尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

文書の自由を-選挙を変えよう③

2013年05月08日 23時45分49秒 |  〃  (選挙)
 ネット選挙が今まで認められなかった理由は、総務省がホームページを「文書」とみなしたからだが、それはおかしかったのではないかと書いた。そういう、「果たしてホームページが文書に当たるかどうか」と言う問題もあるけれど、そもそも文書だとしたら一体なぜダメなのか

 今の公職選挙法では、選挙運動に非常に細かい制限が付けられていて、演説や電話に比べてチラシを配ったりハガキを出すのが不自由がある。常識で考えて、迷惑度が高い街頭演説や電話の方を禁止して、家にチラシを配ったりハガキを出す方を自由にすべきではないのか。候補者でもそうなんだから、有権者の方は個人的な文書を配ることはできない。もちろん言論、表現の自由はあり、信書の秘密もあるから、こういう候補者がいますと郵便で知り合いに知らせることは違法とは言えないだろう。でも、誰々に投票をお願いしますというチラシを個人で作って、住んでいるマンションのメールボックスにまいて行くということはできない。(選管に届け出たチラシを配ることはできる。)

 自分で郵便は出せないけど、選挙ハガキと言う不思議なモノが届いたりする。一体あれは何だろう。あれも個人で切手を貼って出してはいけない。候補陣営に集約してまとめて出すことで、何と無料になる。(ハガキの印刷は候補者負担だけど。)民営化した日本郵便がなんでそういうハガキを扱わないといけないのか。しかも、衆議院選挙の小選挙区候補は3万5千枚まで出せるのに、都議選なんかたった8千枚である。足立区の有権者は50万人以上いる。衆院選は西の方が北区と一緒になり東京12区、残りが東京13区。だから足立区全体で6人を選ぶ都議選の方が有権者が多い。50万のうち8千では、2%にも届かない。(時々選挙ハガキが来たりするけど、妙に入れないつもりの陣営から来るのも不思議だ。)

 さて、このように文書制限が厳しい理由を考えてみた。以下は憶測で証拠はない話だけど。まず日本では選挙は「外来思想」であって、「議論して一番いいと思った候補に投票するもの」ではなかったのである。もちろんタテマエとしては、選挙で議論をすることを否定できない。だから選挙でビラやチラシを配ることもできなくはない。でも、選挙と言う制度を簡単に言えば、地域のボス(よく言えば「名望家」)を名誉職に送り込むシステムだったわけである。だから、議論をする必要はない。一応政策めいたものはあるけど、基本は「目上のものが談合して決めた候補者」を「目下の者は黙って投票所に行って名前を書いてくればいい」ということになる。

 こういう地域有力者の保守政党に反発してできたはずの「革新政党」(社会党)にとっても、選挙は労働組合や(昔は)農民組合の中の「名望家」を名誉職に送り込む装置だった。公明党や共産党だって、候補者決定の予備選があるわけではなく、中央で決まった候補者を地域の運動家が一生懸命応援するわけである。「身内の票固め」がまず選挙運動であり、相互に議論する場ではなかったわけである。

 だから選挙は候補を信じて有権者に「一任」をお願いする場である。保守政党の候補にいれると、平和が脅かされたり、生活が破壊されるなどという「革新政党のデマ」を書いたビラが大量にばらまかれたら、それは困った事態となる。それが本当のことだからではなく、議論をする場でもないのに一々細かい政策を突っつくこと自体が「秩序破壊」に見えるわけである。ビラを作るのが得意なのは、何と言っても労働組合である。自由にまいてよかったら、組合員が勤務後にガリ版を切って輪転機をまわし、刷り上がったビラをどんどん撒いて行くだろう。そういう心配が、文書制限の本当の理由ではないか。

 もう一つ、文書を撒くというのは、事実上の戸別訪問に近い。戸別訪問そのものも、もう解禁してよいと思うのだが、日本で禁止されているのは「買収の危険」だという話である。家を訪ねるのを自由にしたら、確かにそうなることもある。選挙運動ではなくお参りだと称して、有権者の家に線香を配って買収に問われたケースもかなりある。ビラまきを自由にしたら、その時にビラ以外の金品も置いてくるかもしれない。また、保守党候補は会社やお店の経営者、あるいは有力支持者に有力企業が付いていると言ったことが多い。ビラが事実上のクーポン券になることもあるかもしれない。そういう心配をしだすとキリがない。

 しかし、もうそういう心配をする時代ではない。インターネットを選挙に解禁するとはどういう意味だろうか。単に便利なツールを許可すると言うだけなのか。そうではないはずである。戸別訪問を許可して、現金やモノを配る陣営があるとする。今では、それは録画録音されてネットに投稿されるだろう。あるいは配ったものがデジカメで撮られて、ブログやツイッターで世界に発信される。あるいは警察に通報される。そういうことがあるかもしれないと思うから、多分どの陣営もそんなことは今やできない。

 文書もそうである。ネットはもともと21世紀になった頃から、パソコンの普及により日常化していった。それ以前に日本ではワープロが普及していた。ワープロとは、文書処理機能に特化したパソコンである。80年代半ば以後、もう手書きの試験問題などは学校で少なくなっていた。ワープロは一機で印刷できたが、パソコンはできない。だからパソコンを買った人は、ほとんどはプリンターも買っているはずである。プリンターの普及で、「家に印刷所ができた」と漫画家のサトウ・サンペイさんが昔書いていた。実際、犬が行方不明などというチラシが、昔は手書きの殴り書きみたいだったのが、最近はカラーで犬の写真を入れたきれいなポスターみたいな物になっている。

 家に印刷所があるのと同じ社会になったのに、なんで文書を選挙で利用できないのか。選挙ハガキはやめて、個人でハガキで知人に投票を呼び掛けるのを自由にしたらどうか有権者がビラを作って周囲に配布するのを自由にしたらどうか。もちろん、デマを書いてはいけない。誹謗中傷はいけない。刑法の名誉棄損に触れるような言論は当然してはならない。それに加えて、「選挙妨害」になるビラ配布は取り締まらなくてはならない。配布責任者が書いてないビラは、もちろん「怪文書」で選挙妨害である。でも、皆が議論できる社会を作るためには、ネット上の議論ができるだけではなく、ネットを使えない高齢者もいるんだから、有権者の文書配布を自由化することも必要だと思う。それが、ネット解禁、つまりパソコン使用環境の広がり、つまりはプリンターが多くの家にあるという社会にあった選挙運動ではないかと考えている。
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映画「偽りなき者」

2013年05月08日 00時30分07秒 |  〃  (新作外国映画)
 デンマーク映画、トマス・ヴィンダーベア監督「偽りなき者」を見た。昨年のカンヌ映画祭で最優秀男優賞を獲得した映画。非常に重くて暗い傑作で、それは最高賞の「愛、アムール」や最優秀女優賞の「汚れなき祈り」なんかも同じだけど、この映画の方がいい気がする。東京では、ヒューマントラストシネマ有楽町で上映中。今週は昼一回。来週は昼と夕方。なお、カンヌで受賞した「闇の後の光」(東京国際映画祭で上映)や「リアリティ」(イタリア映画祭で上映)一般公開して欲しい。またウォルター・サレス監督がケルアックを映画化した「オン・ザ・ロード」はどうなった?)


 デンマークの地方の小さな町、そこでは男たちが集って鹿狩りをするような町である。ルーカスは妻と別れ一人息子に会えない状態。一人暮らしで、幼稚園に勤めている。親友の幼女クララと仲良くなるが、ちょっとしたことでクララは、幼稚園内でルーカスに性器を見せられたというような証言を園長にしてしまう。そこから、皆がクララの証言のみを信じてしまい、ルーカスは性的変質者とみなされ地域社会で孤立してしまう。息子は心配して駆けつけるが、その眼前で逮捕までされてしまう。クララに次いで多くの証言が出てきたと言うが、その証言はみな「地下室でいたずらされた」というもので、警察が調べると地下室そのものがない。だから釈放されるが、どこでも受け入れられない状況が続く。

 非常に重苦しい映画で、主演のマッツ・ミケルセンが熱演。ずっと画面はミケルセンを映しているので、クララがちょっとした悪意でウソを言ったことは観客に判っている。(クララの贈り物をクララからだけ受け取るわけに行かないので返したことへの仕返し。)観客が「本当はどちらが正しいのか」と判断に迷うような映画ではない。だからこそ、あれよあれよと言う間に、地域の中で「変態」と決めつけられ排除される怖さが際立つ。これは世界中で、似たようなことが起こる怖さがある。原題は「狩り」で、狩猟シーンがあることと、「魔女狩り」の風土という両方の意味だろう。ルーカスも鹿を狙うが、鹿のように狙われる存在にいつ転落するか、誰にもわからない。

 内村鑑三以来、日本人にとってデンマークはいい国の代表のような感じだが、最近よくあるデンマーク映画を見てると、どこも同じだなと思う。日本でも「痴漢冤罪」という出来事があるが、決めつけられたら言い分を聞いてもらえないことが多い。特に性的虐待の問題は、「被害者」を保護する必要から、ウソを見抜けないこともある。そういう話の小説や映画もかなりあったと思う。この映画の場合、クララは「線をまたげない」という「こだわりの強い」タイプで、ある種の発達障害的な部分がある。そこを考えると、非常に丁寧な対応が必要だったと思う。

 ルーカスは前に勤めていた学校が閉鎖になり、幼稚園に勤めていると冒頭部分で説明される。学校が閉鎖になるというのは、過疎の町と言うことかなと思った。でも、だから幼稚園に転勤するというのは日本では考えられない。それに「42にもなって幼稚園勤務とは」というセリフも理解できない。なんだか「幼稚園の仕事は幼児相手だから、大人の男の仕事ではない」というイメージがあるんだろうか。そうだとすると、「そういう仕事をしてるのも、幼児に性的関心があるからだ」という偏見が裏に潜んでいるのかもしれない。

 デンマークは近年、映画が評判になることが多い。2011年のアカデミー外国語映画賞の「未来を生きる君たちへ」を作ったスザンネ・ピア監督は、もうすぐ「愛さえあれば」という映画が公開される。ラース・フォン・トリアーという個性の強い監督が90年代以後活躍をつづけ、その影響下に若手がどんどん出てきたという国である。この映画の監督、トマス・ヴィンダーベアもそのラース・フォン・トリアーの唱えた「ドグマ95」という映画運動から出てきた人である。その最初の作品「セレブレーション」はカンヌ映画祭で審査員賞を取っているが、どうも「ドグマ倒れ」の感じがあった。(「ドグマ95」とは、ロケのみ、効果音ない、手持ちカメラのみなどというドグマに則って映画を作るという運動である。)前作「光のほうへ」も暗いなあと言う感じが強い映画だった。今回の「偽りなき者」も暗くて怖い映画なんだけど、この主人公は一体どうなっていくのだろうか、なんて強いのか、逃げ出さないのかなどと言う気持ちで、ずっと緊張して見続けてしまう。で、どうなるか、一応、翌年の狩りには受け入れられたかにも見えるが…。
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