毎月見田宗介さんの本を読んでいくシリーズ、今回は『気流の鳴る音』を取り上げる。真木悠介名義になっているが、これは見田氏がコミューン論を書くときのペンネームだった。岩波書店から見田宗介著作集に続いて、真木悠介著作集全4巻も出ている。ただし、僕はそれを買っていない。収録された4作を全部単行本で持っていたからだ。真木悠介名義本はもっと出ていて、著作集未収録の本があるためでもある。そのため今回は1977年に刊行された初版本を読み直してみた。
(初版単行本の箱の写真)
『気流の鳴る音』は多くの人に大きな影響を与えた。僕にとっても非常に大きな意味を持っていて、この本を読んだことで人生が変わったとも言える。だから一回では書き切れなくて、関連の島田裕巳『カルロス・カスタネダ』(ちくま学術文庫)を含めて4回になる予定。そんな本は知らないし、関心もないという人も多いと思うけど、僕にとってはそのぐらいの重要性がある。今回初版本を読んだわけだが、文章の異同を調べたくなって、地元の図書館で著作集を借りて調べてみた。その結果は後で書くが、やはり時代性の制約がこの本にもあるんだなと感じることになった。
最初に書誌的なデータを確認しておきたい。本書の4分の3を占める「気流の鳴る音」は、アメリカ先住民の世界観を紹介したカルロス・カスタネダのドン・ファンシリーズの分析・紹介である。筑摩書房から出ていた総合雑誌「展望」の1976年9月、10月、11月号に掲載された。続く「旅のノートから」はメキシコ、ブラジル、インドを旅した紀行エッセイで、朝日新聞に1974年から76年に掲載された。そして最後の「交響するコミューン」は朝日新聞社の週刊誌「朝日ジャーナル」1973年1月5日号に掲載された。そして単行本の初版が出たのは、1977年5月30日付になっている。
著作集の「定本解題」には以下のように書かれている。「1973年から76年の間、インドを、メキシコを、ブラジルを、ペルーを、ボリビアを歩いた。本体である「気流の鳴る音」は、この旅の最後の日に発想された。それ以前の生と、それ以後の生にわたしの生は分けられると思う。」見田さんは1937年8月生まれだから、それは40歳を目前にする頃だったのである。
(若い頃の著者)
僕はこの本を新聞の書評で知って関心を持った。すぐに買って読んで、非常に感動した。そう思った人はとても多いようで、朝日新聞2022年7月27日夕刊文化欄には、この本が大きく紹介されていた。世田谷区下北沢には、同書から名を取った「気流舎」という古書店・カフェがあるという。その記事の筆者、太田啓之記者も東大で見田氏のゼミ合宿に参加していたという。「ヨガの瞑想、日本の整体、演劇のレッスンなど人間の身体性や他者との関係性に働きかける手法を通じて、『気流の鳴る音』で提唱した「われわれの自我の深部の異世界を解き放つこと」を現実に試みたていたと思われる。」
ところで今回久しぶりに読んでみると、この本は結構難しいではないか。「展望」や「朝日ジャーナル」は当時としても硬い雑誌と思われていたが、一般的に入手しやすい媒体である。皆こんな難しいものを読んでいたのか。しかし、僕の記憶ではこの本は非常にクリアーな明晰性をたたえていて、特に難解だったという記憶はなかった。一つには、僕は当時大学生で人生で一番硬い文章を読み慣れていた時代だったからだろう。もう一つ、読書だって身体的活動なので、視力が昔より衰えてくると漢字が多い文章は読むスピードが落ちるのである。判ったつもりで若い頃は読み飛ばしていた文章に、今はつまずくことがある。(メガネは持っているけど、今も裸眼で本を読んでいるので、なおさら。)
例えばこんな文章である。「マルクスは人間と対象的世界の関係を、所有の関係に一面化するような把握そのものを止揚する運動として、コミューン主義を構想している。」「マルクスがコミューン主義について述べた一節の全体の構成をみれば、そこでマルクスが、コミューン主義というものをたんに所有の平等や共有として把握するやり方を、いいかえれば、〈人間的な感覚や特性の解放〉抜きのコミューン主義というものを、どんなに明確に軽蔑していたかがわかる。」「われわれと他の人間や自然との関係において、根底的に価値があるのは、われわれがそれらを所有し、支配することではなくて、それらの人びとや自然とのかかわりのなかで、どのようにみずみずしい感動とゆたかな充足を体験しうるかということである。」(下線部は原文では傍点。)
(初版本の箱裏の写真)
これは「交響するコミューン」の一部だが、中では難しくない方だろう。言いたいことは理解出来たと思う。特に1973年1月掲載、つまり連合赤軍事件の起こった72年末に発表された文章なので、既成左翼に止まらず「新左翼」に対してもマルクス理解の貧困を批判するという「時局的意義」もあったと思う。そういう時代的な認識の枠組は45年も経つと通じなくなってくる。今回読んで驚いたのは、今は使わない「差別語」がこんなに使われていたのかということだ。身体障害者と「差別語」という問題が本書内で出てくることもあって、いくつかの言葉は著作集版でも変更されていない。
ではすべての文章が原文通り著作集に収録されているのか。気になって調べてみたら、注の入れ方が大きく変わり、一部省略されている。それは形式的な問題だが、内容的な大きな変更が多分2箇所あることが判った。一つは「交響するコミューン」の中で分裂したコミューンを論じているところ。もう一つはドン・ファンの教えとして「世界を止める」ことを論じた部分。その試みはフッサールやレヴィ=ストロース、マルクスらの現象学的・人類学的・経済学的な「判断停止」(エポケー)に通じると論じ、ブレヒトの「異化効果」、梅蘭芳らの京劇らを論じる。その後の文章。
「パリ・コミューンや1917年革命をふくめて、すべての真の革命は民衆の身体性の次元における「世界を止める」契機をはらむが、「整風」から「文化大革命」に至る中国革命は、革命的な言説としての「風」(作風=スタイル)を一貫して問題化することによって、革命一般の内包するこの契機をこれまでの歴史の中では最も自覚的に追求しているといえよう。」この後に「1960年代後半以降のアメリカや西欧・日本における、「スタイルの政治学」ともいうべき新しい世代もまた、しぐさや生き方の水準における市民社会の「自明の」前提のいくつかをつきくずしてきた」と続いていく。(原文は作風のルビとしてスタイル。)
1976年1月に中国の周恩来首相が亡くなり、9月に毛沢東共産党主席が死亡した。一月後の10月6日に毛沢東夫人の江青ら「四人組」が逮捕され、「文化大革命」は終焉に向かった。『気流の鳴る音」が書かれていた時代は、中国激動の時期に当たっていたのである。しかし、まだまだ文化大革命の驚くべき残虐性は世界に知られていなくて、中国革命に希望を見出す人びとがかなりいた時代である。僕だって、アメリカのベトナム戦争、ソ連のチェコ侵攻を批判する余り、中国に期待を掛ける部分がなかったとは言えない。しかし、今になると上記のような中国革命、さらに1917年革命(ロシア革命)の認識にはとても賛成出来るものではない。
では、同じところが著作集ではどうなっているかと言うと、「「イマジン」(「想像してごらん」)というジョン・レノンの歌を生み出し、この歌がこだましつづける1970年代以降のアメリカ、ヨーロッパと日本の「新しい社会運動」の世代は、しぐさや生き方のスタイルとしての水準における市民社会の「自明の」前提のいくつかをつきくずしてきた」と変わっている。中国を含めて現実の「革命」はバッサリ切られて、代わりに「イマジン」になった。この曲は71年発表だから、60年代後半の運動も70年代以降に変えられてしまった。『気流の鳴る音』には、ちくま文庫版、ちくま学術文庫版もあって、いつ変わったのかは調べていないが、やはり見田さんも時代の認識の枠組を超えられなかった部分があるわけだなと思った次第である。

『気流の鳴る音』は多くの人に大きな影響を与えた。僕にとっても非常に大きな意味を持っていて、この本を読んだことで人生が変わったとも言える。だから一回では書き切れなくて、関連の島田裕巳『カルロス・カスタネダ』(ちくま学術文庫)を含めて4回になる予定。そんな本は知らないし、関心もないという人も多いと思うけど、僕にとってはそのぐらいの重要性がある。今回初版本を読んだわけだが、文章の異同を調べたくなって、地元の図書館で著作集を借りて調べてみた。その結果は後で書くが、やはり時代性の制約がこの本にもあるんだなと感じることになった。
最初に書誌的なデータを確認しておきたい。本書の4分の3を占める「気流の鳴る音」は、アメリカ先住民の世界観を紹介したカルロス・カスタネダのドン・ファンシリーズの分析・紹介である。筑摩書房から出ていた総合雑誌「展望」の1976年9月、10月、11月号に掲載された。続く「旅のノートから」はメキシコ、ブラジル、インドを旅した紀行エッセイで、朝日新聞に1974年から76年に掲載された。そして最後の「交響するコミューン」は朝日新聞社の週刊誌「朝日ジャーナル」1973年1月5日号に掲載された。そして単行本の初版が出たのは、1977年5月30日付になっている。
著作集の「定本解題」には以下のように書かれている。「1973年から76年の間、インドを、メキシコを、ブラジルを、ペルーを、ボリビアを歩いた。本体である「気流の鳴る音」は、この旅の最後の日に発想された。それ以前の生と、それ以後の生にわたしの生は分けられると思う。」見田さんは1937年8月生まれだから、それは40歳を目前にする頃だったのである。

僕はこの本を新聞の書評で知って関心を持った。すぐに買って読んで、非常に感動した。そう思った人はとても多いようで、朝日新聞2022年7月27日夕刊文化欄には、この本が大きく紹介されていた。世田谷区下北沢には、同書から名を取った「気流舎」という古書店・カフェがあるという。その記事の筆者、太田啓之記者も東大で見田氏のゼミ合宿に参加していたという。「ヨガの瞑想、日本の整体、演劇のレッスンなど人間の身体性や他者との関係性に働きかける手法を通じて、『気流の鳴る音』で提唱した「われわれの自我の深部の異世界を解き放つこと」を現実に試みたていたと思われる。」
ところで今回久しぶりに読んでみると、この本は結構難しいではないか。「展望」や「朝日ジャーナル」は当時としても硬い雑誌と思われていたが、一般的に入手しやすい媒体である。皆こんな難しいものを読んでいたのか。しかし、僕の記憶ではこの本は非常にクリアーな明晰性をたたえていて、特に難解だったという記憶はなかった。一つには、僕は当時大学生で人生で一番硬い文章を読み慣れていた時代だったからだろう。もう一つ、読書だって身体的活動なので、視力が昔より衰えてくると漢字が多い文章は読むスピードが落ちるのである。判ったつもりで若い頃は読み飛ばしていた文章に、今はつまずくことがある。(メガネは持っているけど、今も裸眼で本を読んでいるので、なおさら。)
例えばこんな文章である。「マルクスは人間と対象的世界の関係を、所有の関係に一面化するような把握そのものを止揚する運動として、コミューン主義を構想している。」「マルクスがコミューン主義について述べた一節の全体の構成をみれば、そこでマルクスが、コミューン主義というものをたんに所有の平等や共有として把握するやり方を、いいかえれば、〈人間的な感覚や特性の解放〉抜きのコミューン主義というものを、どんなに明確に軽蔑していたかがわかる。」「われわれと他の人間や自然との関係において、根底的に価値があるのは、われわれがそれらを所有し、支配することではなくて、それらの人びとや自然とのかかわりのなかで、どのようにみずみずしい感動とゆたかな充足を体験しうるかということである。」(下線部は原文では傍点。)

これは「交響するコミューン」の一部だが、中では難しくない方だろう。言いたいことは理解出来たと思う。特に1973年1月掲載、つまり連合赤軍事件の起こった72年末に発表された文章なので、既成左翼に止まらず「新左翼」に対してもマルクス理解の貧困を批判するという「時局的意義」もあったと思う。そういう時代的な認識の枠組は45年も経つと通じなくなってくる。今回読んで驚いたのは、今は使わない「差別語」がこんなに使われていたのかということだ。身体障害者と「差別語」という問題が本書内で出てくることもあって、いくつかの言葉は著作集版でも変更されていない。
ではすべての文章が原文通り著作集に収録されているのか。気になって調べてみたら、注の入れ方が大きく変わり、一部省略されている。それは形式的な問題だが、内容的な大きな変更が多分2箇所あることが判った。一つは「交響するコミューン」の中で分裂したコミューンを論じているところ。もう一つはドン・ファンの教えとして「世界を止める」ことを論じた部分。その試みはフッサールやレヴィ=ストロース、マルクスらの現象学的・人類学的・経済学的な「判断停止」(エポケー)に通じると論じ、ブレヒトの「異化効果」、梅蘭芳らの京劇らを論じる。その後の文章。
「パリ・コミューンや1917年革命をふくめて、すべての真の革命は民衆の身体性の次元における「世界を止める」契機をはらむが、「整風」から「文化大革命」に至る中国革命は、革命的な言説としての「風」(作風=スタイル)を一貫して問題化することによって、革命一般の内包するこの契機をこれまでの歴史の中では最も自覚的に追求しているといえよう。」この後に「1960年代後半以降のアメリカや西欧・日本における、「スタイルの政治学」ともいうべき新しい世代もまた、しぐさや生き方の水準における市民社会の「自明の」前提のいくつかをつきくずしてきた」と続いていく。(原文は作風のルビとしてスタイル。)
1976年1月に中国の周恩来首相が亡くなり、9月に毛沢東共産党主席が死亡した。一月後の10月6日に毛沢東夫人の江青ら「四人組」が逮捕され、「文化大革命」は終焉に向かった。『気流の鳴る音」が書かれていた時代は、中国激動の時期に当たっていたのである。しかし、まだまだ文化大革命の驚くべき残虐性は世界に知られていなくて、中国革命に希望を見出す人びとがかなりいた時代である。僕だって、アメリカのベトナム戦争、ソ連のチェコ侵攻を批判する余り、中国に期待を掛ける部分がなかったとは言えない。しかし、今になると上記のような中国革命、さらに1917年革命(ロシア革命)の認識にはとても賛成出来るものではない。
では、同じところが著作集ではどうなっているかと言うと、「「イマジン」(「想像してごらん」)というジョン・レノンの歌を生み出し、この歌がこだましつづける1970年代以降のアメリカ、ヨーロッパと日本の「新しい社会運動」の世代は、しぐさや生き方のスタイルとしての水準における市民社会の「自明の」前提のいくつかをつきくずしてきた」と変わっている。中国を含めて現実の「革命」はバッサリ切られて、代わりに「イマジン」になった。この曲は71年発表だから、60年代後半の運動も70年代以降に変えられてしまった。『気流の鳴る音』には、ちくま文庫版、ちくま学術文庫版もあって、いつ変わったのかは調べていないが、やはり見田さんも時代の認識の枠組を超えられなかった部分があるわけだなと思った次第である。