尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「男はつらいよ」が終わり、野茂はメジャーで活躍したー「現在史」の起点1995年①

2025年01月01日 22時34分24秒 | 社会(世の中の出来事)

 2025年という年は、1995年から30年であり「昭和100年」に当たる。1995年は当時を生きていた人にとって、驚天動地の出来事が相次いだ「災厄の年」だった。日本で生きていた人には、1995年(とその周囲の数年)が時代の変わり目だったことが実感出来るはずだ。「1995年」を我々が今生きている「現在」の起点として考え、その意味を数回にわたって考えてみたい。

 かつて社会学者の見田宗介氏は「戦後日本」を3期に分けて、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」と呼んだ。(生と死と愛と孤独の社会学参照。)第1期と第2期の境目は1960年頃で、高度成長時代が始まった。第2期と第三期の境目が1970年代前半で、高度成長時代が終わった。それ以後が「虚構の時代」だが、それも1995年頃に終わったと思う。「犯罪」を指標にすれば、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」があり、多くの人の実感に合うだろう。

時代区分」というものは、今まさに歴史の現場で生きている我々にはなかなかつかめない。政治経済の場合は、一応はっきりとした指標がつかみやすいが、社会全般や文化などはゆっくりと変わっていく。それでも1990年代後半から21世紀に掛けて、携帯電話インターネットが一般的になった。「Windows95」が発売された1995年が指標の年となるだろう。

 政治では1993年細川護熙内閣が誕生したときから、政党の組み合わせは変わったとしても「連立内閣」が常態となった。現在も自民党と公明党の連立である。1995年は前年の1994年に成立した村山富市内閣だった。社会党、新党さきがけが擁立した村山社会党委員長に、当時野党だった自民党が相乗りした変則的な連立である。1995年は「戦後50年」に当たり、「村山談話」が出されたのは非常に象徴的だった。しかし、この社会党首相の誕生は「社会党(的なもの)の消滅」をもたらした。

 自社さ連立政権は、1995年の統一地方選で思わぬ結果をもたらす。国政主要政党が相乗りした候補を擁立したため、それに反発した「タレント候補」が出馬したのである。1968年の参院選全国区で当選して元祖タレント候補と呼ばれていた青島幸男が東京都知事、横山ノックが大阪府知事に当選した。これは誰も想定しなかった「無党派の反乱」と受け取られ、大きな衝撃を与えた。結果的に青島は一期で引退、横山は二期目に当選したが選挙運動期間中にわいせつ事件を起こし有罪となった。

(都知事に青島幸男氏が当選)

 1995年は結果的に『男はつらいよ』シリーズの最終作が公開された年になった。1995年12月23日に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』は、毎年1~2作作られてきたシリーズの実質的な最終作となった。それは主演俳優の渥美清の体調という個人的な要因によるものだけど、95年が寅さんシリーズの終わりだったということは「時代の変わり目」を象徴する感じがする。1969年から続いてきた映画シリーズは、2年後に特別編が作られたが、それはもはや渥美清の新作ではなかった。

(男はつらいよ 寅次郎紅の花)

 この映画を撮るとき、すでに渥美清は肝臓ガンが肺に転移して主治医は出演不可能と言ったという。山田監督も渥美の体調を案じて最終作になるかもと考え、マドンナに最多となる4度目の浅丘ルリ子リリーを登場させた。浅丘もこれが最後と覚悟し、監督に「寅さんとリリーを結婚させて欲しい」と直訴したという。山田監督は50作まで作ることを予定し、すでに次作を書き出していた。だから結婚まではしないのだが、リリーと寅さんは奄美諸島の加計呂麻(かけろま)島で一緒に住んでいた。

 そして寅さんは映画の最後に、震災に見舞われた神戸に現れる。1995年は阪神淡路大震災が起こり、全く想定されていなかった大被害をもたらした。史上初めて「震度7」が記録されたのである。そして被災地の熱い要望に応えて、病身の渥美清はその長い芸歴の最後に「震災ボランティア」を演じた。たまたまふらっと神戸に現れたという設定の寅さんは、「本当に皆さんご苦労様でした」が最後のセリフとなった。その後多くの災害を体験した日本人に遺した予言のような言葉じゃないだろうか。

 1995年にはもう一つ全く予期されていなかったことが起きた。それは野茂英雄がアメリカの大リーグで活躍したことだ。近鉄バファローズにいた野茂投手は望まれて温かいムードで大リーグに渡ったのではない。1990年に入団し、その年から4年連続最多投手となった野茂は、94年シーズンは8勝7敗と低迷した。鈴木監督との折り合いも悪く、契約更改でもめて自由契約となり、ドジャーズとマイナー契約を結んだのである。これは村上雅則以来32年ぶりのことだった。

(アメリカで活躍した野茂英雄投手)

 誰も日本人野球選手がアメリカで通用するなどと考えてはいなかった。だから移籍に関するルールもはっきりとしていなかった。結果的には6月2日に初勝利を挙げ、13勝6敗で新人王となった。「トルネード投法」が流行語となり、その後2度のノーヒットノーランを記録した。アメリカで2008年まで活躍し、123勝109敗。日本時代の78勝と併せて、日米通算201勝となっている。今テレビを付ければ、シーズン中は毎日大谷翔平のニュースを大きく報じている。野茂に続きイチローや松井秀喜のように野手もメジャーに渡った。サッカー、バスケ、バレーなど他競技でも多くの日本人選手が外国で活躍している。野茂が切り開いた道だ。

 1995年の「新語・流行語大賞」の年間大賞は「無党派」「NOMO」「がんばろうKOBE」の3つだった。トップテンには「ライフライン」「安全神話」「官官接待」「インターネット」などが選ばれている。無党派やインターネットも「新語」だったのである。そこから30年経った。この30年は一体どんな変化を日本に及ぼしたのか、数回考えてみたい。


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