尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「百姓一揆」とは何だったのか

2018年12月27日 22時41分55秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波新書の若尾政希「百姓一揆」を読んだのをきっかけに、「応仁の乱」を書いた呉座勇一のデビュー作「一揆の原理」(ちくま学芸文庫)も読んでみた。一般にはまだ「一揆」を「反乱」とか「抵抗運動」と思い込んでる人がいるかもしれない。岩波新書で勝俣鎮夫「一揆」が出たのが1982年。もう35年以上も前になる。歴史に関心を持つ人なら「一揆」とは「一つにまとまること」だと知ってるだろう。
 
 一揆の「」を検索すると、「やりかた」とか「方法」という意味だと出てくる。やり方を一つにするから「一揆」である。今は法治国家だから、法に基づく契約で会社などが成り立っている(はずである)。弱い立場にあるものも「協同組合」などを結成して「一つにまとまる」が、それも契約行為として行われる。前近代ではそういう法的保証に代わるものは、神仏に対する誓約になる。だから、一揆を結ぶときには神社などに集結して「一味神水」などの儀式を行う。

 1485年に有名な「山城の国一揆」が起きる。応仁の乱後も内紛を続ける守護の畠山氏両派に対して、山城(京都府南部)の国人(有力な地侍)が一致団結して畠山氏軍勢を追放した事態が起きた。必ず教科書に出てくる大事件だが、「有力守護大名に対する国人層の抵抗」が一揆なんじゃなくて、同じ立場にある国人層が「一致団結」することが一揆と呼ばれるものだったのである。

 江戸時代になると「百姓一揆」が頻発する。これも昔は誤解があり、「竹槍と蓆(むしろ)旗」を掲げて農民が城下に押し寄せると思われていた。そもそも「竹槍と蓆旗」が間違いなんだそうである。先の戦争中に「竹槍訓練」なんかやらされた記憶から、米軍が重火器を持つのに竹槍では戦えないというイメージがある。しかし相手が銃で武装していない場合、竹槍には強い殺傷能力があるという。そういうものは江戸時代の農民はあえて使わなかった。じゃあなんで「竹槍と蓆旗」なのかというと、これが自由民権運動期の「創られた伝統」なのである。

 マルクス主義歴史観(唯物史観)によれば、歴史は階級闘争を通して発展する。古代から中世への変動は、新興武士階級が貴族階級の堕落を打ち破って起きたとする。(武士の実態がそんなものではなかったことは今まで何回か書いてきた。)近世においても被支配階級の農民による「階級闘争」が百姓一揆なんだという理論が昔はあった。変革の主体を探して日本中の百姓一揆が研究されたけど、どこでもそんなものは見つからなかった。百姓一揆は階級闘争なんかじゃなかったのである。

 それはムラ共同体を守るためのものであり、領主階級を打破するのではなく、「名君」による「仁慈」を発動するための政治的装置だということになる。もちろん被支配階級が支配者の政治(仕置)に口をはさむのは「御法度」である。よって百姓一揆が起きれば、責任者の厳しい処罰が待っている。それはムラの犠牲者ということになる。次の時代を切り開く先覚者ではなく、犠牲者として村人に祀られる存在となる。今までは百姓一揆物語ではない当時の文書をもとに研究されていたが、実はそれも「書式」に基づいて書かれているという。

 そこで著者は「物語」の構造分析を主に行っていく。この本に「有名百姓一揆事件史」を期待するとあてが外れる。ほとんど実際の事件経過が出て来ない。近世史理解も大きく変わっていく感じで、儒学に対する見方など多くの新しい知識を得ることができた。呉座著に触れる余裕がないが、この本も面白い。SNSと一揆の相似性など今になるとどうかと思う見解も多いが、ある種の「若書きの魅力」がある。当時も「一揆」とは呼ばれなかった「強訴」(比叡山の僧兵が京都に下りてきて院に強硬に要求するようなこと)も「一揆」的な性格を持つと分析されてる。それも興味深い。現在では「一揆」にあたるものは何だろうかなど、いろいろと考えさせられた。
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