東京の学校事務について書こうと思っていたら、免許更新制に関して書きたいことが残っていたことを思い出した。まず、こっちから。いや、もう一般論になるのだけど。よく「対案を出せ」などと言う人がいるので、それについて答えておきたいなと。で、対案は「何もいらない」「元に戻せばいい」というものである。もちろん、自分の今までの勉強だけでは理解できない様々な現象が学校には起こっているから、大学や研究団体で勉強を深めたいという人は、夏休みを使って研修できる制度が必要である。それは「研修の保証」という問題で、むりやり「失職のおどし」で大学へ通わせるというのは目的と手段を取り違えている。
最近の学校に関する調査では、教員の意欲の減退がはっきりしている。新聞報道をあげれば、例えば「ベテラン教員 すり減る意欲」(9.26朝日)、「辞める新人教員増加 10年で8.7倍」(11.8朝日)といったものがある。僕は最近現職で亡くなる教員が多くなったように感じている。東京では、新採教員の自殺と言う悲劇も例年のように起こっている。僕のように定年前に退職する教員も数多い。だから、「学校がおかしい」と感じを多くの人が持つわけだが、それに対し研修の強化、命令的な教育行政、教員免許の更新制など、やることなすこと「逆効果の対策」ばかりである。ますます教育行政への信頼を失い、意欲を失い、早期退職を考えることになる。
特に大きいのは、夏休みがほとんどなくなってしまったこと。東京の小中では、夏休み自体が少なくなってしまった区市が多い。以前と同じく8月中は休みでも、研修などが多く、おちおち休めない。さらにそこに10年にいっぺん「免許更新講習」があったりすれば、もうその年は休みらしい休みがなくなってしまう。夏に自分なりの勉強ができると言うのが、昔は教師という仕事の醍醐味だった。僕もよく国会図書館に通ったり、古書店めぐりをしたものだったが。今はその夏休みという期間が少なくなってしまった。これは教師と言う職業に非常に大きなマイナスを及ぼしていると思う。一年を通した「学校カレンダー」を見通して仕事をしているわけだが、夏休みに十分休息して「タメ」を作って秋の長丁場に臨むという流れが滞ってしまうからである。
一体、世の中の人々は学校や教師に何を期待しているのだろうか?多分、教育行政に携わる官僚などは、「勉強しなさい」と言われれば勉強し、頑張っていろいろな試験を突破してきたのだろう。世の中、そういう「素直な努力家」ばかりだったら、教師はどんなに楽なことだろう。だから、「学力向上策として夏休み短縮」などという愚策を打ち出す。最近は9月に入っても彼岸頃まで残暑が厳しいのに、8月下旬から登校させて勉強して学力が上がると思っているのか。それともわざと「勉強嫌いの国民」を育成したいのだろうか。マスコミや教師自身も、そういう「素直な努力家」が基本的に多いから、「生徒理解」が薄っぺらなものになることが多い。だから、そういう教師が夏休みも目いっぱい研修したりすると、指導力がアップしたつもりの教師だけ頑張ってしまうという結果におちいりがちなのである。
夏に行うべきは、本を読んだり、旅行をしたり、いろいろな体験を積む。こんな面白いことを夏にしたぞ、見たぞ、行ったぞと休み明けに生徒に言える体験をすること。教師が、自分の人間力のアップを行うのが夏休みではなかったか。そして、育児や介護を抱える教員は、夏休み中に悔いなく個人の時間に使えばいいのではないかと思う。夏休みには、教師の「休息」の時間を。現職教員は言えないし、言わないと思うので、辞めた人間があえて書いておきたい。それこそが、学校の教育力のアップにつながるはずだ。
なぜ、そう断言できるかというと、秋は本当に大変なのである。運動会(体育祭)、文化祭、修学旅行という一大イベントのうち、多くの学校では秋に2つはある。それだけでも大変なのに、部活の大会が土日祝日に行われ、おちおち休めない。サッカーや文化部の多くの大会は秋が本番だし、運動部も3年が引退した後の大会があり、野球なんかも来春の選抜大会の出場予想校も秋の大会結果でもう決まっている。その上に進路活動が本格化するのが秋である。9月16日に高卒就職面接が始まり、10月頃から大学の推薦入試や専門学校の募集が本格化する。高校の学校説明会も10月頃に始まり、中学や高校の教員は多忙を極める。もちろん進路決定の前には、三者面談をすることも多いし、推薦入試の日程はシビアなので、生徒も教師も気を抜けない。冬に入試を受けるのが進路本番という人は、いまや中高では半分くらいで、秋こそ進路に向けて生徒も教師も一番頑張るというのが、大部分の学校ではないかと思う。
ところで、行事も部活も進路活動も、初めから判っていることである。そこへ向け、4月から準備をしていくのであって、それだけだったら忙しくて大変だけど、何とかなるし、何とかするのがプロというべきだろう。ところがそれだけではないのである。学校の事件は秋に起こるのである。入学・クラス替えで1学期はまだ前の人間関係を引きずっているが、夏休みで人間関係が変わり、あたらしく「つるむ」相手ができる。夏休みには生活が崩れやすいし、高校生だと初めてのアルバイトや交際を経験したりする。勉強内容も導入段階が終わり本格的に難しくなってくる。そこに行事が多くて、授業をつぶして準備をしたりするので学校にすきができやすい。運動会の練習に現れないで体育館裏で喫煙してる、くらいは想定内。文化祭をめぐってさぼる生徒がいてクラスが割れてしまい頑張ってた文化祭委員が不登校になるとか、運動会準備中にクラスの生徒の財布がなくなるとか、毎日夕方に「コンビニ前で喫煙してる」とか「スーパーで万引き捕まえた」とか電話があり教師が全然帰れないとか。そんなことがいっぱい起きる。たまたま落ち着いた学校に勤務して授業と部活だけしていられる教師は幸せである。そんな事件は決まって秋に起こる。教師に心に余裕がない状態で事件が起きると、生徒や保護者と必ずトラぶることになる。夏に休めてないと、そういうことになりやすい。「免許更新講習」なんて、ほんとどうでもいいよ。少し休んでおかないと、秋の陣に出陣できないですよ。
反貧困運動家の湯浅誠さんが「日本社会はタメがなくなった」という言い方をよくするが、教師と言う仕事も十分な「タメ」が必要だと思う。教師が頑張っても生徒が付いて行かなければ逆効果である。かえって、頑張った先生が「逆ギレ」したり、生徒を「切り捨て」たりすることも結構多い。教師に「心の余裕」がないと、失敗する生徒を受け入れられず、追いつめてしまうのだ。「タメ」というか、「あそび」と言った方がいいかもしれない。自動車教習でよく言われる、ハンドルやブレーキにある「あそび」のことである。教師はリーダーで運転手に例えられるから、ハンドルさばきや適切なブレーキングが求められるが、その時にはある程度の「あそび」が大切なのではないかと思う。
昔、土曜出勤があった時は、夏に休暇のまとめ取りができ、それに夏休みと年休を加えて、いろいろと旅行できた。僕はよく山へ行っていて、大雪からトムラウシ、北岳から塩見などの縦走も夏休み。利尻や日高山脈の幌尻、鳥海や出羽三山、穂高、妙高・火打、四国の石鎚山・剣山、霧島・阿蘇など夏の思い出が鮮明によみがえる。ところで、東北や北海道には修学旅行で行くことになり、「添乗員より詳しい」教師として修学旅行の企画運営をしたから、僕の夏休み体験は生徒に完全に還元された。それが夏休みの使い方だと思っているのである。
最近の学校に関する調査では、教員の意欲の減退がはっきりしている。新聞報道をあげれば、例えば「ベテラン教員 すり減る意欲」(9.26朝日)、「辞める新人教員増加 10年で8.7倍」(11.8朝日)といったものがある。僕は最近現職で亡くなる教員が多くなったように感じている。東京では、新採教員の自殺と言う悲劇も例年のように起こっている。僕のように定年前に退職する教員も数多い。だから、「学校がおかしい」と感じを多くの人が持つわけだが、それに対し研修の強化、命令的な教育行政、教員免許の更新制など、やることなすこと「逆効果の対策」ばかりである。ますます教育行政への信頼を失い、意欲を失い、早期退職を考えることになる。
特に大きいのは、夏休みがほとんどなくなってしまったこと。東京の小中では、夏休み自体が少なくなってしまった区市が多い。以前と同じく8月中は休みでも、研修などが多く、おちおち休めない。さらにそこに10年にいっぺん「免許更新講習」があったりすれば、もうその年は休みらしい休みがなくなってしまう。夏に自分なりの勉強ができると言うのが、昔は教師という仕事の醍醐味だった。僕もよく国会図書館に通ったり、古書店めぐりをしたものだったが。今はその夏休みという期間が少なくなってしまった。これは教師と言う職業に非常に大きなマイナスを及ぼしていると思う。一年を通した「学校カレンダー」を見通して仕事をしているわけだが、夏休みに十分休息して「タメ」を作って秋の長丁場に臨むという流れが滞ってしまうからである。
一体、世の中の人々は学校や教師に何を期待しているのだろうか?多分、教育行政に携わる官僚などは、「勉強しなさい」と言われれば勉強し、頑張っていろいろな試験を突破してきたのだろう。世の中、そういう「素直な努力家」ばかりだったら、教師はどんなに楽なことだろう。だから、「学力向上策として夏休み短縮」などという愚策を打ち出す。最近は9月に入っても彼岸頃まで残暑が厳しいのに、8月下旬から登校させて勉強して学力が上がると思っているのか。それともわざと「勉強嫌いの国民」を育成したいのだろうか。マスコミや教師自身も、そういう「素直な努力家」が基本的に多いから、「生徒理解」が薄っぺらなものになることが多い。だから、そういう教師が夏休みも目いっぱい研修したりすると、指導力がアップしたつもりの教師だけ頑張ってしまうという結果におちいりがちなのである。
夏に行うべきは、本を読んだり、旅行をしたり、いろいろな体験を積む。こんな面白いことを夏にしたぞ、見たぞ、行ったぞと休み明けに生徒に言える体験をすること。教師が、自分の人間力のアップを行うのが夏休みではなかったか。そして、育児や介護を抱える教員は、夏休み中に悔いなく個人の時間に使えばいいのではないかと思う。夏休みには、教師の「休息」の時間を。現職教員は言えないし、言わないと思うので、辞めた人間があえて書いておきたい。それこそが、学校の教育力のアップにつながるはずだ。
なぜ、そう断言できるかというと、秋は本当に大変なのである。運動会(体育祭)、文化祭、修学旅行という一大イベントのうち、多くの学校では秋に2つはある。それだけでも大変なのに、部活の大会が土日祝日に行われ、おちおち休めない。サッカーや文化部の多くの大会は秋が本番だし、運動部も3年が引退した後の大会があり、野球なんかも来春の選抜大会の出場予想校も秋の大会結果でもう決まっている。その上に進路活動が本格化するのが秋である。9月16日に高卒就職面接が始まり、10月頃から大学の推薦入試や専門学校の募集が本格化する。高校の学校説明会も10月頃に始まり、中学や高校の教員は多忙を極める。もちろん進路決定の前には、三者面談をすることも多いし、推薦入試の日程はシビアなので、生徒も教師も気を抜けない。冬に入試を受けるのが進路本番という人は、いまや中高では半分くらいで、秋こそ進路に向けて生徒も教師も一番頑張るというのが、大部分の学校ではないかと思う。
ところで、行事も部活も進路活動も、初めから判っていることである。そこへ向け、4月から準備をしていくのであって、それだけだったら忙しくて大変だけど、何とかなるし、何とかするのがプロというべきだろう。ところがそれだけではないのである。学校の事件は秋に起こるのである。入学・クラス替えで1学期はまだ前の人間関係を引きずっているが、夏休みで人間関係が変わり、あたらしく「つるむ」相手ができる。夏休みには生活が崩れやすいし、高校生だと初めてのアルバイトや交際を経験したりする。勉強内容も導入段階が終わり本格的に難しくなってくる。そこに行事が多くて、授業をつぶして準備をしたりするので学校にすきができやすい。運動会の練習に現れないで体育館裏で喫煙してる、くらいは想定内。文化祭をめぐってさぼる生徒がいてクラスが割れてしまい頑張ってた文化祭委員が不登校になるとか、運動会準備中にクラスの生徒の財布がなくなるとか、毎日夕方に「コンビニ前で喫煙してる」とか「スーパーで万引き捕まえた」とか電話があり教師が全然帰れないとか。そんなことがいっぱい起きる。たまたま落ち着いた学校に勤務して授業と部活だけしていられる教師は幸せである。そんな事件は決まって秋に起こる。教師に心に余裕がない状態で事件が起きると、生徒や保護者と必ずトラぶることになる。夏に休めてないと、そういうことになりやすい。「免許更新講習」なんて、ほんとどうでもいいよ。少し休んでおかないと、秋の陣に出陣できないですよ。
反貧困運動家の湯浅誠さんが「日本社会はタメがなくなった」という言い方をよくするが、教師と言う仕事も十分な「タメ」が必要だと思う。教師が頑張っても生徒が付いて行かなければ逆効果である。かえって、頑張った先生が「逆ギレ」したり、生徒を「切り捨て」たりすることも結構多い。教師に「心の余裕」がないと、失敗する生徒を受け入れられず、追いつめてしまうのだ。「タメ」というか、「あそび」と言った方がいいかもしれない。自動車教習でよく言われる、ハンドルやブレーキにある「あそび」のことである。教師はリーダーで運転手に例えられるから、ハンドルさばきや適切なブレーキングが求められるが、その時にはある程度の「あそび」が大切なのではないかと思う。
昔、土曜出勤があった時は、夏に休暇のまとめ取りができ、それに夏休みと年休を加えて、いろいろと旅行できた。僕はよく山へ行っていて、大雪からトムラウシ、北岳から塩見などの縦走も夏休み。利尻や日高山脈の幌尻、鳥海や出羽三山、穂高、妙高・火打、四国の石鎚山・剣山、霧島・阿蘇など夏の思い出が鮮明によみがえる。ところで、東北や北海道には修学旅行で行くことになり、「添乗員より詳しい」教師として修学旅行の企画運営をしたから、僕の夏休み体験は生徒に完全に還元された。それが夏休みの使い方だと思っているのである。