「詩と真実」とはゲーテの自伝の題名だけど、ゲーテほどの詩人じゃなくても、人には「詩と真実」があるだろう。歴史(あるいは社会科系一般)の教員も当然何らかの理想を抱いて教員を目指したはずだ。まあ理想と言うと大げさかもしれないけど、何でもいいから単に職を得たいということじゃないだろう。教師は授業を受け持つし、授業で接する生徒が一番多い。でもなって見て判るのは、自分の仕事の中で授業が占める位置の小ささではないだろうか。
社会科系授業時間が減らされていった話は先に書いたが、今では週あたり2時間、あるいは3時間程度の科目が多い。進学高校で「日本史B」「世界史B」を担当する人は週に4時間の授業をしているかもしれない。でも高校の「日本史A」「世界史A」は2単位もので、週2時間。公民科の「現代社会」「政治経済」「倫理」も2単位である。新学習指導要領で新たに設置される地歴科の「地理総合」「歴史総合」、公民科の「公共」も全部2単位科目である。
週に2時間ということは、祝日や学校行事に被ることがあるから、時には週に1回しか授業がない。最近は月曜の祝日が多いから、月曜に授業があるクラスは他クラスと時間数の差が大きい。それを考えて時間割を工夫したり、行事の方をずらしたりするけど、この差はやっぱり大きい。テストのときには、時間数が最低のクラスに合わせた試験範囲になるから大変だ。一年中追われてばかりいる。国が学力の心配をするなら、まず「ハッピーマンデー」を止めたらどうだろう。
2単位ものだと、一つの学年を全部やることが多いと思う。6クラスなら12時間だから、他学年の授業も受け持つ。少子化でクラス数が減っているから、多くの学校では2つか3つの科目を担当しているだろう。そうすると一つの科目だけに専念できない。それに6クラスあるとすれば、同じ授業を週に6回繰り返すことになる。僕の経験では、学年8クラスを担当して週に16時間の授業をやったことがあるけど、いくらその科目が好きだと言っても同じことの繰り返しには飽きてしまう。
自分が生徒だったときは常に一回切りの授業体験なので、こうしてみたい、ああしてみればなどと生意気に考えていたわけだが、実際になってみればそうも言ってられない。教師からすれば授業は「絶えざる繰り返し」という側面がある。一方、生徒指導や学校行事はやはり一回性が高く、どうしてもそっちの方が気にかかる。クラスに問題がある、保護者対応が大変といったときには、授業は「こなしていく」という意識でやっていくこともある。
そんなに理想的な学校ばかりではないのだから、どうしてもそうなってしまう。そういう現実の中で、果たして「歴史総合」という科目はどうなるか。これは日本史、世界史を総合した近現代史に特化した高校の必履修科目だから、やがて国民のほとんどが受けることになる。指導要領の最初の方に、「諸資料から歴史に関する様々な情報を適切かつ効果的に調べまとめる技能を身に付けるようにする」とあるように、「アクティブラーニング」的に展開することが求められる。
こういう科目の必要性は理解できる。世界史、日本史のどっちかだけで高校を卒業できてしまい、世界の近現代のことはほとんど知らない…ということじゃいけない。だから方向性としてはいいと思うけど、多分2単位でこれを展開しても、あまり大きな成果はあがらないだろう。また今回の指導要領に顕著なことは、「領土問題」への過度なこだわりだ。地歴・公民のどこを見ても、北方領土、竹島、尖閣諸島のことが明記されている。科目の目標と時間数から見て、日本の領土問題はそれほど大きく扱うべきことなのか。もちろん実際には、できるもんじゃないだろう。
このように政権の考え方が教育現場にストレートに持ち込まれる時代になっている。だからこそ教員側には「何のために教師になったのか」をはっきり意識することが必要だ。社会科教師であっても歴史が専門の人ばかりじゃないし、特に近現代史の史料をちゃんと読んでいるとは限らない。「歴史総合」を実施するためには、教員に対する研修も大事だ。しかし、そういうことだけでは多分ダメだと思う。教師であることの「詩」の部分、何のために過去の出来事を学ぶ意味があるのか、生徒に真正面から語る大切さである。「戦争」の歴史をちゃんと伝えていくこと、「民主主義」や「選挙」の意味を伝えていくこと。それは社会科の教員に課せられた歴史的使命だ。
何のために教師になったのか。時にはそんなことを聞いてくる生徒もいる。その教科が好きだったとか、生徒と接することが好き、影響を受けた先生がいるなどいろいろあるだろうが、ここでは思い切って、「世界平和のため」とか「愛のため」と言ってみてはどうか。一度言っちゃえば自分でも恥ずかしくなくなるし、案外そういうことなのかと自分も生徒も納得しちゃえると思う。
社会科系授業時間が減らされていった話は先に書いたが、今では週あたり2時間、あるいは3時間程度の科目が多い。進学高校で「日本史B」「世界史B」を担当する人は週に4時間の授業をしているかもしれない。でも高校の「日本史A」「世界史A」は2単位もので、週2時間。公民科の「現代社会」「政治経済」「倫理」も2単位である。新学習指導要領で新たに設置される地歴科の「地理総合」「歴史総合」、公民科の「公共」も全部2単位科目である。
週に2時間ということは、祝日や学校行事に被ることがあるから、時には週に1回しか授業がない。最近は月曜の祝日が多いから、月曜に授業があるクラスは他クラスと時間数の差が大きい。それを考えて時間割を工夫したり、行事の方をずらしたりするけど、この差はやっぱり大きい。テストのときには、時間数が最低のクラスに合わせた試験範囲になるから大変だ。一年中追われてばかりいる。国が学力の心配をするなら、まず「ハッピーマンデー」を止めたらどうだろう。
2単位ものだと、一つの学年を全部やることが多いと思う。6クラスなら12時間だから、他学年の授業も受け持つ。少子化でクラス数が減っているから、多くの学校では2つか3つの科目を担当しているだろう。そうすると一つの科目だけに専念できない。それに6クラスあるとすれば、同じ授業を週に6回繰り返すことになる。僕の経験では、学年8クラスを担当して週に16時間の授業をやったことがあるけど、いくらその科目が好きだと言っても同じことの繰り返しには飽きてしまう。
自分が生徒だったときは常に一回切りの授業体験なので、こうしてみたい、ああしてみればなどと生意気に考えていたわけだが、実際になってみればそうも言ってられない。教師からすれば授業は「絶えざる繰り返し」という側面がある。一方、生徒指導や学校行事はやはり一回性が高く、どうしてもそっちの方が気にかかる。クラスに問題がある、保護者対応が大変といったときには、授業は「こなしていく」という意識でやっていくこともある。
そんなに理想的な学校ばかりではないのだから、どうしてもそうなってしまう。そういう現実の中で、果たして「歴史総合」という科目はどうなるか。これは日本史、世界史を総合した近現代史に特化した高校の必履修科目だから、やがて国民のほとんどが受けることになる。指導要領の最初の方に、「諸資料から歴史に関する様々な情報を適切かつ効果的に調べまとめる技能を身に付けるようにする」とあるように、「アクティブラーニング」的に展開することが求められる。
こういう科目の必要性は理解できる。世界史、日本史のどっちかだけで高校を卒業できてしまい、世界の近現代のことはほとんど知らない…ということじゃいけない。だから方向性としてはいいと思うけど、多分2単位でこれを展開しても、あまり大きな成果はあがらないだろう。また今回の指導要領に顕著なことは、「領土問題」への過度なこだわりだ。地歴・公民のどこを見ても、北方領土、竹島、尖閣諸島のことが明記されている。科目の目標と時間数から見て、日本の領土問題はそれほど大きく扱うべきことなのか。もちろん実際には、できるもんじゃないだろう。
このように政権の考え方が教育現場にストレートに持ち込まれる時代になっている。だからこそ教員側には「何のために教師になったのか」をはっきり意識することが必要だ。社会科教師であっても歴史が専門の人ばかりじゃないし、特に近現代史の史料をちゃんと読んでいるとは限らない。「歴史総合」を実施するためには、教員に対する研修も大事だ。しかし、そういうことだけでは多分ダメだと思う。教師であることの「詩」の部分、何のために過去の出来事を学ぶ意味があるのか、生徒に真正面から語る大切さである。「戦争」の歴史をちゃんと伝えていくこと、「民主主義」や「選挙」の意味を伝えていくこと。それは社会科の教員に課せられた歴史的使命だ。
何のために教師になったのか。時にはそんなことを聞いてくる生徒もいる。その教科が好きだったとか、生徒と接することが好き、影響を受けた先生がいるなどいろいろあるだろうが、ここでは思い切って、「世界平和のため」とか「愛のため」と言ってみてはどうか。一度言っちゃえば自分でも恥ずかしくなくなるし、案外そういうことなのかと自分も生徒も納得しちゃえると思う。
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