尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

舞台「海辺のカフカ」に深い感銘

2019年05月23日 22時56分48秒 | 演劇
 赤坂ACTシアターで上演中の「海辺のカフカ」を見て、深い感銘を受けた。(6.9まで。)全員じゃないけど、久方ぶりにスタンディング・オベーションを見たから、観客もかなり満足したんだと思う。「海辺のカフカ」はもちろん村上春樹が2002年に発表した長編小説である。2012年に蜷川幸雄の演出でさいたま芸術劇場で日本初演された。「海辺のカフカ」は刊行直後に読んだときから好きな小説なんだけけど、さいたまは遠いから見なかった。2014年に東京でも再演されたが、ここでも見逃して、今回が初めて。今回はパリの「ジャポニズム2018」で公演され、今回が東京凱旋公演とうたっている。

 ちょっとキャストを確認しておく。後半で中心的な役割を演じる、高松の不思議な図書館の管理をしている女性「佐伯」は、初演が田中裕子、続いて宮沢りえ、今回は寺島しのぶ。高い席から見てるので、誰でもよく判らないんだけど、もともと舞台の寺島しのぶはうまいと思ってる。非常に良かったと思う。その図書館の司書は初演が長谷川博巳、次が藤木直人、今回が岡本健一。主役である「世界で一番タフな15歳」の田村カフカ少年は、初演が柳楽優弥だったが、再演からオーディションで選ばれた古畑新之(ふるはた・にいの、1991~)が務めている。素晴らしい存在感で要注目である。

 演出は初演時と同じく、すでに亡くなってはいるが蜷川幸雄がクレジットされている。脚本は誰だろうかと思うと、アメリカ人のフランク・ギャラティという人で、2008年にアメリカで初演されていた。村上春樹の長編小説には、二つの違った世界の物語を並行して描く話が多い。舞台の「海辺のカフカ」は、そのような原作の構造をそのまま生かしている。じゃあ、どうやって舞台化するのか、回り舞台でも使うのかと思ったら、全然違った。舞台にいくつもの透明のアクリル板で囲まれた小空間が存在する。(前面だけは開いている。)それらに車が付いていて、黒子が話が変わるたびにアクリル板空間を動かすのである。これは原作の透明感をうまく可視化するとともに、世界がいくつもの別個の小宇宙で構成されているという世界観を示しているようで、非常に面白かった。

 原作がそうなんだから仕方ないとはいえ、突飛な話がコロコロ入れ替わる。もし原作を知らない人が初めて見たらそう思うのかは判らない。僕は原作で大好きな、猫語を話せるナカタ老人木場勝己のさすがと言うべき忘れがたい名演)、トラック運転手の星野青年(高橋努)の絡みが素晴らしく面白かった。原作で忘れられないカーネル・サンダースもちゃんと「正装」で出てくる。原作だと「オイディプス王」だなと思うと同時に、「源氏物語」や「雨月物語」だなと思う箇所も多かったと思う。でもアメリカ人による脚本だからかと思うが、そういう日本の怪異イメージはほとんど見えてこない。

 その結果、ナカタ老人パートは象徴的イメージが弱まり、田村カフカ少年パートの持つ意味がくっきりと浮かび上がる。日本でもますます重大な問題と意識されている「被虐待少年」がいかに「自己の尊厳」を見つけ出すか。そして「ゆるし」を経て生き直せるかという現代人にとっての大テーマである。象徴的な意味での母、父を乗り越えて、ようやく少年に「自立」へ向かう道が開かれる。それは非常に感銘深く、この物語がまさに今を描いていると思った。

 原作では佐伯が昔書いた詩に曲を付けた「海辺のカフカ」が大ヒットしたとされている。その歌詞にある「入り口の石」を通して二つのパートは入り組みながら関連している。その曲が実際に歌われるんだけど、まあこれはどうなんだろうと思わないでもない。また村上春樹が早稲田大学在学中に起こった革マル派による「川口君殺害事件」の影が非常に濃いことに改めて強い印象を受けた。「連合赤軍事件」に大きな影響を受けた作家に大江健三郎や立松和平らがいる。村上春樹は後のオウム真理教事件(地下鉄サリン事件)との関わりが印象に強いけれど、同時代に起きた「内ゲバ」事件のもたらした衝撃も忘れてはいけないんだろうと思った。
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