尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

仏文科人事問題ー『学生反乱』を読んで②

2023年05月08日 22時43分28秒 | 自分の話&日記
 『学生反乱』を読んでの2回目。1969年に起きた「立大闘争」はどこから始まったか。それは「仏文科人事問題」だったのである。卒業生でもそのことを知っている人は少ないだろう。その前に立教大学そのものの説明を前提として書いておきたい。立教大学には池袋キャンパス新座キャンパスがあるが、新座キャンパスは1990年開設なので僕の時はなかった。
(本館)
 池袋キャンパスは、山手線池袋駅西口から徒歩10分程度のところにある。画像を検索すると大体最初に出て来るのが、上記のような蔦の絡まるレンガの校舎である。これは本館(モリス館)と呼ばれ、東京都選定の歴史的建造物の指定を受けている。その近くには第一学食チャペルなど同じく指定を受けた歴史的建造物が並んでいる。「立教通り」南側に「美観地区」が広がっているわけである。そこでも授業はあるが、主に通っていたのは「立教通り」北側の「5号館」で、その隣に文学部と法学部が入る「6号館」がある。(その奥に、旧江戸川乱歩邸=平井隆太郎元立大教授宅があって、現在は立教大学が管理して公開されている。)
(5号館)(6号館)
 その当時、文学部には8学科があった。1922年に私立大学が公認されたとき、文学部には英文学科、哲学科、宗教学科が置かれていた。戦後に新制大学になったときには、キリスト教学科英米文学科、社会学科、史学科、心理教育学科が置かれた。その後、1956年に日本文学科を設置、58年に社会学科が社会学部に昇格して廃止。1962年に心理教育学科を心理学科教育学科とした。そして翌63年にフランス文学科ドイツ文学科が新設されたのである。
 
 69年当時に存在した8学科を太字にして示した。僕が通った70年代後半もこの体制である。(ちなみに2006年に心理学科は現代心理学部に昇格して新座キャンパスに移った。同時に文学系学科をまとめて「文学科」として、その中に英米文学専修、フランス文学専修、ドイツ文学専修、日本文学専修、文芸・思想専修を置くことにした。従って、現在はキリスト教学、文学、史学、教育学の4学科体制になっている。)60年代の高度成長で、大学進学率も上昇していた。各大学も学部、学科の新設を進めていた時代だが、当時はヨーロッパ文化への憧れが強く「仏文」「独文」が大学の魅力を高めた時代なのだろう。

 もちろん、学内には仏文学科を支えられる人材はいない。そこで重要になるのが、東大と私大との「定年」の差である。東大教授は60歳定年なのに対し、立教は原則65歳だったので、東大を定年になった教授を迎えることが可能になる。(立教より定年年齢が高い私大も多く、立教定年後に別の大学へ移る教授も多くいた。まあ、呼ばれるだけの学問的業績がある人の場合だが。)そこで東大を退職した渡辺一夫氏を62年に立教に招き、準備期間を置いて63年に仏文科を開設したのである。渡辺一夫氏と言えば、この人の本を読んで大江健三郎が東大仏文を目指したというフランス文学の大家である。立教に招いたのは、大きな意味があっただろう。
(渡辺一夫氏)
 また同じく東大元教授の杉捷夫(としお)氏を招き、川村克己渡辺一民村松剛の計5人体制で仏文科が運営されていた。ところで、東大から招いた渡辺、杉両重鎮は数年すれば立教の定年になる。(当時は「原則」65歳だが、定年を越えて在籍する教授も多かったという。「紛争」を経て、定年制の厳格実施が決まったと『学生反乱』に出ている。僕の時代に新進気鋭の教員が多かったのは、そのような理由があったのである。)そこで、2名の教員を補充することになった。

 そして候補となったのは、一般教育部助教授だった新倉俊一高橋武智の両氏だった。「一般教育部」は、大学生活前半の一般教育に携わる教員で構成された部だった。「リベラルアーツ」(一般教養)を重視した立教では、独自の教授会を持つ存在だったのである。特に当時は「第二外国語」が必須で、それもドイツ語、フランス語に限られていた。そのため、語学を教えることを中心にしてまず一般教育部に迎えられ、その後に文学部に転籍するというコースがあったわけである。

 そして一般教育部教授会は、2人の転籍を了承した。それに続き、3月13日に文学部教授会が開かれたが、予想外なことに両氏の受け入れを了承する票が「3分の2」(人事案件は重要事項のため、過半数ではなかった)に達せず、否決となったのである。松浦氏の記述によれば、これは全く受け入れがたい結果だった。何故なら、投票に先立って受け入れを否とする意見は出されず、討論も行われなかったからである。8学科もあって、それも学問分野がかなりかけ離れているから、他学科の業績評価は難しい。そこで従来は「学科自治」を尊重して、学科が了承した人事はそのまま教授会で了承されることが常だったという。
(新倉俊一氏)
 当時は一般教育部所属の教員も、学部の授業を一部担当し協力してカリキュラムを構成していた。ところが、文学部の受け入れ不可に驚いた一般教育部では、両氏の再受け入れを決めるとともに、文学部への出講を取り止める措置を取った。一般教育部を怒らせてしまったのである。そこでフランス文学科のカリキュラムを再考せざるを得なくなり、履修登録日も延期された。この状況に不審を抱いた「仏文科学生一同」が4月17日に「文学部教授会への公開抗議書」を提出した。そして5月になると、単に仏文の問題に止まらず、文学部教授会への不信を強めた学生たちが「文学部共闘会議」を結成したのである。

 その後の経過は次回に回すが、では何故両氏の受け入れが認められなかったのだろうか。無記名投票なので、誰が否としたかは判らない。その後の経過を経て人事案は再議され、結局両氏は文学部に受け入れられることになる。その中で、新倉俊一氏はさらに1978年に助教授として東大に移籍し、中世フランス文学の大家となった。新倉氏の学問業績は十分だろう。一方の高橋武智氏は、1971年に立教大学を退職することになった。その理由は21世紀になるまで不明だったが、『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた…… - ベ平連/ジャテック、最後の密出国作戦の回想』(作品社、2007)という著作により、事情が明らかにされた。
(高橋武智氏)
 高橋氏は「ベ平連」の中でも、脱走米兵を国外脱出させる秘密プロジェクトの責任者を引き受けざるを得なかったのである。だから、69年当時もベトナム反戦運動に関わっていたことは知られていたのではないか。そして、そのことを忌避する教員がいたのではないか。僕はそのように予想するのだが、正しいかどうかは不明である。
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