アレクサンドル・デュマ・ペール(Alexandre Dumas、père、1802~1870)の「モンテ・クリスト伯」(Le Comte de Monte-Cristo、山内義雄訳)全7巻を読み終わった。ちなみに今書いた「ペール」は「父」という意味。「椿姫」の作者として有名な同名の息子は、「アレクサンドル・デュマ・フィス」(息子)と呼ぶ。あるいは「大デュマ」「小デュマ」と言ったりする。読んだのは大デュマの方である。
「モンテ・クリスト伯」は大長編で、4月28日に読み始めて5月10日に読み終わった。1冊が4百頁を超えるので、全部で3千頁ほど。13日間で読んだから、平均して一巻に2日掛かってない。最初はちょっともたついたけど、4巻、5巻あたりでスピードに乗った。登場人物になじみが出て、作者の構想も予測できるようになってくる。面白いのは間違いないけど、今となると中身も翻訳も相当古い。
読んでみた感想を簡単に。「モンテ・クリスト伯」は1844年から1846年にかけてフランスの大手新聞に連載され、続けて出版された。「ダルタニャン物語」(第一部が有名な「三銃士」)に次ぐ一大エンターテインメント小説である。大デュマの小説は大ベストセラーになり、「モンテ・クリスト城」という豪邸を建てた。書かれたのは七月王政末期の頃で、内容は1815年のナポレオン「百日天下」の頃に始まり、23年後のパリで進行する。つまり「復古王政」時代の物語だ。
僕は「モンテ・クリスト伯」が無実の囚人の復讐物語だとは知っていたが、詳しい内容は知らなかった。単なる刑事事件ではなくて、主人公エドモン・ダンテスは「無実の政治犯」だった。しかも復古王政派からナポレオン派(ボナパルティスト)と目され、裁判も経ずに重罪犯監獄島の地下牢に収容された。昔日本で「吉田巌窟王事件」と呼ばれた事件がある。1913年に起きた殺人事件で無期懲役が確定した吉田石松が半世紀後の1963年に再審で無罪判決を受けた。「巌窟王」(がんくつおう)というのは、明治時代に黒岩涙香が「モンテ・クリスト伯」を訳したときの題名。だから、僕は本家の「モンテ・クリスト伯」も無実が証明される話かと思っていたが、そもそもエドモン・ダンテスは有罪判決を受けてない。
だから、この小説の時代設定は重大である。フランス革命からナポレオンの帝政、ナポレオンの没落と「百日天下」、復古王政、七月革命というフランス史の大激動が背景になっている。大デュマは若い頃は恵まれなかったが、オルレアン公ルイ=フィリップ(1830年の七月革命後の国王)の秘書室に勤めて世に出た。大デュマの出自は複雑で、ちょっとビックリしたんだけど、軍人だった父親はカリブ海のハイチでフランス貴族と黒人奴隷の間に生まれた。そのことで孫の代の大デュマも人種差別を受けていたという。だから復古王政に批判的で、ナポレオンに同情的な感じがある。復古王政期には書けなかった話で、七月王政末期になって昔を振り返ることが出来るから成立している。
(アレクサンドル・デュマ・ペール)
ただ復讐するんだったら付け狙って殺せばいいわけだが、そうじゃなくてエドモン・ダンテスは巧みに仕組んで自滅を誘う。主要な敵は3人いる。事件をもみ消してダンテスを投獄した検事代理が、検事総長になっているのはまあ理解可能だ。でもその当時は船の会計士や漁民だったのが、突き止めてみればどっちも貴族になってる。村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、付き合いが途絶えた高校時代の友人数名を10数年後に訪ねる。それなりに生きているけど、いくら何でも国会議員になったり大社長になったりはしてない。そんな設定だったら現実感がなくなる。今じゃありえない階級変動が激動のフランスではあり得たのだ。戦争と革命の連続だから、付く側を間違えなければ出世し、間違えれば没落する。
エドモン・ダンテスは14年後に脱獄し、その後モンテ・クリスト島なる岩礁で巨万の宝を見つける。その後島を買い取り、「モンテ・クリスト伯」なる称号を名乗る。そして東方で何年か多くの体験を積み(化学や毒物の知識が半端じゃない)、ローマの山賊も彼の手下にある。そして満を持してパリに乗り込み、社交界の花形となる。そして何人もの人物になりすまし、復讐を仕込んでいく。それは「コン・ゲーム」(信用詐欺 confidence game)みたいな内容だ。「モンテ・クリスト伯」が面白いというのは、復古王政期の上層階級の内情をあからさまに描き出しながら「コン・ゲーム」を仕掛けていくからだろう。
上流階級のスキャンダルはいつの時代も大人気だ。単なる復讐じゃなくて、そっちが人気の理由だと思う。しかし復讐する以上は、それは「神の報い」とされる。だがさすがに大エンタメ作家のデュマである。登場人物が作者のロボットに止まらず、どんどん物語が自動展開していく。そこでどこまで復讐するべきなのかという問題が起きる。「赦し」はありうるのか。基本は勧善懲悪の物語で、それは日本の曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」と似ている。「八犬伝」は1814年から1842年までに書かれたから、ほとんど同時代である。しかし、フランスでは政治変動や宗教的な赦しの問題が正面から問われることが日本と違うところだと思った。
なお、小説内に日本がいっぱい出てくることに驚いた。まだ日仏国交はない時代である。オランダ東インド会社によって輸出された日本の陶磁器がフランスでも珍重された様子がうかがえる。まだ浮世絵なんかは入ってない。しかし後のジャポニズム流行の素地がすでに形成されていたのかと思う。
「モンテ・クリスト伯」は大長編で、4月28日に読み始めて5月10日に読み終わった。1冊が4百頁を超えるので、全部で3千頁ほど。13日間で読んだから、平均して一巻に2日掛かってない。最初はちょっともたついたけど、4巻、5巻あたりでスピードに乗った。登場人物になじみが出て、作者の構想も予測できるようになってくる。面白いのは間違いないけど、今となると中身も翻訳も相当古い。
読んでみた感想を簡単に。「モンテ・クリスト伯」は1844年から1846年にかけてフランスの大手新聞に連載され、続けて出版された。「ダルタニャン物語」(第一部が有名な「三銃士」)に次ぐ一大エンターテインメント小説である。大デュマの小説は大ベストセラーになり、「モンテ・クリスト城」という豪邸を建てた。書かれたのは七月王政末期の頃で、内容は1815年のナポレオン「百日天下」の頃に始まり、23年後のパリで進行する。つまり「復古王政」時代の物語だ。
僕は「モンテ・クリスト伯」が無実の囚人の復讐物語だとは知っていたが、詳しい内容は知らなかった。単なる刑事事件ではなくて、主人公エドモン・ダンテスは「無実の政治犯」だった。しかも復古王政派からナポレオン派(ボナパルティスト)と目され、裁判も経ずに重罪犯監獄島の地下牢に収容された。昔日本で「吉田巌窟王事件」と呼ばれた事件がある。1913年に起きた殺人事件で無期懲役が確定した吉田石松が半世紀後の1963年に再審で無罪判決を受けた。「巌窟王」(がんくつおう)というのは、明治時代に黒岩涙香が「モンテ・クリスト伯」を訳したときの題名。だから、僕は本家の「モンテ・クリスト伯」も無実が証明される話かと思っていたが、そもそもエドモン・ダンテスは有罪判決を受けてない。
だから、この小説の時代設定は重大である。フランス革命からナポレオンの帝政、ナポレオンの没落と「百日天下」、復古王政、七月革命というフランス史の大激動が背景になっている。大デュマは若い頃は恵まれなかったが、オルレアン公ルイ=フィリップ(1830年の七月革命後の国王)の秘書室に勤めて世に出た。大デュマの出自は複雑で、ちょっとビックリしたんだけど、軍人だった父親はカリブ海のハイチでフランス貴族と黒人奴隷の間に生まれた。そのことで孫の代の大デュマも人種差別を受けていたという。だから復古王政に批判的で、ナポレオンに同情的な感じがある。復古王政期には書けなかった話で、七月王政末期になって昔を振り返ることが出来るから成立している。
(アレクサンドル・デュマ・ペール)
ただ復讐するんだったら付け狙って殺せばいいわけだが、そうじゃなくてエドモン・ダンテスは巧みに仕組んで自滅を誘う。主要な敵は3人いる。事件をもみ消してダンテスを投獄した検事代理が、検事総長になっているのはまあ理解可能だ。でもその当時は船の会計士や漁民だったのが、突き止めてみればどっちも貴族になってる。村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、付き合いが途絶えた高校時代の友人数名を10数年後に訪ねる。それなりに生きているけど、いくら何でも国会議員になったり大社長になったりはしてない。そんな設定だったら現実感がなくなる。今じゃありえない階級変動が激動のフランスではあり得たのだ。戦争と革命の連続だから、付く側を間違えなければ出世し、間違えれば没落する。
エドモン・ダンテスは14年後に脱獄し、その後モンテ・クリスト島なる岩礁で巨万の宝を見つける。その後島を買い取り、「モンテ・クリスト伯」なる称号を名乗る。そして東方で何年か多くの体験を積み(化学や毒物の知識が半端じゃない)、ローマの山賊も彼の手下にある。そして満を持してパリに乗り込み、社交界の花形となる。そして何人もの人物になりすまし、復讐を仕込んでいく。それは「コン・ゲーム」(信用詐欺 confidence game)みたいな内容だ。「モンテ・クリスト伯」が面白いというのは、復古王政期の上層階級の内情をあからさまに描き出しながら「コン・ゲーム」を仕掛けていくからだろう。
上流階級のスキャンダルはいつの時代も大人気だ。単なる復讐じゃなくて、そっちが人気の理由だと思う。しかし復讐する以上は、それは「神の報い」とされる。だがさすがに大エンタメ作家のデュマである。登場人物が作者のロボットに止まらず、どんどん物語が自動展開していく。そこでどこまで復讐するべきなのかという問題が起きる。「赦し」はありうるのか。基本は勧善懲悪の物語で、それは日本の曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」と似ている。「八犬伝」は1814年から1842年までに書かれたから、ほとんど同時代である。しかし、フランスでは政治変動や宗教的な赦しの問題が正面から問われることが日本と違うところだと思った。
なお、小説内に日本がいっぱい出てくることに驚いた。まだ日仏国交はない時代である。オランダ東インド会社によって輸出された日本の陶磁器がフランスでも珍重された様子がうかがえる。まだ浮世絵なんかは入ってない。しかし後のジャポニズム流行の素地がすでに形成されていたのかと思う。