尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「エビデンス」なき安倍政治

2020年05月11日 22時13分39秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 日本のPCR検査数があまりにも少なくて、感染状況の全体像が見えないと批判されてずいぶん経つ。相変わらず増えていかないのは、日本社会の仕組みの中に「何か」があるということだろう。政府も、「専門家」も、感染者数や検査が増えない理由を問われても判らない。もちろん、無症状の人も一定数いるというウイルスだから、国家が完全に捕捉出来ている国はどこにもない。それにしてもある程度「全体像」が見えないと、「エビデンスなき対策」になってしまうとテレビで批判していたのは、今や「コロナの女王」と言われている岡田晴恵氏だっただろうか。

 「クラスター」とか「ロックダウン」とか、全然聞いたこともないカタカナ語を今回はいっぱい聞いた。日本語で言えばいいような言葉も多いけれど、まあ「エビデンス」ぐらいは判る。英単語的には必須だろうが、学問用語としては単なる「証拠」という以上の重い語感が感じられる。思いつき的な「証拠」ではなく、ちゃんと学問的な検証に耐えうる厳密さが要求される。

 しかし、と僕は思うなあ。今さら安倍政権の対応を「エビデンスがない」と批判しても、なんか「のれんに腕押し」感がしてしまう。森友学園問題加計学園問題の時に、もうそういう批判はずっとあった。昨年来の「桜を見る会」問題だって、これは安倍晋三後援会にしか関わらないことだから自分で証拠を出して「潔白」を証明すればいいだけのことだ。しかし、証拠を出したくても、証拠など存在しようもない「言い訳」をするから、何だかんだ証拠の提出を出し渋る。そのうち他の問題が起こって、いつのまにか「事実上の不問」状態になる。その繰り返しが安倍政権の7年半だった。

 どこかで安倍政権の支持率がものすごく下がり、地盤の弱い自民党若手議員が選挙を気にして、安倍退陣になっていたらどうだったのか。元々安倍氏が自民党総裁に返り咲いたとき、総裁任期は「2年2期まで」だった。だから政権に復帰した安倍政権は、長くても2016年までのはずだった。(総裁に復帰したのは、2012年9月。)その後に任期3年に変更され、自分の代から適用として、さらに3期まで可能とした。総裁任期を変えるのは、自民党という私的結社の自由だけれど、本来は自分までは従来のルールで、次の人から新ルールというのが普通だろう。プーチンやエルドアンなどを見てると、自分で変えて自分から適用するのが何だか国際ルールかと思ってしまうが。

 安倍首相に関しては、そもそも「エビデンス」を必要としない政治スタイルを取ってきた。突然の「全国一斉休校要請」がその代表例だ。施政方針で「ポエム」みたいな演説をとうとうと読み上げたこともあった。歴史認識問題でも「エビデンス」なしの「思い入れ」を持っているようだ。どうも「生育歴」に起因するのではないか。「エビデンス」に対する敵意すら感じることもある。そう言えば、夫人もスピリチュアルな傾向が強く、その影響もあるのかもしれない。右派的なスタンスの政治家は、「民族」「祖国」などの言葉だけで酔えるところがある。冷徹な「エビデンス」意識が薄れて行くのも当然か。

 安倍政権の「新型コロナウイルス」対応が場当たり的に見えたりするのも、国民に対する発信力が弱いのも、「エビデンス」意識がないということと合わせて、同じ根っこから発していると考えられる。もう安倍首相本人をあれこれ論じても遅い。今まで支持してきた人の考えを知りたいところだ。
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