尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「スポーツウォッシング」をどう考えるかーパリ五輪③

2024年08月16日 22時20分16秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京は毎日猛暑が続くが、今日は久しぶりに30度に届かなかった。台風7号の接近によるものだが、週初めから週末は台風に警戒と言われ、東京・名古屋間の新幹線が計画運休するなどした。そこで今週は昨日まで猛暑の中を頑張って出掛けて、今日は休むことにした。ところが自宅周辺は雨風ともに大したことなく(というかほとんど雨も降らず)、何だという感じの一日だった。

 もう一回パリ五輪関係の記事を書いておきたい。今度は「スポーツウォッシング」(sportswashing)についてである。僕はこの言葉を今回初めて聞いたのだが、Wikipediaに項目があって2015年にアゼルバイジャンで行われたヨーロッパ選手権の時に初めて使われたという。ヨーロッパ選手権というのは「アジア大会」のヨーロッパ版で、そういうのがあるわけだ。

 日本では2023年11月に集英社新書から西村章スポーツウォッシング なぜ<勇気と感動>は利用されるのか』という本が出ていることが判った。西村章氏(1964~)は主に二輪ロードレースを取材してきたスポーツジャーナリストで、2010年に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞、2011年に第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞したと出ている。
(『スポーツウォッシング』)
 僕はその本を知らなかったが、内容を簡単に紹介すると、「「為政者に都合の悪い政治や社会の歪みをスポーツを利用して覆い隠す行為」として、2020東京オリンピックの頃から日本でも注目され始めたスポーツウォッシング。スポーツはなぜ”悪事の洗濯”に利用されるのか。その歴史やメカニズムをひもとき、識者への取材を通して考察したところ、スポーツに対する我々の認識が類型的で旧態依然としていることが原因の一端だと見えてきた。洪水のように連日報じられるスポーツニュース。我々は知らないうちに”洗濯”の渦の中に巻き込まれている!」と書かれている。

 オリンピックやサッカーのワールドカップはあまりにも巨大な商業的イヴェントとなり、参加国のナショナリズム高揚のための仕組みになっているという批判はこれまでにもあった。競技数が増えすぎてオリンピックを開催できる国は限られて来ている。昔開催したことがあるストックホルムやヘルシンキ、アムステルダムなどではもはや難しい。アジア、アフリカの国々でも開催可能な都市は幾つもないだろう。そういう議論は前からあったと思うが、「悪事の洗濯」というのは新しい視点かなと思う。

 そもそもオリンピックは「アマチュア選手の祭典」として始まったわけだが、今は完全にプロ選手の争いになっている。もともと五輪競技だったサッカーなどはともかく、ゴルフやテニスなどプロ競技として確固たる存在感のある競技まで実施されるようになった。もっと大きな大会を転戦している選手たちにとって、オリンピックはどの程度の重みがあるのだろうか。(男子サッカーの場合、五輪では「23歳以下」という条件を付けている。)プロリーグがない競技でも、プロとなって活動してる選手が多くなった。
(スポーツウォッシングによって毀損されるもの)
 そうなると選手や競技団体も自分たちの生活がかかっている。政府は補助金を出して選手強化を図り、選手たちは「結果」を求められる。その結果(メダル)を獲得することで、国民は選手たちを「英雄」としてもてはやし、メディアも選手たちの動向を詳しく報道する。そのため、本来追求されるべき物事がなかったことにされる。東京やパリでもそういう部分がいっぱいあったが、北京の夏冬の五輪、あるいはソチ冬季五輪2018年のワールドカップロシア大会などはまさに「スポーツウォッシング」だった。

 そのことは忘れないようにしないといけないと思う。だが「スポーツウォッシング」だから「オリンピックは見ない」、「ナショナリズム高揚の装置」だから「ワールドカップは見ない」とまで言うと、僕はちょっとどうかなと思う。オリンピックほど巨大ではないかもしれないが、およそあらゆるスポーツ大会には似たような側面がある。プロ野球や高校野球も見ないのだろうか。それは単にスポーツ観戦に関心がないというだけなのではないのか。

 スポーツ以外の音楽、映画などでも巨大な市場が形成されている。これらの分野では作者の政治的主張を盛り込んだ作品も存在しているが、それはアート市場の片隅で許容されるだけだ。主にヒットしているものは(特に日本では)「現実逃避」的なものが多い。そして、そういう「大衆娯楽」的なものを一切拒否して生きることは不可能である。8月はマジメに戦争を考えるべき時で、戦争ドキュメント番組は見ても良いけど、他のテレビ番組は見ちゃいけないなんてことになったら、それこそ「戦前と同じ」である。

 僕はオリンピックを(見られる時間にやってる限りにおいて)見たけれど、それは他の番組より面白いからだ。世界最高レベルの選手の争いがナマでやってるんだから、面白くないはずがない。日本では団体球技の人気が高いが、サッカー、バレーボール、バスケットボールなど誰でも学校でやったことがある。卓球やバドミントンも同様だろう。ルールは少しずつ変わっていくが、基本は不変。これらの競技が全世界で行われているのは、要するに面白いのである。

 オリンピックは地上波テレビ放送で見た人が多いらしい。インターネットですべての競技が見られたが、ただスイッチを入れれば良いテレビの方が便利だ。そして付けるとアナウンサーや解説者が絶叫してたりしてうるさい。日本のスポーツ中継は概して騒音レベルである。だけど、僕は聞いてないから良いのである。コマーシャルと同様に耳が自動的にシャットアウトしてしまう。

 「スポーツウォッシング」という概念は、他分野にも応用出来る。例えば「万博」もウォッシング装置だろう。重要な考え方だが、オリンピックや他のスポーツ中継を面白いと思う人は、見れば良い。好きなものを見る自由は手放せない。

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