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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「生誕100年 朝倉摂」展を見るー日本画から舞台美術まで

2022年08月11日 20時56分03秒 | アート
 朝倉摂(1922~2014)は彫刻家朝倉文夫の長女として生まれた。晩年に多くの舞台美術を担当し、唐十郎蜷川幸雄の芝居をたくさん担当していた。僕は舞台美術家という印象が強かったが、生誕100年の回顧展が開かれて、初めて全貌が見えた感じがする。巡回最後の練馬区立美術館も8月14日(日)まで。猛暑に悩んでいるうちに終わりが近くなってしまった。今日は渋谷に見に行ったジョン・フォード監督の昔の映画が満員だったので、練馬まで回った。渋谷から練馬、遠そうで副都心線快速であっという間。

 父は彫刻家で、妹響子も彫刻家の道へ進んだのに、長女の摂は日本画に進んだのが面白い。17歳で伊東深水に師事したのである。ただ時は戦時下で、描いていたのは戦時下のリアリズム的な日本画だった。油彩じゃなく、紙に顔料で描いたから「日本画」になるんだろうけど、キレイな風景や美女、歴史的人物などをテーマにする日本画ではない。「歓び」と題された1943年の作品も、若き女性3人を描きながらもモンペ姿が戦時下である。解説に「農作業に勤しむ銃後の女性像をモダンな感覚で描き出した」とある。
(「歓び」1943)
 戦後になると、創造美術を経て新制作協会日本画部に所属し、「キュビスム的な作風」を取り入れる。さらに社会的なテーマに関心を広げ、労働者の姿を描くようになる。手法はやはり「日本画」だが、テーマも技法も「前衛」。見ている分には普通の洋画と余り違わない。それが下の「働く人」で1953年に上村松園賞を受けたという。「日本1958」になると、直接に日本の危機に立ち向かうテーマとなり、60年安保に至る時代相を強く感じさせる。
(「働く人」1952)(「日本1958」1958)
 それが60年代以降は日本画から遠ざかっていくのは何故か。「安保闘争の挫折感」などと書かれているが、僕にはよく判らない。日本画への違和感が強くなったのかもしれない。生前は本人の意思で画家時代の作品は公開を封印されていた。多くの人は今回が初めて生涯を一望する機会だったはずである。その美術史的位置づけは僕には出来ないけれど、とても興味深い作品ばかりだ。
(朝倉摂)
 ところで展覧会の最初にポスターが何枚か出ている。唐十郎や別役実の演劇、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』などで、以前に見ているものが多い。60年代末からの前衛的な演劇、映画のポスターは、何と言っても横尾忠則粟津潔のものが多かった。だけど、あまり意識しなかったのだが、朝倉摂の描いたポスターもあったのである。そして60年代以後、数多くの舞台を設計する。今見ると、その壮大さに恐れ入る感じで、戦後日本の絶頂期だったんだなあという気がする。
(「ハムレット」1978)(「にごり絵」1984)
 いずれも蜷川幸雄が手掛けた「ハムレット」「にごり絵」の舞台写真を載せておくけど、こういう舞台装置が商業演劇の世界で出来たのである。さらに唐十郎の「下谷万年町物語」も素晴らしい。僕もいくつか見ているが、確かオニールの「楡の木陰の欲望」だったと思うのだが、舞台装置の素晴らしさに驚いた。あまり美術担当を気にして演劇を見たことがなかったけれど、朝倉摂の名でもっと見ておけば良かったと反省したものだ。

 もう一つ、日本画や舞台美術で食べていけるのかと思うと、そこはちゃんと挿絵や絵本もやっている。新聞小説の挿画では松本清張の『砂の器』の連載を手掛けて評判になったという。また『ごんぎつね』『赤いろうそくと人魚』『たつのこたろう』などの絵本も素晴らしい。作者を意識せずに読んだ絵本もあったかもしれない。原画と印刷された本を比べると、絵本になったときに見映えがするので感心した。1972年には大佛次郎作『スイッチョねこ』で講談社出版文化賞絵本賞を受けた。(なお、父の家だった朝倉彫塑館を見た人は知ってると思うけど、朝倉一家は大の猫好きだった。)

 見逃さなくて良かったと思った展覧会だが、知らないことは多いものだ。晩年まで活躍していたので、前半生に日本画家としての活動があるとは知らなかった。それも「前衛的日本画家」で、戦後の労働者や社会問題もテーマにしたのである。しかし、それ以上にやはり60年代以後の日本演劇界を舞台美術で支えた業績が大きいと思う。それは展示された多くの写真などで判る。
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映画『アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台』

2022年08月10日 22時08分35秒 |  〃  (新作外国映画)
 毎日猛暑が続いている。東京の「猛暑日」は今日で15日となり新記録更新中。これからも続くらしいので、史上最暑の夏である。最近映画の話を書いてなかったけど、見てはいる。たまたま旧作を見ることが多かったのと、新作も駅直結の映画館しか行く気にならず、書きたい映画がなかった。まあバズ・ラーマン監督『エルヴィス』は書いても良かったんだけど、参院選や安倍元首相暗殺事件があったから書くチャンスを逃してしまった。残念だったのは『戦争と女の顔』と『PLAN75』で、前半はホームラン性の当たりだと思って期待したのだが、結局外野フライに終わったような感じでスルーしてしまった。

 ここで紹介するのはフランス映画『アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台』で、なかなか面白かった。もともと単打だろう程度の気持ちで見ていたら、案外二塁打か三塁打になった感じ。期待感を良い方に上回ると嬉しくなるのである。ストーリーは簡単に言ってしまえる。囚人たちの更生プログラムの一つに演劇があり、落ち目の俳優が講師になってベケットの『ゴドーを待ちながら』を上演するという話である。よりによって「不条理劇」の代表と言われる『ゴドーを待ちながら』である。ただでさえ難解と言われるのに囚人たちが上演するなんて可能なのか。

 フランスじゃないけど、実話にインスパイアされた物語だそうである。いろいろやって上演出来なかったら映画にならない。上演まではこぎ着けるだろうと思って見ていたんだけど、そこまでもドラマがある。ところがそこからさらにドラマが進行していくので、目が離せない。どうなるんだとラストまで引っ張っていかれる。このスラスラ見られる感覚が楽しかった。もちろんドキュメンタリーではない。まるで本物の囚人っぽいけど、もちろん俳優が演じているのである。だけど、フランスの刑務所は実際にそうなっているんだろうけど、世界のあちこちにルーツがある多様な囚人が集まる。これで協力して演劇を完成させられるのかと見ていて本当に心配になる。
(集まった囚人たち、一番右は指導者)
 中部の都市リヨンの設定で、主人公エチエンヌカド・メラッド)は売れない俳優。妻も俳優だが離婚している。大学院生の娘がいるが、母親の舞台を一緒に見に行こうと言われても、何かと理屈を付けて行かない。もう3年も役がついてないそうで、多忙な劇場監督の代わりに囚人プログラムを引き受ける。動機はそっちは引き受けるから、ロパーヒン(チェーホフの『桜の園』)の役が欲しいのである。もともと刑務所ではベケットなんてやってなかった。ラ・フォンテーヌ『寓話』を舞台に掛けるという稽古をしている。イソップ童話だから、大体皆も知っている。学校の文化祭みたいな催しを刑務所でもやるイメージである。

 『寓話』が終わって、次に『ゴドーを待ちながら』と言い出したのは、エチエンヌがかつて演じた経験があったからだけではない。こういう文化プログラムが可能なんだから、粗暴犯もいるけど重罪犯ではない。だから「ひたすら出所の日を待ちながら」生きているのである。つまり刑務所そのものが『ゴドーを待ちながら』の世界なのである。個々のセリフの意味は判らないながら、それが「不条理」だという一点で「自分の物語」だと了解されていく。そこが見どころになっている。チェーホフとベケット。これはもう一つの『ドライブ・マイ・カー』であって、演劇が出来上がるプロセスに立ち会う面白さが描かれていく。
(上演中の『ゴドーを待ちながら』)
 上演はリヨンの劇場を貸して貰えることになった。上演日は決まったけど、時間が足りない。もっと練習したいし、いろいろと用意するものもある。責任者の刑務所長(女性)に掛け合って、一つ一つ特例を求める。最終的には判事の許可がいると言いながら所長は協力的だ。所長は元弁護士で、離婚訴訟ばかりで飽きてしまって刑務所長に転じたという。フランスの実話じゃないけど、日本に比べて刑務所長に自由裁量の権限がはるかに大きいんだろう。そうじゃないと、このような映画は作りようがない。しかし、囚人たちを外部の劇場に連れて行っても大丈夫なのか。公然たる脱走のチャンスではないのか。
(パリのオデオン劇場で)
 この大問題を抱えながら、リヨン公演が何とか成功する。でも、何だか時間がまだ残っている感じが…。実はここからがホントの見どころだったのである。「囚人たちのゴドー」が評判を呼んであちこちの演劇祭から声が掛かって、全仏各地を回るのである。そして、見えてくる囚人たち一人一人の事情と思い。そのことをじっくり考えさせられるラストだった。監督のエマニュエル・クールコルは長編2作目で、今までは脚本で活躍してきたらしい。何と言っても、素晴らしいのは主演のカド・メラット。有名なコメディアンだというが、実に感動的。それに囚人役の一人一人、アフリカ系、アラブ系、ロシア人など、それぞれの造形が興味深い。本物の刑務所でロケされているのも興味深かった。
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2代目若乃花、藤井裕久、和田繁明他ー2022年7月の訃報②

2022年08月09日 23時25分54秒 | 追悼
 2022年7月の訃報続き。最初は第56代横綱、2代目若乃花が16日死去、69歳。本名下山勝則。北の湖らとともに昭和28年生まれの「花のニッパチ」と呼ばれた。初代若乃花の二子山親方に中学時代に見出され、後の横綱隆の里と共に夜行列車で上京した。77年1月場所後に大関に昇進。柔らかい体と豪快な投げ技に加え、甘いマスクで女性ファンに絶大な人気を誇った。相撲中継のアナや解説者がこれほど「美男力士」と表現した人は他にいないだろう。77年5月場所で初優勝したが、北の湖全盛時代でなかなか優勝に恵まれなかった。そのため13勝、13勝、14勝(直近2回は優勝決定戦で北の湖に敗れる)で、前3場所に優勝がないまま78年5月場所後に横綱に昇進した。それまでは「若三杉」を名乗ったが、横綱昇進とともに「若乃花」に改名した。
(2代目若乃花)
 あれほど人気があった力士だったのに、この人はちょっと忘れられている。北の湖と同い年だったために優勝4回に止まり、優勝次点14回という記録を持つという。80年代に入るとケガや病気で休場が増え、83年1月場所で引退した。現役中に師匠の長女と結婚したが翌年に離婚して、銀座の年上ホステスと再婚した。そのため横綱引退を引き留められず、29歳で引退した。その後は間垣親方を襲名した。98年には相撲名跡改革案に反対して、一門の意向を無視して理事選に立候補して当選した。しかし、05年に夫人が亡くなり、07年には本人も脳出血で倒れた。08年には弟子が大麻で逮捕され、理事を辞任した。その後も体調がすぐれず、2013年には間垣部屋を閉じ、年末には協会を退職した。この人の後半生も失意の連続だった。

 元大蔵大臣、財務大臣の藤井裕久が10日死去、90歳。旧大蔵官僚で、二階堂進、竹下登の秘書官を務めて、政治家に転身した、77年に参院で当選、83年に再選。86年に衆院へ鞍替えを目論むが落選。90年の衆院選で当選した。93年の自民党分裂では小沢グループに属して離党して新生党に参加。非自民連立の細川、羽田内閣で大蔵大臣を務めた。その後は小沢に従って、新進党、自由党、民主党に所属し、04年には幹事長を務めた。しかし、05年の郵政選挙で落選、比例区でも次次点だったため、73歳の藤井は引退を決意した。ところが民主党に二人の辞職者があって、07年に繰り上げ当選となった。09年には立候補しないつもりが、鳩山代表に請われて比例単独35位で南関東ブロックから立候補した。普通は当選しないはずが政権交代の熱気で民主党が全員当選。思いがけず当選して、鳩山内閣で財務大臣に就任した。結局、非自民政権はこの人の経験を必要としたのである。しかし、体調不良を理由に年明けに辞任した。この人の話は聞いたことがあって、面白いし洒脱な感じに好感を持った。
(藤井裕久)
 西武百貨店そごうの「再建請負人」だった元ミレニアム・リテイリング社長、会長和田繁明が26日死去、88歳。この人も先の二人にも劣らぬ「人にドラマあり」だった。57年に西武百貨店に入社、堤清二の「秘蔵っ子」と呼ばれ、69年に35歳で取締役に昇進、40歳で常務になった。しかし、83年に経営不振だったレストラン西武に骨を埋めるつもりで出向した。ところがバブル崩壊とともに西武百貨店に不祥事が起こり、1992年に西武百貨店会長として復帰したのである。この時期の堤清二の引退、西洋環境開発の清算、セゾングループの解体を和田が手掛けたのである。ファミマも西友も良品計画も皆セゾンだった。セゾン系映画館もあったが、99年にはセゾン美術館も閉館し、70年代以降の「セゾン文化」は消え去った。2000年にはそごうの再建を託され、03年に西武とそごうを統合したミレニアム・リテイリング社長に就任。05年にセブン&アイグループの傘下に入った。百貨店再編の先駆けとなった人だが、今はそのそごう・西武も売却を検討されている。
(和田繁明)
 考古学者の大塚初重が21日死去、95歳。1947年に明治大学入学後、静岡市の登呂遺跡や群馬県の岩宿遺跡など戦後考古学史に特筆される遺跡の発掘に参加した。その後群馬県の観音山古墳、茨城県の装飾古墳である虎塚古墳などの発掘調査を行い、東日本の古墳文化の解明に貢献した。日本考古学会会長の他、多くの役職を務めた。戦争中に乗っていた輸送船が2度撃沈され東シナ海を漂流し、皇国史観に疑いを持ち歴史学を志したという。
(大塚初重)
 国際政治学者の武者小路公秀(むしゃのこうじ・きんひで)が5月23日に死去していた。92歳。名前の通り、元華族の外交官公友の三男で、作家武者小路実篤は叔父にあたる。学習院大学、上智大学などの教授を務め、76年から89年まで国連大学副学長も務めた。帰国子女としていじめられた経験から、反差別の意識が強く多くの運動にも関わった。04年から21年に世界平和アピール七人委員会のメンバーだった。
(武者小路公秀)
野村昭子、1日死去、95歳。俳優。俳優座養成所1期生。『赤ひげ』などの映画、『渡る世間は鬼ばかり』などのテレビドラマで活躍した。
斉藤邦彦、4日死去、87歳。元外務事務次官、駐米大使。
嵐ヨシユキ(らん・よしゆき)、4日死去、67歳。ロックバンド「横浜銀蝿」リーダー。
高沢皓司(たかざわ・こうじ)、6日死去、ジャーナリスト。関東学院大学在学中に全共闘運動に参加、新左翼やアジアの戦争に関する多くの取材を重ねた。その後、北朝鮮に通って「よど号」グループを取材した。1998年に『宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』を出版し、講談社ノンフィクション賞を受賞した。よど号グループとヨーロッパからの「拉致」について告発して大きな衝撃を与えたが、批判もあった。僕は細部に問題はあるだろうが、読んでおくべき本だと思っている。
高橋和希、6日死去、60歳。漫画家。「遊☆戯☆王」で知られ、4千万部以上の累計発行部数と言われる。沖縄県名護市の海で死亡。
山下惣一、10日死去、89歳。農民作家。佐賀県唐津市で農家を継ぐ一方、農業体験を小説やルポで発表した。農業の衰退、村の崩壊を鋭く批判し続けた。70年「海鳴り」で農民文学賞、79年『減反神社』で直木賞候補。その他多くの著作がある。
石川忠久、12日死去、90歳。中国文学者。NHKの漢詩番組で知られた。平成後の元号候補として「万和」(ばんな)を考案した。
金昌国、15日死去、80歳。フルート奏者。東京芸大教授として活動しながら、世界的なフルート奏者として活躍した。69年ジュネーブ酷さ音楽コンクール2位。
近藤信行、17日死去、91歳。文芸評論家。中央公論社で「海」の編集長を務めた。1978年『小島烏水 山の風流使者伝』で大佛次郎賞。登山関係の多くの著作、編著がある。
金城重明、19日死去、93歳。元沖縄キリスト教短大学長。沖縄戦の「集団自決」の証言者として知られた。
小川隆吉、25日死去、86歳。元北海道ウタリ協会理事。2012年に北大に遺骨返還を求めた訴訟を提訴、16年に和解成立で12体が返還された。
吉野良彦、26日死去、91歳。元大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。竹下内閣の消費税導入時の調整を担当した。
李鐘根(イ・ジョングン)、30日死去、93歳。在日韓国人被爆者として証言活動を行った。
小林清志、30日死去、89歳。声優。『ルパン三世』シリーズの次元大介や『妖怪人間ベム』(1968年)のベムなどで知られた。映画の吹き替えではジェームズ・コバーン、トミー・リー・ジョーンズなどで活躍した。
飯村隆彦、31日死去、85歳。映像作家。日本の実験映画の草分け的存在で、世界各国で多くの受賞歴がある。著書も多く、オノヨーコに関する本も出している。60年代にはニューヨークで活動し、90年代以後は帰国して大学でも教えていた。
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島田陽子、佐藤陽子、山本コータロー、ラモス他ー2022年7月の訃報①

2022年08月08日 22時15分27秒 | 追悼
 2022年7月の訃報。一番大きな訃報は安倍晋三元首相だが、「政治的事件」だったので別に書いた。演出家ピーター・ブルックも別に書いた。他に多くの訃報があったけれど、「二人の陽子」から書きたい。「陽子」という名前はある時代まで非常に多かった。同級生にも生徒にも何人もいたけど、この頃はめっきり少なくなった名前だろう。

 女優の島田陽子が25日死去、69歳。島田陽子は70年代初期のテレビドラマで良家の子女を演じる清楚可憐な役柄で非常に人気があった。71年にテレビドラマ『続・氷点』のヒロイン役で人気が沸騰し、以後多くのドラマに出た。また映画でも『砂の器』『犬神家の一族』などの映画にも出演した。1980年にはアメリカのテレビドラマ『将軍 SHŌGUN』に出演してゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞し国際女優と呼ばれた。しかし、1988年の映画『花園の迷宮』で出会った内田裕也と「不倫」に陥ったあげく結婚は出来ずに、多額の借金を作ったとされる。以後は金銭トラブルが多く失意の後半生を送ったのが残念だった。
(島田陽子)
 ヴァイオリニスト、声楽家の佐藤陽子が19日死去、72歳。3歳でヴィアオリンを始め、9歳でソ連に留学、16歳でチャイコフスキーコンクール3位。声楽家としてもマリア・カラスに認められるなど、華々しい国際的活躍で知られた。76年に帰国後は執筆やタレント活動した。パリで知り合った外交官岡本行夫と結婚したが、その後世界的版画家池田満寿夫とローマで出会った。岡本と79年に離婚して、80年に池田と大々的な「結婚式」を行ったが、池田の妻は離婚に応ぜず法的な結婚は出来なかった。ただし、島田陽子と違って、佐藤陽子と池田満寿夫は最後までパートナーで、熱海で二人が住んだ工房は記念館になっている。
(佐藤陽子と池田満寿夫)
 フォークシンガーの山本コータローが4日死去、73歳。本名厚太郎。70年に「ソルティー・シュガー」のコミックソング「走れコータロー」が大ヒットした。また74年に「山本コータローとウィークエンド」の「岬めぐり」も大ヒットした。この間一橋大学の卒論に吉田拓郎を取り上げて評判になった。(『誰も知らなかったよしだ拓郎』として刊行。)71年から78年までTBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」の金曜1部(1時~3時)を担当し、その時2部(3時~5時)担当の映画評論家吉田真由美と知り合い生涯のパートナーとなった。法的な結婚はせず、別姓で同居を続けた。地球環境問題に関心を寄せ、87年から白鴎大学非常勤講師、99年から白鴎大学教授。89年には参院選に出馬して落選した。僕は二人の深夜放送を聞いていたので思い出深い。
(山本コータロー)
 俳優の石濱朗(いしはま・あきら)が26日死去、87歳。高校時代に木下恵介監督『少年期』でデビュー。松竹に所属し、木下恵介『この広い空の下で』『遠い雲』『太陽とバラ』、小林正樹監督『人間の条件』『切腹』など巨匠の映画に出ていた。また甘いマスクで人気があり、『伊豆の踊子』で美空ひばりと共演するなど多くの青春映画でも活躍した。その後70年代以後はテレビを中心に多くの時代劇などで活躍した。2009年から日本映画俳優協会理事長を務めた。主演級で活躍したのは主に50年代なので若い人は知らないと思うけれど、こういう端正な俳優は当時は珍しかった。
 (石濱朗、若い頃と最近)
 フィリピンの元大統領フィデル・ラモスが31日に死去、94歳。死因は新型コロナウイルス感染による合併症。1986年の「ピープルパワー」革命(マルコス大統領の不正選挙に怒った民衆100万人が街頭に集結し、大統領は国外に亡命した)で、軍人の中心的役割を果たしたことで記憶される。父は外務大臣を務めた政治家だったが、息子は米国陸軍士官学校に留学し軍人になった。マルコス時代に国家警察軍司令官、国軍参謀総長代行を務めていたが、86年2月に独裁に反対して政権を離反。これがマルコス体制崩壊の決め手になった。コラソン・アキノ政権では参謀総長、国防相を歴任し、後継指名を受けて、92年から98年まで大統領を務めた。その間は経済復興、南部の反政府組織との和平交渉等に取り組み、内外で広く支持された。
(ラモス)
レオニード・シュワルツマン、2日死去、101歳。旧ソ連のアニメ映画の美術監督。『雪の女王』の美術監督。チェブラーシカの生みの親として知られる。
ジェームズ・カーン、6日死去、82歳。アメリカの俳優。『ゴッドファーザー』の長男ソニー役でアカデミー賞助演男優賞ノミネート。他にも『シンデレラ・リバティ』『愛と哀しみのボレロ』『ミザリー』などで活躍した。
モンティ・ノーマン、11日死去、94歳。007シリーズの「ジェームズ・ボンドのテーマ」の作曲者。
ボブ・ラファエルソン、23日死去、89歳。アメリカの映画監督。70年前後の「アメリカン・ニューシネマ」の中で僕が一番好きな『ファイブ・イージー・ピーセス』(70)の監督。他には『郵便配達は二度ベルを鳴らす』ぐらいしか知らないけど、調べたら他にも幾つか公開されていたので驚いた。ザ・モンキーズの仕掛け人で、映画『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!』も作っている。
ジェームズ・ラブロック、26日死去、103歳。イギリスの科学者。地球を自己調節機能のある生命体と見なす「ガイア理論」の提唱者。地球温暖化防止のため原子力の活用を支持して波紋を呼んだ。
ニシェル・ニコルズ、30日死去、89歳。アメリカの女優。テレビドラマ「スタートレック」で黒人女優の草分け的存在となった。その後、NASAでのボランティア活動を続けたことでも知られる。
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更新制廃止と安倍「教育再生」ー萩生田前文科相の証言

2022年08月05日 22時52分04秒 |  〃 (教員免許更新制)
 2012年12月に第2次安倍晋三政権が誕生したわけだが、以後の第3次、第4次政権を通じて、文部科学大臣はほぼ「清和会」系、つまり今の安倍派(旧町村派、細田派)が就任してきた。2006年の第1次政権では伊吹文明(後に衆院議長、伊吹派)だったが、2012年12月以後は下村博文が2015年まで3年近く務めた。続いて馳浩(現石川県知事)、松野博一(現官房長官)、林芳正(現外相)、柴山昌彦がそれぞれ1年間ぐらいを務めた。2019年に就任した萩生田光一(現経産相)は菅内閣でも再任され2年間務めている。岸田内閣では末松信介が就任した。このうち、今の安倍派以外で文科相になったのは、林芳正現外相だけである。

 林芳正は2021年に衆議院に転じたが、文科相就任当時は山口県選出の参議院議員だった。衆院鞍替えを目論んでいた林は、同郷の安倍と対立するわけにはいかない。このように第2次以後の安倍政権では、文部科学省は安倍首相の「直轄地」「天領」という扱いに近かった。しかも、下村、松野、萩生田と派内でも有力な議員が就いている。それは何故かというと、僕は「強権的教育行政」、政権側から言えば「教育再生」が重要な政策テーマだったからだと思ってきた。しかし、最近判明した事実によれば、「宗教行政を管轄する文科省を押さえておく必要」という動機も重要だったのかも知れない。

 それはともかく、現時点で改めて安倍政権における教育政策を総括することは非常に大切だと思う。朝日新聞(8月1日)には「安倍元首相の「教育再生」改革 功罪を聞く」と題して、児美川孝一郎法政大学教授萩生田光一前文科相の2人のインタビューを大きく掲載している。中でも萩生田氏の発言には非常に興味深い証言が含まれていたので、紹介しておきたい。
(教員免許更新制を語る萩生田文科相)
 もちろん「功績は非常に大きかった」とし「特に第1次政権のときの教育基本法改正。道徳心、自立心、公共の精神など新しい時代の基本理念を定め、その後の改革につながりました」と絶賛している。その後、「道徳の教科化」「教科書検定基準改正」「高等教育の修学支援」などを高く評価。記者(桑原紀彦)から「一方、大学入学共通テストでの英語民間試験の活用や記述式導入教員免許更新制については文科省として見直しを決めました」と問われた。その答えが以下のもの。

 「安倍さんは「全て任せる」と言ってくれました」とまず語り、民間試験活用を「おかしい」、記述式を「物理的に不可能」と断言する。「教員免許更新制は」とさらに問われると、「第1次政権のときに導入を決めた政策なので周りはすごく安倍さんの意向を気にしていましたが、私が廃止の話をしたとき安倍さんは「任せる」と。多忙を極めている先生が更新講習を受けられるのは、長期の休みぐらい。人気の講習は既に埋まり、極端なことを言えば体育の先生が家庭科の講義を受けて免許維持に必要なコマに間に合わせるようなこともありえたわけです。」と語っている。

 ここで判ることは何だろうか。「安倍さんの意向」をやはり気にしていたのである。だから「廃止の話をした」わけである。まあ法律改廃に関して、所管大臣が総理大臣に報告するのは当然ではある。だけど「安倍さんの意向を気にする」「周り」があって、「任せる」の言質を取って廃止へ踏み出したのである。英語民間試験や記述式導入、免許の更新制などは、「現場」的な感覚からすれば、もともとあり得ない政策である。それを言えば「道徳教科化」「教科書検定基準改正」なども同じである。それがまかり通った安倍政権を見てきたから、皆が「安倍さんの意向」を気にしたのだろう。
(「統一教会」名称変更の責任を認めた下村氏)
 では何故安倍氏は「任せる」と言ったのだろうか。更新制廃止が視野に入ってきた2021年夏はすでに菅政権である。タテマエ上、前首相と言えど、現職の大臣に指示するわけにはいかない。しかし、そういうことでもないはずだ。一つは「萩生田氏だから」ということである。加計問題の内情を知り尽くした「忠臣」「寵臣」である萩生田氏を大臣に任命した意図は何か。安倍長期政権の教育政策を見れば、「下村文科相」が3年も務めて「国家主義的教育」のレールを敷いた。その中で行き過ぎた点、もう意味を失った政策を点検することが「萩生田文科相」の役割だったのだろう。そつなくこなして、経産相に横すべりした萩生田氏、菅政権で政調会長に就任した下村氏、ともに「安倍派」の次代を担う存在だった。(下村氏は今回事実上「失脚」するだろうが。)
(「個から公へ」と教育基本法改正を報じる新聞)
 もう一つ考えられるのは、安倍氏にとって「教員免許更新制」は特にこだわりがある政策ではなかったと思われることだ。これはもともと「問題教員の排除」を保守派が言い出したことから始まった。あからさまに言えないから「指導力不足教員」といい変え、全教員の「指導力」向上を目指す「教員免許更新制」となった。萩生田氏が述べる問題点などは当初から判ってきたことであり、何を今さら感が強い。教育において、これほど「政権の目論み」が実現した以上、教員不足までもたらした免許の更新など、もうどうでも良いのではないか。それにしても、誰か保守派議員が廃止反対を言い出しそうなもんだと思っていたが、すでに御大が「任せる」とお墨付きを与えていたのか。亡くなったからこその証言だと思う。
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都小P、PTA全国組織を脱退ーPTAをめぐる問題

2022年08月04日 22時43分38秒 |  〃 (教育問題一般)
 大きく取り上げているメディアが少ないけれど、7月9日に東京都小学校PTA協議会都小P)が全国組織の「日本PTA全国協議会」(日P)を来年3月に脱退することを決定した。このような動きは時々伝えられるが、現時点では全都道府県と一部の政令指定都市64団体が加盟している。都小Pは1957年に一時脱退したことがあるが、65年度に復帰した。全国組織からの脱退は極めて異例なことだと言われる。(以上、朝日新聞7月10日付)
(脱退を報じるテレビ)
 ところで、同じ記事には都小Pは現在一部の公立校約190校の会員9万人から集める年会費180万円(児童一人当たり20円)のうち、半分を日Pに支出していると出ている。これを見ると、ほとんどの小学校のPTAが都小Pに加盟していないと考えられる。何しろ東京都には公立小学校が1265校もあるのである。(2022年4月1日現在。)加盟しているのは15%程度ではないか。

 学校にはあまり論じられないままになっている多くの問題がある。「部活動」は語られるようになってきたが、PTA(Parent-Teacher Association)も今後再考が必要になってくる大テーマだと思う。自分が生徒だった時代は、PTAというのは当然「全員参加」(全世帯加盟)の組織だった。生徒もそう思い込んでいた。生徒全員の名前、住所、電話番号、さらに保護者名も加わった「PTA会員名簿」が作られていた。そこには教員の住所も掲載されていた。全生徒の電話番号が判ったら、お誘いやイタズラの電話が頻発しないか。今の人はそう心配するだろうけど、一家に一台の電話には大体親が出るから安易に掛けられないのである。

 自分が教員になった後も、おおよそ20世紀の間は同じように「全員加盟」のものだと思っていた。学年初めに保護者会があって、そこで行われる「役員選び」は教員にとってもとても鬱陶しい時間だった。もちろん当の保護者(大部分は「働く母親」か、「子どもが複数いる主婦」)にも苦痛の時間だっただろう。しかし、そういうもんだと思い込んでいたから、いつの頃からか「PTAは任意加盟の組織」だと言われたときには驚いた。それで良いのだろうかと思ったりもした。PTAに参加出来る家庭だけが加入し、それ以外の家庭は入らないということでは、学校の運営にも影響するのではないかと心配もした。

 しかし、東京では「任意参加」の原則が教育行政からも強調され定着したのではないか。一応出来るだけ入って下さいと入学式後に呼びかけるだろうが、そして(小中なら)かなりの家で加盟するだろうが、全員ではない。それでやむを得ないということになってきたと思うけど、21世紀の小中の実情は知らないから違うかもしれない。しかし、では「親と教師の会」なのに、教師は全員加盟なのだろうか。教師だって任意参加のはずなのではないか。それは「教師も会員なんだから、会費を払うべきでは」という議論があったときに思ったことだ。なるほどそうかもしれないが、教師は部活動と同様に「やむを得ない仕事」と思っていたはずだ。

 コロナ禍において、PTA活動も大きな苦労があっただろう。その中でPTAの役割も見直されるだろう。PTAという組織は戦後の占領時代にアメリカから持ち込まれたものである。文部省は「父母と先生の会‐教育民主化のために‐」という結成の手引書を配布したという。もともとは教育の民主化のための「戦後改革」だったのである。アメリカやイギリスの映画や小説には、学校の保護者会が結構出てくる。教員は部活動や残業などないから、「スモールタウン」では家に帰って夕食を済ませてから車でまた学校に来たりしている。学校はコミュニティの一部で、親も教師も同じコミュニティを大切にしている。しかし、特に東京では遠距離通勤が多いから、一旦家に帰って出てくるなんて不可能である。

 学校をめぐる条件が全然違うから、「理想」がどんどん崩れていった。PTAはいずれ子どもの卒業とともに終わるから、その間のお務めとしてガマンする組織になってしまった。しかし、子どもが毎日行っている場所、毎日接する教員を知る意味は大きい。協力して学校作りをしたいという気持ちも当然あるだろう。学校からしても、保護者の協力は必須である。今後ますます進行する少子化の中で、地域の教育力を生かさないと学校も存立できなくなる。学校と保護者のあり方をホンネで話せる場が大切になるはずだ。
 (日Pの会費、会員の不満)
 いや、日Pの問題を書くはずが、つい一般論、それもタテマエみたいなことになってしまった。僕も(PTAに限らないが)「全国組織」が有効に機能しないことが多いのを知っている。親と言っても様々だから、皆で一丸になって何か出来る時代ではない。日Pを脱退するところも他にも出てくるかもしれない。ただ、東京の場合は、そもそも都レベルの組織への加盟も少ないという特別な事情もあると思う。PTAの問題はなかなか語りにくい。教員にとっても、熱心な親もいれば、そうでもない親もいるから、一律に語れない。しかし、これも「戦後の理想」が「日本社会の現実の中で変容していった」という問題なのである。
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東京の「スピーキングテスト」実施と多くの疑問

2022年08月03日 22時15分59秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 教育に関する問題をしばらく書いてなかったので、幾つか書いておきたい。東京都教育委員会英語のスピーキングテスト(ESTAT-J)を実施して、都立高校の受験成績に加点される。この問題は方針が打ち出されたときに、「スピーキングテストに見る都教委の「原理主義」」(2017.12.18)を書いた。このテストに関しては、反対や疑問を訴える動きがあるものの、もちろんいつも批判に答えない都教委は、そのまま実施に向かって進んでいる。すでに申し込みが始まっていて、11月27日に実施される予定
(2021年に行われたプレテスト)
 今、「申し込み」と書いたが、これは東京都の公立学校に通う全中学生を対象にしているのに、別途申し込みが必要になる。11月27日は日曜日で、学校の授業の一環ではないのである。受験に加点されるから、逆に私立中学から都立高校を希望する生徒も受けられるんだろうか。一方で私立高校進学を希望する生徒も受ける必要がある。このテストは「受験」ではなく、「授業改善」が目的だからである。「授業で学ぶ」→「試す(ESTAT-J受験)」→「知る(ESTAT-J結果)」→「目標を立てる」→「学び続ける」というサイクルだそうである。「PDCA」みたいな発想がつくづく好きだよね。
(テストの概要)
 疑問点は幾つもあるが、まずは欠席者の問題。あるいは「障害」を持つ生徒の場合。ウェブ申し込みに当たっては、「特別措置」の申請が出来る。視覚、聴覚、きつ音、上肢不自由、下肢不自由、日本語の補助とかいろいろとある。全生徒対象だから、様々な事情のある生徒向けに特別措置が必要になる。それは大事なことだけど、いくらそんな措置を取ったとしても、当日コロナに感染したらどうする。一応、予備日があって、12月18日にもう一回ある。でも、不登校の生徒はどうなってしまうのか。

 もちろん、どんな対策を取ったとしても、中学3年生全員が受けるなんて不可能である。東京の公立高校には約8万人もの中学3年生がいる。受験にも使うというなら、不受験だった生徒は大きな不利益を被るのだろうか。ケガや病気で受験出来なかった場合の対応が5月末に発表されている。それが実に驚きなのだが、「来年2月に行われる英語の筆記試験で、同じ点数を取った同じ高校を受ける生徒たちのスピーキングテストの平均点を算出して、加点する」というのである。筆記試験の点数から、スピーキングテストの点数を導けるんだったら、わざわざ別にスピーキング能力を測定する意味がどこにあるんだろうか。
(入選における活用)
 では実際の入選では、どのように扱うのか。東京都の入学者選抜では、当日の筆記テストと中学の各教科の成績を総合評価する。現在のところ、筆記テストを700点に換算し、調査書点を300点に換算し、合計1000点満点にして上位から合格とする。スピーキングテストの点数は、これと別にして20点を上限にして加点するのである。つまり、1020点満点になる。

 これは各教科の中で英語だけ120点になるようなものである。スピーキングテストの点数はAからFの6段階に区分けされる。80点から100点の人がA段階で、20点加点。65点から79点が16点加算。50点から64点が12点加算。35点から49点が8点加算。1点から34点が4点加算。最後のFは0点の場合である。何で80点以上と最上位は20点で区切るのに、35点以上の場合は、15点ずつ区切るのか全く意味が判らない。スピーキングテストの採点は、どうしても公平性が問題となるが、64点と65点に1点の差しかないわけなのに、それが3点の差になってしまう。何でこんなことをするのか、よく判らない。
(問題例の絵)
 以上のことは、テストを行い、入選でそれを利用することに対する疑問である。しかし、そもそもスピーキングテストを行うことに、どのような意味があるのだろうか。もちろん、英語では「4技能」を学習するというタテマエで言えば、スピーキング能力だけ測定しないのはおかしいという考え方は出来る。しかし、限りあるテスト時間の中で、どのようなテストを行うのだろうか。テストには専用のタブレット端末・イヤホンマイク・防音用イヤーマフの3点を使用する。そして、例文の読み上げ質問を聞いて答える絵を見てストーリーを英語で話す自分の考えを述べるの4問について、答えるようになっている。

 まあ、最初にある「英文朗読」は理解出来る。英単語の読み方を知らなければ、上手に読めないだろう。でも、それは筆記テストでも判定はある程度可能だ。もし、英語独自の発音を厳しく採点するならば、確かに意味はあるだろうが、それが全中学生に可能だろうか。僕がよく判らないのは、「絵を見て答える問題」である。絵そのものの判断が(絵が小さくて)難しい。それに何が問題になっているのか、もうこういうテストをやるわけじゃないから難しい。でも自分が中学生なら判ったと思う。何故なら、問題にはパターンがあって、準備して臨めば出来るからである。つまり、スピーキングテストとは究極の暗記問題なんだろうなと思う。日常生活では使わない英語の発音を「過去問を繰り返してパターンを理解して覚えこむ」という能力を測るテストになるのである。
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「山上徹也容疑者」の生き方をどう考えるかー「安倍事件」考⑤

2022年08月02日 23時24分40秒 | 政治
 安倍首相暗殺事件で逮捕されている山上徹也容疑者をどう理解すれば良いのだろうか。その家庭環境など多く報道されているが、僕は全部をきちんと追っているわけではない。また本人のTwitterがあるというが、自分では見ていない。その他、反「統一協会」ブログを書いていた人に「手紙」(事実上の犯行声明のようなもの)を事後に届けられるように出していたというが、それも報道で見ただけである。二次資料を基に論じることになるが、自分で考えている「問題点」を幾つか指摘して、論点を明らかにしたい。

 山上容疑者が「実行犯」であることは疑えないが、その犯行に至る背景事情はまだまだ不明な点があると考えている。山上容疑者は奈良県の進学高校である県立郡山高校を卒業したとされている。郡山高校は野球部の強豪校で、1998年の春の選抜大会に出場していた。横浜高校が松坂大輔を擁して春夏連覇を果たした年の春である。郡山は準々決勝まで進出して、その横浜高校に4対0で敗退した。山上容疑者は応援部に所属し、その時も甲子園にいたということである。
(現行犯逮捕の瞬間)
 その後、父が亡くなるが(自殺だという説がある)、母は「統一協会」にのめりこみ生命保険金も「統一教会」に「寄付」したという。兄も病気を抱えていて、その後2017年頃に自殺したとされる。一家は不幸の連鎖に陥るが、「統一教会」的に発想すれば「先祖の霊」に問題があるということになるんだろう。山上容疑者が「統一教会」憎しになることは理解出来ると思うが、では彼はどのようにするべきだったのだろうか。その生き方に正解はないだろうが、彼には身近なところにロールモデルがあった。

 それは父の兄(伯父)である。今回弁護士として匿名で登場しているが、特定はされていないようである。この伯父弁護士は統一教会と交渉し、5千万円を取り戻したということだ。しかし、戻ってきた金は再び母が寄付してしまったという。お金の問題ではないのかもしれないが、このような「法的取り組み」で少なくとも金銭的な面で「解決」することがある。本当に困窮している家庭もあるだろうから、宗教団体トップを殺害するよりも前に出来ることはいっぱいあったはずだ。

 山上容疑者は同志社大学工学部中退ということだから、理系だったのだろう。学力的には高かったとしても、自ら弁護士を目指すわけにはいかなかったのだろう。でも被害弁護団に協力するとか、支援団体を立ち上げるとかは出来なかったのだろうか。伯父の弁護士も関西の被害者救済の中心になったわけではないらしい。つまり、日弁連の人権擁護委員会で活動したり、消費者問題、公害事件、冤罪問題などに尽力するタイプではなかったのだろう。
(山上容疑者の自宅とされる写真)
 山上容疑者が個人的な「ヒットマン」を志向したのは、何故なのかということをもっと究明しなければならない。もともと安倍元首相は「真の敵」ではなかったと供述しているとされる。「真の敵」は「家庭連合」の韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁なのだが、コロナ禍で来日出来ないから、教団の広告塔だった安倍氏を狙ったという。しかし、韓総裁は「真の敵」なのだろうか。

 韓鶴子総裁は創始者である文鮮明氏の妻であり後継者ではある。17歳の時に40歳の文総裁の3人目の結婚相手に選ばれ、14人の子をなしたという。しかし、4人はすでに亡くなり、子どもたちの多くも離反している。それほど幸福な人生とは思えない。では教祖文鮮明が敵なのかというと、すでに2012年に亡くなっている。何にしても韓国で始まった宗教がなんで日本で布教出来たのか。宗教法人の認可は1964年だというが、これは1965年の日韓国交正常化の前である。自由に日韓を往来できる時代ではない。日本側で受け入れた経緯があるわけである。このように敵を追い求めても、逃げ水のようにどんどん「真の敵」は遠ざかってゆく

 これは「統一教会」問題に限らず、あらゆる社会問題に言えることだろう。気に入らない組織のトップを殺害しても、そのような組織を生み出す社会の方が変わらない限り、同じような人物、同じような組織が出てくるだけである。それはかつて起こった豊田商事事件でよく判る。1980年代初頭に「金の地金」を高齢老人向けに売るという豊田商事の被害が問題化した。(実際には金を渡さず、「証書」だけを渡していた。金の地金は買ってはいなかった。)この事件は、多くのテレビが中継している前で社長が刺殺されるという結末に終わった。ところで「高齢者を欺して老後資金を巻き上げる」という犯罪は、根絶されるどころかむしろ増大しているではないか。

 山上容疑者はTwitter上では「ネトウヨ」を自称し、弱者に厳しい言葉を使っているという。安倍首相に対しても、政治的方向としては評価するような言葉を残しているらしい。山上容疑者の「右翼的思考」、つまり社会的な解決を探るのではなく、一人で状況突破を目指すという生き方がどのように形成されたのか。焦点はそこにあるように思う。本人や周囲の人物の思想傾向、「就職氷河期」と呼ばれた時代状況、「個人責任」を強調する「新自由主義」的政策を自民党内閣が進めていた時代だったこと、同時代的に「少年犯罪」が騒がれた時期に成長したこと(神戸の少年事件の時は16歳だった)など様々な事情が複合して、「自力救済」的な志向を強めてしまったのだろうか。残っている問題も多いけれど、とりあえずここまで。
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自民党、LGBT問題で八木秀次氏の意見を聞く会

2022年08月01日 22時04分44秒 | 政治
 小さな記事だったから、気付いてない人も多いだろうと思って書いておく問題。7月28日に自民党の「性的マイノリティに関する特命委員会」が開かれ、有識者ヒヤリングとして麗澤大の八木秀次教授を招いて意見交換を行った。自民党にそんな委員会が作られていたとは知らなかった。委員長は高階恵美子(たかがい・えみこ)衆議院議員である。

 あれっ、高階議員って参議院じゃなかったっけ。看護連盟の組織内候補として参院比例区に出ていた人である。どういう理由があったのか知らないが、参院で2期当選した後、任期途中の2021年秋の衆院選に、中国ブロックの比例単独候補として18位に登載され当選していた。19位が杉田水脈議員で、高階氏はその上。中国地方はほとんど自民候補が当選するから、比例単独で3人が当選したのである。これは気付かなかった。高階氏のブログに当日の写真が載っていた。
(自民党の会合)
 「八木秀次」と言われても、知らない人もいるだろう。詳しくは後述するが、当日はこんなことを語ったようだ。「ヒヤリングは非公開で行われ、終了後、八木氏は記者団に発言内容を問われ、説明した。」(朝日新聞29日付記事)「(性的指向について)先天的という意見もあるし、最近の学説では後天的という意見もだんだん有力になってきている」「社会制度を設計するにあたっては、新しい学問的な科学的な見解に基づいてすべきで、かつての見解をそのまま使って制度設計をしたとしたら、多くの人にとって幸せな結果にならないのではないか。」 これは一体何なんだろう。
(八木秀次氏)
 一体全体「先天的という意見もあるし、最近の学説では後天的という意見もだんだん有力になってきている」なんていう認識の「憲法学者」を呼んできて、何の勉強になるんだろう。八木氏が早稲田大学法学部大学院で学んだのは間違いないから、内容的には偏っているとしても「憲法改正」問題で意見を聞くというなら判らないではない。しかし、性的マイノリティの問題に関して「科学的な見解」を述べるには専門分野が違っている。これでは「性的マイノリティ問題を理解しないための委員会」ではないか。

 八木秀次氏は20世紀末ころから右派論客として知られるようになった。「新しい歴史教科書をつくる会」で活動していたので、八木氏の名前を知った。2006年の「つくる会」分裂において、同会を脱退して新たに「日本教育再生機構」を結成して理事長に就任した。また「教科書改善の会」を発足させ、新しい教科書を育鵬社(産経新聞の子会社である扶桑社から作られた教科書専門の孫会社)から出版した。同年に発足した第1次安倍政権をブレーンとして支えたことでも知られる。

 八木氏が入れ込んだ安倍政権は1年で退陣し、さらに2009年には民主党政権が誕生し自民党は野党に転落した。この「悪夢のような民主党政権」時代に、失意の安倍氏を支えたのが、八木氏と「(国政進出前の)大阪維新の会」だった。2012年2月に「日本再生機構」主催の「教育再生民間タウンミーティングin大阪」が開かれたのである。安倍晋三元首相と松井一郎大阪府知事(当時)がパネリストとなり、進行役を八木氏が務めたのである。これは総裁選出馬の約半年前、民主党政権時代に安倍氏が活動を再開した日となった。写真が小さいが、八木、安倍、松井氏が写っている。

 そんな八木氏のことだから、当然「統一協会」関連団体とは深い「友好関係」にあるに違いないと思って、画像検索してみた。そうしたら、案の定「世界日報」にはよく招かれて講演している。「世界日報」は国際勝共連合が関わっている日刊紙。「世日クラブ」という読者向け講演会があって、八木氏だけでなく右派系の論客として知られる評論家や学者は大体招かれているようだ。八木氏は何度も招かれているようだが、まさに「世界日報」を背景にしている写真があった。

 こうやって、旧「統一協会」系の関連団体は、日本の右派系論客に深いつながりを有している。そして、そのような人々を自民党が招いて「勉強」している。そして、その勉強の「成果」として、例えば性的マイノリティに関する間違った理解を世に広める活動をしているわけである。このように「両論」を持ち出して本質をあいまいにする策略は歴史認識問題と同じである。一人でも「トンデモ学説」を唱える「自称学者」を見つけてくると、「最近の学説では両論ある」と無理やり主張するのである。性的マイノリティの問題に口をはさみ始めたのも、保守政界に「家庭連合」の影響力が強まっている現れなのかもしれない。
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