尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ドン・ファンの教えー真木悠介『気流の鳴る音』をめぐって②

2022年08月30日 23時17分47秒 | 〃 (さまざまな本)
 真木悠介気流の鳴る音』は、その大部分がカルロス・カスタネダドン・ファンシリーズの分析である。序章の中で、以下のようにこのシリーズが紹介される。注を抜き、段落分けを外して引用してみたい。
(ちくま文庫版『気流の鳴る音』)
 メキシコ北部に住むヤキ族のある老人の生きる世界を、人類学者カスタネダが四冊の本で紹介している。ドン・ファンというこの老人にカスタネダは十年ほども弟子入りしてインディアンの生き方を学ぶ。その教えの核の一つが「心のある道を歩む」ということだ。一冊目の本の扉のところに、美しいスペイン語の原文とともに、ドン・ファンの言葉が引用されている。
 ーわしにとっては、心のある道を歩むことだけだ。どんな道にせよ、心のある道をな。そういう道をわしは旅する。その道のりのすべてを歩みつくすことだけがただ一つの価値のある証しなのだよ。その道を息もつがずに、目を見ひらいてわしは旅する。

 見田氏がこの本を書いたとき、カスタネダは4冊の本しか書いてなかった。(日本語訳が出ていたのは3冊。)だから4冊で完結した世界のように論じられているが、実はその後カスタネダは7冊の本を書き続けた。ドン・ファンの世界はもう少し奥が深かったのだが、そのことは4回目で触れる。僕はカスタネダの本など全然知らなかったので、上記の文を読んで「そうか人類学者がドン・ファンという人を研究したんだ」という風に受け取った。カスタネダという人がどういう人なのか、その後いろいろ問題化する。「ドン・ファン」という人物にその後誰も会うことができず、非実在説まで出て来るようになった。その問題も4回目に回す。

 「ドン・ファン」(Don Juan)という名前も、その時は固有名詞の人名だと思っていた。まだ無知だったのである。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』と同じ名前だし、最近の日本では「紀州のドン・ファン」なる人物が騒がれた。「ドン」は映画『ゴッドファーザー』で主人公役のマーロン・ブランドが、自分をドンと呼べと圧力を掛けるシーンが印象的だった。2月に読んだ『ドン・キホーテ』も「ドン」である。要するにスペイン語、イタリア語などで使われる尊称なのである。転じてマフィアなどのボスを指す場合に使われ、日本では「首領」にドンとフリガナを振ったりした。今も政界のドンなどと使われる。「ファン」は英語のジョン(聖書のヨハネ)だから、ジョン親分、ジョン親父ぐらいの感じだろう。本名とは思えない。

 ドン・ファンの教えを全部書く余裕はないし、その必要もないだろう。そんなことができるなら、『気流の鳴る音』という本の存在意義もない。しかし、一応簡単に本書の内容を追ってみたい。本書の目的が最初に確認されているが、「文化人類学上の知識をえたりすることではなく、われわれの生き方を構想し、解き放っておく機縁として、これらインディオの世界と出会うことにある。」(下線部は原文では傍点である。)しかし、ドン・ファン(及び盟友であるドン・ヘナロ)の言葉は体系的ではない。

 まず最初のⅠは「カラスの予言ー人間主義の彼岸」と題される。Ⅱは「「世界を止める」ー〈明晰の罠〉からの解放」、Ⅲは「「統御された愚」ー意志を意志する」、Ⅳは「「心のある道」ー〈意味への疎外〉からの解放」である。「明晰の罠」とか「意味への疎外」とか、それだけでは判りにくいが、同時に何となく通じるものがある。この4つを図示すると、以下のような4つの象限に先の4つが当てはまるとする。これはドン・ファンの教えそのものではなく、それを見田氏がまとめ直したのである。
(主題の空間)
 カスタネダは当初、人類学のフィールドワークとして薬用幻覚植物の知識を求めていた。ドン・ファンとは偶然バス停で会ったとされる。しかし、植物の知識の代価として支払いをするとカスタネダが申し出ると、ドン・ファンは「わしの時間に対しては…お前の時間で払って貰おう」と返答する。カスタネダにとって、知識はそれだけを切り取って利用できるものだが、ドン・ファンの世界では植物を知るとは植物と友だちになり生きる世界を共にすることである。ドン・ファンの世界は「擬人法以前」なのだ。

 題名となった『気流の鳴る音』とは、やがて幻覚性植物を使ったときに、同じく修行を受けたエリヒオの姿が「信じられぬほどのスピードで滑っているか飛んでいるかのような姿だった。(略)私は彼のまわりでひゅうひゅうと気流の鳴る音を感じた。」から来ている。カスタネダは「見た」のである。ここで「見る」(see)は「眺める」(look)と使い分けられているという。(島田裕巳の著書では「観る」と「見る」と使い分けられている。)ただ漫然と世界を眺めているだけの時点から、カスタネダは(薬物を使用して)「世界を(ほとんど)見た」段階に入ったのである。

 これはカスタネダにとって「大きな業績」になるので、フィールドワークの成果をノートに書き付けていた。それを見てドン・ファンと並ぶ呪術師であるドン・ヘナロが「頭で座った」。これは逆立ちしてあぐらをかくということだと思うけど、非常に印象的である。ドン・ヘナロがカスタネダのマネをしたのだという。著者によれば、これはマルクスのヘーゲル批判と思わせるが、マルクスはヘーゲル哲学が頭で立っていると言語的に批判したのに対し、ドン・ヘナロは「もうすこしラディカルに、批判のスタイル自体、身体性の水準でおこなっている。」この寸評も極めて印象的である。

 カスタネダが単に知識を得るだけではなく、「世界を見る」ことに進んで行くようになったときには、ドン・ファンは「お前はただ世界を止めたんだ」という。この「世界を止める」は自明のものと思われていたものを、いったん「判断中止」(エポケー)することだと著者は指摘する。それはマルクスが経済学で行ったことでもあり、フッサールの「現象学的判断中止」でもあるとされる。「自明の前提」を疑うこと。「双生児は鳥だ」とアフリカのヌアー族は考える。一見非合理的思考にしか見えないが、では預金が利子を生むという資本主義システムは合理的に説明出来るのか。

 ドン・ファンは、目指す理想の知者になるには4つの自然の敵があるという。それは「恐怖」「明晰」「」「老い」だという。「恐怖」と「老い」は確かに誰にとっても人生上の難問だろう。だけど「明晰」と「」は、本来人間にとって役立つものではないのか。それが敵とはどういうことか。書いていると終わらない。是非本書を読んで欲しいと思う。以後、印象的な章名を引用すると、「目の独裁」「しないこと」「意志は自分の裂け目をつくる」「自分の力から身を守る楯」「意志を意志する」…。

 そして最後に「心のある道」を見つけることになる。「「心のある道」による「老い」の克服とは、若年にもどることではなくて、「美しい道を静かに歩む」真実の〈老い〉であるに違いない。」本書には判りにくいところも多い。特に「ナワール」と「トナール」という概念は全く判らなかった(からここでは書かない。)僕は「判断中止」とか「心のある道」という考え方にとても共感したと思う。忘れていたけれど、ある意味「血肉化」したかもしれないと思う。誰かが熱狂しているときに、ちょっと違った面からものごとを見てみること。それは今まで特に意識しなかったけれど、本書で教えられたスタイルだったのかもしれない。
コメント
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