劇団燐光群公演「九月、東京の路上で」を22日に見た。下北沢のザ・スズナリで、8月5日まで上演。加藤直樹氏の同名の著書をもとに、劇団を主宰する坂手洋二が作・演出したもの。原作は関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺の現場を訪ね歩いた記録である。しかし、これはフィクションじゃなく、ドキュメントである。一体どうやって舞台化するんだろうか。

テーマに関心があるから、見に行かないわけにはいかない。燐光群も久しぶりだし、ザ・スズナリも久しぶりだが、何しろ猛暑なんで参った。21日がプレビュー公演だから、珍しく事実上の初演日に見に行った。それは原作者がアフタートークに出るだ。それに唯一の午後5時開演というのも良かった。2時開演だと一日がそれで終わるし、7時開演だと帰りが11時を回ってしまう。このぐらいの時間もいいかなと思う。
さて、劇が始まると本を持った出演者が出てきて、本の「まえがき」や最初に出てくる萩原朔太郎の詩を代わる代わる読み始める。えっ、群読なのという出だしだが、もちろん全部がそうじゃない。世田谷区の千歳烏山(ちとせからすやま)にある「烏山神社の椎の木」の話は、元の本でもとても印象的なエピソードだ。その話を使って、東京五輪に向け千歳烏山を活性化させようと集まる人々という設定を作った。彼らは地元に残る「椎の木」のエピソードを探り、朝鮮人虐殺があったことを知る。衝撃を受け他の現場も訪れるようになる。一方、その後神社に植えられたという13本の椎の木が今は4本しか残っていないのを知り、街を活性化する方策として残りの木を植えるアイディアを思いつく。しかし、この椎の木は何のために植えられたものだったか。
こうして原作をもとに13人の俳優たちが「市民」となって過去を探っていくのだが…。そこに突然舞台を異化する人物が現れる。ジョギングをしていた自衛官を名乗る人物が、歩いていた国会議員大西を「国民の敵」と罵倒するのである。これはもちろん、実際に起こった小西洋之参議院議員に対する実話がもとになっている。現役自衛官が野党議員に対し「国民の敵」と暴言を吐くという驚くべき出来事だった。しかし、僕もここで書かなかったし、もう忘れてる人も多いかもしれない。改めてほぼ当時の発言そのままという自衛官の言動を聞くと、過去に通じる恐ろしさが身に迫る。
この自衛官が一つの象徴となって、以後も2回ほど現れる。「大西」が現れる所を追いかけるかのように。これが演劇的には非常に効果をあげていると思う。リアルな設定かというと、どうもよく判らないけど、現在という地点で感じる何か「嫌な感じ」を浮き彫りにしている。アフタートークで坂手洋二が語ったように「代替り」「五輪」を経た時の日本は一体どのような恐ろしい社会になっているか、予想も出来ないということだ。その様子をまだ僕らははっきりと想像することができない。しかし、何だか見え始めている新しい時代を何とか感知しようというのが、この舞台だと思う。
加藤直樹さんの話でなるほどと思ったことがある。本に関して日本各地で講演に呼ばれたりするようになった。そうすると東京の地名が判らない、イメージが湧かないと言われるというのである。たしかに東京を始めとして関東各地で起こった事件ばかりだ。(中国人王希天や日本人が襲われた福田村事件も出てくる。)それは当然と言えば当然で、関東大震災の話なんだからやむを得ない。でも日本全国の話ではなく、首都圏の問題だったということに気づかされた。
例えば後に有名な俳優となり、俳優座を結成する千田是也(せんだ・これや)の芸名は、震災時に千駄ヶ谷で朝鮮人と間違われて殺されかけたというエピソードから取られている。「千駄ヶ谷のコリアン」である。その体験を忘れないようにと付けた。これは有名な話なんだけど、確かに「千駄ヶ谷」という地名(というか駅名)の喚起するイメージがこのエピソードには付いて回る。(日本棋院のあるとこだが、建設中の国立競技場や東京体育館など「五輪の中心」になる場所だ。)
ドラマとして成功しているかは、僕にはよく判らない。原作を読んでるし、東京東部の学校で授業でも取り上げてきたテーマだから、知ってると言えば知ってる話である。早めに下北沢に行ったらどこのお店もいっぱいで猛暑にゲンナリした。あまりの暑さで、ちょっとボっとして見た気がする。でも、これは劇を見るという意味ではなく、日本の「いま」と「これから」を予感するためには絶対に見ておくべき劇だ。あまり詳しくない人は、原作もぜひチャレンジを。

テーマに関心があるから、見に行かないわけにはいかない。燐光群も久しぶりだし、ザ・スズナリも久しぶりだが、何しろ猛暑なんで参った。21日がプレビュー公演だから、珍しく事実上の初演日に見に行った。それは原作者がアフタートークに出るだ。それに唯一の午後5時開演というのも良かった。2時開演だと一日がそれで終わるし、7時開演だと帰りが11時を回ってしまう。このぐらいの時間もいいかなと思う。
さて、劇が始まると本を持った出演者が出てきて、本の「まえがき」や最初に出てくる萩原朔太郎の詩を代わる代わる読み始める。えっ、群読なのという出だしだが、もちろん全部がそうじゃない。世田谷区の千歳烏山(ちとせからすやま)にある「烏山神社の椎の木」の話は、元の本でもとても印象的なエピソードだ。その話を使って、東京五輪に向け千歳烏山を活性化させようと集まる人々という設定を作った。彼らは地元に残る「椎の木」のエピソードを探り、朝鮮人虐殺があったことを知る。衝撃を受け他の現場も訪れるようになる。一方、その後神社に植えられたという13本の椎の木が今は4本しか残っていないのを知り、街を活性化する方策として残りの木を植えるアイディアを思いつく。しかし、この椎の木は何のために植えられたものだったか。
こうして原作をもとに13人の俳優たちが「市民」となって過去を探っていくのだが…。そこに突然舞台を異化する人物が現れる。ジョギングをしていた自衛官を名乗る人物が、歩いていた国会議員大西を「国民の敵」と罵倒するのである。これはもちろん、実際に起こった小西洋之参議院議員に対する実話がもとになっている。現役自衛官が野党議員に対し「国民の敵」と暴言を吐くという驚くべき出来事だった。しかし、僕もここで書かなかったし、もう忘れてる人も多いかもしれない。改めてほぼ当時の発言そのままという自衛官の言動を聞くと、過去に通じる恐ろしさが身に迫る。
この自衛官が一つの象徴となって、以後も2回ほど現れる。「大西」が現れる所を追いかけるかのように。これが演劇的には非常に効果をあげていると思う。リアルな設定かというと、どうもよく判らないけど、現在という地点で感じる何か「嫌な感じ」を浮き彫りにしている。アフタートークで坂手洋二が語ったように「代替り」「五輪」を経た時の日本は一体どのような恐ろしい社会になっているか、予想も出来ないということだ。その様子をまだ僕らははっきりと想像することができない。しかし、何だか見え始めている新しい時代を何とか感知しようというのが、この舞台だと思う。
加藤直樹さんの話でなるほどと思ったことがある。本に関して日本各地で講演に呼ばれたりするようになった。そうすると東京の地名が判らない、イメージが湧かないと言われるというのである。たしかに東京を始めとして関東各地で起こった事件ばかりだ。(中国人王希天や日本人が襲われた福田村事件も出てくる。)それは当然と言えば当然で、関東大震災の話なんだからやむを得ない。でも日本全国の話ではなく、首都圏の問題だったということに気づかされた。
例えば後に有名な俳優となり、俳優座を結成する千田是也(せんだ・これや)の芸名は、震災時に千駄ヶ谷で朝鮮人と間違われて殺されかけたというエピソードから取られている。「千駄ヶ谷のコリアン」である。その体験を忘れないようにと付けた。これは有名な話なんだけど、確かに「千駄ヶ谷」という地名(というか駅名)の喚起するイメージがこのエピソードには付いて回る。(日本棋院のあるとこだが、建設中の国立競技場や東京体育館など「五輪の中心」になる場所だ。)
ドラマとして成功しているかは、僕にはよく判らない。原作を読んでるし、東京東部の学校で授業でも取り上げてきたテーマだから、知ってると言えば知ってる話である。早めに下北沢に行ったらどこのお店もいっぱいで猛暑にゲンナリした。あまりの暑さで、ちょっとボっとして見た気がする。でも、これは劇を見るという意味ではなく、日本の「いま」と「これから」を予感するためには絶対に見ておくべき劇だ。あまり詳しくない人は、原作もぜひチャレンジを。
