尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「できる子」問題-中高一貫校問題⑦

2014年01月25日 00時27分47秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 「スピンオフ」(派生)と言ってたけど、内容的に続きだなと思うようになったので、中高一貫校問題の7回目として。政治、国際問題などで書きたい問題が多くなってきたけど、調べて書くのが大変なので、まず教育関係の記事を書いてしまうことにする。もともと、僕は中高一貫どころか、小中高一貫の12年教育が理想ではないのかと思っていた。それは学生の頃に、子安美知子「ミュンヘンの小学生」(1975、中公新書)を読んで、「シュタイナー教育」というものを知ったからである。続いて「ミュンヘンの中学生」も出て、またシュタイナー教育に関する本も出している。それらを読むと、「これが理想の教育ではないか」みたいな感想を持ったわけである。

 今、シュタイナー教育については書かないので、知りたい人は自分で調べて欲しい。今では、日本でも「シュタイナー学園」が神奈川県相模原市に作られている。非常に素晴らしい言葉がホームページには載っている。でも、僕は今では、そういう「全人的教育」みたいなものが、「すべての生徒にとっての理想教育」だとは考えていない。時と所を得なければ、人間にとってはどんなところも抑圧の場となりうると思っている。「日本の現実」の中で生きている今の日本の子どもにとっては、「多様な学びのあり方」が用意されていなければならないと思っている。だから、もちろん「シュタイナー学校」もあっていい。でも、それがすべての子どもにふさわしいとは思っていないわけである。

 世の中には「できる子」というものがいる。この場合の「できる」とは、主に学力面で「飛び抜けた才能を持つ」といった意味である。「できる子」には、今の日本の学校はあまり楽しくないだろうと思う。運動や芸術方面で飛び抜けた才能を持つ子どももいる。その場合は、学校空間では割と生きやすい場合が多いだろう。もちろん、「オリンピックでメダルが期待できる」レベルまで優れている中高生だったら、苦労も多いのかもしれない。でも「学年で一番足が速い」程度の運動技能だったら、人生を充実させてくれる場合の方が多いと思う。それは「才能を分け与える」機会が保障されているからである。運動会のクラス対抗リレーなんかに出て、皆の前で才能を披露して、クラスのヒーローとなれる。才能あるものも、社会の中の一員として生きて行かなくてはいけないので、その才能を周りに分け与えていく機会がないと評価されない。自分でも才能を持てあましてしまうことになる。

 でも、学力面で優れた才能を持つ子どもの場合、その才能を分け与える場がなかなかないのである。学力を測る機会はいつでもあるが、例えば定期テストで優秀な成績を取っても、それは「個人的な問題」とされ「個人の努力」として語られるてしまう。本人の意識では別に頑張っていないのである。学年で一番になって、教師から「よく頑張ったな」と言われても、別にそれほど頑張ったわけではないので、困ってしまう。今「できる子」と言ってるのは、そういうタイプの子どものことで、ものすごい努力のすえに成績上位をキープしている人は含まない。そんな「学力が優れている子ども」は現実にいっぱいいるだろう。今は成績を公開する時代ではないし、学力は「自己責任」とされがちな時代なので、クラスで「できる子」が「できない子」を支援するような学習集団作りがうまく行ってる学校も数少ないだろう。だから、「できる子」は学校に居場所がないことになりやすい。

 知的な障がいを持つ生徒に「特別支援教育」があるなら、知的に優れた生徒にも「特別支援教育」が必要なのだろうか。それが私立や公立の「中高一貫校」なのだろうか。私立の名門進学校などの様子を見ると、生徒の能力がもともと優れていて、そのため東大合格者数などが上位となるということでではないか。公立の小中高教師というのは、まあ、勉強が嫌いではならないだろうが、勉強がものすごく出来たという人も少ないと思う。「勉強がものすごくできる」とは、医学部とか東大法学部に合格するという意味で、そこまで行ったら公立校の教師になる人はほとんどいないだろう。私立中堅大学出身の教師も多いけど、そこでも一番優秀なら母校の教授になってるのではないか。学校で教えるのは、単なる学力だけではないから、どの大学で学んだのかなどは現実の教員にはほとんど関係ない。でも、「普通の教員」は自分では「東大に現役でスイスイ合格できるような生徒」ではなかった。生徒の方が上なのである。これでは「教師が生徒を教える」というより、「同じように才能豊かな生徒同士の切磋琢磨の機会を与える」方が生徒の成長に役立つのではないか。

 僕はそのようにも思うので、「できる子向けの中高一貫教育」もありうるだろうと思っている。でも、僕はそのことが書きたいのではない。そこには「2つの問題」があると思っているのである。まず一つは「通学問題」で、小学生時代から「できる子」というのは、頭でっかちで体力が弱い場合も多いと思う。大人に交じって長い通勤列車に乗って通学するというのは、ものすごく苦痛だと思う。地元の学校に行くのに対し、1時間以上早起きしないといけないとかなれば、体力的に持たないのではないか。こう思うのは、自分がまさにそうだったからで、遠足が雨になればいいと思うタイプだったので、長い通学時間をかけて通う気にはならなかった。でも中学受験はしたのである。それは「力試し」がしたかったからで、本心は小学校より圧倒的に近い家から極めて近い地元の中学校に行けばいいと思っていた。友達はいたのだから。

 それでも小学生時代に進学教室などに通う経験をした。面白かったのである。先取り学習も興味深かったし、大学のキャンパスに日曜ごとに通うのも面白かった。(学生運動華やかなりし時代で、「米帝」だの「粉砕」だのという言葉を覚えたのもその場である。)学校では現代史なんか全然教えない時代で、「2・26事件」や「東条英機」を歴史用語として学んだのは、実は小学校6年生の中学受験向け進学教室のことなのである。今思えば、これは親の考えや経済的条件があってのことであるだろう。小学生だから「自我の目覚め」前である。僕は自分が一度、世界の国や歴史的人物が出て来れば、一度で覚えてしまえるので、なんでそんなことができない子がいるのか、まだ判らなかったのである。子どもというのは、自分の尺度でしか見えないという時期があるのだ。

 だから、小学生で中学受験に向け勉強するのが楽しくてならないという場合は、やればいいとも思う。その場合、親は子どもに「高校受験をしなくていい」というプレゼントができるが、逆に「友人と共に高校受験に挑む」という体験を奪うことになる。それさえ判っていれば、後はどっちがいいかは誰にも判らない。ただ、僕はもっと別の問題があるのではないかと思うようになった。それは中学や高校になって、「自我の目覚め」が訪れ、自己の世界観が確立されていく。その時に必要な物は、学校の勉強ではない。それよりも「読書」や「音楽」や「映画」、あるいは「社会参加」の体験ではないか。しかし、中高一貫校に入ってしまうと、学校の学習と通学に時間を取られ過ぎる恐れがある。「こんな本を読んでいるのか」と思われるような本(僕の時代だったら、マルクスやフロイトやドストエフスキー、歎異抄や聖書、三島由紀夫や大江健三郎など、高校生なら普通に読んでいた本だけど、今なら何になるだろう)などに取り組む時間がどこにあるのだろうか。それが心配なのである。地元の中学校にいれば、それほど勉強に頑張らなくても学年トップ級を維持できる場合も多いだろう。それなら、勉強以外に自分の世界を確立できる時間を持てる。そういうこともあると思う。

 ただし、その場合「切磋琢磨経験」は少なくなるので、公立中で「豊かな学び」が保障されなければならない。これが難しいのかもしれない。それは学習面でも「優れた能力を周りに分け与える」体験でなくてはならない。英語劇のリーダーとして活躍するとか、理科の実験や観察をまとめて発表し評価されるとか。あるいはクラスの文化祭でやる演劇で、脚本を書いたり演出をするとか。映画製作でもいい。その場合、クラスには、役者になりたいタイプもいるし、裏方の照明や音響の方を引き受けるタイプもいる。でも、それらは他の人でも可能だけど、脚本を書けるとなると誰にでもできるわけではない、僕が「才能を分け与える」というのはそういう意味で、そう言う体験をできるかどうかで、学校も、本人に人生も変わっていくと思う。
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