尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

羽仁進の映画①-ドキュメント映画時代

2017年07月20日 21時21分56秒 |  〃  (日本の映画監督)
 シネマヴェーラ渋谷で上映されていた羽仁進監督の特集上映をずっと見ていたので、まとめを書いておきたい。羽仁進(はに・すすむ 1928.10.10~)は昔はものすごく有名だったけど、劇場公開映画は1980年が最後だから、知らない人が多いかもしれない。検索すると「まだ生きてる?」とか「死んだのか」といった検索ワードが出てくる。今回トークを聞いたと言ったら、家人に「生きてたの!」と言われてしまったぐらいである。だけど、88歳で杖を突いてたけど、ずいぶん元気だった。
 (羽仁進)
 70年代ごろには、羽仁進も有名だったけど、羽仁一族みんなが有名だった。映画監督(に限らず)だったら、作品のみを論じればいいようなものだけど、60年代に活躍した二人の監督、勅使河原宏(てしがわら・ひろし 草月流家元勅使河原蒼凬の子ども)と羽仁進に関してはそうもいかない。親の方が前から有名で、誰でも知っていたからである。

 羽仁進は、父羽仁五郎と母羽仁説子の子どもである。母説子はさらに「自由学園」を創立した羽仁吉一羽仁もと子の子ども。羽仁進ももちろん自由学園に通ったのである。羽仁説子は「進歩的教育学者」として広く活動し、ずいぶん有名だった。でも父の羽仁五郎はもっと有名だった。戦後に革新系の参議院議員(1947~1956)も務めた左派の歴史学者である。戦前の岩波新書「ミケルアンヂェロ」は今も残っている。1968年に出た「都市の論理」は大ベストセラーになり、新左翼系学生運動に大きな影響力があった。羽仁進より有名だったと思う。
 (羽仁五郎)
 羽仁進は1947年に自由学園を卒業後、共同通信に一年間いた後、父五郎の紹介で1949年に岩波映画製作所に入った。岩波書店と直接の資本関係はないけど、岩波写真文庫の編集などを担当した会社である。土本典昭、黒木和男、東陽一、田原総一郎、清水邦夫など多くの映画・演劇・テレビ関係者を輩出したことで有名。そこでドキュメンタリー映画を作るようになり、羽仁進も監督になった。

 今回上映されたものは以下の作品。
生活と水(1952) 監督デビュー作
教室の子供たち(1955) キネ旬文化映画3位
絵を描く子供たち(1956) キネ旬文化映画1位
双生児学級(1956) キネ旬文化映画4位
動物園日記(1957)
海は生きている(1958)
法隆寺(1958) キネ旬文化映画3位

 映画雑誌キネマ旬報では、長編劇映画以外の主に短編の記録映画を「文化映画」と呼んでいる。(長編記録映画は劇映画と同じ土俵でベストテンの対象になっている。)以上で判る通り、50年代を代表するドキュメンタリー作家として評価されていた。特に「教室の子供たち」「絵を描く子供たち」「双生児学級」は、教室にカメラを持ち込んで自由にふるまう子どもたちの様子を生き生きと描写するという、今まで誰もやってないことをやった映画だった。
 (「教室の子供たち」)
 誰もやってないというか、そういうことは無理、子どもがカメラを意識してしまうから自然な姿は得られないという通念があったわけだけど、やってみたら子どもたちは少しするとカメラを意識しなくなったという。初めは隣の教室から壁に穴をあけて撮ったというけど、すぐ気づかれてしまった。子どもたちは羽仁進が落第して小学校からやり直していると解釈して、すぐに仲良くなってしまった。

 いま見ると、教室環境などが貧しいことにも驚く。体育の授業では体操着に着替えていない。町の様子も高度成長以前という感じだ。「絵を描く子供たち」は当時としては珍しく劇場公開されたが、今見ると心理解釈などが少し古いかもしれない。それよりも、今も続いている東大教育学部付属小を描く「双生児学級」が面白い。ここでは双子以上の子どもを特別枠で募集し、遺伝、環境、個人の資質などの関わりを調べるているが、今でも大事な観点が提示されていると思う。

 デビュー作の「生活と水」や上野動物園の裏側を描く「動物園日記」、あるいは「法隆寺」を見ると、羽仁進の資質は詩人だと判る。歴史や社会を見つめるという以上に、誌的、美的な直観で描いている。羽仁進は一貫して「自然なもの」「真実の感情」を求め続けていくが、そうなるとスポンサーあって初めて作られる文化映画に飽き足らなくなるのも当然だろう。だから自主的に劇映画に進出するが、そこでも「素人俳優」を多用するドキュメンタリー・ドラマのような作品が多くなる。

 でも素人俳優よりもっと「自然な演技」をするのは「子ども」である。彼は一貫して子どもを描くけれど、羽仁進自身が自分で言うように「大きな子ども」だった。父も母も左翼系言論人だったけど、党派的なタイプではなかった。むしろ子どもを自由に伸ばしていこうというようなタイプの人物だった。だから、羽仁進は左派的な社会派映画作家にはならず、「大きな子ども」のまま詩のような映画を作った。

 ところで「子ども」よりさらに「自然な演技」をできるのは「動物」だろう。まあ、それは「演技」ではないけれど。だから、羽仁進の映画には動物がよく出てくるし、最後は劇映画を離れてテレビ向けに動物のドキュメントを作るようになった。その意味で、50年代の上野動物園を描いた「動物園日記」も重要だ。初代園長の古賀忠道の時代で、戦争の影響を残しながらライオンやカバなどの繁殖にも取り組む様子がくわしく描かれている。池の中の島に放し飼いの動物がいるなど、今と違った様子も興味深い。これはもっと再評価されるべき傑作だと思う。

 こうしてみると、羽仁進という存在そのものが、自由学園を作った羽仁家の最大の作品だったのではないかと思う。何よりも自由な詩人として生きてきた羽仁進の位置を、もう少し考えていきたい。
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