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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

快作映画「カメラを止めるな!」

2018年07月12日 19時59分01秒 | 映画 (新作日本映画)
 「カメラを止めるな!」という新鋭監督の映画が面白いと評判になっている。実は先週も見に行ったんだけど、満員で入れなかった。新宿のケイズシネマという84席の小さな映画館で一日3回上映。口コミで広がって、早い時間に夜の回も満員になっている。やっと何とか一回目に見ることができた。なるほど、なるほど、これは確かに面白い。前半30分超はなんと「ワンカットのゾンビ映画」である。撮影場所の廃墟も面白く、疑問もありながら一気に見てしまう。でも、そこに映画の仕掛けがあり、終わったと思った映画が突然一月前に時間が戻る。

 「ゾンビ映画をワンカットで撮る」というのは、もともと新たに始まるテレビ「ゾンビチャンネル」の企画で、その「メイキング」が後半なのである。作られたメイキングの常として、危機に次ぐ危機が訪れるが現場の知恵と工夫でなんとかなる? いや、実はなんともならないところもあって、それが前半の映画でどうにも疑問になっていたところでもある。その「謎解き」が後半であって、いや裏じゃこうなってたのかというシナリオのうまさである。

 現実の俳優がいて、映画の中で俳優を演じる。その映画の中の俳優が映画の中で演じている。この三重のこんがらかった面白さ。だから、危機が起こって何とかする時に、「俳優の生の顔」が出るという設定だけど、それも実は演じているわけである。例えば、出演予定の俳優が交通事故に巻き込まれて来られない。そこでどうする、監督の奥さんの元女優がたまたま見に来ていた。ホンはもう100回ぐらい読んでいる、夫の仕事のホンを読むのが趣味なのだ。もう一つの趣味が「護身術」、これがおかしい。現場で熱くなりすぎる監督の娘、この設定も実におかしい。

 最初の「ゾンビ映画」の時はこういう人かなと思って見ていた俳優たちが、その後のメイキングになると印象が変わってくる。名演だと見えたものが、偶然だったりする。よく出来たセリフだと思ったものが、アドリブだったりする。それもまた事前に書かれていたんだろうから、なかなかアイディアである。最初は稚拙なシーンに見えたものが、実はどうして成り立っていたかが判るとちょっと感動である。こういうワン・アイディアで作られた映画として内田けんじ監督の「運命じゃない人」を思い出した。あるいはスティーヴン・スピルバーグの「激突!」なんかもあった。監督・脚本・編集は上田慎一郎(1984~)。今までに短編を中心に何本か撮っているが、どれも見ていない。
 今後渋谷のユーロスペースなどでも上映。
 (上映後のあいさつ)
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岩波新書「武士の日本史」を読む

2018年07月08日 22時45分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 6月は全部「遠い崖」で終わってしまった。7月になったら違う本を読みまくる予定が、次に読んだ高橋昌明氏の「武士の日本史」もずいぶん手ごわかった。岩波新書の5月新刊で、もう武士に関することなら何でも書いてあるような本。だから話が細かくなるところがある。一般向けとしては難しいかもしれないけど、類書がないから貴重。律令制下の「武士」から近代日本の軍隊まで、さらに今でも「侍ジャパン」「サムライ・ブルー」と使われる問題まで触れられている。

 高橋昌明(1945~)と言われても、ほとんどの人は判らないだろうが平家の研究で知られた中世史家である。「平清盛 福原の夢」(講談社選書メチエ)や「清盛以前 伊勢平氏の興隆」(平凡社ライブラリー)などの一般向け著作がある。岩波新書にも「平家の群像」「京都〈千年の都〉の歴史」がある。平氏政権は教科書では平安時代の最後に置かれているが、実質的には武士政権の最初と言ってよく「六波羅幕府」と呼ぶべきだという説を唱えている人。

 まず第1章の最初に「武士という芸能人」と書かれている。えっ、武士は芸能人なのか? と思ったのは、40年前の自分である。中世史の藤木久志氏の講義で聞いたんだけど、なるほどなあと思った。だから「武士は芸能人」と授業でも言ったけど、世の中の認識は変わってない。「芸能人」とは「芸を能(よ)くする人」のことで、鼓や琵琶の名人だけでなく、多士済々の様々な人々、手工業者や天文博士などから博打打ちまでが含まれていた。その中で武士は「武芸」に優れた人のことで、特に「弓馬の道」に優れている。流鏑馬(やぶさめ)なんか確かに特殊技能である。

 身分社会だから、「芸能」は身分ごとに伝承される。武芸も同様で、勝手に修行して強くなれば「武士」になれるというもんじゃない。身分社会では「身分」がはっきり外から判らないと、相互に付き合い方が判らない。だから身分ごとに服装の色規定があったりする。武士は「ちょんまげ」をしていたわけだが、それって何だろう? など一度も考えたことがないことがいっぱい出ている。そう言えばと思ったのが、武芸を「弓馬の道」と呼んだ意味。よく「刀は武士の魂」などと思われているが、実際の戦闘では圧倒的に弓が使われていた。

 当時の馬は今のポニー程度の大きさだというのはよく知られている。当たり前だけど、時代劇のチャンバラみたいな戦いなんかないわけだし、現実の武士というのは現代人のイメージとはずいぶん違う。武士政権の問題、「士道」と「武士道」の違いなど興味深い問題がいっぱいあるが、ここでは省略。近代になって、日本軍が戦史をまとめたが、それには非常に重大な問題があった。

 多くの人は今でも織田信長桶狭間の戦いで、雨の中を奇襲して大敵に勝ったと思っているだろう。また長篠の戦いで武田騎馬軍団に対して織田軍は三段組の鉄砲部隊で戦ったという話を聞いたこともあるだろう。どっちも最近は否定されているのである。そもそも「騎馬軍団」なんか武田氏にも他にもなかったし、当時の火縄銃で「三段組」を作れるわけがない。それら今でも知られている話は、元をたどれば日本軍の作った戦史であり、さらに江戸時代に作られた娯楽読み物である。面白いだけでは済まない。それらの「偽戦史」を軍人も信じ込んで、日本の伝統は奇襲だとか、「武士道」の精神力で勝つんだとか思い込んでしまった。

 以前書いたことがあるけれど、今の日本じゃ「サムライ」という言葉が良いイメージで使われている。サッカーや日本の代表チームの名前にも使われている。しかし「侍」は身分の高い貴人に仕えるガードマンだからこそ、「侍」という字になる。「お傍で仕える」という意味の「さぶらう」から来たものだ。革命のなかった日本では、体制に仕えるガードマンがいい意味になってしまうんだろうが、それでいいのだろうか。著者の高橋氏も最後にそんなことを書いているが、僕も同感だ。
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鄭義信の映画「焼肉ドラゴン」

2018年07月07日 23時53分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 鄭義信(チョン・ウィジン)の初監督映画「焼肉ドラゴン」。1970年の大阪万博前後、「在日朝鮮人」の焼肉屋一家の物語を通して家族や歴史を描く。2008年に新国立劇場で上演されて大評判になった戯曲「焼肉ドラゴン」の作家本人による映画化である。僕はこの劇を見ていない。当時は夜の時間帯の勤務だから、見逃している劇が多い。評判を聞いてチケットを取ろうと思ったけど、土日は一杯だった。その後再演、再再演があったが、そんなにすぐは売り切れないだろうと油断していたら、あっという間に売り切れていた。だから今回初めて話を知ったのである。

 大阪空港近くの騒音がうるさい国有地に、在日朝鮮人の集落がああった。金龍吉は焼肉屋をやっていて、主人の名から「焼肉ドラゴン」と呼ばれていた。妻の高英順とともに4人の子どもを育てている。上の二人は父と前妻の間の子、3人目の娘は妻の連れ子、一番下の男の子、時生は二人の間の子だが、日本の私立学校でいじめられて不登校がちだ。金龍吉は戦争で片腕を失い、戦後は故郷の済州島に帰るつもりが「4・3事件」で帰れなくなった。同じく事件から逃げてきた妻と知り合い焼肉屋として働いてきたが、市からは国有地の立ち退きを求められていた。

 三人の娘といじめられる時生の人生が物語の中心。長女・静花は真木よう子、次女・梨花は井上真央、三女・美花は桜庭ななみとさすがに映画版になると豪華キャストである。劇はもともと日韓の協力で企画されていて、両親は韓国人俳優がキャスティングされていた。映画でも父はキム・サンホ、母はイ・ジョンウンという韓国の俳優が演じている。日本の映画で「朝鮮人」が明示されて出てくる映画がいくつかあるが、高く評価された行定勲監督「GO」の両親役は山崎努大竹しのぶだった。これでは映画的記憶にジャマされて、名演していてもマイノリティに見えない。

 その点、「焼肉ドラゴン」の両親はやっぱりどうしてもトツトツとした大阪弁になるから、「一世らしさ」を感じさせる。全体的にはセットを使いながら演劇性の強い演出になっている。長女をめぐって、大泉洋ハン・ドンギュが返杯を繰り返すシーン、あるいは三女の結婚をめぐって父が戦争以来の一代記を語り「働いて、働いた」と繰り返すシーン。長いワンショットで撮影される忘れがたい場面だが、映像で見せるというよりセリフの力、シチュエーションの力で圧倒する。

 そういうタイプの物語で、エネルギッシュなマイノリティの民族誌とも言える。ヤン・ソギルの原作を崔洋一が映画化した「血と骨」を思い出すが、あの物語では父親が「モンスター」だった。映画ではビートたけしの圧倒的な印象が忘れがたい。「焼肉ドラゴン」では父親の金龍吉が済州島生まれの一世としては異例なほど暴力的ではない。でも、時生に対しては「いじめられても負けるな」と強さを求めて悲劇を呼ぶ。「パッチギ」のような「暴力」がなく、政治的な争いも描かれない。韓国との国交正常化から数年、60年代末にはもっと総連(北)と民団(南)の激しい対立があったと思うが、そういうことは描かないということなんだろう。

 当時はまだ「在日」という言葉もそれほど使われなかった。(本国では「在日僑胞(チェイルキョッポ)が多少下に見る感じで使われていたが。)日本では戦前来の「チョーセンジン」と呼ばれることが多かった。時生の机にもそう書かれていた。つまりまだ「在日朝鮮・韓国人」などと呼ばれて、日本で生きていくことが自明視されるようになる「三世以後」ではない。そんな時代に娘三人がそれぞれの場所に散ってゆく。「コリア民族のディアスポラ」の物語である。娘たちのその後に思いをはせると気にかかることが多い。しかし、一生を働いてきた父は家を明け渡しながら、こんな日は明日を信じられると言って終わる。まあ映画になって多くの人が接しやすくなったのは良いことだ。僕は今では鄭義信の劇はすぐにチケットを取るようにしていて、今年も「赤道の下のマクベス」を見た。
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ウディ・アレン「女と男の観覧車」

2018年07月07日 21時24分06秒 |  〃  (新作外国映画)
 オウム真理教幹部の死刑執行があったからだろう、ちょっと前に書いた「ワールドカップ16強、死刑があるのは日本だけ!」が突然読まれていてビックリ。オウム真理教や死刑制度の問題はもっと書くべきことがあるんだけど、今あんまり考えたくない気がする。ワールドカップを書く気もなんだか減退してしまった。日常的に新作映画は見ているから、忘れないうちにまず映画の話を。

 僕の大好きなロマン・ポランスキー監督(1933~)が撮った「告白小説、その結末」。面白くはあるが、どうもポランスキーの全盛期から遠いなあと思う。「ガザの美容室」も興味深い。さすがにガザ地区では撮れず、ヨルダンで撮影したというが、外部の戦闘に閉じ込められた美容室の女性像を描き分ける。ジョージ・キューカーの戦前の喜劇「女たち」や石田民三監督の「花ちりぬ」のように女性しか出て来ない映画がある。これもそうかと思うと、ラスト近くに男性が出てきた。同じガザ地区の女性でも様々な考え方の違いがある。ガザ地区出身の兄弟監督の作品。

 僕が一番好きなのは、ウディ・アレンの新作「女と男の観覧車」(Wonder Wheel)。アレンは1935年生まれで、もう82歳になる。ちなみにポランスキーは1933年、クリント・イーストウッドやジャン=リュック・ゴダールは1930年、山田洋次は1931年の生まれで、皆さん達者なもんである。でも未だ現実を描きたがっている監督と違って、ウディ・アレンはノスタルジックな人間観照に徹している。でも甘さは全くなくて、そのビターな人間認識には驚く。いまさらアレン映画に新たな芸術的高みは求めないけど、単にロマンティックな夢物語にはなってない。

 そこは1950年代初めのコニ―アイランド。ニューヨークのブルックリン南部の観光地である。何でアイランドなのかと思って調べたら、ホントに昔は島だった。アメリカの大衆文化にはよく登場するが、この映画ほど出てくるのも珍しい。語り手でもあるミッキーは戦争から戻って、ニューヨーク大で演劇の勉強をしながら、夏は7番ビーチの監視員をしている。彼は年上のギニーとビーチで出会って、惹かれあう。ギニーは元女優だが、今は遊園地のウェートレスだ。火をつける悪い趣味を持つ子供を抱え、メリー・ゴーランドの管理人ハンプティと結婚している。

 昔の夢を忘れかねるギニーをケイト・ウィンスレットが絶妙に演じている。演劇の話などされると、ついクラクラとミッキーに溺れてしまう。そんなところにハンプティの娘、キャロライナが転がりこんでくる。彼女は20歳の時に父の反対を押し切ってイタリア人のギャングと結婚してしまった。その時は燃え上がっていたけれど、やっぱり横暴な夫とはうまく行かず、別れた後にFBIに聞かれて組織の内情を全部ばらしてしまったらしい。今じゃ、ギャング組織に命をねらわれ、縁を切ったはずの実父に助けを求めてくる。不仲だって知ってるから、ここならバレないということで。
 (キャロライナ)
 もうどうなるかは目に見えている。やっぱりミッキーはキャロライナと出会ってしまうし、そうなると年上のギニーより、ピチピチした若い子の方が好ましいような気もしてくる。ギャングに追われて逃げているのもロマンティックだし…。キャロライナは義母の不倫関係を知らないから、何でも相談してしまうし、ギニーのやるせなさは募るばかり。こうした展開はステロタイプ(類型)そのもので、もうそうなるだろう通りに展開する。画面の人物にはイマドキと思えないほど照明が当たっていて、キラキラと輝いている。それがいやが上にもノスタルジックなムードを高めている。舞台は全部コニ―アイランドというのも、懐かしい感じなんだと思う。新しいものはないけど、劇作のうまさには感心する。今でもウディ・アレンを見るたびに、また見ちゃったけどやっぱりいいなあと思う。
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「予告された殺人」、オウム真理教事件の死刑執行

2018年07月06日 23時11分06秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 朝9時前後にスマホでニュースを見たら、「オウム真理教、松本智津夫死刑囚を死刑執行」とトップに出ていた。いや、今か。通常国会が長く延長されたので、ついワールドカップと天気(関東は猛暑、西日本は台風と集中豪雨)に気が取られていた。去年は7月13日だったが、3年前の上川陽子法相前任時の執行は6月25日だった。国会でも死刑に関心がある議員がどんどん引退、落選したので、会期内でも気にしないのだろう。法相は3日前に署名したと語っている。7月3日だったら、ワールドカップで日本が敗退したことで、諸外国の動向を気にしなくてよくなったのか。

 この問題に関しては先に「オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由①」(5.28)、「オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②」(5.29)を書いた。近年6月に死刑執行がある年もあるので、5月中に書いておかなくてはと思ったのである。もちろんそれで何か現実的な影響を与えられると考えたわけではない。これは国家的な「予告された殺人」なのだから。(ガブリエル・ガルシア=マルケスの傑作「予告された殺人の記録」をどうしても思い出すので、言葉を借りた。)

 今回は麻原彰晃(松本智津夫)の他、幹部クラスの6人を一斉に執行した。7人同時というのは、現代の世界でちょっと考えられない大量の執行である。しかも今回執行された中には、再審請求を続けていた人がかなりいる。再審にあたる事由があるのかは僕が判断する材料がない。今回のような死刑執行を見ると、やはり「死刑制度を政治的に利用している」気がする。「平成の事件は平成のうちに」などと検察幹部も語っているという。天皇の交代や東京五輪のある年には執行できないということらしいけど、僕には全く理解できない。

 今回の執行に関しては、先に書いたことと重なるけれど、一番大事なことが判らない。「麻原彰晃は心神喪失なんじゃないか」という疑問である。僕は心神喪失だとは言わない。判るわけがない。でも、常識的に考えて「心神喪失の疑い」があるのは間違いない。その疑いを法務省が国民に向かって晴らしているとは思えない。法務省が執行するんだから、刑事訴訟法に違反することをするはずがないということなんだろう。お上が判断することに従えばいいんだということだろう。

 しかし死刑執行は国民の税金で行われる。国家の名のもとに「合法的な殺人」を認めるものだ。しかもオウム真理教のテロ事件は、世界各国に衝撃を与えた事件である。各死刑囚の具体的な心身の状態、執行時のようす、再審請求中の死刑囚を執行していいのかなどを国民に説明する必要がある。上川法相の記者会見は事実を報告するだけで、肝心の問題に答えていない。さらに、今までの死刑執行時と比べて、ことさら早い時間帯に麻原の執行だけが報道された。どういう経過か、そこも疑問である。死刑制度全体の議論も大切だけど、オウム事件個別の事情に沿って、まず多くの疑問を解明していかないといけない。

 「もっと真相を話して欲しかった」という人もいるが、そういうことをしたくない、されても困るということで死刑制度があり、死刑執行が行われる。「教祖の死刑で神格化が進む」「関連教団の反発や復讐テロが心配」なんて今さら言う人もいる。それが「死刑制度を持つ国のリスク」なのであって、そんなことをいうなら死刑制度を廃止すればいいのだ。僕の理解では、選挙敗北を機に「陰謀史観」に囚われ、「秘密の大量破壊兵器」を持った時に「軍事組織化」が進行した。

 そのようなテロ事件が社会全体を「陰謀史観化」したと思う。日本やアメリカの現政権のあり方は、「オウム」や「9・11」が生み出したものではないだろうか。ニーチェのいうところの「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」という言葉を思い出す。(なお、「オーム事件」なんて書いている人があまりにも多いのでビックリした。)
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勝てると思った? ベルギー戦-ワールドカップを見る②

2018年07月05日 23時02分57秒 | 社会(世の中の出来事)
 ワールドカップ決勝トーナメントの日本・ベルギー戦。終ってもう2日経ち、日本チームは敗退しすでに帰国した。この試合は日本時間午前3時開始だったから、まあ見なくていいやと思っていた。常識的にはブラジル・メキシコ戦の方が面白そうだから、そっちは見ようかと思ってたけど、疲れていたから開始20分ぐらいでもうダメだと悟った。そのまま朝まで寝ちゃうんなら仕方ないと思って寝たわけだけど、年齢的にずっと朝まで寝てる日はもうほとんどない。やっぱり2時半過ぎにトイレに起きてしまい、ついそのまま全部見てしまった。面白くて止められなかった。
 (ゴール直後の原口)
 この試合で一番面白かったのは、前半中ごろのベルギーの猛攻を日本が防ぎ切ったところである。ニュースで見ただけだと、後半開始直後の日本の2ゴール、それからベルギーの2ゴール、そして最後のアディショナルタイムの本田のコーナーキックベルギーの怒涛のカウンター攻撃、まあそういう流れで編集されてしまう。前半も少しはやるけど、0対0と簡単に触れるのみ。でも日本のゲームプランにとって決定的に重要な「前半を0点に押さえる」、それが見どころだった。

 データで示せば、前半15分までは日本のシュート2本に対し、ベルギー0。ボール保持率は日本48%、ベルギー52%だった。開始直後は体の慣らし時間で、ベルギーの動きも鋭くなかった。それが16分から30分の中盤戦の時間帯になると、ボール保持率ベルギー67%と圧倒的な猛攻が始まる。シュートもベルギー8本に対し、日本はゼロ。ただし8本のうち枠内は一本だけ。ペナルティエリア内のプレーも、日本がゼロに対してベルギーは21に及ぶ。それなのに枠内シュートが一本というのは、日本のディフェンス陣が献身的に守備してPKも与えなかったのである。長友、昌子、吉田、酒井宏樹等はよく統率が取れていて、はっきり言って感動的だった。

 この猛攻をしのぎ切ると、前半最後の15分はベルギーのシュートは3本(枠内1)、日本のシュートは2本(枠内1)、ボール支配率が日本53%とほぼ互角に持ち込んで終わった。幸運もあっただろうが、それだけでなく個々の健闘が目についた。ポーランド戦で先発メンバーを6人入れ替えたが、それでも長友、吉田、酒井宏樹、柴崎という一番重要な守備の要は連続して出場していた。もう30過ぎの長友は大丈夫なのかと思ったが、この日も人一倍走り回っていたと思う。とにかく、前半を0に押さえたという意味ではプラン通りだろう。これは案外行けるぞという前半戦だった。

 後半3分原口元気の見事なカウンターで最初の得点が入った。続いて後半7分乾貴士の圧巻のミドルシュートで追加点を挙げた。このようにサッカーでは連続して得点が入ることがよくある。見ていて、いやいやホントに勝ってしまうかもと思いつつも、このままでは終わらんだろうなと思って見ていた。2006年ドイツ大会のオーストラリア戦では立て続けに3点を失い、2014年ブラジル大会のコートジボワール戦では2点を失って逆転負けした。だから、ここで必要なのは「監督の次の手」だと思って見ていたが、監督は動かない。ここまで非常にうまく行っていたメンバーを途中で交代させるには、後半開始7分時点は早すぎたんだと思う。
 (得点直後の乾)
 ベルギーの猛反攻が始まるのは目に見えている。メンバー交代もあるだろう。実際にベルギーは後半20分に2人のメンバーを交代させた。そして交代直後の24分にフェルトンゲンの得点が決まる。これは今まであまり見たことがない、日本にとっては不運なゴールだった。そのヘディングがシュートだったかどうかも判らない。でも、まあ一点差になった。そして後半29分に交代メンバーのフェライニが鮮やかなヘディングを決めて同点とした。

 日本は4分で2得点したが、ベルギーも5分で2得点した。本来日本が2点差を付けた時に、「ベルギーは2点ぐらい取り返すだろうが、日本も3点目、4点目を入れればいいのだ」か、それとも「一点ぐらい取られても仕方ないが、日本は徹底して守り切って守り切って2点は取られない」か、どっちの方針で行くかを決めてベルギーに先んじてメンバー交代をするべきだった。結局は同点にされてから9分後の後半36分、柴崎に代えて山口蛍、原口に代えて本田という攻撃か守備か、今ひとつ監督のメッセージが伝わらない交代だったと思う。

 この交代の遅さは僕は監督の采配ミスじゃないかと考える。なかなか難しい判断だけど、本田は延長戦の切札に残しておいて、その時点では守備固めに徹するのも一つの戦術だったかもしれない。まあ明らかに格上のベルギーによく善戦したのは間違いない。見ごたえがある試合だったが、シュートはベルギー24本に対し、日本は10本。枠内は8本対4本で、ベルギーが全体としてはずっと優勢だった。警告は柴崎がイエローカードを一枚貰ったけれど、これはちょっと厳しかった感じ。ベルギーは警告なしで、両チームとも厳しく渡り合っていたけど、フェアな戦いだった。

 ペナルティエリア内で無駄なPKを与えることもなかった。セネガルが審判を務めることをあれこれ言う意見もあったけれど、もちろんそんなことはなく見事なジャッジぶりだった。いろいろと日本チームに課題があったとは思うが、事前の予想を大きく上回る活躍だった。長友や乾のような僕よりも背が低い選手がこれほどの活躍を示した。それもすごい。リオ五輪の400mリレーの銀メダルピョンチャン五輪のスケートの女子パシュートの金メダル。日本人は体格ではヨーロッパやアフリカのチームに及ばないが、やはりやり方によっては世界と互角に戦える。それはスポーツに限らないんだろうなと思う。
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サトウと「西郷問題」-「遠い崖」を読む④

2018年07月04日 23時26分52秒 |  〃 (歴史・地理)
 幕末にイギリス外交官アーネスト・サトウの生涯を追う「遠い崖」。人生で何度も味わえない豊かな読書体験だったが、前半と後半ではかなり印象が違う。前半は幕末動乱の目撃者にして、登場人物の一人でもあったから、波乱万丈の青春である。でも明治政府ができてしまうと、要するに外交官は外国人。重要な存在ではあっても、日本政治の登場人物ではなくなる。かつては友人のように付き合った志士たちも、新政府の有力者になってしまい立場が違ってしまう。

 サトウ自身も幕末維新の燃え立つような日々を忘れられなかったらしい。あまりにも激しい歴史変動の目撃者となって、一種の燃えつき症候群になったようだ。明治になると日記の記述も少なくなり、なんだか無味乾燥になってくる。条約改正問題など外交官にとっては大問題だが、サトウは上司の公使、有名なサー・ハリー・パークスの対応にも批判的だった。有名なパークスが、こんなに「仕えづらい」上司だったとは知らなかった。サトウも日記や手紙には書くけど、公には隠していた。サトウは有能過ぎる通訳官だったから、パークスも手放さずにハードワークを命じていた。

 サトウは賜暇(しか=英本国から遠く離れた東アジア勤務の外交官は、5年勤続で帰国のための休暇が与えられた。事情によっては遅くなるが、家族の急病などでは臨時の休暇が取れる。)のたびに、家族とでヨーロッパを旅行し音楽会に通っている。西欧文明にどっぷりつかった教養人で、日本でも地理、歴史などの研究に余念がなかった。本居宣長らを縦横に読み込んだ論文も書いてるし、富士山や日光を始め日本中を旅行して回って英語で初の日本旅行案内も書いている。サトウは明治になったら、日本学者であり「文化人」という感じで生きていた。

 「遠い崖」の登場人物の中で、主役級は英国側ではパークス、日本側では西郷隆盛である。幕末動乱期に西郷と交わした密談のことは前に書いた。江戸総攻撃をめぐる勝海舟との交渉は知略の限りを尽くした歴史ドラマだった。サトウも両者に接触して情報探索に奔走した。ところが西郷は明治以後に精彩がなくなる。鹿児島に引きこもりがちで、中央政府にもなかなか参加しない。英雄の西郷が野にあることは中央政府にとって気がかりなことだった。
(西郷隆盛)
 それは薩摩藩の実質的な支配者である藩主の父島津久光も同様で、こっちは明確な新政府反対派、西欧化、文明開化一般に大反対で、身分制度を壊す改革そのものに反対だった。この西郷と島津久光をなんとかしないと、全国に広がる旧武士(士族)と農民の反発と結びつくのが怖い。そこで政府は鹿児島に勅使を派遣する。何と西郷引き出しの勅使は勝海舟である。明治維新を成しとげた薩長の人ではなく、かつては敵だった勝海舟こそが心の通う間柄になっていた。西郷も勝も「幕末のドラマ」で一生を使い果たしたかのようである。恩讐を超えた「心友」なのだ。

 西郷は一旦は上京して、岩倉使節団外遊中の留守政府を任される。その後「明治6年の政変」で下野して鹿児島に帰る。その理由は長く「征韓論」とされ、その真意をめぐって昔からいろいろ言われてきた。しかし、萩原氏は細かく検討して「西郷問題」だと言っている。政策論争というよりも、ともすれば鹿児島に帰りたいと言い、極論を主張しては辞めたいとごねる西郷。長年の盟友大久保もついに腹を決めて、西郷と決別する。しかし、世論は西郷びいきだった。

 この「西郷問題」をどう考えるか。以下は史料に基づく意見ではなく僕の想像。一種の「父と暮らせば」症候群じゃないか。井上ひさしの戯曲「父と暮らせば」である。広島の原爆で多くの人が死んだときに、生き残った娘が自分だけが幸せになっていいのかと思い悩む。そこに死んだ父が幽霊となって現れる。そのような感覚は大きな戦争や災害の後に世界で見られるものだろう。西郷の命令によって、死ななくても良かった若者を多数死なせてしまった。それなのに維新後の政府は急激な西欧化を追い求め武士の魂は忘れられる。死んだ者に申し訳ない。それが維新後の西郷の心境じゃなかったのだろうか。

 サトウも表面的な西欧化を追い求める日本に批判的で、内心では西郷に同情していたようだ。かつての反体制派革命家が名士と奉られ、疑獄事件に連座する日本。そんな日本政府に失望し、日本の過去を研究し、日本中を歩き回って庶民と交流する。サトウ日記に「完璧な一日」と書かれた日があるそうだ。公使館の仕事が一切なくて、一日中日本の昔の本を読んでいた日だった。サトウも、20代の若き日に革命の機微に触れた激動の日々を忘れられなかった。人生最良の日々だったのである。
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サトウの友人、ウィリスという医者-「遠い崖」を読む③

2018年07月03日 20時51分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 萩原延壽「遠い崖」を読み終わった。さらに2回ほどアーネスト・サトウのことを書いてみたい。しかし、今回はサトウじゃなくて、ウィリアム・ウィリスという医者の話である。「遠い崖」はサトウ日記を追う歴史叙述だが、日記が少ない時期もある。だから書簡なども使って、日記に出てきた家族や友人も追っていく。中でもウィリス(「遠い崖」の中では「ウイリス」と表記している)は一番多く出てくる。「ウイリスⅠ」から「ウイリスⅤ」まで各巻を通して5回も触れられている。

 「スピンオフ」(spin-off)という言葉がある。「派生」という意味だが、まさにウィリスはピンオフである。次第にサトウよりも親しい感じもしてくる。彼らが友人であり続けた理由はなんだろうか。また医者としてのウィリスが日本に残したものはなんだろうか。外交官というより文人だったサトウに対して、ある意味ウィリスの方が興味深い人物だ。

 ウィリアム・ウィリス(1837~1894)は北アイルランドの貧しい農家に生まれた。有名な「ジャガイモ飢饉」の時代に、横暴な父と子だくさんの家庭に育ち、長兄を追ってエジンバラ大学で医学を修めた。サトウはウィリスを常に良き人、良き友人と呼んでいる。確かに情に厚く仕事熱心な人間だったらしい。ロンドンで研修医だった時代に、看護婦と「過ち」を犯すのもその性格からか。心に秘めた人が故郷にいたが、ロンドンで結婚せずに子供ができたとあっては、諦めるしかない。その子は兄夫婦に預けて、金のために極東まで出稼ぎに行くことになる。

 やっぱり当時日本まで来るには、それなりの理由があったのだ。イギリスから遠く離れて金を貯めるのである。イギリス公使館付医官に応募したのだが、公務員の給料には限界があるから横浜ではまだない薬局を開くとか、いろいろと金策を考えている。給料はそれなりに貰えたけど、来てみたら日本には洋風の食材など外国人必須のものがなかった。本国や植民地から取り寄せるんだから生活費が予想外に掛かる。日本では攘夷の嵐の真っ只中、生麦事件の被害者の検死を行い、薩英戦争に従軍するなど波乱万丈の日々が始まった。

 その後薬局はうまく行かず、医者の仕事もそんなになく、じゃあ外交官になるかと書記官を兼務した。だから幕末の政局を垣間見るチャンスも訪れた。薩英戦争の相手だった薩摩藩に招待され西郷隆盛に会ったり、大阪で徳川慶喜将軍に謁見したりした。大阪にいた時鳥羽伏見の戦いが起こり、負傷兵の治療にあたった。西郷従道(隆盛の弟)や土佐藩主山内容堂の肝臓病も治療して名声を得た。そこで外国人として初めて京都の滞在を許され、麻酔をして銃弾を取り出す、早めに判断して手足を切断して救命に成功するなど西洋医学の名声を高めた。

 この成果を見て官軍側はイギリスにウィリスの戊辰戦争従軍を求めた。やっぱり医者としての使命感がよみがえったらしく、ウィリスはここで大活躍している。主に薩摩藩に従い、新潟から会津まで数多くの傷病兵の治療にあたった。その際ウィリスが強調したのは、「敵兵」の治療もさせてくれという要求である。日本の戦場では負傷すると自決、敵兵捕虜は殺害ということが多く、それは非人道的だと非難した。そして会津側の負傷者も治療したのである。人道精神、博愛精神を日本に伝えた人で、「国境なき医師団」の先駆者と言ってもよい大活躍である。

 日本政府はウィリスにこれからの医学教育を頼もうとするが、ウィリス自身は医学教育、基礎医学の経験がなく、要するにイギリスで勉強した普通の医者でしかない。一度はウィリスに東京医学校の教育を任せたものの、反対派も多かった。一年後に医学教育はドイツ式と決まりウィリスは退くことになる。その時は外交官籍を残したまま出向していたのだが、失意のウィリスを誘ったのは因縁浅からぬ旧薩摩藩だった。鹿児島医学校兼病院を創始し、すべてのやり方をウィリスに任せる、待遇も優遇するということで、ウィリスは外交官を退職して鹿児島に赴いた。

 鹿児島の日々は医学だけでなく英語教育も頼まれ、朝6時から授業開始で頑張っている。鹿児島県庁にもたびたび建白して、水道の重要性衛生環境整備の重要性を説いた。病気になる前に予防するのが大事という英国式医学である。日本における「予防医学」「公衆衛生」の父とも言える大恩人である。当時の弟子に後の海軍軍医総監高木兼寛がいた。かっけの原因をめぐって陸軍の森鴎外と対立したことで有名な人。英国留学中にはウィリスの兄にも学んでいる。 

 1877年に西南戦争が起きると、弟子たちも従軍してしまい、ウィリス一人で頑張るも外国人退去命令が出て、横浜に引き上げた。ウィリス自身も「薩摩びいき」「西郷びいき」だったらしく、武器の購入を頼まれたという噂も流れたらしい。結局鹿児島医学校は廃止とされ、ウィリスは解雇。一応日本政府から補償はあったものの失意は隠せない。さらに他に医者の口を探すも、反乱軍に近い過去を持つ彼を誰も雇わない。帰国後にもう一回日本に来るも、すぐに帰国した。そんなウィリスに手を差し伸べたのは、日本を離れてタイ総領事になっていたサトウ。ウィリスにバンコク領事館付医官の口を探し、ウィリスは王立医学校を創設するなどタイ医学界に貢献した。

 さてウィリスには実はもう2人子どもがいた。日本人女性との間の子である。お金がいるはずだ。一人は鹿児島で「結婚」した江夏八重(こうか・やえ)との子どもだが、その前に生まれた子の母はよく判らない。「結婚」というのは鹿児島県庁に妻と届けているからだが、当時は民法もなく正式な国際結婚じゃないだろう。家族への手紙にも注意深く伏せられている。そもそも外交官出身の外国人は、「現地妻」は黙認されるとしても「正妻」は認める余地がなかったのか。

 実はサトウにも「武田兼」という妻がいたが、家族には知らせていない。ウィリス帰国後、八重は一時サトウの妻武田兼の家に引き取られた。だから二人に間には細かな消息を伝え合う手紙の応酬があったはずだ。だがサトウ文書にもウィリス文書にも全く残ってないという。萩原氏はある時期にお互いに話して全部焼却したとしか考えられないと言う。サトウとウィリスの友人関係は、単にウマが合ったというだけじゃなく、お互いに「秘密の現地妻」を持つものどうし、何でも気兼ねなく頼みあえるという親友だったのである。
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エムバペ降臨、メッシ敗退-ワールドカップを見る①

2018年07月01日 22時31分15秒 | 社会(世の中の出来事)
 ワールドカップのことは置いといて、「遠い崖」とアーネスト・サトウに関して書き続ける気でいたんだけど、決勝トーナメントの第1試合、フランスvsアルゼンチン戦を見たら気が変わった。「歴史的死闘」と早くも言われているが、確かに余りにもすごい試合で興奮してしまった。フランスが4対3でアルゼンチンに勝ったわけだが、もう序盤のPKからキリアン・エムバペの素晴らしい快速ぶりに目を見張り続けた。何ともすごい選手が地上に降臨してきた。その現場を目撃した。

 アルゼンチンのリオネル・メッシは4回目のワールドカップで、またも優勝に届かずに終わった。第2試合でウルグアイがポルトガルに勝ったので、クリスティアーノ・ロナウドも姿を消した。1次リーグ第1試合のスペイン戦でハットトリックを決め、現在までのゴール数は4で2位に付けていたが、それもオシマイ。現時点で得点王首位はイングランドのハリー・ケーンの5である。そんな記録より何より、メッシ、ロナウドの時代は終わってエムバペの時代が来るのかという衝撃力だ。

 今回のフランスは一次リーグを首位突破はしたものの、今ひとつパッとしない感じだった。確かに勝ち点7、2勝1分けなんだから、本来は何も問題ない。でもオーストラリアに2対1ペルーに1対0デンマークに0対0だから、余り爆発していない。オーストラリア戦のうち1点はオウンゴールだから、1次リーグのゴールは2しかなかった。C組はフランス7位、ペルー11位、デンマーク12位、オーストラリア36位と比較的差が少ないチームが集まっていた。その影響かもしれないけど、今回のフランスにそれほどの得点力は期待できない感じだった。

 それがどうだ。すごい迫力である。もっともアルゼンチンも前半終了間際に追いつき、後半3分には勝ち越した。さすがにすごいと思ったら、フランスは後半12分、19分、23分に点を入れた。たった11分に3得点。しかも3点目、4点目がエムバペ。もう一点、フランスに入りそうな感じもあったけど、アルゼンチンも防いで反撃に出るも時間がだんだん過ぎてゆく。1点がどっちかに入れば状況は変わるか。そしてアディショナルタイムになって48分にアルゼンチンが1点を返したものの、もはやそれ以上得点する時間はなかった。こうなるとフランスをもう少し見てみたくなる。

 エムバペって誰だ? キリアン・サンミ・エムバペ・ロタンKylian Sanmi Mbappé Lottin、1998年12月20日~)は、まだ19歳。今年12月に20歳になる。パリ・サンジェルマン所属だから、ネイマールのチームメイトじゃないか。父はカメルーン出身のサッカー選手で、母はアルジェリア人だとウィキペディアに出ている。アフリカ系ではあるが、フランス生まれのフランス人だ。

 昔カメルーン代表で、Jリーグでも活躍した「エムボマ」という選手がいた。表記は「ムボマ」「ンボマ」だろうという声もあったけど、発音しやすいようにエムボマとされた。エムバペもアフリカでは「ムバぺ」らしいが、フランスでは「エムバペ」と発音してるらしい。次の準々決勝では堅守のウルグアイに徹底マークされるだろうが、果たして突破できるだろうか。ワールドカップを書くなら、もっと一般論や各国の情勢なども書きたいと思ってたけど、まさかエムバぺの話で一回書いてしまうとは。でも、やっぱりサッカーの点の入らなさ、それを突破する才能は見ていて面白いな。
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