滝口悠生『高架線』(講談社文庫)が素晴らしく面白かった。2017年に刊行された長編小説だが、非常に不思議な設定と語り口が一読忘れられない。滝口悠生(たきぐち・ゆうしょう、1982~)は2016年に『死んでいない者』で芥川賞を受賞した若手作家である。その受賞作が非常に面白かったので、他の作品も読んで「滝口悠生の小説を読む」(2019.11.9)を以前書いたことがある。他の作品とはその当時文庫化されていた『ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス』と『愛と人生』である。後者の作品はなんと「男はつらいよ」の純文学という実に不思議な本だった。

今度読んだ『高架線』は、帯の言葉を引用すると「西武池袋線東長崎から徒歩五分」「風呂トイレつき、家賃三万円」「部屋を出るときは、次の入居者を探すのがルールの古アパート」である『「かたばみ荘」二号室の十人をめぐる一六年の物語』である。東長崎はもちろん実在する駅で、西武池袋線で池袋から椎名町に続く2駅目。ここまでが豊島区で、次の江古田から練馬区になる。東長崎があるなら西もあるかというと、それは長崎県の長崎である。混同しないように駅名に東を付けた。多磨地区にある東久留米と同じである。もともとこの地域を長崎と言うが、鎌倉時代に長崎氏の領地だったからだという。
(東長崎駅南口)
この小説は2001年から始まっている。21世紀の話だ。ボロとはいえ、23区内、それも繁華街の池袋に近いアパートが3万円とは異常に安い。しかも、不動産屋を通すことなく、住人が次の住人を探す方式で入居者が決まる。だから敷金礼金もなし。いくら何でもおかしくないか。このボロアパートの2号室の住人ばかりを描く小説である。この「部屋小説」という意味では長嶋有『三の隣は五号室』を思い出した。しかし、『高架線』はその題名で判るように、西武池袋線沿線をめぐる物語という言い方も出来る。
昨日朝倉摂展を見に練馬区立美術館に行ったが、最寄り駅の中村橋は高架になっている。桜台から石神井公園までが高架になっているという。江古田までは地上を走っていて、だから東長崎は高架じゃない。だけど、語り手の一人が所沢出身なのである。西武鉄道は新宿線と池袋線があるが(他にもあるけど、東京中心部に向かう主要線はこの2つ)、池袋線はその先に所沢(西武球場がある)、さらに飯能があり、秩父まで通じている。滝口悠生は埼玉県入間市で育ち、所沢高校を卒業しているから、西武線に乗って高架線から東京の風景を見る描写は自分の経験でもあるだろう。
(滝口悠生)
冒頭が「新井田千一です」と始まる。名前の読みは「あらいだ・せんいち」。普通はこんな始まりはしないだろう。「新井田千一は…」と始まったり、一人称で「私(僕、俺など)は…」と語ることはある。この本の始まり方は読者に直接語っているドキュメンタリー映画みたいだ。実はこの語り方が最後まで続くのである。語り手は変わる。七見歩、七見奈緒子、峠茶太郎、木下目見(まみ)、日暮純一、日暮皆美と都合7人が語っている。その語りが非常に面白くて、ついこっちも引きずられて読んでしまうけど、ここには重大な問題が潜んでいる。新井田に次ぐ21世紀2番目の住人「片川三郎」が抜けているのである。
「片川三郎です」がないだけじゃなく、何と彼は失踪してしまうのである。住人が所在不明になれば大家が困る。普通と違ってかたばみ荘では住人どうしで居住者を決めるならわしである。黙って消えれば、後が見つからないのである。そこで大家が新井田に連絡する。その片川の幼なじみが七見歩である。奈緒子はパートナー。その後の「峠茶太郎」というのはふざけた名前だが、もちろん本名ではない。芸名なんかでもなく、理由あって仮名にしている。その理由が興味深く、つい引き込まれてしまう。で、結局片川三郎は見つかるのか。そのミステリーという一面もある。そこで日本の現実とぶつかることになる。
一方峠茶太郎の人生はまさに「昭和シネマ」。『愛と人生』は「男はつらいよ」だったが、『高架線』は「蒲田行進曲」である。つかこうへい原作、深作欣二監督の傑作だが、これが出てくるのは、西武池袋沿線に大泉学園駅があるからかもしれない。東映東京撮影所がある町である。まあ「蒲田行進曲」は松竹・角川の映画だが、内容は東映京都撮影所の話である。京都と東京では違うけど、池袋線沿線小説には東映映画の話が似合っている。とにかく登場人物の語り口に乗せられながら、ラスト近くになると、小説の仕掛けも全部判って、東長崎界隈が懐かしく思えるようになってくる。
何で東長崎なんだろうか。僕が想像するには「トキワ荘」があるからかもしれない。まあ作者個人の思い出があるのかもしれないが、長崎近辺で一番知られた文化施設は再建された「トキワ荘」である。また小説中に東日本大震災が出て来る。時代的に21世紀の東京を編年的に語るなら、出てくるのは当然だけど。それが人々の人生を微妙に変えていくのである。いろんな要素が詰まって不思議な感じの小説だけど、面白くて読みやすい。東京小説の中でも余り出てこない地域を絶妙に語っている。
(カタバミの花)
なお「かたばみ荘」のかたばみっていうのは植物の名前。ウィキペディアを見たら、世界中にあって、日本でも長宗我部氏や酒井氏の家紋に使われているという。田中角栄の家紋も「剣方喰」(けんかたばみ)なんだという。クローバーに葉が似ていて間違う人が多いとも出ている。「ももいろクローバーZ」のロゴも間違ってカタバミになっていると書いてあった。

今度読んだ『高架線』は、帯の言葉を引用すると「西武池袋線東長崎から徒歩五分」「風呂トイレつき、家賃三万円」「部屋を出るときは、次の入居者を探すのがルールの古アパート」である『「かたばみ荘」二号室の十人をめぐる一六年の物語』である。東長崎はもちろん実在する駅で、西武池袋線で池袋から椎名町に続く2駅目。ここまでが豊島区で、次の江古田から練馬区になる。東長崎があるなら西もあるかというと、それは長崎県の長崎である。混同しないように駅名に東を付けた。多磨地区にある東久留米と同じである。もともとこの地域を長崎と言うが、鎌倉時代に長崎氏の領地だったからだという。

この小説は2001年から始まっている。21世紀の話だ。ボロとはいえ、23区内、それも繁華街の池袋に近いアパートが3万円とは異常に安い。しかも、不動産屋を通すことなく、住人が次の住人を探す方式で入居者が決まる。だから敷金礼金もなし。いくら何でもおかしくないか。このボロアパートの2号室の住人ばかりを描く小説である。この「部屋小説」という意味では長嶋有『三の隣は五号室』を思い出した。しかし、『高架線』はその題名で判るように、西武池袋線沿線をめぐる物語という言い方も出来る。
昨日朝倉摂展を見に練馬区立美術館に行ったが、最寄り駅の中村橋は高架になっている。桜台から石神井公園までが高架になっているという。江古田までは地上を走っていて、だから東長崎は高架じゃない。だけど、語り手の一人が所沢出身なのである。西武鉄道は新宿線と池袋線があるが(他にもあるけど、東京中心部に向かう主要線はこの2つ)、池袋線はその先に所沢(西武球場がある)、さらに飯能があり、秩父まで通じている。滝口悠生は埼玉県入間市で育ち、所沢高校を卒業しているから、西武線に乗って高架線から東京の風景を見る描写は自分の経験でもあるだろう。

冒頭が「新井田千一です」と始まる。名前の読みは「あらいだ・せんいち」。普通はこんな始まりはしないだろう。「新井田千一は…」と始まったり、一人称で「私(僕、俺など)は…」と語ることはある。この本の始まり方は読者に直接語っているドキュメンタリー映画みたいだ。実はこの語り方が最後まで続くのである。語り手は変わる。七見歩、七見奈緒子、峠茶太郎、木下目見(まみ)、日暮純一、日暮皆美と都合7人が語っている。その語りが非常に面白くて、ついこっちも引きずられて読んでしまうけど、ここには重大な問題が潜んでいる。新井田に次ぐ21世紀2番目の住人「片川三郎」が抜けているのである。
「片川三郎です」がないだけじゃなく、何と彼は失踪してしまうのである。住人が所在不明になれば大家が困る。普通と違ってかたばみ荘では住人どうしで居住者を決めるならわしである。黙って消えれば、後が見つからないのである。そこで大家が新井田に連絡する。その片川の幼なじみが七見歩である。奈緒子はパートナー。その後の「峠茶太郎」というのはふざけた名前だが、もちろん本名ではない。芸名なんかでもなく、理由あって仮名にしている。その理由が興味深く、つい引き込まれてしまう。で、結局片川三郎は見つかるのか。そのミステリーという一面もある。そこで日本の現実とぶつかることになる。
一方峠茶太郎の人生はまさに「昭和シネマ」。『愛と人生』は「男はつらいよ」だったが、『高架線』は「蒲田行進曲」である。つかこうへい原作、深作欣二監督の傑作だが、これが出てくるのは、西武池袋沿線に大泉学園駅があるからかもしれない。東映東京撮影所がある町である。まあ「蒲田行進曲」は松竹・角川の映画だが、内容は東映京都撮影所の話である。京都と東京では違うけど、池袋線沿線小説には東映映画の話が似合っている。とにかく登場人物の語り口に乗せられながら、ラスト近くになると、小説の仕掛けも全部判って、東長崎界隈が懐かしく思えるようになってくる。
何で東長崎なんだろうか。僕が想像するには「トキワ荘」があるからかもしれない。まあ作者個人の思い出があるのかもしれないが、長崎近辺で一番知られた文化施設は再建された「トキワ荘」である。また小説中に東日本大震災が出て来る。時代的に21世紀の東京を編年的に語るなら、出てくるのは当然だけど。それが人々の人生を微妙に変えていくのである。いろんな要素が詰まって不思議な感じの小説だけど、面白くて読みやすい。東京小説の中でも余り出てこない地域を絶妙に語っている。

なお「かたばみ荘」のかたばみっていうのは植物の名前。ウィキペディアを見たら、世界中にあって、日本でも長宗我部氏や酒井氏の家紋に使われているという。田中角栄の家紋も「剣方喰」(けんかたばみ)なんだという。クローバーに葉が似ていて間違う人が多いとも出ている。「ももいろクローバーZ」のロゴも間違ってカタバミになっていると書いてあった。