2020年11月は上旬に大きな訃報が報じられず、今月はこのまま行くのかなと思っていたら、やはりそういうわけにはいかなかった。11月12日、物理学者小柴昌俊が亡くなった。94歳。1987年に自らが設計を指導したカミオカンデで太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した。その業績で2002年に「天体物理学への先駆的貢献、特に宇宙ニュートリノの検出」でノーベル物理学賞を受賞した。ノーベル賞の賞金で「平成基礎科学財団」を設立して全国を飛び回って若い世代の支援を行った。そして高齢になった2017年に財団を解散した。この出処進退は見事。1945年に旧制一高に入学した。ノーベル賞受賞時に、一高の寮仲間松下康雄日銀総裁と上田耕一郎共産党副委員長が小柴を囲んで祝宴を開いたという。これが旧制高校文化だ。
(ノーベル賞受賞時の小柴昌俊)
同じく12日に、歌舞伎俳優の4代目坂田藤十郎が死去。88歳。1931年12月31日に2代目中村鴈治郎の長男として生まれた。妹が中村玉緒。1941年に2代目中村扇雀を襲名。武智鉄二の実験的歌舞伎や近松門左衛門の「曽根崎心中」のお初で知られ、関西では後になっても「扇雀(せんじゃく)はん」と呼ぶ人がいるぐらい大人気となった。一時松竹を離れて、東宝映画の専属になった時があって、堀川弘通監督「女殺し油地獄」などの映画で扇雀時代の輝きを知ることが出来る。その時代に宝塚女優の扇千景と知り合って結婚した。後の参議院議長である。
(扇千景との婚約会見)
2代目鴈治郎も有名で、小津安二郎監督「浮草」「小早川家の秋」など多くの映画に出演していたから今も見ることが出来る。1983年に2代目が亡くなって、1990年に扇雀が3代目鴈治郎を継いだ。これは既定路線だろうが、2005年に上方歌舞伎の大名跡、坂田藤十郎を約300年ぶりに継いだのにはビックリした。それも当然と思わせる役者ではあった。イギリスでローレンス・オリヴィエから日本には劇作家の名前の付いた劇団があるかと問われて、帰国後に「近松座」を結成したという。僕は歌舞伎はほとんど見たことがなくて、結局この人をナマで見た体験はない。
(4代目坂田藤十郎)
東映グループ会長で、元俳優の岡田裕介が18日に死去、71歳。その日まで普通に仕事をしていて、突然急性大動脈解離で死去した。若い時の俳優時代を知っているので、非常に驚いた。父親は東映社長だった岡田茂だが、東宝にスカウトされ東宝青春映画のスターになった。デビュー作は庄司薫の芥川賞受賞作「赤ずきんちゃん気をつけて」で、都立日比谷高校生の役だが本人も日比谷高校出身だった。僕はその時点では見ていないが、同じ庄司薫原作の映画「白鳥の歌なんか聞こえない」(1972)は見た。(「忍ぶ川」の併映作品だった。)岡本喜八監督「吶喊」(とっかん)で製作者を兼務、やがてプロデューサー専属になって、いつの間にか東映に入社して社長になっていた。当時石坂浩二に似ていると評判だったが、今見ても似てると思う。
(岡田裕介、2枚目は「赤ずきんちゃん気をつけて」)
漫画家の矢口高雄が20日死去、81歳。1973年から「釣りキチ三平」の連載を開始、釣りブームを呼んだ。ツチノコブームを起こした「幻の怪蛇バチヘビ」や狩猟に生きる人々の「マタギ」なども。エッセイの「ボクの学校は山と川」「ボクの先生は山と川」も話題となり教科書に掲載された。故郷の秋田県横手市に「横手市増田まんが美術館」がある。
(矢口高雄)
茨城県の高校野球監督として、春夏の甲子園で優勝経験がある木内幸男が24日死去、89歳。土浦一高の卒業生で、1953年に土浦一高監督となった。57年に取手二高の監督となり、77年に初出場。84年夏にPL学園を破って初優勝した。直後に常総学院の監督に就任し、87年に初出場で準優勝。2001年春の選抜で優勝、2003年夏にも優勝した。「木内マジック」と呼ばれた采配で知られ、甲子園での戦績が40勝19敗という凄い記録を持っている。
(木内幸男、2枚目は取手二高で全国制覇)
アルゼンチンの元サッカー選手、ディエゴ・マラドーナが25日に死去。60歳だった。特に1986年のワールドカップ・メキシコ大会準々決勝の対イングランド戦における「5人抜き」「神の手ゴール」が伝説となった。1983年にアルゼンチンは「フォークランド戦争」でイギリスに敗北していたことも国民の熱狂の背景にあった。この年アルゼンチンは優勝し、マラドーナはMVPに選ばれた。
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選手としては16歳からアルゼンチンで活躍し、特に84年から91年までイタリアのナポリで活躍した。最近は薬物中毒のニュースが多く、体型も変わってしまった。アルゼンチンではうまく行かない経済状況(国家経済が二度破綻した)とマラドーナの人生が重なるように見られていた。キューバのカストロとも親交があり、単なるサッカー選手を超えた存在だったとされる。(もっとも僕は86年当時はテレビを持っていなかったので、映像で見たのはかなり後のことだ。)
(マラドーナ、3枚目が「5人抜き」)
・熊本典道、元裁判官、11日死去、83歳。静岡県の清水事件(袴田事件)一審を担当して、無罪の心証を持ちながら、合議で否定され死刑判決を下した。その後退官し弁護士となったが、ほとんど人生を狂わされてしまった。21世紀になって、このことを告白し再審請求を支援していた。
・安里要江(あさと・よしえ)、12日死去、99歳。沖縄戦の「語り部」として活動し、体験記が「GAMA 月桃の花」として映画化された。
・幸田弘子、24日死去、88歳。俳優。特に樋口一葉や源氏物語などの朗読で知られた。
・デヴィッド・ブラウス、28日死去、85歳。「スター・ウォーズ」シリーズで初代ダース・ベイダーを演じた。
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同じく12日に、歌舞伎俳優の4代目坂田藤十郎が死去。88歳。1931年12月31日に2代目中村鴈治郎の長男として生まれた。妹が中村玉緒。1941年に2代目中村扇雀を襲名。武智鉄二の実験的歌舞伎や近松門左衛門の「曽根崎心中」のお初で知られ、関西では後になっても「扇雀(せんじゃく)はん」と呼ぶ人がいるぐらい大人気となった。一時松竹を離れて、東宝映画の専属になった時があって、堀川弘通監督「女殺し油地獄」などの映画で扇雀時代の輝きを知ることが出来る。その時代に宝塚女優の扇千景と知り合って結婚した。後の参議院議長である。
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2代目鴈治郎も有名で、小津安二郎監督「浮草」「小早川家の秋」など多くの映画に出演していたから今も見ることが出来る。1983年に2代目が亡くなって、1990年に扇雀が3代目鴈治郎を継いだ。これは既定路線だろうが、2005年に上方歌舞伎の大名跡、坂田藤十郎を約300年ぶりに継いだのにはビックリした。それも当然と思わせる役者ではあった。イギリスでローレンス・オリヴィエから日本には劇作家の名前の付いた劇団があるかと問われて、帰国後に「近松座」を結成したという。僕は歌舞伎はほとんど見たことがなくて、結局この人をナマで見た体験はない。
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東映グループ会長で、元俳優の岡田裕介が18日に死去、71歳。その日まで普通に仕事をしていて、突然急性大動脈解離で死去した。若い時の俳優時代を知っているので、非常に驚いた。父親は東映社長だった岡田茂だが、東宝にスカウトされ東宝青春映画のスターになった。デビュー作は庄司薫の芥川賞受賞作「赤ずきんちゃん気をつけて」で、都立日比谷高校生の役だが本人も日比谷高校出身だった。僕はその時点では見ていないが、同じ庄司薫原作の映画「白鳥の歌なんか聞こえない」(1972)は見た。(「忍ぶ川」の併映作品だった。)岡本喜八監督「吶喊」(とっかん)で製作者を兼務、やがてプロデューサー専属になって、いつの間にか東映に入社して社長になっていた。当時石坂浩二に似ていると評判だったが、今見ても似てると思う。
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漫画家の矢口高雄が20日死去、81歳。1973年から「釣りキチ三平」の連載を開始、釣りブームを呼んだ。ツチノコブームを起こした「幻の怪蛇バチヘビ」や狩猟に生きる人々の「マタギ」なども。エッセイの「ボクの学校は山と川」「ボクの先生は山と川」も話題となり教科書に掲載された。故郷の秋田県横手市に「横手市増田まんが美術館」がある。
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茨城県の高校野球監督として、春夏の甲子園で優勝経験がある木内幸男が24日死去、89歳。土浦一高の卒業生で、1953年に土浦一高監督となった。57年に取手二高の監督となり、77年に初出場。84年夏にPL学園を破って初優勝した。直後に常総学院の監督に就任し、87年に初出場で準優勝。2001年春の選抜で優勝、2003年夏にも優勝した。「木内マジック」と呼ばれた采配で知られ、甲子園での戦績が40勝19敗という凄い記録を持っている。
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アルゼンチンの元サッカー選手、ディエゴ・マラドーナが25日に死去。60歳だった。特に1986年のワールドカップ・メキシコ大会準々決勝の対イングランド戦における「5人抜き」「神の手ゴール」が伝説となった。1983年にアルゼンチンは「フォークランド戦争」でイギリスに敗北していたことも国民の熱狂の背景にあった。この年アルゼンチンは優勝し、マラドーナはMVPに選ばれた。
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選手としては16歳からアルゼンチンで活躍し、特に84年から91年までイタリアのナポリで活躍した。最近は薬物中毒のニュースが多く、体型も変わってしまった。アルゼンチンではうまく行かない経済状況(国家経済が二度破綻した)とマラドーナの人生が重なるように見られていた。キューバのカストロとも親交があり、単なるサッカー選手を超えた存在だったとされる。(もっとも僕は86年当時はテレビを持っていなかったので、映像で見たのはかなり後のことだ。)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/92/1be94381c54110f674cf4885a6b5e05a_s.jpg)
・熊本典道、元裁判官、11日死去、83歳。静岡県の清水事件(袴田事件)一審を担当して、無罪の心証を持ちながら、合議で否定され死刑判決を下した。その後退官し弁護士となったが、ほとんど人生を狂わされてしまった。21世紀になって、このことを告白し再審請求を支援していた。
・安里要江(あさと・よしえ)、12日死去、99歳。沖縄戦の「語り部」として活動し、体験記が「GAMA 月桃の花」として映画化された。
・幸田弘子、24日死去、88歳。俳優。特に樋口一葉や源氏物語などの朗読で知られた。
・デヴィッド・ブラウス、28日死去、85歳。「スター・ウォーズ」シリーズで初代ダース・ベイダーを演じた。