最近新聞やWEBサイトに記事が載って、このブログの『六本木少女地獄』記事に来る人もいるので、少し書いておこうかと。なんだかダラダラと書いているが、理由あってのことで、もうしばらくのんびりと書いて行くつもり。今回は、戯曲論そのものにはまだ行かず、論の前提をいくつか書いておきたい。
①「誤読」のすすめ
出版された以上は、読者はテクストとしてどのように「誤読」して行ってもいいということだと僕は考えている。戯曲は上演を前提に書かれているけれど、他の人に上演して欲しくなければ三谷幸喜のように自分の戯曲は刊行しないというやり方もある。しかし、今目の前に本があるなら、それを自由に、好きに、読んで行って、解釈すればよい。(ただし、著作権違反になる勝手な上演はダメです。)もちろん上演を見ているかどうか、ましてや著者を知っているかどうかなどには、なんら特権的な意味はない。まず、このことを確認しておきたい。
②このブログやインタビュー等の史料価値について
今後彼女の表現活動が展開されていっても、僕は「応援」以外のスタンスで書くことはないだろうと思う。「冷徹な批判者」になるには近すぎるからである。もちろん、このブログにも書いてないことはあるし、史料批判をしなければ「歴史記述」には使えない。そういう意味で、僕は本人が本の中に書いている解説、あるいは出版社サイトにあるインタビューもあまり本気で絶対視してはならないと考えている。一応、「伝記的事実」は基本的には信用して読みたいと思うけど、いろいろと意識的・無意識的なミスティフィケーション(意味わからない人は自分で調べてね)はありそうで、さらに出版社サイドのバイアスもかかっているのではないかと思っている。昔イチローが日本で最初に200本打って突然注目を浴びたとき、趣味を聞かれて盆栽と答えていたけど、まあそんな部分がたくさんあるのかもしれない。インタビューで言ってることの片言にこだわる必要はない。
③何故書いているか
このことで随分長く書いているが、いろいろ理由がある。不登校・中退の若者にメッセージを伝えるというのが「公式見解」だけど、僕のブログへ誘導するとか「生徒自慢」みたいな部分もあるんだろう。ただ、そういうことより「六本木少女地獄」をきちんと論じてみたいという気持ちが大きい。(他の作品は書かなくてもいい。)何故だろうかと自分でも考えていて、論じたい欲求をを呼び起こす作品ではあったんだろうけど、それだけでは自分でも完全に納得できない部分が残る。
ようやく最近自分なりに感づいたのは、僕の「最後の授業」からのつながり。教職最後の日に生徒・卒業生に何を語ったかは、ブログに書いてるけれど、「人は自分をきちんと認識することによって、変わることができるし、許しあうことができる」ということだった。そして「風の歌を聴け」の一部、「どんな惨めなことからも、人は何かを学べるし、だからこそ少しづつでも生き続けることができるのだということです」というところを朗読した。この問題意識は「六本木少女地獄」のテーマ性と微妙にリンクするのではないか、と考えているのである。「最後の授業」に出てくれた生徒・卒業生(若狭もいたけど)に対する、義務と言うか「最後の授業・追試編」みたいなものとして書いているのではないかと思うのである。
④「若狭明美」と「原くくる」について
新聞には本名で出ているが、これは本人の選択で出版社サイドでどう思っているかはわからない。本人の考えを代弁することはできないが、僕がなぜ本名で書いているかを書いておく。
いろいろとあるが、一番大きいのは収録されている作品が、すべて中学・高校の演劇部のために書かれたものであるということだ。本人がペンネームで書いた原稿が受賞した綿矢りさとはそこが違う(「綿矢」はペンネーム)。上演時にペンネームを使ったことはあるが、出演時に名前を芸名にしたことはない。もともと公開されている名前なのである。それどころか中学生時代の作品の中には、若狭明美名で脚本集に収録され公刊されているものさえある。中学3年の時に書いたという作品で2010年暮れ刊行の本に入っている。(関心がある人は自分で探してください。)運動部で活躍して甲子園やインターハイに出た生徒は皆本名で活動し本名で報道されている。松井秀喜、松坂大輔、斎藤佑樹、田中将大…日本中が高校生の時に名前を知っていた。実力があれば、プレッシャーなんかものともせずにその後も活躍していくのである。それは文化部で活躍した生徒だって同じだろう。学校の部活で活躍したというんだから、その活躍は本名で報じるべきなんだと思う。
「原くくる」というのは「六本木少女地獄」を上演するときに考案されたペンネームで、他の名で発表された作品も含めてすべて「原くくる作品」としてしまうのは、作品個々の事情を考えると無理があるのではないか。また仮にそれはいいとしても、生身の「原くくる」という存在はいないのであって、現実に存在しているのは「若狭明美」である。(「原くくる」は上演台本のペンネームに過ぎないので。)そのうち違ったペンネームや芸名を考え出すかもしれないが、今のところ今後どうするかは誰にもわからない。(ただしペンネームを使うとしても「原くくる」ではないだろうと思っている。)作品の発表が本名であってもなくても本質的な問題ではないと思うが、このことはそんなに急いで考える必要はないだろうと思う。(なお、高校生ともなれば全国相手に進学・就職活動をする。名前は基礎的なデータであって、秘匿すべき個人情報というような性格のものではない。都立新宿山吹高校在籍中に芥川賞候補になった島本理生は本名。本人がどう名乗って表現活動をしていくかという問題。六本木高校には多数の芸能活動をしている生徒がいたが、大多数は本名だった。名前の一部を変えるような場合もあるが。)
①「誤読」のすすめ
出版された以上は、読者はテクストとしてどのように「誤読」して行ってもいいということだと僕は考えている。戯曲は上演を前提に書かれているけれど、他の人に上演して欲しくなければ三谷幸喜のように自分の戯曲は刊行しないというやり方もある。しかし、今目の前に本があるなら、それを自由に、好きに、読んで行って、解釈すればよい。(ただし、著作権違反になる勝手な上演はダメです。)もちろん上演を見ているかどうか、ましてや著者を知っているかどうかなどには、なんら特権的な意味はない。まず、このことを確認しておきたい。
②このブログやインタビュー等の史料価値について
今後彼女の表現活動が展開されていっても、僕は「応援」以外のスタンスで書くことはないだろうと思う。「冷徹な批判者」になるには近すぎるからである。もちろん、このブログにも書いてないことはあるし、史料批判をしなければ「歴史記述」には使えない。そういう意味で、僕は本人が本の中に書いている解説、あるいは出版社サイトにあるインタビューもあまり本気で絶対視してはならないと考えている。一応、「伝記的事実」は基本的には信用して読みたいと思うけど、いろいろと意識的・無意識的なミスティフィケーション(意味わからない人は自分で調べてね)はありそうで、さらに出版社サイドのバイアスもかかっているのではないかと思っている。昔イチローが日本で最初に200本打って突然注目を浴びたとき、趣味を聞かれて盆栽と答えていたけど、まあそんな部分がたくさんあるのかもしれない。インタビューで言ってることの片言にこだわる必要はない。
③何故書いているか
このことで随分長く書いているが、いろいろ理由がある。不登校・中退の若者にメッセージを伝えるというのが「公式見解」だけど、僕のブログへ誘導するとか「生徒自慢」みたいな部分もあるんだろう。ただ、そういうことより「六本木少女地獄」をきちんと論じてみたいという気持ちが大きい。(他の作品は書かなくてもいい。)何故だろうかと自分でも考えていて、論じたい欲求をを呼び起こす作品ではあったんだろうけど、それだけでは自分でも完全に納得できない部分が残る。
ようやく最近自分なりに感づいたのは、僕の「最後の授業」からのつながり。教職最後の日に生徒・卒業生に何を語ったかは、ブログに書いてるけれど、「人は自分をきちんと認識することによって、変わることができるし、許しあうことができる」ということだった。そして「風の歌を聴け」の一部、「どんな惨めなことからも、人は何かを学べるし、だからこそ少しづつでも生き続けることができるのだということです」というところを朗読した。この問題意識は「六本木少女地獄」のテーマ性と微妙にリンクするのではないか、と考えているのである。「最後の授業」に出てくれた生徒・卒業生(若狭もいたけど)に対する、義務と言うか「最後の授業・追試編」みたいなものとして書いているのではないかと思うのである。
④「若狭明美」と「原くくる」について
新聞には本名で出ているが、これは本人の選択で出版社サイドでどう思っているかはわからない。本人の考えを代弁することはできないが、僕がなぜ本名で書いているかを書いておく。
いろいろとあるが、一番大きいのは収録されている作品が、すべて中学・高校の演劇部のために書かれたものであるということだ。本人がペンネームで書いた原稿が受賞した綿矢りさとはそこが違う(「綿矢」はペンネーム)。上演時にペンネームを使ったことはあるが、出演時に名前を芸名にしたことはない。もともと公開されている名前なのである。それどころか中学生時代の作品の中には、若狭明美名で脚本集に収録され公刊されているものさえある。中学3年の時に書いたという作品で2010年暮れ刊行の本に入っている。(関心がある人は自分で探してください。)運動部で活躍して甲子園やインターハイに出た生徒は皆本名で活動し本名で報道されている。松井秀喜、松坂大輔、斎藤佑樹、田中将大…日本中が高校生の時に名前を知っていた。実力があれば、プレッシャーなんかものともせずにその後も活躍していくのである。それは文化部で活躍した生徒だって同じだろう。学校の部活で活躍したというんだから、その活躍は本名で報じるべきなんだと思う。
「原くくる」というのは「六本木少女地獄」を上演するときに考案されたペンネームで、他の名で発表された作品も含めてすべて「原くくる作品」としてしまうのは、作品個々の事情を考えると無理があるのではないか。また仮にそれはいいとしても、生身の「原くくる」という存在はいないのであって、現実に存在しているのは「若狭明美」である。(「原くくる」は上演台本のペンネームに過ぎないので。)そのうち違ったペンネームや芸名を考え出すかもしれないが、今のところ今後どうするかは誰にもわからない。(ただしペンネームを使うとしても「原くくる」ではないだろうと思っている。)作品の発表が本名であってもなくても本質的な問題ではないと思うが、このことはそんなに急いで考える必要はないだろうと思う。(なお、高校生ともなれば全国相手に進学・就職活動をする。名前は基礎的なデータであって、秘匿すべき個人情報というような性格のものではない。都立新宿山吹高校在籍中に芥川賞候補になった島本理生は本名。本人がどう名乗って表現活動をしていくかという問題。六本木高校には多数の芸能活動をしている生徒がいたが、大多数は本名だった。名前の一部を変えるような場合もあるが。)