尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・ワンガリ・マータイ

2011年09月27日 23時18分42秒 | 追悼
 ケニアの女性環境運動家でノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさん死去。71歳。日本でも「もったいない」運動で知られていた。関係の深かった毎日新聞から引用。

「ノーベル平和賞受賞者で、毎日新聞とともにMOTTAINAI(もったいない)キャンペーンを推進してきたケニアの元副環境相、ワンガリ・マータイさんが25日深夜(日本時間26日未明)、ケニア・ナイロビのナイロビ病院で卵巣がんのため死去した。71歳。マータイさんは昨年、卵巣にがんが見つかり、昨年8月にニューヨークで手術したが、今月になって再発した。

 1940年生まれ。ケニア中部ニエリ周辺の農村で生まれ育ち、生物学者を志した。渡米しカンザス州の大学で学士号、ピッツバーグ大で修士号(生物学)を取得。71年にはナイロビ大(ケニア)で東アフリカの女性として初の博士号(獣医学)を得た。

 「開発」の名のもとの環境破壊と開発の恩恵から阻害される市民の姿を目の当たりにしたことをきっかけに、環境保護活動に踏み出し、77年に農村地帯の女性に植樹を通じて社会参加を呼び掛ける「グリーンベルト運動」を創設。8万人以上が参加し4000万本以上を植える活動に発展し、アフリカ各国にも拡大した。運動は、環境保護活動と女性の地位向上、貧困撲滅、民主化促進などを結びつけて展開するものであるため、強権的なモイ前政権の弾圧対象となり、発電所建設を巡る森林伐採反対運動で逮捕・投獄された経験もある。

 モイ政権後の02年の選挙で国会議員に当選し、その後、副環境相に就任。環境保護と民主化への取り組みの功績が評価を受け、04年に環境分野で初で、アフリカ人女性としても初のノーベル平和賞受賞者となった。受賞翌年の05年に毎日新聞の招きで来日し、編集局長との対談で、「もったいない」という日本語に出会い、共感。「資源を有効利用する『もったいない』を世界に広めたい」と、毎日新聞などとMOTTAINAIキャンペーンを展開した。09年には国連平和大使に就任、旭日大綬章を受章した。」

 さすがに詳しいです。(朝日や読売のサイトと比べれば一目瞭然。)付け加えることがない。
 ケニアは独立後、ケニヤッタ、モイの長期政権が続き、91年から複数政党制が導入されたものの民族紛争と政争が続き、政治の世界でのマータイさんは必ずしも活躍できなかったと思います。

 ノーベル平和賞は有名政治家や国際機関に与えられてしまう年が多いけど、時に市民運動家、人権運動家に与えられる年があります。マータイさんは環境運動家として初、アフリカ女性として初の受賞で新しい歴史を作りました。前年の2003年受賞者であるイランの女性人権弁護士シーリーン・エバディ、1997年のアメリカの地雷反対運動家ジョディ・ウィリアムズ、1992年のグアテマラの先住民人権運動家リゴベルタ・メンチュウ、1991年のアウン・サン・スーチー、1979年のマザー・テレサなどが、女性の平和賞受賞者として思い浮かびます。もうすぐノーベル賞の発表の季節ですが、日本人は医学・生理学賞、物理学賞、文学賞などはあるかもしれないけど、平和賞だけは絶対ないですね。昨年の劉暁波氏のように(中国は反対してるけど)、政治家や国際機関ではなく、実際に平和と人権のために危険を顧みず活動している人に与えられるのがノーベル平和賞の役割ではないかと思います。ワンガリ・マータイの記憶のために書きました。
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「キネマの天地」と「普天間」を観る

2011年09月27日 01時02分47秒 | 演劇
坂手洋二の新作「普天間」(青年劇場)と井上ひさしの「キネマの天地」を相次いで観た感想。どちらも面白くて、ためになり、感動した。まず「普天間」から。坂手洋二は日本劇作家協会会長も務める現代の代表的な劇作家のひとりだけど、最近相次いで「社会派」的な作品を連発している。ただ「普天間」も初日が延期になったけど、どうも作品の出来には今一つ納得できない感じも最近はあった。しかし、まあ、今まさに「普天間」と来れば僕としては見ないではいられなかった

 この劇は、もちろんメッセージ性を抜きに成り立たない。もうほとんどが、沖縄国際大学へのヘリ墜落事故、沖縄戦や米兵による性暴力の話で構成されている。登場人物の間に葛藤が全くないわけではないけれど、人物どうしの葛藤のシチュエーションが物語を進行させるという劇ではない。一番大きな葛藤は登場人物とアメリカ及び日本政府、そして「ヤマトンチュー」(本土の国民)との間にある。元基地労働者がトラックを改造して「サンドイッチシャープ」(「シャープ」は「ショップ」(店)のこと)を開く。その移動店舗のトラック前が一種の「広場」となり、様々な人々が集い語る。それらの言葉の持つ「現実の重さ」が当然あるわけだが、誇り高く生きる沖縄の人々の強さ、明るさが言葉に込められていて、心を打つ。

 最後に語られる「他人に痛めつけられても 眠ることはできるが、他人を痛めつけては 眠ることができない」(チュニクルサッテン、ニンダリーシガ、チュクルチェ、ニンダラン)という感動的な言葉が心に残る。もちろんこの劇を見たからと言って、普天間基地問題がどうなるということはない。全国を公演して歩いても、「ではわが県で基地を受け入れましょう」というところは出てこない。演劇を見る人はそういう現実的な力を持ってないし、現実的な力を持っている人は演劇を必要としていない。しかし、演出の藤井ごうはこう書いている。「いつも思う、それでも、知る、識る、知り合う、向き合う、そこからしか始まらないと。」
 そして作者の坂手洋二の言葉。「そんなの芝居じゃねえ、と言われてもいっこうに構わない。いま私はこのことをこのやり方で描きたいのだという思いで、ここまで来た。先のことはわからない。とにかくこれまで演劇をやり続けてこなければ、こんなことはしなかっただろうし、このやり方でなければ、今この時に演劇をすることはできなかっただろうという気持ちは偽りでない。」

 「普天間」は演劇の持つ機能を生かしたすぐれた成果だと思うが、話に知識伝達的な側面が大きいことも否めず、もう一回見ましょうとお金を出すかというと正直ためらってしまう。それに対して「キネマの天地」はけっこう高いけど、もう一回是非見たいという気持ちがする。井上ひさしにもメッセージ性のある芝居はあるけれど、この劇は「演劇とは」「演技とは」そして「人生とは」「人間とは」を、役者のセリフと所作だけで語りつくしてしまう、まさに名人芸。1986年以来25年ぶりの上演らしいけど、自分も一番忙しい時期だったし、この芝居の存在は全く知らなかった。

 一年前に死んだ大女優、松井チエ子。その夫の映画監督が新作の準備と称して新進からベテランの4人の女優を舞台に招集する。しかし、監督の目的はその4人のうちの誰かが去年、妻を殺した犯人ではないか、その真相を万年下積み俳優の助けを借りて暴き出すことにあった…。というミステリ仕立てで話は進行するが、その中で演技や演劇の心得が名せりふで語られていく。俳優は7人、ほとんど舞台に出突っ張りで、それをやり通す俳優が素晴らしい。女優4人もすごいが、特に下積み役の木場勝巳が圧倒的な存在感で、今までの井上作品でも見てきたが、二度と忘れられない名演である。そして、この圧倒的な演技の場を成立させた栗山民也の演出の手腕。素晴らしい。

 ラストで下積み俳優が「一度も演じられなかった役たちよ」と「ハムレット、オセロ、リア王…」と読み上げるくだりは落涙必死。自分の人生でも「演じた役」「演じられなかった役」「演じたくなかった役」などがはっきりわかるようになってきたわけで、とても感動的な場面だと思う。まさに井上作品は汲めどもつきぬ泉だなあと改めて思ったけど、この魅力の質は「普天間」とはまた違う。井上作品でも現実に根ざした伝記的な作品の方が多いわけだが、この作品のようにミステリ的な部分も取り入れながら、中身的にはセリフと演技で演劇論を展開して勝負するという、ちょっと他で見たことのない作品。セリフが面白く、人間観察がすぐれ、演技が素晴らしければ、もう何回見ても飽きないのではないか。こういうやり方があったのかと改めて井上ひさしの逝去を悼む気持ちになった。あともう1年存命だったなら、震災と原発事故について何を語りどう行動したか、東北出身で岩手や宮城の話をいっぱい書いた井上ひさしのことを今も多くの人が思い出し、考えているだろう。
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