尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『あした輝く』と浅田美代子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月12日 22時02分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷の「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」、今日は1974年の『あした輝く』(山根成之監督)と主演の浅田美代子のトークショーに行ってきた。実は前日に原作者の漫画家里中満智子のトークもあったのだけど、やはり浅田美代子の方が聞きたい。まあ猛暑の中二日連続は体力的にきついし。浅田美代子も言ってたけど、戦争を描く映画はいっぱいあるのに何でこの映画が選ばれたんだろうという感じはした。でも半世紀前の普通の「アイドル映画」が戦争をどう描いていたかという意味で興味深い。

 この映画は初めて見たが、公開当時に映画は知っていた。里中満智子原作の漫画の映画化で、前年(1973年)テレビ『時間ですよ』でデビューした浅田美代子が主演したんだから話題作である。浅田美代子は劇中歌「赤い風船」も大ヒットして、大注目のタレントだった。監督の山根成之(やまね・しげゆき)は、当時『同棲時代』『愛と誠』など青春映画の話題作を連発していた。しかし、今回見てみると突っ込みどころいっぱいの「アイドル映画」で、何だこれは的な展開が続く。

 確かに「この映画を何でやるか」的な感じである。時は敗戦直後の「満州国」。関東軍は民間人を置いて撤退してしまい、引き揚げ時に多くの犠牲を出した。ソ連軍の攻撃に加え、現地中国人の襲撃も受け、後に「残留孤児」問題が起きる。しかし、映画では「満州国」の本質は追求しない。主人公今日子(浅田美代子)は奉天の夏樹医院の「お嬢様」で、加賀中尉(沖雅也)に言い寄られているが、衛生兵速水香(志垣太郎)を好きになる。運命的に結ばれ、速水は民間人保護のためとして今日子らの引き揚げに同行する。今日子の父は途中で死に、香は後を託される。その時、今日子は香の子を宿していた、っていつそうなったの?
(今日子と香)
 2022年に亡くなった志垣太郎はこんなにカッコよかったのか。恋敵の沖雅也は1983年に31歳で自殺した俳優である。その後、帰還船の中で今日子は流産するが、同行していた女学校の教員、緑川先生(田島令子)が出産後に亡くなり、その子を引き受ける。速水の実家(九十九里)に赴くと、助産師の母親(津島恵子)は子どもを香との子どもと思い込む。子どもは「今日子と香」から「今日香」にしようと香が言うが、今日じゃなくあしたが輝いて欲しいから「あすか」にしようと今日子が言った。これが題名になるが、その後ソ連軍に連行され生きているかも不明な香を今日子は義母とあすかと一緒に待ち続ける。
(里中満智子)
 その向日性が浅田美代子の持ち味と合っていて、都合のいい展開に納得してしまうわけである。「引き揚げ」もの、「シベリア」ものはかなりあるが、この映画は戦争映画という意味では特に書くこともない。ただ半世紀前のアイドル映画では、戦争が背景として成立していたのが興味深い。今では時間が経ちすぎて「歴史映画」になってしまう。半世紀前は「戦後29年」ということで、若い世代からしても「戦争は父母の時代の話」だった。一家の成り立ちを振り返れば、そこには当然戦争という歴史が出て来る。そういう時代性を背景にして、愛の物語が成り立っている。山根演出はまさに「少女漫画」の実写化という感じで撮っていて面白かった。
(浅田美代子=現在)
 浅田美代子さんは最近も良くテレビで見るが、いつまでも元気で活躍して欲しい。この映画のことは船酔いしたことが最大の思い出だという。乗馬のシーンがあるが、自分じゃないという話。それはそうだろうなと思って見ていた。テレビと映画の違い、樹木希林さんの話など興味深い。しかし、それ以上に犬の保護活動を通じて、猛暑が続く中で犬を外で飼ってはいけない、猛暑の昼間に散歩させてはいけない。自分は夜10時過ぎに毎日行ってるとのこと。諸外国ではペットショップ自体が無くなりつつある。ペットショップだと売れ残る犬が出て来るからという話に考えさせられた。共同通信の立花珠樹さんの司会。
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映画『花物語』と高橋惠子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月10日 22時48分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 第13回を迎える「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」が今年は渋谷のシネマヴェーラ渋谷(ユーロスペースのあるビル4階)で始まった。今までは見てる映画が多くて行ってない年が多いが、今年は「家族たちの戦争」をテーマにほとんど見てない映画が並ぶ。しかもトークショーが幾つも企画されている。今日は公開時に見ているんだけど、非常に上映機会が少ない『花物語』(堀川弘通監督、1989)を再見してきた。主演の高橋惠子のトーク付きである。

 千葉県の房総半島南部は南房総国定公園に指定されている景勝地域である。普通の観光地の人気シーズンは夏や春秋なんだけど、ここは2月頃に一番観光客が訪れる。花の栽培が盛んな地域で、お花畑が一面に咲き乱れ向こうに海が映える。その時期に南房総をドライブしたことがあるが、素晴らしい景色だった。中でも外房南部の和田町(現・南房総市)あたりは花栽培が戦前から盛んな地域として知られていた。ところが戦時中はその花栽培が禁止されたのである。「食糧増産」が国の旗印で、すべての田畑は食糧生産に当てるべきだというタテマエである。この地域は海に近く、野菜や米の生産には向かず、花に向いた土地なのに。
(花束を受ける高橋惠子)
 枝原ハマ高橋惠子)は花栽培にずっと取り組んできた。それには理由があることが後に判るが、ハマはなかなか花栽培を止めなかった。主な畑は野菜に転換したが、小さな一つの畑だけは何とか見逃して欲しいと言う。しかし、「お上」の意向を受けた村の当局者は、それを許さない。長男は学校で「非国民の子」といじめられ、母には出来ないからと自らの手で残された花を摘み取ってしまう。それでも「畑じゃない場所」なら良いだろうと小規模で花を作り続けたが…。漁師の夫(蟹江敬三)は再度召集され、長男は予科練に応募して去る。疎開児童やノモンハン帰りの時計屋(石橋蓮司)など複数の目で村人たちを活写していく。
(堀川弘通監督)
 僕はこの映画を公開当時に見ているんだけど、そういう人は少ないと思う。公開自体が小規模だったし、確かすぐに終わってしまった。それでも見たかったのは、実は田宮虎彦(1911~1988)の原作『』が好きだったのである。田宮虎彦は今では忘れられた作家だろうが、かつて文学全集がいっぱい出ていた時代にはよく1巻、または半巻を当てられていた。『足摺岬』『銀心中』『異母兄弟』など映画化された作品も多い。『落城』『霧の中』などの気品ある歴史小説も好きだった。僕の若い時期にすでに読まれなくなっていたが、持っていた全集で読んでみたら気に入ったのである。その田宮虎彦の映画化だから見たかった。
(田宮虎彦)
 堀川弘通監督(1916~2012)は黒澤明監督に師事したことで知られ、『評伝 黒澤明』(2001)という本もある。『あすなろ物語』(1955)で監督にデビューし、『裸の大将』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』などの代表作がある。東宝からフリーになってから作った作品には戦争を扱った映画が多い。他には『ムッちゃんの詩』(1985、今回の映画祭で上映あり)や『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』(1995)がある。Wikipediaには「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていたと出ていて、晩年に戦争を描いたことと関連するのかもしれない。素直に感動させる映画が持ち味で、『花物語』も同様。

 およそ花栽培を禁止するなど、現在の感覚からは全く理解出来ない。常識的に考えて、戦死者に手向ける花は不要だったのか。この映画では、いつも非国民と罵っていた隣人が訪ねてくるシーンが印象深い。二人の男子が戦死し、もう一人も戦地にある。口では皆お国に捧げると言ってるが、秘かに三男の無事を祈願している。その子が目を失って帰還してきて、見舞いに行ったら「故郷の花が見たい」と言ったのである。もう花を作っているのは村中でハマだけになっていたので、頭を下げて花をくれないかという。そして「花は口では食べられないが、心の食べ物かもしれない」と言うのである。この「心の食べ物」という言葉に込めた思いが深い。
(長男役の八神徳幸=現在)
 高橋惠子(1955~)は僕と同じ年の生まれ(学年は一つ上)で、デビュー時の「関根惠子」時代から気になっていた。増村保造監督の『遊び』(1971)はとても印象的で、関根惠子も輝いていた。なかなか波乱の俳優人生だったが、『TATTOO〈刺青〉あり』(1982)出演後に監督の高橋伴明と結婚し高橋姓を名乗るようになった。この映画は和田町で2ヶ月ロケして作られ、今も現地の人と交流があるという。会場には長男役の八神徳幸(やがみ・のりゆき)も来ていて、昔のことを詳しく覚えていた。今は何しているのかと問われ、今も役者だという。確かにWikipediaにも項目があり、あまり大きな役ではないがテレビや映画にも出ている。本人も言ってたが通販番組が多いようだ。

 この映画が上映される機会はなかなかない。今回は16日まで映画祭があり、その中でまだ何回か上映がある。(時間はまちまちなので、ホームページで確認を。)今回の上映を機に再評価されると良い映画だと思う。今までDVD化されてないとのことで、今後のソフト化、配信なども期待したい。戦時下の日常がどんどんおかしくなっていく様子が判ると思う。南房総の早春を彩る美しい花々、そこにも悲劇の現代史があった。忘れてはいけない歴史の教訓だ。
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台湾映画『流麻溝十五号』、50年代の政治犯収容所を描く

2024年08月09日 22時25分07秒 |  〃  (新作外国映画)
 『流麻溝十五号』という台湾映画をやっている。台湾映画といえば以前は巨匠の問題作が多かったが、最近はエンタメ系青春映画なんかの方が多い気がする。そんな中でこの映画は50年代の「白色テロ」時代の政治犯収容所を正面から扱っているので、見てみたかった。監督は女性の周美玲(ゼロ・チョウ)という人で、映画も主に女性の「政治犯」を扱っている。描き方は主要な3人を中心に男性「政治犯」や看守側、地元の人々なども出て来る。ちょっと感傷的な作りになっていて完成度的には不満も残るが、かつて描かれなかった暗黒の現代史をテーマにした作品だ。

 題名の「流麻溝」というのは地名だという。「新生訓導処」(思想改造及び再教育のための収容所)があった場所である。それは台湾島東南の「緑島」に1951年から1965年まで置かれていた。一時期には2000人もの人々が収容されていたという。また「緑州山荘国防部緑島感訓監獄」(政治犯の監獄)も同島に1972年から1989年まで存在した。今は島は観光地として開発され、施設の跡は「人権記念公園」になっている。このように「過去」を忘却しないところに台湾の姿勢がうかがえる。
(緑島の位置)
 日本の植民地だった台湾は日本の敗戦後、「中華民国」に返還され国民党が権力を握った。しかし、強権的統治が民衆の反感を買い、1947年2月28日に軍が民衆デモに発砲した「二・二八事件」が起きた。その時代を描いたのがホウ・シャオシェン監督の『悲情城市』(1991)である。1947年から1987年まで40年間に及んで戒厳令が布かれ、その間3000~4000名の人々が理由なく殺害されたとされる。また多くの人が「思想改造」のために収容所に送られ「反共」教育を強制された。この映画を見ても、多くの人々は「政治犯」というような実態はほとんどなく、自分でも何が問題になったか理解出来ない「冤罪」だった。
(女性収容者の人々)
 収容所の中でも、人々は情報を求めて新聞を回し読みしている。また不当な措置には団結して闘ったりもする。しかし、大部分は所側の要求に応じるか、拒否するかを問われる苦痛の日々だった。当局の求めに応じないと家族とのやり取りも不可能になる。一方、大陸に家族を残している人も多く、「反共の闘士」と宣伝材料になるのは危険が大きい。収容者は時には看守の理解出来ない日本語で意思疏通を図っている。(そこは現代の俳優なので、日本語の発音はたどたどしいが。)男女で惹かれ合うこともあれば、収容所のトップから性的関係を要求されている人もいる。島そのものの風景は美しいのだが、そこには恐怖の日々がある。
(収容所内部)
 そこへ蒋経国(蒋介石の長男で、1978年から1988年に総統)が視察にやってくることになった。収容所では有志を募って反共の舞踊劇を作ることになった。皆一生懸命取り組んだのだが、その結果は? この時代は「密告」で多くの人が囚われたが、その収容所の中でも密告は付きものだった。リーダー格の看護師、絵がうまい高校生、そして自ら「共産党」と自首したダンスが上手な女性の真意と運命は…。自由な思想を持つことすら許されなかった時代に、囚われの島で起きた悲劇。拷問なども出て来るが、割と見やすく作られている。台湾では「過去」となり、「忘れてはいけない」対象になっているということなんだろう。
(周美玲)
 台湾の負った複雑な現代史を知る意味で、この映画の存在を是非心に留めておいて欲しいと思う。ただ台湾内外で映画賞などには縁がなく、それはやむを得ないと思う。別に悪いわけじゃないんだけど、重厚感に乏しい。テーマ的にも現代台湾では危険性がなくなったということかと思う。しかし、この映画は中国で上映出来ないだろう。国共内戦の相手側(蒋介石政権)の非人道性を暴く映画なんだから、本来は中国が歓迎しても良いはずだ。でも、この映画の眼目は「思想の自由」であり、中国で上映するには危険である。登場人物は「台湾に自治があれば」と言っていて、中国からすれば「台湾独立派」の宣伝と見えるだろう。それにしても、蒋介石も毛沢東に勝るとも劣らぬ残虐な独裁者だったことがよく判る映画だった。
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キム・ミンギ、ロバート・タウン、シェリー・デュヴァル他ー2024年7月の訃報②

2024年08月08日 22時24分55秒 | 追悼
 2024年7月の訃報特集。外国と1回目で書けなかった国内の訃報。まず韓国のシンガーソングライター、劇作家、俳優のキム・ミンギ(金敏基)が21日に死去、73歳。誰だと言われるかもしれないが、韓国現代史に大きな影響力を持った人である。70年代以後の韓国民主化運動を象徴する歌とされる「朝露」を作った人。「朝露」初め彼の歌は独裁政権下では禁止曲に指定されていた。2003年の金大中の葬儀では集まった人々が期せずして「朝露」の歌声が響いたと言われる。91年にソウル大学路に小劇場を開き、そこから多くの歌手や俳優を輩出した。特に94年初演のミュージカル『地下鉄1号線』は世界的にヒットした。僕は李政美(イ・ジョンミ)さんが「朝露」を原語と訳詞で歌ったCDを持っているけど、今回探し出せなかった。
(キム・ミンギ)
 アメリカの脚本家ロバート・タウンが1日死去、89歳。1974年の『チャイナタウン』(ロマン・ポランスキー監督)でアカデミー脚本賞を受賞した。この映画で身勝手な父を演じていたのが映画監督のジョン・ヒューストンである。他にも『さらば冬のかもめ』『シャンプー』『グレイストーク』でアカデミー賞にノミネートされた。テレビで『ナポレオン・ソロ』などを書いた後で、ロジャー・コーマンの低予算映画の脚本を書くようになり、クレジットされていないものの『ゴッドファーザー』にも参加したという。その後監督にも進出したが成功しなかった。他に『チャイナタウン』の続編『黄昏のチャイナタウン』(1989、ジャック・ニコルソン監督)や『ミッション・インポッシブル』などがある。
(ロバート・タウン)
 アメリカの女優シェリー・デュヴァルが7月11日死去、73歳。アルトマン監督の『三人の女』(77)でカンヌ映画祭女優賞を受けた。初期にはアルトマン監督作品の出演が多く、独特の風貌が作風に合ってすぐに名前を覚えてしまった。『BIRD★SHT』『ギャンブラー』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』などである。その後スタンリー・キューブリックの『シャイニング』(80)で夫に恐怖して絶叫する妻役で知られた。同年のアルトマン監督『ポパイ』のオリーブ役など大作にも出た。90年代以後はテレビドラマの出演が多くなり、2002年に引退。僕は初期のアルトマン作品が好きなので忘れられない女優である。
(シェリー・デュヴァル)
 小説家ではアルバニアのイスマイル・カダレが1日死去、88歳。日本では知名度が低いが、第1回ブッカー国際賞やエルサレム賞などを受けていて、ノーベル文学賞候補と言われていた。アルバニア労働党一党独裁時代には発禁とされ、弾圧を受けた。そのような不条理な体験を原体験にした作品で知られている。日本では『夢宮殿』『砕かれた四月』『死者の軍隊の将軍』などが邦訳されている。またアイルランドの作家エドナ・オブライエンが27日死去、93歳。女性を主題にした作品が評価され、日本でも『カントリー・ガール』『みどりの瞳』『八月はいじわるな月』『愛に傷ついて』などが翻訳されている。
(イスマイル・カダレ)(エドナ・オブライエン)
 アメリカの映画プロデューサー、ジョン・ランドー(5日死去、63歳)は、『タイタニック』の製作者だった。アメリカのビデオ・アートの第一人者、ビル・ヴィオラ(12日死去、73歳)は日本に滞在して禅などの影響も受けた。世界文化賞受賞。アメリカの女優シャナン・ドハーティ(13日死去、53歳)は『大草原の小さな家』の子役で活躍、その後『ビバリーヒルズ白書』のブレンダ役で人気を得た。ベトナムの最高指導者、ベトナム共産党書記長グエン・フー・チョンが19日死去した。80歳。2011年に書記長となり、15年に初の訪米、日本との関係強化を図った。国内では統制を強化し、国家主席2人、国会議長を解任している。それだけの実力者であっても、もう僕はベトナム指導者の名前を覚えていなかった。31日にハマスの最高指導者、イスマイル・ハニヤがイランで殺害された。62歳。これは「イスラエルの国家テロ」というべきだが、ここで書く対象とは異なるだろう。
(グエン・フー・チョン)
 日本ではフリーアナウンサーの押阪忍(6月29日死去、89歳)、陶造形作家で笠間に工房を構えた伊藤公象(いとう・こうしょう、6日死去、92歳)、漫才師「大瀬ゆめじ・うたじ」で活躍し、13年に解散後はピン芸人で活動した大瀬うたじ(6日死去、76歳)、浪曲師で故国本武春の母だった国本晴美(6日死去、86歳)、劇作家、演出家で劇団「少年王者館」主宰の天野天涯(7日死去、64歳)、プロゴルファーで上田桃子や古閑美保らを育てるとともに、マンガの原作者として『風の大地』などが人気となった坂田信弘(22日死去、76歳)、特定のたんぱく質分解酵素「プロテアソーム」の発見者で文化功労者、田中啓二(23日死去、75歳)、91年から1期大阪府知事を務めた中川和雄(29日死去、97歳)、政治家で衆議院議員6期、参議院議員2期、郵政相を務めた渡辺秀央(31日死去、90歳)。この人は自民党、新進党、自由党、民主党、改革クラブ(新党改革)と移った。それよりミャンマー軍部と深いつながりがあることで知られ、日本ミャンマー協会を設立し会長となった。軍事クーデター以後も関わりを持ち続け政界引退後も影響力を持っていた。
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徳田虎雄、湯浅譲二、小原乃梨子、原田奈翁雄、山田宗睦他ー2024年7月の訃報①

2024年08月07日 23時02分58秒 | 追悼

 2024年7月の訃報1回目は国内の訃報。最初は徳田虎雄。7月10日死去、86歳。医療法人徳洲会を一代にして築き、衆議院議員を4期務めた。奄美諸島の徳之島出身で、弟が緊急治療を受けられず急死したことから医師を志した。大阪大学医学部を卒業後、1975年に「命だけは平等だ」の理念を掲げて徳洲会を設立。全国に70以上の病院があり、関連施設400を誇る日本最大の医療法人に発展させた。政界を志すが医師会と対立していたため自民党に入党できず、1983年、1986年に奄美群島区から無所属で落選。当時奄美は全国唯一の「一人区」だった。1990年に初当選。93年は一人区が解消され鹿児島1区、96年からは鹿児島2区で2回当選。しかし、21世紀初頭に筋萎縮性側索硬化症 (ALS)を患い、2005年の選挙に出ず次男毅が地盤を継いだ。2012年の選挙後に徳田陣営の選挙違反事件が発覚し、家族も逮捕された。虎雄は病気のため逮捕されず、事実上その後は社会的活動を引退していた。
(徳田虎雄)
 作曲家の湯浅譲二が7月21日死去、94歳。51年に慶大医学部を退学して音楽に専念、芸術家集団「実験工房」に参加した。音楽を「音響エネルギーの運動」ととらえてスケールの大きな作品を数多く発表し世界的に知られた。現代音楽のことはよく知らないけど、朝ドラや大河ドラマの作曲も手掛けている。『藍より青く』(73)のテーマ曲「耳をすませてごらん」(歌・本田路津子)を作曲した人。また映画音楽では『薔薇の葬列』『お葬式』などの傑作を手掛けた。文化功労者。現代音楽の賞として権威がある尾高賞を5度受賞した。最初が1973年で、最後が2024年だった。まさに半世紀に及ぶ活躍だった。
(湯浅譲二)
 声優の小原乃梨子(おはら・のりこ)が7月12日に死去、88歳。ラジオドラマの子役として活動を始め、やがて洋画の吹き替えやアニメの声優として活躍した。テレビや映画で「ドラえもん」ののび太役を1979年から2005年まで担当したことで知られる。アニメでは「アルプスの少女ハイジ」のペーター、「未来少年コナン」のコナンなど。洋画ではクラウディア・カルディナーレ、ブジッド・バルドー、ジェーン・フォンダ、シャーリー・マクレーンなどを担当することが多かった。役柄に何となく共通性がある。
(小原乃梨子)
 芸能界の訃報が多かったが、漫才トリオ「かしまし娘」の次女、正司照枝が8日死去、91歳。長女歌江は今年1月に死去、三女花江は存命。賑やかな歌謡漫才で人気を得て、66年に第1回上方漫才大賞。歌手の園まりが26日死去、80歳。60年代半ばに中尾ミエ、伊東ゆかりと「三人娘」を結成して人気を得た。ソロで「愛は惜しみなく」「夢は夜ひらく」がヒットした。63年から68年まで紅白歌合戦に出場。映画『夢は夜ひらく』などに主演している。
(正司照枝)(園まり)
 俳優では浜畑賢吉が2日死去、81歳。若い頃からテレビの大河ドラマなどで活躍していたので早くから名前と顔は覚えた。しかし、この人は劇団四季で多くのミュージカルに出た人である。特に『コーラスライン』では79年以来800回主演を演じた。94年に退団後は『ラ・マンチャの男』『マイ・フェア・レディ』などに出た他、2004年に大阪芸術大学教授となり舞台芸術学科長を務めた。また中村靖日が10日死去、51歳。90年代から市川準監督の映画に出演し、2005年の内田けんじ監督『運命じゃない人』に主演して注目された。テレビでも活躍し『ゲゲゲの女房』などに出演した。また50年代、60年代に東映時代劇でお姫様役で人気があった丘さとみが4月24日に死去した。88歳。片岡千恵蔵、中村錦之助などの相手役だった。その後はテレビでも活躍した。
(浜畑賢吉)(中村靖日)(丘さとみ)
 元広島カープ監督の阿南準郎(あなん・じゅんろう)が30日死去、86歳。プロ野球の広島、近鉄でプレーし70年に引退。好守備の内野手だったが、通算本塁打34本と選手成績は大したことがない。その後近鉄コーチを経て、広島のコーチとして75年の初優勝に貢献。86年に監督となり優勝した。88年まで3年間すべてAクラスで、山本浩二監督につないだ。監督通算203勝163敗24分け。監督退任後は球団本部長などを務めた。
(阿南準郎)
 径(こみち)書房を創業した原田奈翁雄(はらだ・なおお)が6日死去、96歳。筑摩書房の伝説的編集者で、「展望」「終末から」の編集長を務めた。78年の倒産を機に退職して、80年に径書房を創業し、山代巴、上野英信らの本を出版した。ここから出た本としては、山代巴『囚われの女たち』(全10巻)、『長崎市長への7300通の手紙』、石牟礼道子『十六夜橋』、吉岡紗千子『ロックよ、静かに流れよ』などがある。原田はやがて退社して雑誌「ひとりから」を創刊したが、今も径書房は残っている。顔写真が見つからないので、著書を代わりに。忘れられない出版社だが、訃報は小さかった。
(原田奈翁雄)
 哲学者の山田宗睦(やまだ・むねむつ)が6月17日に死去していた。99歳。ここまで長寿だと、正直存在を忘れられてしまう。ある時期、「敗戦」を忘却しないためとして鶴見俊輔、安田武と三人で8月に丸刈りにすることを続けていた。それで名前を知ったのが、この人が一番知られているのは、65年のベストセラー『危険な思想家』だろう。訃報でも触れられているが、要するに60年代半ばに起こった「保守回帰」を批判し、老大家を初めとして三島由紀夫、石原慎太郎、江藤淳などを批判したのである。江藤淳などは「安全な思想家」など不要だと言い放ったらしいが。僕はその時代は知らないので読んでもいない。70年以後は古代史や神話研究の本が多く、『道の思想史』『日本神話の研究』などを著した。また「日本書紀」の翻訳も出している。
(山田宗睦)

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清水透『ラテンアメリカ五○○年 歴史のトルソー』を読む

2024年08月06日 22時24分20秒 |  〃 (歴史・地理)
 清水透ラテンアメリカ五○○年 歴史のトルソー』(岩波現代文庫)という本を読んだ。存在も知らなかったが、ラテンアメリカの歴史に関心を持ったら本屋で目に飛び込んできた。もともとは2015年に立教大学ラテンアメリカ研究所から出た本で、2017年に岩波現代文庫収録。トルソーというのは「人間の頭部・両腕・両脚を除いた胴体部分のこと」で、洋服売り場で服を着せてある上半身を意味する。要するに歴史の基底部というような意味だろうか。いわゆる「通史」ではなく、ラテンアメリカ史に見られる特質を分析した本になる。叙述は「ですます」体で理解しやすいけど、知らないことばかりでなかなか大変だった。

 著者の清水透氏(1943~)も知らなかったが、非常に興味深い人である。東京外語大スペイン語学科を卒業し、大学院を経てメキシコに留学。その後、母校に勤務していたが、50歳の時に管理職的な仕事ではなくメキシコに通い続けたいと思って退職。獨協大学、フェリス女学院大学を経て、2009年に慶應義塾大学を定年退職。この間、1979年から断続的にメキシコ南部チアパス州チャムーラという村に通い続けた。この本はその「成果」をまとめた本と言える。一時通えなかった時期もありその理由は「娘の闘病・他界」と書かれている。Wikipediaをみると病気は白血病で、著者は骨髄バンクの普及啓発活動に取り組んでいた。
(清水徹氏)
 実は『戦争ミュージアム』より前に読んでた本だが、書きにくいので順番が逆になった。この本は要するに、「チャムーラ体験」がベースにある。著者のラテンアメリカ認識を「下から」作ったのが長年の現地体験である。そこはメキシコ最南部の貧困地域で、一見すると今も昔も「インディオの村」だという。ところが、40年前は天然繊維だった服が今は化学繊維に変わっているという。村は一応「カトリック」だが、子どもが生まれたら近くの町サンクリストバルから司祭を呼んで洗礼を施すぐらいの関わり。それじゃいけないと教会が改革運動を始めたことがあったが、あるとき村人が新しい施設を破壊して司祭を追放してしまったという。日本人が「一応仏教徒」であるのと似たように「一応カトリック」と言うべきか。
(チアパス州の位置)
 「新世界」においてカトリック教会の影響は大きい。(しかし、近年のメキシコでは隣国アメリカの福音派プロテスタントの布教が広まっているとのこと。)単に「暴力」だけでは支配出来ないところ、「精神的征服」を担ったのがカトリック教会だった。もちろん先住民や黒人奴隷の抵抗は頻発したが、著者によれば「抵抗」にも二つある。暴力的抵抗ばかりでなく、「逃亡」も多かった。アフリカの村人をまるごと奴隷として連行した事例もあり、それらの人々が集団で逃亡して一帯に「黒人王国」を築いた例もあったという。そして度々スペイン側を攻撃するので、何と植民地当局が奴隷王国に「朝貢」していたのだという。ただし和平条件に「教会を置く」という条項があり、結局いつの間にか普通の村になってしまったという。
(サンクリストバル)
 19世紀初頭の「ラテンアメリカ独立」は、結局植民地の大地主層の支配をもたらした。そして20世紀になると、アメリカ資本による「バナナ共和国化」が進む。そして中南米は「軍事独裁」ばかりとなった。この本はテーマ別に書かれているが、最後の方は近現代史となって人物名も多く出て来る。特にメキシコは20世紀初頭の「メキシコ革命」を経てラテンアメリカでは独自の存在となった。(例えばキューバ革命後に、キューバと国交を断絶しなかった唯一の国。)その影響はチャムーラ村にも及んでいる。しかし、近年は「液状化」とされ、チャムーラ村でいつも宿泊していた家からも、アメリカに移民に行ってしまった人がいるという。刺激的な論考が判りやすく展開されていて、ラテンアメリカに関心が深い人だけでなく読まれるべき本だ。
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5年ぶりの「にゅうおいらんず」ー浅草演芸ホール8月上席(昼の部)

2024年08月05日 21時48分34秒 | 落語(講談・浪曲)
 浅草演芸ホールの8月上席(昼の部)に行ってきた。例年この時期は落語芸術協会の噺家バンド「にゅうおいらんず」の公演がある(10日まで)。三遊亭小遊三がリーダーで、春風亭昇太春風亭柳橋などに加えて、見かねたクロウトも入って楽しくやってる。前に見て面白いからまた行きたいと思いつつ、なかなか行く機会がなかった。前はいつか検索したら、2019年以来5年ぶりだった。その間に音曲の桂小すみが加わり、少し安定感が出たかも。昨年から桂宮治もトランペットでゲスト参加。
(にゅうおいらんずの面々=2023年)
 最初にやったラテン音楽「セレソ・ローサ」、聞けば誰でも一度は聞いたことがあるような曲だが、小遊三のトランペットを昇太が延々と引き延ばし「殺す気か」なんて言われてた。小遊三がやりたいと言い出したということで、自分にはラテンの血が流れてるからと笑わせていた。今年初めてやったという「東京ドドンパ娘」も楽しい。1961年、渡辺マリのヒット曲、なんて言われても知らないけど、なんだか聞いたことがあるのが不思議。もともと「にゅうおいらんず」はニューオリンズのもじりだと言うが、ジャズっぽいアレンジが乗りやすい。場内手拍子で盛り上がる。

 ところで「にゅうおいらんず」公演期間は、そこに出る小遊三、昇太、宮治らの「笑点メンバー」は当然落語でも出番がある。それに「特別興行」ということで、普段より高く(3500円)開始時間も早い(11時10分)。そこでいつもより出が早いので、うっかり遅れて来る人がいる。今年の新真打山遊亭金太郎も来てなくて、早く来ていた春風亭昇也が先に出た。「二つ目に戻せ」とかメチャクチャいじられていたが、金太郎が出て来たら「待ってましたと掛け声を掛けて」なんて笑わせていた。噺は「筍」を凄い早口で演じて受けてたが、僕は柳家三三の方がいいなと思った。少し後に金太郎が出た時は、掛け声が掛かって大笑い。

 ところがもっと大物がいた。それが柳亭小痴楽で、12時半出番のところ12時10分に起きたと電話があったという。小痴楽はよく遅れるので、誰も驚かないらしい。妻も寄席の仕事だと知ってる日には起こさないというから凄い。大御所の三遊亭遊雀が先に出て来た経緯を説明すると場内爆笑。小痴楽の場合は楽屋で誰も怒ってなく喜んでるというのが笑える。大分遅れて仲入後の2時過ぎに出て来たら「待ってました」の大洗礼。「松山鏡」という江戸時代に鏡を知らない村で起こる笑話をやった。本来仲入直後は桂宮治だったので、その後に出て来た宮治から「自分の顔を鏡で見ろ」とかいじられて、舞台に小痴楽が乱入してきた。
(柳亭小痴楽)
 こういう今どき珍しい昔風の落語家が生きていけるのが寄席のいいところか。正直、「にゅうおいらんず」よりインパクトがあった。他には瀧川鯉昇三遊亭遊之介などが面白い。バンドで出る小遊三、昇太、柳橋らはやはり落語は小味になるので、落語を楽しむには別の機会の方が良い。漫談のナオユキが初めてだけど面白く、マジックの北見伸&スティファニーは大受けしていた。桂小すみの冷蔵庫に感謝する歌もおかしかった。ただ、5時間越えの長丁場は、休憩が入るとはいえ長過ぎ。お尻が痛くなった。
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梯久美子『戦争ミュージアムー記憶の回路をつなぐ』を読む

2024年08月04日 22時10分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波新書の7月新刊、梯久美子戦争ミュージアムー記憶の回路をつなぐ』は重いテーマを取り扱いながらも、とても読みやすい。題名通り日本各地にある戦争ミュージアムを訪れて紹介する本だが、「通販生活」に連載されたという成り立ちから一編が長くない。簡潔にまとまっていて、すぐに読めるのである。どこから読んでも良いし、旅行のガイドにもなる。14箇所の施設が紹介されているが、多分全部行ってる人はほとんどいないだろう。北は稚内から、南は石垣島まであって、近年に出来た施設も多いからだ。まずは読んでみて、夏休みに近くにあるところに足を運んでみては? 「自由研究」や「研修」にも役立つ本だろう。

 梯久美子(かけはし・くみこ、1961~)はノンフィクション作家で、『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(2006)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。その後、大著『狂うひと─「死の棘」の妻・島尾ミホ』(2016)が高く評価され、読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞などを受けた(文庫版を持ってるけど、あまりに分厚くてまだ読んでない)。戦争に関する本が多いようだが、近代文学に関する本もある。また『廃線紀行―もうひとつの鉄道旅』(2015)という本もある。
(梯久美子氏)
 この本に出ている14箇所の施設の中で、行ってるところは5箇所しかなかった。結構行ってるつもりだったが、長崎、舞鶴などその町に行ったことがないんだからやむを得ない。行ってるのは(掲載順で)、予科練平和記念館戦没画学生慰霊美術館 無言館東京大空襲・戦災資料センター原爆の図丸木美術館都立第五福竜丸展示館である。それらは東京、または関東近辺にあり訪れやすい。無言館や丸木美術館などは何度か行っている。単なる「戦争ミュージアム」というより、ある種「聖地」みたいな重みがある場所になっている。これらは名前を挙げるだけにしておきたい。
(回天記念館)
 この本には恐らく日本でもっとも知られた戦争ミュージアムが出てない。「広島平和記念資料館」「ひめゆり平和祈念資料館」「沖縄平和祈念資料館」である。広島に関しては関連書籍も多く、ホームページも充実しているからあえて取り上げていないと「あとがき」にある。沖縄も恐らく同じような事情だろう。これらは僕も行ったことがあるが、確かに本書を読む人なら、行ってなくても名前は知ってるだろう。それよりあまり知られていない施設を取り上げるのが、この本の特徴だ。例えば、山口県周南市にある「回天記念館」は、生還を全く想定しない恐るべき「特攻魚雷」である「回天」基地があった島にある施設である。1968年に出来ているが、フェリーで行くしかない瀬戸内海の島にあるので、なかなか行きにくい。
(満蒙開拓平和記念館)
 長野県南部の阿智村に2013年に出来たのが「満蒙開拓平和記念館」である。開館時には報道されたので、僕も存在は知っていた。長野県はかつて「満州国」に多くの移民を送り出した県で、ソ連軍の侵攻、引き揚げ時に大きな犠牲を出した。「満蒙開拓」は当時の国策だが、実は「開拓」ではなく中国農民の土地を奪って与えられたものだった。そのような「加害」と「被害」をともに記憶して伝えようというのが、この施設の特徴だ。僕も一度行ってみたいと思いながら、信州の観光ルートから外れる場所にあってなかなか行くチャンスがない。非常に大切な記念館だと思う。
(舞鶴引揚記念館)
 その外地からの引き揚げに関しては、多くの人の帰還港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」が1988年に作られた。この地域(若狭湾沿岸一帯)には行ったことがなく、日本三景の天橋立も見てない。正直言うと、こういう施設があることもこの本で知った。何でもシベリア抑留に関する収蔵品は、2015年に世界記憶遺産に登録されたという。ここも元気なら一度は訪れたい場所である。また石垣島にある「八重山平和記念館」はいわゆる「戦争マラリヤ」を記憶する施設である。戦争マラリヤが軍命令に基づき「有病地帯」へ住民が移動させられた「国策」によるものだったことを僕はこの本を読むまで知らなかった。
(八重山平和記念館)
 沖縄に関しては、撃沈された疎開船である「対馬丸記念館」(2004年開館)も掲載されている。冒頭にあるのは「大久野島毒ガス資料館」で、広島県の瀬戸内海にある大久野島に作られた毒ガス製造工場の資料館である。ここも前から一度行きたいと思っているのだが、東京からはなかなか遠い。今では「休暇村大久野島」が作られウサギの島として世界に知られている。他にも「象山地下壕(松代大本営地下壕)」「長崎原爆資料館」「稚内樺太記念館」が載っている。日本の北から南まで、それぞれの地で異なった戦争の記憶が継承されていることがよく判る。ここで取り上げた場所に他意はないが、自分もあまり知らなかった場所を中心にした。

 最後にここで取り上げられていない施設を紹介しておきたい。最初は「しょうけい館 戦傷病者史料館」である。ここは地下鉄九段下駅近くにあったが、再開発にともない近くに移転して2023年10月にリニューアルオープンした。厚生労働省が設置した施設で無料で観覧できる。戦傷病者という今では忘れられている(少なくとも取り上げられることが少ない)テーマに特化して、戦争に関して重大な視点を提示している。今でも世界に戦争が絶えない中で、決して忘れてはいけない重みがある施設だ。

 もう一つが「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」(wam)で、いわゆる「日本軍慰安婦」に関する展示と活動を行っている。西早稲田のビル内にあって金土日月の週4日しか開館していない。しかし、今もつぶれずに存続していることが貴重だ。こっちは有料だが、是非一度は訪れて欲しい施設である。ここも是非紹介して欲しかった場所だ。
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ジョン・ヒューストン監督特集ー孤独な魂を見つめた作品群

2024年08月02日 22時23分50秒 |  〃 (世界の映画監督)
 都営地下鉄新宿線菊川駅(墨田区)近くに「Stranger」(ストレンジャー)という名の小さな映画館がある。全部で49席しかなく、カフェが併設されている。僕の家から遠くはないんだけど、一駅だけ都営地下鉄を使わないと行けない。季節が良い時は歩けるが、今の猛暑では無理。そうなると運賃が新宿、渋谷へ行くより高くなってしまう。ということであまり行かないんだけど、7月19日から8月8日まで「ジョン・ヒューストン特集」として、5本の映画を上映している。そのうち2本は初公開である。ジョン・ヒューストンは晩年の作品をリアルタイムで見ているが,その頃から気になる監督だった。

 ジョン・ヒューストン(John Huston、1906~1987)は映画一家だった。父のウォルター・ヒューストンは息子の監督作品『黄金』(1948)でアカデミー助演男優賞を獲得し、娘のアンジェリカ・ヒューストンも父の監督作品『女と男の名誉』(1985)でアカデミー助演女優賞を獲得した。自分も『黄金』で監督賞を得たから、オスカー三代なのである。デビュー作『マルタの鷹』(1941)でハンフリー・ボガートを大スターにし、『アフリカの女王』(1951)でボギーにオスカーをもたらした。という具合にハリウッドのど真ん中で活躍した監督に見える。しかし、彼はアメリカには珍しく骨があって作家性が高い映画を作ってきた。
(ジョン・ヒューストン監督)
 複雑な人生行路や偏屈な性格もあるし、ハリウッドに吹き荒れた「赤狩り」を嫌って国外で作った時期もある。『アフリカの女王』撮影中は狩猟に熱中するなど奇人ぶりが目に付き、その様子は後にクリント・イーストウッド監督『ホワイトハンター ブラックハート』という映画になったぐらいである。戦時中は陸軍に所属し、ドキュメンタリー映画を4本作った。日本では全く紹介されないままで来たが、4作目の『光あれ』(Let There Be Light、1946)が今回初公開された。これが何と「戦争神経症」を扱って、戦意を喪失させると35年間公開禁止になった映画なのである。
(『光あれ』)
 58分間の短い映画で、何の「やらせ」もないと冒頭に出る。隠しカメラを駆使して、日本の羽仁進監督が子どもたちを撮影した『教室の子供たち』(1955)に10年先立っている。ただ「健忘症」で名前も言えなかった人が一回の催眠療法ですぐ名前が言えるなどホントかな的なシーンも多い。沖縄戦で心に傷を負った兵士が多いのも驚き。統合失調症やうつ病ではなく、PTSDに当たる症例が多いように思ったが、あっという間に寛解してスポーツに興じて退院していく。むしろ「米軍のケア」の宣伝映画にも感じたが、当時としては戦争をきっかけに精神を病むという事実自体が秘匿すべきものだったのかもしれない。

 しかし、ヒューストンは再びこのテーマを取り上げている。それはアメリカ文学の名作とされるクレイン『赤い武功賞』(1895)を映画化した『勇者の赤いバッジ』(The Red Badge of Courage、1951)である。南北戦争を舞台にするが、北軍の新兵は実戦に恐怖を感じて戦線を離脱してしまう。その後戻って「勇者」と讃えられる活躍を見せるが、戦争の恐ろしさ、怯える兵士の心情を描き出している。しかも第二次大戦の英雄と言われながら、本人はPTSDで苦しんでいた人気俳優オーディ・マーフィーを主演に起用した。ただ内容が暗い反戦映画とみなされ、監督に無断で20分近くカットされ69分の映画になっている。
(『勇者の赤いバッジ』)
 その後はアイルランドでメルヴィル『白鯨』の映画化を進めたり、『赤い風車』、『黒船』など世界各地を舞台にした映画が多い。60年前後から再びアメリカが舞台にした作品が多くなり、ハンフリー・ボガートとマリリン・モンローの遺作『荒馬と女』(1960)を作った。それ以後は低迷が続くが、『禁じられた情事の森』(Reflections in a Golden Eye、1967)もその時期。原題を見れば判るが、カーソン・マッカラーズ黄金の目に映るもの』の映画化である。エリザベス・テイラー、マーロン・ブランドが主演し、独特な赤い画調が美しい。しかし、「不倫」「同性愛」などを正面から描けない中で作られ、見てて人間関係をよく理解出来ない。早すぎた映画化だったのかもしれない。
(『禁じられた情事の森』)
 拾いものだったのが『ゴングなき戦い』(Fat City、1972)で、70年代初頭の気だるいムードがよく出ている。カリフォルニア州ストックトンという小都市でロケされた、全盛期を過ぎたボクサーの物語。主人公は有望な新人を見つけたり、酒と女に浸りながら時々リングに立っている。チャンピオンをめざすのがボクシング映画の定番だが、ここにはタイトル戦も八百長も出て来ない。田舎町で時々試合をしているボクサーの人生である。有望な新人をジェフ・ブリッジスがやっている。酒場で知り合う女を演じたスーザン・ティレルがアカデミー助演女優賞にノミネートされた。アメリカではヒットしたらしいが、日本では初公開。
(『ゴングなき戦い』)
 『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(The Dead、1987)は公開当時に見て感銘を受けた。ジョイス『ダブリン市民』の挿話の映画化で、1904年のクリスマス・パーティを描いている。もう高齢の姉妹が毎年開く会で、来る人も壮年ばかり。ダンスをしたり、歌、ピアノ、朗読などを皆が披露して、食事をする。ただそれだけの映画なんだけど、非常に美しい画面に目が離せない。そしてラストに静かな悲しみが広がるのである。非常に繊細な心情を描いた見事な映画だと思う。83分の遺作で短いが滋味がある。
(『ザ・デッド』)
 ジョン・ヒューストンの映画を初めて見たのは、多分テレビで見た『黄金』だと思う。熱狂と挫折に心惹かれた。今回の5本はむしろ主人公の孤独な魂が身に沁みるような映画が多い。初めて劇場で見たのは『殺し屋判事ロイ・ビーン』(1972)で、実に楽しい快作だった。1984年の『火山のもとで』も見事だった。マルカム・ラウリー原作の映画化で、メキシコの火山の麓で暮らす男の孤独が描かれる。ずいぶん商業的な失敗作も多いけど、いくつかの作品は非常に力強く繊細である。忘れられない映画監督だ。
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韓国映画『密輸 1970』、抜群の面白さに拍手!

2024年08月01日 20時29分09秒 |  〃  (新作外国映画)
 7月12日公開の韓国映画『密輸 1970』(リュ・スンワン監督)はちょっと油断しているうちに上映が少なくなってきた。どうしようかと思ったけど見に行ったら、これが抜群の面白さで驚いた。海洋版『テルマ&ルイーズ』だという人があって、なるほどと思った。懐かしムードの歌謡曲に乗せて、猛然たるスピードで駆け抜けて時間を忘れて見てしまう。アクション&コメディの純然たる大エンタメ作品だが、冒頭から編集のうまさが光る。そして「サメ映画」でもあるんだから、大いに笑える。

 1970年の韓国西海岸クンチョン(架空の漁村)。海女たちがアワビを捕って暮らしていたが、化学工場の排水で不漁続きになる。そこに「密輸」の話が持ち込まれ、やむを得ず船主の娘でリーダー格のジンスク(ヨム・ジョンア)は話に乗ることにする。船が荷物を海底に沈め、それを海女たちが引き揚げるのである。今では「密輸」というと麻薬か覚醒剤かという感じだが、その当時の韓国はまだまだ経済発展途上にある。正規に輸入すれば多額の関税がかかるから、日本製の電気製品などをそうやって「密輸」するのである。ところがある日、税関の船が突然検査にやって来て、ジンスクは父と弟を失い,自らも逮捕されてしまった。
(海女の面々)
 それから2年。ジンスクはようやく監獄から出て来ている。そして、あの日一人だけ捕まらなかった親友のチュンジャ(キム・ヘス)が密告したんじゃないかと疑っている。チュンジャはソウルに逃げてすっかり垢抜けて、今も怪しい商品ブローカーとして幅をきかせていた。と思うと、そこにはやはり組織があり「ショバ代」を無視したチュンジャは,ある日痛めつけられてしまう。組織のボス、クォン軍曹(チョ・インソン)はチュンジャを始末しようかと思うが、うまい密輸方法があるとクォン軍曹に持ち掛けるのだった。
(チュンジャ)
 そして久しぶりにクンチョンに戻ったチュンジャだったが、そこではジンスクの父親に使われていたドリが偉くなって羽振りをきかせている。出所した海女たちは命令に従う立場になっていた。何とか海女たちを使って大々的な密輸を始めたいのだが…。それに加えて税関の係長として取り締まりの中心にいるジャンチュン(キム・ジョンス)、喫茶店のアルバイトだったのに今では店を乗っ取っているオップン(コ・ミンシ)など怪しい人物たちが入り乱れている。そこにクォン軍曹がヴェトナム帰りの部下を連れて現場視察にやって来るが、ひそかにドリはクォン軍曹に対抗心を燃やしていた。
(クォン軍曹)
 かくしてすべての人々がクンチョンに集まるが、昔のいきさつからジンスクはなかなかチュンジャを信用できない。一体2年前の真相はいかに? そして密輸場所に選ばれたのは、最近サメが出るとして海女たちが恐れていた場所だった…。ということで、驚くべき真相、驚くべきアクションが怒濤のように展開され、やり過ぎ的なお約束の結末に一気になだれ込んでいく。エンタメの極意は「反復」にあるが、この映画も重要な展開はすでに伏線として提示されているので、見事な「反復」に笑ってしまう。
(喫茶店で)
 この映画は2023年韓国映画の興収3位とヒットし、青龍賞で作品賞など4冠、大鐘賞では監督賞を得た。リュ・スンワン監督は『ベルリン・ファイル』『モガディシュ 脱出までの14日間』などを作った人だが、今まで見てなかった。素晴らしい疾走感で見せるが、海洋アクションの凄さも見どころ。まさかホントに海で撮ってるのかと思うが、もちろんプール撮影だという。海女はこんなに長く潜っていられるのかと思うぐらいワンシーンが長い。俳優たちは昔の日本映画を思わせる面構えで懐かしい。そして何より「歌謡映画」という作りになっていて、クンチョンだと昔の演歌っぽく、ソウルだとポップ調。昔の曲だけでなく、新たに作ったのもあるらしいが、見事に乗せられる。ムチャクチャ面白かった。
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