 1930年代、日本政府は1940年東京五輪に向けて国際観光立国を目指してもいた。日本各地に外国人も宿泊できるような本格的な国際観光ホテルを相次いで作るというのも、その国策による。そこでできたのが、赤倉観光ホテル、琵琶湖ホテル、蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)、雲仙観光ホテル、川奈ホテル、日光観光ホテル(現・中禅寺金谷ホテル)などである。それ以前からある、日光金谷ホテル、箱根宮ノ下の富士屋ホテル、軽井沢万平ホテル、奈良ホテルは有名だけど、1930年代に作られたホテルを知らない人が結構いる。その中でも赤倉観光ホテルは温泉と展望の素晴らしさは日本有数。ちょっと高いけど、ここに泊らないで日本の温泉は語れない。泊らないでも、夏にカフェテラスで日本一おいしいフルーツケーキを食べるのは最高。

 ホテルの話が長くなってしまったが、仮装パーティが開かれるという、日本ではありえないような設定で、芦川いづみがピーターパンの扮装で出てくるという、とびきりキュートな場面が見逃せない。でも、ニセ富豪の青年に言い寄るご婦人連が多く、芦川いづみはホテルを飛び出し、ゲレンデに青年が追っていく。東山千栄子もコメディエンヌの才能を発揮していて楽しい。俳優座の大女優にして、小津の「東京物語」の母という印象が強すぎるんだけど、木下恵介作品ではコミカルな役柄が多い。また、ホテルの客として、作曲家黛敏郎がニセの黛敏郎役で出ているのもご愛嬌。即興で作ってと言われ、不思議な現代音楽を作ってしまう。小品ならでは楽しさである。

 もう一本、同じ西河監督の1958年作品、「美しい庵主さん」は、芦川いづみが尼さん姿で出てくるファン必見の作品。ペ・ドゥナが警官姿出てくる(「私の少女」)も良かったが、その不可思議な魅力において、芦川いづみの尼僧こそ忘れがたい。

 有吉佐和子原作の映画化で、小林旭と浅丘ルリ子が夏休みに、ルリ子が昔疎開していた地方の尼寺に卒論の勉強と称して転がり込む。そこに芦川などがいる。東山千栄子はこっちでも出ていて、受け入れる寺の尼僧。旭・ルリ子の初めての本格共演だというが、後々の運命を思わせるような、親しくもあり、溝もあるような役柄。そこに清涼剤のように芦川いづみが出てくるが、まあ映画としてはまとまりがない。お寺は伊豆でロケされたらしい。伊豆大仁の随昌院というところだとある。
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原節子の追悼上映

2016年01月23日 00時47分47秒 |  〃  (旧作日本映画)
 池袋の新文芸坐の「原節子追悼上映」を夕方から見たので、この追悼特集の話。

 小津映画をいっぱいやってるけど、今回はパス。今日は戦前の「河内山宗俊」と「新しき土」(日独版)を見た。「新しき土」は1936年に公開された日独合作映画で、山岳映画の巨匠アーノルド・ファンクが監督した。伊丹万作も監督に加わり、製作は複雑な経過をたどるが、1936年の「日独防共協定」時代の紛れもない国策映画である。細かい筋立ては書く必要もないと思う映画で、例えば四方田犬彦「原節子と李香蘭」に詳しく触れられている。昔も何回かフィルムセンターで上映されたが、近年修復されて恵比須の東京都写真美術館でロードショーされた。しかし、その時に見逃して実は初めて見た。無理して見に行くこともないかなと思ったのだが、案の定余りのつまらなさにウトウトしてしまう展開だった。
(「新しき土」)
 ところが、原節子の登場シーンだけが、輝くばかりに美しい。1920年生まれの原節子16歳の撮影である。こういうことが映画史の中には何度かある。イングリッド・バーグマンのスウェーデン時代のフィルムとか。そういう伝説的な美しさが原節子にあるのは間違いない。後半の火山への登山シーンは多分焼岳だろうと思って、確認したらやはりそうだった。上高地から登る山で、1915年に噴火して大正池を作った火山だ。ラストは「満州」と字幕が出るのに日本語字幕がないのはどうしてだろう。結局「満洲移民」の話だったのだ。日本は人口が多すぎると宣伝され、日本兵に守られた機械化農業シーンで終わる。「開拓」と言いつつ中国人農民から取り上げた土地を武装して耕作したのである。典型的な国策映画で、ドイツから見た日本像を「つくられた幻想」として提示している。

 この映画に原節子が抜てきされたのは、ファンク監督が「河内山宗俊」(こうちやま・そうしゅん)の撮影風景を見たからだという。山中貞雄監督の数少ない残った映画だが、フィルム状態が非常に悪く、前に見た時はよく聞き取れなかったが今回はとても面白かった。話自体を判っていたから、セリフの聞き取りに割くエネルギーが少なくて済んだことが大きい。それに原節子追悼だから、原節子を特に見ていることになる。これがまた演技というほどでもないのだが、存在自体の可憐さが際立っている。山中貞雄は天才監督と言われながら日中戦争で戦病死した日本映画史の伝説的監督。

 成瀬巳喜男の「山の音」は原作(川端康成)も映画もどうも好きになれないけど、主要登場人物に僕と同じ名前が出ている。珍しいという意味では久松静児監督「路傍の石」(1960)と熊谷久虎監督の「智恵子抄」(1957)。それぞれ違う監督の映画の方が有名で、これらの映画を見る機会が少ない。珍しいという意味では、丸山誠治監督の「慕情の人」(1961)と「女ごころ」(1959)という作品もある。引退も近くなった1960年前後の作品は小津映画以外ほとんど見る機会がないので貴重。

 稲垣浩「ふんどし医者」(1960)は、何だろうという題名だが、江戸時代末に長崎で学びながら、大井川の渡しのある島田宿で田舎医者になった森繁久彌の話。その妻が原節子でばくち好きという不思議な役柄を楽しく演じている。森繁は賭けず、妻のばくちを見ているのが趣味。負けが込むと自分の着物をカタにして、ふんどし一丁で帰る。不思議な設定だけど、ヴェネツィア映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞を獲得の名匠稲垣監督だけに、しっかりした演出がさえる佳作だった。同時上映の「大番」は、原節子は憧れのお姫様的な脇役だが、株で儲ける風雲児ギューちゃんを加東大介が演じる痛快作。最近再評価されている獅子文六原作を面白く映画化している。
(「ふんどし医者」)
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原節子の訃報を聞いて

2015年11月26日 23時45分04秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「元女優」の原節子が9月5日に亡くなっていたという。1920年6月17日生まれで、満95歳だった。昨日の夜のニュースで聞いて、すぐに書こうかとも思ったのだが、あまり感情が動かなかった。もう95歳で、引退からも半世紀以上経っている。「伝説」という他ない女優で、新聞を見たら「元女優」と書いてあった。同時代を知っているわけでもなく、過去の素晴らしい日本映画を見始めてから知ったわけだが、母親の話にはよく出てきていた。(ベティ・デイヴィスの方が多いが。)
  
 新聞では「東京物語」「晩春」が大きな見出しになっていた。うーん、まあそういうことになるのだろうな。あまり小津作品ばかり言われると、つい他の監督の名作にもいっぱい出ているよと言いたくなる。だけど、どうもいまの時点で見ると、あまり好きになれない映画が多い。戦時中の戦意高揚映画はもちろんのこと、戦後になって逆に民主化の旗手みたいな感じで出た「わが青春に悔いなし」(黒澤明)や「青い山脈」(今井正)も今見ると、なんだか納得できないところが多い。それは脚本や演出の問題と言えるが、原節子の演技もどうなんだろうか。

 でも若い時の、つまり戦時中の原節子は美しかった。よく「バタ臭い」顔立ちと言われ、演技的には大根と言われたとされるが、そういう批判を吹き飛ばす若い魅力がある。戦後になると、日本映画の最盛期とも言える「巨匠の時代」を支える女優のひとりとなった。黒沢、小津だけでなく、成瀬巳喜男木下恵介吉村公三郎などだが、フィルモグラフィを見ると、それ以外にも「文芸作品」の出演が多い。成瀬の「めし」や「山の音」も名作なんだろうが、好きな映画ではない。案外さまざまな役柄を演じていたのに、マジメで誠実な印象が小津映画、黒澤映画で確立してしまった感じだ。本当は喜劇で演じたコミカルな役柄の方が魅力的なのではないか。木下恵介「お嬢さん乾杯」とか千葉泰樹の「東京の恋人」、「大番」シリーズのような。もっとも「大番」は加東大介の憧れの君をやってるだけだが、原節子の人生を象徴する映画かも知れない。

 原節子を演出した映画監督は一人も存命ではない。まあ引退したのが42歳だから、もっと年上の監督が先に亡くなるのは当然だ。共演した俳優はまだ何人か存命で、今回様々なコメントを残している。それらの人々は、原節子の妹や娘を演じた女優が多い。司葉子は「秋日和」と「小早川家の秋」でどちらも娘を演じている。個人的なつきあい(といっても電話するぐらいらしいが)が最後まであったことがコメントで示されている。「東京物語」の妹役の香川京子、「東京暮色」の妹役の有馬稲子、「青い山脈」で生徒役の杉葉子などが存命している。まだまだ元気で活躍している人が多い。

 引退の理由については、僕はあまり関心がない。もうそういうものとして知ったことだから。「日本のグレタ・ガルボ」と言われると知識で知った話である。今ではもうグレタ・ガルボという名前も解説なしには通じないだろう。どんな世界にも、ある時点で「世間」との関係を断ってしまうしまう人がいる。それを周りは尊重するべきだ。最後に一言書けば、黒澤明の「白痴」というドストエフスキーの原作を札幌に移した映画がある。徹底的に切られて、「呪われた映画」というジャンルに入れられる映画かも知れない。(松竹は残されたフィルムがないのか徹底的に探して欲しいと思う。)原節子の美しさという点では、この映画の那須妙子(ナスターシャ)が最高なのではないだろうか。引退したからでも、小津映画に出たからでもなく、やはり「神話的な美しさ」を持っている女優だった。
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「はだかっ子」とユネスコ村ー映画に見る昔の学校⑦

2015年10月28日 13時05分38秒 |  〃  (旧作日本映画)
 田坂具隆監督「はだかっ子」という1961年の映画を30数年ぶりに見た。涙なくして見られぬ感動作だけど、当時の学校の状況などがよく判る意味でも面白かった。だから、「映画の中の学校」という観点から書いておきたい。田坂具隆という監督については、別に書きたいと思う。
  
 1956年、東京近郊の米軍基地に近い町。調べてみると、埼玉県の所沢でロケされているらしい。父がインドネシアで戦死して、母(木暮実千代)と二人で暮らしている少年・元太がいる。母は時々チンドン屋をしているが、いつもは「ニコヨン」(日雇い労働者)をして生活費を得ている。死んだ夫は大工で、その弟弟子(三國連太郎)の家の二階を間借りして、貧しく暮らしている。ある日、学校へ行く途中で、クラスメートの犬が、つないでなかったという理由で、「犬殺し」に連れて行かれるところに居合わせる。元太は犬を取り戻そうと噛みついたりして犬を逃がす。そこへ担任の高木先生(有馬稲子)が通りかかり、取りなしてくれる。こうして、この映画が始まる。

 元太は文字通り、元気いっぱいで、母親思いの一本気な少年。映画は、彼とクラスメートとの関わりや先生との交流を丹念に描いて行く。ある日、「ユネスコ村」に遠足に行く。ユネスコ村に関しては後記するが、世界各国の家を建ててある施設で、よく学校の遠足で利用されていた。そこで相撲をして、元太はみなに負けないが、高木先生にはかなわない。写生をすることになって、いろいろな家を皆がスケッチし始めるが、元太は決められず、あっちこっち行くうちに「インドネシア」の家にたどり着く。ここが父が死んだところかと思って、母に見せようとその家を描き始める。急に天候が変わり雷雨になると、皆とはぐれた元太は家の中に避難する。そこに探しに来た高木先生が見つけて助け出す。

 翌日の授業では、社会科で「ユネスコ」の学習。戦争をなくすために「心の中に平和の砦を築く」というのは、どういうことだろうか。戦争というと大きくなるけど、「ケンカ」と考えてみるとどうでしょうと高木先生。相手を思いやる気持ちの大切さに気付かせていく。最後は教科書を皆に読ませて確認させる。板書は「UNESCO」だけで、後は生徒が一生懸命先生の話を聞いている。今では内容的にも方法的にも考えられない素朴な授業だが、それが成立していた。教科書は東京書籍を使っていた。

 ある日「親子討論会」が開かれる。そんなものが開かれていたのか。先生はオブザーバーで、子どもと親が話し合うのである。競輪は良くないという意見が出る。後援会長が競輪を運営しているということで答弁に立ち、「競輪は社会にいい面もある」という。反論が相次ぐが、元太も「会長さんはいいこともあるというけど、会長さんは弱い者いじめをしているじゃないか」と告発する。この会長(織田政男)は地元の有力者で、後で元太の家にきて「誰に頼まれて、ああいうことを子どもに言わせたんだ」と母を追求する。そういうタイプの人物だったのだ。

 その頃、母は病気に倒れてしまう。「再生不良性貧血」(白血病)である。そのため、修学旅行を止めることにした元太は、同じく行かなかった女子と自転車で遊園地(西武園)に行く。当時の遊園地のジェットコースターを初めとするさまざまの遊具が出て来て、非常に貴重。最後は、運動会で頑張る元太を見ることなく、母は死んでいくという悲しいシーンとなる。運動会シーンも、非常に貴重な映像。

 「いじめ」的なことがないわけじゃない。姉が基地の「外人」と結婚している女子(一緒に遊園地に行くことになる子)は、机にパンを二つ並べてからかわれている。(パンが二つで「パンパン」。)また、道に信号もガードレールもなく、車がひっきりなしに通るところを横断するので、見ていてハラハラする。その頃は「交通戦争」と言われ、子どもが多い時代だったから、交通事故が今以上に大問題だった。

 子どもをめぐる当時の状況がよく判る映画だが、基本的に「教師の権威」「学校で勉強する」ことが全く疑われていない。「牧歌的な学校生活」である。田坂監督ならではの、クローズアップを多用した丁寧で誠実な演出に、ちょっとリズムがゆったりすぎると思いながらも、だんだん乗せられていき感涙に終わる。61年のベストテンで8位選出。1位が「不良少年」(羽仁進)、2位が「用心棒」(黒澤明)で、9位が「飼育」(大島渚)、10位が「黒い十人の女」(市川崑)。もうベストテンが意味ないような時代である。

 「ユネスコ村」は、西武鉄道が西武園の近くに開いていた遊園地(テーマパーク)である。ベースは世界の家が並ぶだけ。どうしてそれで客が呼べたのだろう。海外旅行など夢のまた夢、世界を知りたい人々の欲求に応える施設で、マジメな学習意欲が世の中に満ちていたのである。東京周辺の学校では、小学校の遠足の定番で、大体の人は当時行ってるんじゃないか。1951年に開園して、1990年に閉園した。単に遊園地というよりも、ユネスコの理想を多くの人が大切していた時代である。
(「ユネスコ村」の説明)
 日本はユネスコに1951年9月に加盟した。まだ占領中で、国連本体には加盟できていない。戦争の傷を皆が負い、日本は「文化国家」「平和国家」を目指していた。日本はユネスコから国際社会に復帰したのである。だから、「ユネスコ」という名前は戦後の希望だった。今は「負担金を払うな」などとずいぶんエラそうなことを言う国になってしまったが。もちろん僕も行ってるし、そう言えば生徒を連れて行ったこともあったと思いだした。非常に貴重なシーンで、懐かしさでいっぱいになった。それだけでも見る価値がある。(2020.5.21一部改稿)
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