尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

白旗塚古墳と伊興寺町散歩

2020年05月02日 17時37分07秒 | 東京関東散歩
 だんだん暑くなってきて、陽射しも厳しくなってきた。マスクをしてると熱中症になりかねない。そうじゃなくても、マスク型に日焼けしそうで嫌だ。4月下旬は雨も多かったが、気持ちよく晴れ渡る日もけっこう多かった。そんな好天に家にいるのも鬱屈するが、今年はやむを得ない。しかし、誰とも会わない地元散歩ならいいだろうと、何十年ぶりに地元の史跡を歩いてみた。数日前の曇天の日のこと。

 僕の住んでるのは東京・足立区の北部で、もう少しで埼玉県である。もっとも江戸時代までは同じ武蔵国になる。埼玉と東京の境目には毛長川が流れている。「けなががわ」が正式なんだろうが、地元では「けながわ」と呼んでいた。毛長川の自然堤防や後背湿地が広がる地域には、弥生時代から人が住んでいた。僕の小さい頃はまだ田園地帯だったけれど、農家の同級生は畑を掘ると土器が出るんだよと言っていた。古墳群もあったが、「白旗塚古墳」だけが残されている。
   
 今は「白旗塚史跡公園」として整備されている。公園が出来たのは1987年のことで、公園が出来てからちゃんと行ったのは初めてかも知れない。「白旗塚」という名称は、前九年合戦の時に奥州へ向かう源義家がここを通りかかって源氏の白旗を立てたという伝説から来ている。古墳自体は6世紀前半のものというが調査はされていない。江戸時代の絵図には8基の古墳が描かれているというが、他の古墳は取り壊されてしまった。公園には埴輪のレプリカが置かれていた。

 場所は東武伊勢崎線竹ノ塚駅西口から徒歩15分ぐらい。西口から少し行って尾竹橋通りを北上する。(詳しい行き方は省略)。今は「西竹の塚」なんて無粋な地名に変えられたが、元は「伊興」(いこう)という地名だった。白旗塚付近の信号は「伊興白旗」である。その周辺には多くの寺が集合していて「伊興寺町」と呼ばれる。関東大震災で浅草などにあった寺院が焼失して、この周辺に集団移転したのである。「伊興白旗」信号を左折すると、10以上の寺が伊興遺跡公園まで集合している。皆が由緒あるわけでもなく、何の案内板も立ってない寺の方が多い。だから数もカウントしなかった。
   (法受寺)
 まず最初の「法受寺」だが、ここは「牡丹灯籠」由緒の寺で、「三遊亭圓朝の怪談を読む」で触れた。「牡丹灯籠」の碑がある。(上の2枚目)このお寺は「新幡随院」と呼ばれる歴史ある名刹で、怪談噺の中では、美女の幽霊に見込まれた若侍が法力の高い新幡随院の和尚に頼るという筋になっている。922年に下尾久で創建され、その後下谷に移転した。徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院の墓(上の3枚目)があるぐらい格式高い寺だったが、震災後の1935年に現地に移った。
  (浄光寺)
 隣が浄光寺で、特に史跡もないようだが、ここは父親の葬儀を行ったお寺である。菩提寺は館林の曹洞宗のお寺だが、ここは浄土真宗。地元でやる必要からホールだけ借りたわけである。境内には親鸞聖人の像(上の2枚目)、蓮如上人の像(上の3枚目)があった。
 (伊興遺跡公園)
 幾つかの寺が続き、氷川神社を右手に見ながら歩いて行くと「伊興遺跡公園」に出る。ここも以前1回来ただけ。縄文末期から古墳時代にかけての遺跡が出ている。展示施設があるが、今は公園内にも入れなかった。竪穴式住居も復元されている。そこから裏の道をたどって元の尾竹橋通りに向かう。
   (易行院)
 門構えだけ載せても意味ないから、史跡があるところだけ。「易行院」には「助六の墓」(上の2枚目)がある。と言われても助六って誰? 歌舞伎に出てくる「花川戸助六」という人がいて、実は曾我五郎という設定だそうだが、侠客として人気が出て独自の芝居がたくさん作られた。実在の人物ではないが、モデルと言われた人がいて、7代目市川團十郎が1812年に助六とその愛人揚巻の墓を建てたんだという。ところで易行院の奥に「5代目三遊亭円楽の墓」(上の4枚目)がある。吉河家の墓で、1972年の日航機ニューデリー事故で亡くなったCAだった妹さんの墓もある。
  (東陽寺)
 次は東陽寺。ここは史跡が多い寺で、やはり震災後に八丁堀から移っている。塩原太助の墓があるというので、探し回ってしまった。寺の門前に置かれた墓石がそうなんだろう。塩原太助も誰?って感じだろうが、これも圓朝の落語になっていて、桂歌丸で聴いたことがある。上州水上から裸一貫で江戸に上って、炭問屋で大成功した人物である。成功後も質素な暮らしをして、社会事業に尽力して戦前は修身の教科書に載っていたという。「炭団」(たどん)を発明したという。
  (東陽寺)
 東陽寺には他にも、河村瑞賢(かわむら・ずいけん)の追悼碑(1枚目)や戸田茂睡(とだ・もすい)の歌碑(2枚目)もある。河村瑞賢は江戸時代初期に東廻り航路西廻り航路を開いたり、大坂の治水事業などを行った人物。戸田茂睡は江戸初期の歌人、歌学者で、国学の先駆けの一人とされる。名前ぐらいしか知らないけど。お堂の脇にある「十六羅漢」が面白かった。
  (東岳寺)
 尾竹橋通りに戻って駅方向に戻る。その頃から天気が崩れかかってきたので急がないと。前沼交差点に近づくと、東岳寺がある。ここは小さいけど、緑豊かである。安藤広重の墓(2枚目)があることで知られている。今ではそれは誰? って思う人もいるか。昔の教科書には「安藤」って載っていたけど、今は「歌川広重」である。「東海道五十三次」の浮世絵で有名だが、安藤は俗名(本名の姓)であって、絵師としては「歌川広重」が正しい。雨がかなり降ってきたので急いで帰る。都心部にあったお寺が移ってきただけあって、江戸時代の有名人の墓がけっこう集まっている地域なのである。
コメント
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