尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「サマー・ソルジャー」、脱走米兵のリアルー勅使河原宏監督の映画②

2021年06月10日 23時04分04秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督の1972年作品「サマー・ソルジャー」は、キネ旬ベストテン9位に選出されている。しかし、その割に知られてないし、見た人も多くないだろう。勅使河原監督の長編劇映画7本中、唯一ウィキペディアの項目がないぐらいだ(2021/06/10現在)。公開から半世紀近く経って忘れられたということではなく、公開当時もそんな感じだった。当時僕は高校2年生で、すでに映画ファンだったが、この映画には気付かなかった。翌年のベストテン号を見て、そんな映画があったんだと思った。僕が見たのも大分後のことである。

 「サマー・ソルジャー」はヴェトナム戦争の時代に、米軍基地を脱走した米兵をドキュメンタリー・タッチで描く映画である。日本(本土)の米軍基地は後方支援の役割を担っていて、ヴェトナムへ送られる米兵や休暇等で訪れた米兵などが多数いた。(沖縄の基地からは直接北ヴェトナムに出撃していた。)米兵の脱走はフィクションではなく、実際に横須賀に入港した空母イントレピッドから4人の米兵が脱走したケースは有名だ。彼らはベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)系の支援を受けて、ソ連からスウェーデンに亡命した。

 また、基地の周りの酒場や風俗店には多くの米兵が訪れたが、中にはそのまま基地へ戻らない兵士もいた。この映画でも冒頭で岩国基地の米兵ジムが礼子(李麗仙)に匿われている。礼子は明らかに米兵相手の飲み屋の女だが、ジムを溺愛しているらしい。警察が尋ねて来るなど不安が募って、脱走兵援助組織を頼る。これは明らかにベ平連系の「ジャテック」をモデルにしている。そこで教えられて東京に出てきて、ジムは様々な家庭を転々とする。ギターが得意で自分の作った歌を披露することもあるし、社長の知り合いと偽って自動車修理会社で働くこともある。しかし、常に周りの目に怯えていて、日本語が全く出来ないジムに安らぎはない。

 勅使河原監督の長編劇映画では「サマー・ソルジャー」だけがオリジナル脚本である。しかも日本人の脚本家ではなく、日本文学研究者のジョン・ネイスン(John Nathan)が書いている。ネイスンは三島由紀夫大江健三郎の翻訳者として知られていた。「三島由紀夫ーある評伝」(1974)の著者でもある。(翻訳が出た後で、三島未亡人の怒りを買って絶版になったが、没後に新版が出た。)そんなネイスンが何故シナリオを書いたのか。「ニッポン放浪記 ジョン・ネイスン回想録」という本に「サマー・ソルジャー」という章があるが、僕はまだ読んでない。
(ジョン・ネイスン)
 脱走米兵支援運動に関しては、いくつかの証言がある。関谷滋・坂元良江編「となりに脱走兵がいた時代」(思想の科学社)や阿奈井文彦「ベ平連と脱走米兵」(文春新書)などである。それらは支援運動の負の側面にも多少は触れているが、基本的には「人道的な市民運動」として書かれている。僕も基本的には同じ認識を持っている。戦争に負けて20数年の時点で、多くの日本人は二度と戦争は嫌だ、戦争が嫌で逃げてきた米兵を何とか助けたいと思っていた。多くの日本人が米兵を善意のみで匿ったことは誇るべき歴史だと思っている。

 しかし、それは「基本的前提」である。実際にはそんなにうまく行ったことばかりではない。今とは全く違ってほとんど外国へ行ったことのない時代だし、米兵だって日本の知識はほとんどない。異文化理解なんて発想もない時代に、双方が突然のカルチャーショックに見舞われた。特にもう一人の米兵ダリルは性的な飢餓に耐えられず女と知り合いたいと思う。観世栄夫中村玉緒夫妻では万が一を恐れて妻を実家に帰す。小沢昭一黒柳徹子夫妻では深夜に帰ってきたダリルが、妻に襲いかかる。黒柳徹子の映画出演は珍しいので大変貴重なシーンだ。

 ジムはその後訪ねてきた礼子と彼女の実家に逃げる。さらに逃げだし、長距離トラックの運転手(加藤武)に拾われて京都を目指す。運転手は小田原で娼婦をあてがってくれる。京都でも苦労し喫茶店で一人でいると米兵支援の女子学生と出会う。結局岩国に帰って基地に出頭する道を選ぶ。支援組織には「NO THANKS」と書き残す。ジョン・ネイスンは一体何を訴えたいのだろうか。脱走兵や支援運動の否定ではないだろう。善意で行動してもカルチャーギャップがあるということか。米兵も支援日本人も相互に無理解な様子が映像に残されている。
 
 当時の日本人も、どうも毎日米の飯に魚のおかずである。米兵も嫌になるはずだ。今も米飯にあじの開きという夕飯もあるだろうが、毎日魚じゃないだろう。特に子どものいる家ではハンバーグとかポーク・ジンジャーとか肉の方が多いと思う。中華もイタリアンもあるし、もっと珍しい外国料理も食べている。米兵の方だってスシぐらい食べるだろう。それを思うと、当時の中産階級が受け入れているんだろうが、ずいぶん半世紀前はまだまだ画一的な暮らし方だったなあと思う。そういう意味での時代の証言でもある。

 1972年の日本映画は、僕には「旅の重さ」(斉藤耕一監督)の年だった。キネ旬ベスト1は「忍ぶ川」(熊井啓監督)で、評判が高かったので僕は初めて東宝の封切館に行った。また日活ロマンポルノの評判が聞こえてきて、前年の「八月の濡れた砂」が良かった藤田敏八監督の「八月はエロスの匂い」を見に行ったりした。(ホントは成人指定だからダメなんだけど。)神代辰巳監督の「一条さゆり・濡れた欲情」はさすがに封切りでは見てないが、翌年銀座並木座で見て凄い傑作だと感嘆した。主に洋画を見てた時期で、「サマー・ソルジャー」に関心が向くわけない。
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