尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「豪姫」という失敗作と宮沢りえー勅使河原宏監督の映画⑥

2021年06月18日 22時47分33秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督の最後の長編劇映画は「豪姫」(1992)である。これは公開当時に見たけれど、失敗作だなと思った。その後見直す機会もなかったが、せっかくの監督特集だから見てみることにした。劇場で見られることも少ないので貴重である。しかし、やっぱりこの映画は間違いなく失敗作だ。キネマ旬報の昔のベストテン号を調べてみたら、37位だった。1位が「シコふんじゃった。」、2位「青春デンデケデケデケ」、3位「阿賀に生きる」、4位「紅の豚」という年である。勅使河原監督の他の長編は全部ベストテンに入選しているのである。キネ旬ベストテンも今見ると不思議な結果もあるけれど、これは理解出来る感じがする。
(「豪姫」)
 ここでは「失敗の理由」を考えてみたい。「豪姫」は実在の人物をモデルにした富士正晴の同名小説の映画化。秀吉から家康へと移り変わる時代を背景に、茶道で有名な戦国大名、古田織部豪姫の長い関わりを描いている。タイトルロールの豪姫宮沢りえで、それが最大の売りになっていた。そこで「利休」が評価された勅使河原宏に声が掛かって、豪華で高い美意識で作られたセットが作られた。草月流が全面協力するのも前作と同じ。

 つまり企画が二番煎じなのである。さらに「千利休」と言えば誰でも知ってるが、「豪姫」を知ってる人は少ないだろう。原作も野上弥生子秀吉と利休」から富士正晴豪姫」へ。野上弥生子の原作は女流文学賞を受賞し、高く評価された。それに比べて富士正晴の原作を知っていた人は少ないだろう。企画自体が「利休」の縮小再生産だったのである。そして見てみれば、豪姫以上に古田織部(仲代達矢)の存在が大きい。利休に比べれば、古田織部は知らない人が多いだろう。
(仲代達矢演じる古田織部)
 では、どうしてこの企画が成立したのだろうか。それは主演の豪姫に宮沢りえをキャスティングして、10代の代表作を作りたかったんだろう。実在の豪姫(1574~1636)は前田利家の娘として生まれ、子どものいなかった羽柴秀吉の養女となった。数え年2歳の時のことで、織田家臣団の中で秀吉、利家の絆は固かったのである。秀吉に愛され、男ならば関白を譲ると言われたらしい。しかし、そうもいかないから、秀吉の猶子だった宇喜多秀家(1572~1655)に嫁いだ。秀家は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、八丈島に流罪となり半世紀を生きて亡くなる。

 つまり、宮沢りえは「二人の豪姫」を演じなくてはならない。秀吉のもとでお転婆な10代と、夫と遠く別れて実家の前田家に幽閉されて生きる30代を。かなり頑張っているものの、この演じ分けは相当に苦しいように思う。さらに実際の豪姫にとって一番重要な人物である宇喜多秀家が出て来ない。話には出て来るけれど、キャストにはない。代わりに古田織部の下人「ウス」(永澤俊矢)が重要な役として出て来る。この架空の人物は豪姫と一緒に利休の首を取りに行く。その他肝心の場面に出てきて豪姫の役に立つ。映画の中心部はむしろ山中に逃れて生き延びるウスの物語だ。永澤は新人で頑張っているが、アクションはともかくセリフ回しは違和感が大きい。
(竹のトンネルの中で)
 「豪姫」と銘打ち、宮沢りえが主演とうたいながら、宮沢りえのシーンが少ない。出ていても後半は難役で10代では苦しい。古田織部はラストで家康から切腹を命じられるが、その政治的意味合いは利休の死ほど大きくない。脚色は「利休」に続いて、赤瀬川原平勅使河原宏。前作「利休」に引きずられている気がする。ほとんど似た感じで、物語の凝縮性だけが薄くなった。これでは失敗作になるのも無理はない。ただし、勅使河原宏流の美学は見どころがある。特に前田家預かりの屋敷にある「竹のトンネル」。「利休」にもあったし、熊野本宮で行われた舞台「すさのお異伝」でも、「」が使われている。晩年の勅使河原にとって竹は大きな意味を持っていた。
 
 宮沢りえは1973年4月6日に生まれている。映画の公開は92年4月11日なので、19歳になったばかり。撮影は18歳の時に行われたのである。篠山紀信の写真集「Santa Fe」は1991年11月13日に出版された。10代半ばからモデル、俳優、歌手として活動していたが、社会現象化したのは「Santa Fe」からだろう。そして1992年11月27日に関脇貴花田(後の横綱貴乃花)との婚約が発表された。2ヶ月後に破談となったが、様々な人生行路があり得た中で10代最後の1992年には2本の映画が公開されている。「豪姫」と「エロティックな関係」(若松孝二監督)である。
(映画「エロティックな関係」)
 「エロティックな関係」はフランスのレイモン・マルローの小説を映画化した「エロチックな関係」(長谷部安春監督)のリメイクである。舞台はパリに戻している。これは内田裕也北野武らが「10代の宮沢りえをフィルムに残したい」という思いで企画したらしい。僕はむしろこっちの映画に「すったもんだ時代」の宮沢りえの魅力が封印されている気がする。21世紀になって、宮沢りえの演技力と存在感は誰しも認めるものとなった。大竹しのぶを継ぐ大女優は宮沢りえだろう。そんな宮沢りえの10代の日々が残された。「豪姫」という映画の映画史上の意味はそこにあるだろう。
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