尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

議員は誰の代表か―選挙制度論議②

2013年05月14日 21時02分23秒 |  〃  (選挙)
 選挙制度に関する議論は、衆参とも現行制度が最高裁で憲法違反とされる可能性が高いという異常な状態にあることから起こっている。ところが、最近この「違憲判決」そのものを批判する意見が見受けられてビックリした。「一票の格差」を突き詰めると、地方の議席を削り都市の議席を増やすということにならざるを得ない。その結果、ますます都市の大企業の影響が強くなり、地方の農業切り捨てがどんどん進行するのではないか。都市の弁護士中心に進められる「違憲訴訟」も、その傾向を強めてしまう。これでは形式的には憲法にあう国会になったとしても、実質的には国民を不幸にする改革になるというのである。

 これは僕には「議会制民主主義」と言うものに対する理解不足ではないかと思うけど、その背景にあるものはかなり大事な問題ではないかと思う。どうして僕が「理解不足」と言うかと言えば、この議論では「地方出身政治家は選出された地方の利害を代表するのが当然」という考え方が前提とされているからだ。都市選出政治家は都市の利害を代表する。だから、もし都市部と地方の利害の対立すれば、各議員はその選出地域の利益を守ろうと行動するのが当然だということになる。これは困った考え方である。それでは少数派の利益は誰が守ってくれるのか。もし仮に「沖縄」と「沖縄以外」の利害が衝突するというケースがあれば、沖縄選出議員の数は限られているから、必ず国会では「沖縄以外」の考えが通ることになってしまう。その他の問題も同様。

 国会議員は一部の代表、選出された地区の代表ではなく、たまたまそこの選挙区で選ばれただけで、全国民の代表である。日本国憲法第43条では、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と書かれている。まあ、こういうところは読み過ごすところである。「国会議員は国民の代表」なんて言う言葉も、聞いただけでは当たり前ではないかと聞き過ごすような言葉である。でも、その意味するところは重い。

 国会で決まったことには全国民が従わなければならない。国会で決まった法律は官報に掲載されるが、そんなものを読んでる人は普通いないだろう。だから「法律改正を知らなかった」と争った裁判があるが、それは情状酌量の理由にはなるが、無罪の理由にはならない。どうして国会で決まった法律に従う必要があるかと言うと、「全国民の正当な代表」が決めたからである。(もちろん、法律や規則、政令等で、その決まりは憲法違反であるという裁判を起こすことができ、その結果その法律は改廃されることもある。最近では薬のネット販売が最高裁判決でガラッと変わった例が印象的である。)

 もちろん現実には議員には支持者があり、その支持者を見て政治活動をしている。それどころか、自分自身の利害を考えて政治を行っているような政治家もいるのかもしれない。それでも、その国会議員は全国民の代表だとみなして政治をゆだねる。だから沖縄選出ではない議員でも、沖縄の基地問題を論じて構わない。原発立地地域でない議員も、原発問題を考えて決める権限がある。そういう風に考えておかないと「代議制」「議会制民主主義」は成り立たないのである。だから実際は愚法、愚策がいっぱいあるけど、一応それは合法性を持っていて、政治が行われているわけである。

 地方選出だろうとどこ選出だろうと、それは全国民の代表。従って、どこに住んでいる国民でも一票の価値の平等が求められる。よって現行の選挙制度はおかしいということになる。
 
 では、各地方の意見を生かす道はないのだろうか。それはないことはない。今までの議論は、「日本のどこに住んでいても同じ国民」ということを前提にしている。憲法にはそう書いてある。それに対して、「連邦制」を取ると言うならば話は別である。各地方が事実上独立し、それぞれ州法、州最高裁、州兵などを持つ別個の独立体になるということである。今主張されている「道州制」ではない。今の「道州制」は単なる地方自治制度の変更である。連邦と言う場合は、もう自治ではない。各地方が独立するのに等しい。または、住民選出の国会をなくしてしまう。各地方の産業や文化などの代表を集めて、それを国家の最高機関とする。普通選挙はやめる。中国の全国人民代表大会みたいなものである。そういう方が事実上国民の意見を反映するという意見が多くなれば、日本が西欧型民主主義を放棄して「中国化」するわけである。以上のような憲法改正が実現するなら、「各県代表2人」で参議院を作るというようなことが可能になると思う。それまでは無理だろう。

 昨年までの巨大与党、民主党はほとんど「2009年のマニフェストの文言を守れるかどうか」の内部的議論だけに終始して分裂して自滅した感がある。これも考えてみればおかしな議論だった。参議院で過半数を失ったのだから、参議院の多数派を形成するために当時の野党と一定の妥協をせざるを得ない。その妥協の中身、またそこへ至る説明が十分かどうかと言う問題はあるが。「国会議員は公約を破る」と批判され続け、その結果「マニフェストで約束したことにこだわる」という政党が現れた。それはいいけど、実際に政権を取ればすぐに実現不可能なこともいっぱいあるはずである。(そうでないと魅力的な「野党のマニフェスト」にならない。やってみたらうまく行かないような理想も書かなければ、政権交代する意味がないじゃないかと言うことになる。)「国会議員は選ばれたら何でもやっていい」と言ってしまうと、国民との信頼関係は築けない。しかし「選挙で公約したこと以外は何もしてはならない」とまで言えば、それも政治が進まない場合があるだろう。要は「与野党ともに国民全体の代表」だという大原則を各議員がよく理解しているということだろう。小選挙区で勝ちぬいた議員は、自分を支持しなかった有権者をも自分は代表しているという自覚をもって政治を行う必要がある。
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