尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

高石ともや年忘れコンサート2023

2023年12月16日 22時16分27秒 | 自分の話&日記
 2年ぶりに「高石ともや年忘れコンサート」に行った話。もう夫婦の間で年末恒例行事になっていて、毎年行くことにしていた。ところが、昨年(2022年)は母親が11月末に入院して「いつ何があってもおかしくない」と宣告されていたので、チケットを買っていたけど行けなかったのである。今年はやっと行けるはずが今度は自分が入院してしまったが、何とか早期に退院できて、まあ良かったかなという年末である。ここ10数年は土曜日の午後に、亀戸カメリアホールで催されている。どう見ても客の大部分は高齢者だから、夜じゃなくて午後の方がありがたいのである。

 毎年秋になると労音から案内のハガキが来るんだけど、今年はなかなか来なかった。ホームページにも出てないから、もうないのかと思ってた。何でも大坂でやってた年忘れコンサートは、本人が去年をもって終わりにすると宣言したとネット上に出ていた。だから東京もないのかと覚悟していたら、発売直前にネット上に告知された。行けなかった去年が最後では心残りだから、今年は行けただけで良かったなと思っている。何と今までかつてない最前列が当たっていた。近すぎかも。
(2023年ホノルルマラソンで)
 そして、高石ともやさんがコンサート直前にホノルルマラソンを走ってくるのも恒例。もう47年連続だという。もちろん完走しているのである。1941年12月9日生まれ、つまり日米開戦翌日の生まれだから、82歳なのである。10年ぐらい前に配偶者を亡くし一人暮らしだが、元気だから凄いのである。そりゃまあ、昔より声量は落ちているかもしれない。でも、もう内容に改めて新鮮さを求めているわけじゃなく、知ってる歌を一緒に聴き、時には一緒に口ずさむだけだから、それで良いのである。

 年末だからクリスマスソングもある。持ち歌の多く(「陽の当たる道」「陽気に行こう」など)もアメリカのカントリーソングに訳詞を付けたものである。そこで改めて思ったけど、アメリカの民衆文化が自分の血肉になってきたと思う。アメリカの文化にもいろいろあるけど、69年代末の「フォークソング」ブームの基盤となったのは、ピート・シーガーウディ・ガスリーなんかが歌うアメリカである。「抵抗の歌」である。ベトナム反戦運動の中で見出されたものだ。
(ジャニス・ジョプリンの「Me and Bobby McGee」)
 今年も「ミー・アンド・ボギー・マギー」を歌った。高石ともやの特徴は日本語の歌詞を自分で付けて歌うこと。ジョン・レノン「イマジン」もオノ・ヨーコ公認の訳詞で歌っている。「ミー・アンド・ボギー・マギー」はクリス・クリストファースンが作った曲だが、1970年10月に急死したジャニス・ジョプリンが生前にレコーディングしていた。そして1971年にシングル・カットされビルボードで1位となった。その頃から大好きな曲だったんだけど、こうして聞けるとうれしい。

 Wikipediaを見たら、この曲を作るときクリストファースンはフェリーニ監督の映画『』を思い出していたんだという。なるほど、僕がこの曲を好きだったのも当然だ。10代の頃から『道』を何度も見て来たんだから。そして、これは「さすらい」の歌である。ヒッチハイクで南部(バトンルージュやニューオーリンズ)からカリフォルニアまで流れていって別れる。Freedom's just another word for nothin' left to lose (自由とはこれ以上失うものがないことさ)という歌詞が心に沁みる。谷川俊太郎の詩に曲を付けたのも高石ともやだ。「じゃあね」と別れていく。

 今まで40数年夫婦で通ってきた。ずっと前は平日夜に読売ホール(当時はそごうデパート、今はビックカメラの上の方)でやっていた。仕事が忙しくても何とか行っていた。一番の危機は忘年会と重なった年で、その年の幹事だったから最初はいないわけに行かなかったのである。そんな年でも最後何十分かは聞きに行ってる。仕事があったときは、多忙で行けるかどうか。今後は高石ともや本人と自分の健康が続くかどうか。やってる限りは行くんだろうなあ。まあ、今年は行けて良かったという確認を書いておく次第。
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