「義務教育諸学校及び高等学校教科用図書検定基準の一部を改正する告示案に関する意見募集について」というパブリックコメントの募集を行っている。14日まで。
これは中学や高校の歴史、公民等の教科書をめぐる問題である。「教科書問題」というのは戦後何度か、保守系政党が問題視して起こって来た。ここ10数年は「新しい歴史教科書をつくる会」というのができて、扶桑社、育鵬社、あるいは自由社の中学歴史、公民教科書が作られてきた。(扶桑社は産経新聞の子会社で、育鵬社はさらに扶桑社の子会社。前記「つくる会」の分裂にともない、自由社版も作られている。)今までの中学教科書採択で、安倍晋三氏(首相)や下村博文氏(文科相)はこれらの教科書を支持してきた。そして、下村文科相が昨年11月25日に、教科用図書検定調査審議会総会に出席して、以下のような挨拶をしている。ちょっと面倒くさいが、引用しておきたい。(前記パブコメ画面の関連情報に紹介されている。)
○ 特に歴史については、光と影の部分があり、影の部分のみならず光の部分も含めてバランス良く教えることにより、子供たちが我が国の歴史について誇りと自信を持つことが重要であると考える。こうした観点から、検定基準については、特に社会科に関して、
・通説的な見解がない事柄を記述する場合や、特定の見解を強調して記述している場合などに、よりバランスの取れた記述にすること
・政府の統一的な見解や確定した判例がある場合には、それらに基づいた記述も取り上げられていること
といった内容を新たに盛り込むべきであると考える。
これを受けた審議会で検討され、以下のような変更案がまとまった。
① 未確定な時事的事象について記述する場合に、特定の事柄を強調し過ぎていたりするところはないことを明確化する。
② 近現代の歴史的事象のうち、通説的な見解がない数字などの事項について記述する場合には、通説的な見解がないことが明示され、児童生徒が誤解しないようにすることを定める。
③ 閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていることを定める。
まあ、じっくり比べるほどのものでもない。全く同じと言ってよい。大臣挨拶が2点になっているのを3項目にまとめ直し、多少文言をはっきりさせているけれど、要するに同じ。このように、今回の「改正」というものは全く「政治的な動きを追認しただけのもの」ではないか。今まで何度かの検定で、前記の教科書は毎回多数の検定意見を付けられてきた。単純な間違いも多かったけど、要するに「通説に反する」記述が多く、「理解できない記述である」などという意見を付けられてきた。それでも「大東亜戦争」などという記述がある。「大東亜戦争」は確かに当時の政府の呼び名ではあるが、戦後の日本政府の立場ではない。となると、次回からはこういう記述はなくなるんだろうか。保守系言論人は、今回の「改正」に反対しないのだろうか。まあ、しないのだろう。それは「文科省は新基準を恣意的に運用する」と信じているからだろう。
そもそも「通説があるかどうか」は誰が決めるんだろうか。それは「特定秘密保護法」で「そもそも何が秘密かが秘密」になっているのと似ている。「通説的な見解がない」と文科省の検定担当者が決める権限を持っているのだろうか。いや、今までもそのような問題で、何度も裁判が起こってきた。文科省の検定結果が覆されたこともある。しかし、検定基準に明記されれば、教科書執筆者は「文科省が何を通説と思い込んでいるか」を今以上に気にしなければならない。歴史学は自然科学と違い、誰もが目に見える形で実験することができない。史料は無数にあり、解釈次第では様々な説を立てることが可能である。「偏った見解」が一つでもあれば「通説がない」と文科省が言えてしまう。文科省に「ガリレオ裁判」における教皇庁のような「異端審問権」を与えてしまっていいのか。
「政府の統一的見解」を書けというのに至っては、やはり文科省は「考えない国民作り」をもくろんでいるんだなという証明である。原子力発電、家族のあり方、近隣諸国との歴史問題…などなどは、様々な考え方が教科書に掲載され、それを基に「考える授業」が展開されるようにするというのが、本来あるべき姿だろう。でも、政府自ら「統一的見解を覚え込めばいい」と考えているのである。いつの時代の話だ。まあ、これが安倍政権の教育政策なのである。これからどんどんこういう「改悪」がひんぱんに起こってくるのではないか。それでも「パブコメ」なるものがある限り、言うだけは伝えておきたいと思う。
*パブリック・コメントの結果も知らされないまま、1月17日に検定基準の「改正」が決められた。ホント、単なるアリバイ作りにしか過ぎなかった。
これは中学や高校の歴史、公民等の教科書をめぐる問題である。「教科書問題」というのは戦後何度か、保守系政党が問題視して起こって来た。ここ10数年は「新しい歴史教科書をつくる会」というのができて、扶桑社、育鵬社、あるいは自由社の中学歴史、公民教科書が作られてきた。(扶桑社は産経新聞の子会社で、育鵬社はさらに扶桑社の子会社。前記「つくる会」の分裂にともない、自由社版も作られている。)今までの中学教科書採択で、安倍晋三氏(首相)や下村博文氏(文科相)はこれらの教科書を支持してきた。そして、下村文科相が昨年11月25日に、教科用図書検定調査審議会総会に出席して、以下のような挨拶をしている。ちょっと面倒くさいが、引用しておきたい。(前記パブコメ画面の関連情報に紹介されている。)
○ 特に歴史については、光と影の部分があり、影の部分のみならず光の部分も含めてバランス良く教えることにより、子供たちが我が国の歴史について誇りと自信を持つことが重要であると考える。こうした観点から、検定基準については、特に社会科に関して、
・通説的な見解がない事柄を記述する場合や、特定の見解を強調して記述している場合などに、よりバランスの取れた記述にすること
・政府の統一的な見解や確定した判例がある場合には、それらに基づいた記述も取り上げられていること
といった内容を新たに盛り込むべきであると考える。
これを受けた審議会で検討され、以下のような変更案がまとまった。
① 未確定な時事的事象について記述する場合に、特定の事柄を強調し過ぎていたりするところはないことを明確化する。
② 近現代の歴史的事象のうち、通説的な見解がない数字などの事項について記述する場合には、通説的な見解がないことが明示され、児童生徒が誤解しないようにすることを定める。
③ 閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていることを定める。
まあ、じっくり比べるほどのものでもない。全く同じと言ってよい。大臣挨拶が2点になっているのを3項目にまとめ直し、多少文言をはっきりさせているけれど、要するに同じ。このように、今回の「改正」というものは全く「政治的な動きを追認しただけのもの」ではないか。今まで何度かの検定で、前記の教科書は毎回多数の検定意見を付けられてきた。単純な間違いも多かったけど、要するに「通説に反する」記述が多く、「理解できない記述である」などという意見を付けられてきた。それでも「大東亜戦争」などという記述がある。「大東亜戦争」は確かに当時の政府の呼び名ではあるが、戦後の日本政府の立場ではない。となると、次回からはこういう記述はなくなるんだろうか。保守系言論人は、今回の「改正」に反対しないのだろうか。まあ、しないのだろう。それは「文科省は新基準を恣意的に運用する」と信じているからだろう。
そもそも「通説があるかどうか」は誰が決めるんだろうか。それは「特定秘密保護法」で「そもそも何が秘密かが秘密」になっているのと似ている。「通説的な見解がない」と文科省の検定担当者が決める権限を持っているのだろうか。いや、今までもそのような問題で、何度も裁判が起こってきた。文科省の検定結果が覆されたこともある。しかし、検定基準に明記されれば、教科書執筆者は「文科省が何を通説と思い込んでいるか」を今以上に気にしなければならない。歴史学は自然科学と違い、誰もが目に見える形で実験することができない。史料は無数にあり、解釈次第では様々な説を立てることが可能である。「偏った見解」が一つでもあれば「通説がない」と文科省が言えてしまう。文科省に「ガリレオ裁判」における教皇庁のような「異端審問権」を与えてしまっていいのか。
「政府の統一的見解」を書けというのに至っては、やはり文科省は「考えない国民作り」をもくろんでいるんだなという証明である。原子力発電、家族のあり方、近隣諸国との歴史問題…などなどは、様々な考え方が教科書に掲載され、それを基に「考える授業」が展開されるようにするというのが、本来あるべき姿だろう。でも、政府自ら「統一的見解を覚え込めばいい」と考えているのである。いつの時代の話だ。まあ、これが安倍政権の教育政策なのである。これからどんどんこういう「改悪」がひんぱんに起こってくるのではないか。それでも「パブコメ」なるものがある限り、言うだけは伝えておきたいと思う。
*パブリック・コメントの結果も知らされないまま、1月17日に検定基準の「改正」が決められた。ホント、単なるアリバイ作りにしか過ぎなかった。