これも、名前がわかりませんでした。つつじの一種でしょうか?淡いピンクが美しいです。
モイーズさんは声楽曲で、教則本も書いています。
「私たちは歌い方をオペラのヒロインから学ぶべきだ。」と、いうことです。
私はありがたいことに、ブラスバンドの次は、大学でマンドリンオーケストラのフルート奏者兼指揮者をしました。マンドリンというのはイタリアの楽器で、マンドリンオリジナル曲の他に、たくさんの声楽曲、オペラのファンタジアなどをこなしました。
「椿姫」「仮面舞踏会」「運命の力」「カヴァレリア・ルスティカーナ」
「カルメン」「アルルの女」
「アンドレア・シェニエ」「ノルマ」「清教徒」
「メリー・ウィドウ」「天国と地獄」「こうもり」「ファウスト」
実際のオペラ歌手がどう歌い、オケがどうつくのか?テープが切れるほど聴き、そしてK先生の指導。
実際に文字にして伝えるのは困難ですが、ギター符に4分音符で一小節を4個刻んでいたら、その4個は全て長さもニュアンスも違うと思っていたほうが良いといったようなことです。
全ては、人間の息、歌の呼吸が基本。管楽器であろうと、弦楽器であろうと、打楽器であろうと。
どんどん、技術が発展して、ありえないことが可能になってきているけれど、音楽は人の体を通すと言うことで、人類の共通言語となり得ているのだと思います。心臓の鼓動、歩く早さ、血液の流れ、骨格、口蓋の形。そして、その制約の中で味わう、悲しみ、喜び、楽しみ、苦しみは世界中の誰でもがどこかで味わっている感動だと思います。楽器という道具を介してしまうことで、私たちは、もう一つの声を手に入れてしまうのだけれど、楽譜や、楽器というあくまでも人工の道具に使われてしまうのか、それらに心や命を吹き込むのかは、同じ行為でも、全く質が違ってくるとおもうのです。
歌を聴きましょう。オペラからは、いろんな発見があります。何よりおもしろいです。
この百合は、なんていう名前なのかわかりません。とにかく、美しくそしてみごとに大きい。花びらの端から端まで30㎝はありました。カサブランカ?黄色が入っているのに?ご存知の方お教えください。
いつも通らせていただく、団地のお庭は植物園状態です。いろんな植物を持ち寄って植えて、みんなで大切にしているんですね。とても豊かです。
私が好きなTV番組はいつもマイナーなんですが、いえ、マイナーなTVを選ぼうと思っているわけではないですが、「週間ブックレビュー」は好きなものの一つです。夜遅い再放送を見ますが、書評を聞いていると、あれもこれも読みたくなります。が、たいていは読まないですが。
3人のゲストがそれぞれに自分のお気に入りの3冊の本を紹介し、そのうちもっとも気に入っている1冊を、全員で読み、そして合評します。全く、畑の違う3人が同じ3冊の本を読み評することになります。
まず、1冊の本につき、紹介した人が評します。当然、熱のこもったものになります。それから、二人が順番に本を読んで自分が感じたことを言い合います。
これが面白いのは、畑違いの3人が「自分はこんな本は絶対に読まないだろうと思っていたのに、読んでみたらおもしろくて一気に読んでしまいました。」とか、「こういう本は番組でもなければ、手に取りもしなかった。」といいながら、彼らなりの視点で何とか、読み解き、評するところです。
同じ本を、はじめの人とは同じところもあれば、時には全く違った視点で、解釈され、論評されます。
これを見て関心するのは、それぞれに、その本に対して「私はこう思いました。」「へー、私はこんな風に思いました。」と、それぞれが思ったことを言うだけで、一致させたり、それは違うなどと対立したりしないところ。そんな風に思ったことを出しあっていると、本を介して、その人が何をどう感じ、考えるかがわかってきます。
本を受け取ることで、本の作者のことだけではなく、それぞれの感じ方考え方がわかり、深い交流が起きているような気がします。
いろんな場面で私たちは話していますが、大体は自分のことを順番に話しているだけのことが多いです。
「相手が話しているのを聴いて、その人の何かが変わらなければ、交流が起きたとは言えない。」とフロムは言っていますが、本を読むという作業を介して、変わり方は浅かったり深かったりいろいろですが、何かがそれぞれの中に起きているまさにその瞬間を見せてもらっているような気がします。
きっと、私たちが普段、聴いている見ていると思っているレベルは、ほんの意識の表面に過ぎないんだと思います。
音楽のレッスンでも、先生に聴いて分かったと思ったことを、家に帰ってやってみようと思ったらできないことがあります。そんな時は受け取った気になっているだけで、実は、使えるか使えないか判断していたり、自分は完璧にできているから必要ないと思っていたり、同じようにすると自分がなくなるような気がしていたり。
本当に聴いたときは、自分が変わるはず、その吹き方を再現できる。その後使うか使わないかを選択することができる。そうでない場合は残念、聴いてはいません。
この基準で言うと、私には、まだ、聴けていないことがいっぱい。簡単ではないところが、またおもしろい。探索は終わりません。
以前、庭のアイビーに実がなったと書きましたが、2、3日前「ウーン・・・・」と言う音に繁みを覗いて見ると見たことないほどたくさんのミツバチが。足に花粉をつけて、出たり入ったりしています。これは花だったんです。細くて小さな触手のような黄色いおしべとめしべが、忙しくて撮影できなくて、今日になってカメラをむけてみると、もう、花弁は落ちて、ハーシーチョコをひっくり返したような額?しか残っていませんでした。秋になるとこれより少し大きめの実がなるようです。それにしても、アイビー付の家を買って16年、実をつけたアイビーを見たことがない。そんなものなのか、うちのアイビーが特殊?秋が楽しみです。
女性が殺される事件は本当に珍しくないです。もう、聞いても麻痺していて、記憶に残らないぐらいで、そうなっている自分が悲しいです。
私はDVで逃げてきた女性に時々出会います。つい昨日も電話で相談されました。彼女たちは、殴られ、あざを作り、首を絞められ、まだ、自分を責めつづけています。「私がへたくそだから」「私が夫とうまくやる能力がないから」「本当はやさしい人なんだ」と言う人もいます。
母親自身から「悪いと分かっていても子どもを殴ってしまう。」と言う相談を聞いていると実は、彼女自身が夫から暴力を受けていたり。
性の問題が解決すると、社会のほとんどの暴力がなくなるといっている人もいます。
公的サポートを受ければ、贅沢はできませんが、住居、経済、就業、子育ての心配はほとんどありません。女性が子どもを安心して育てることができる環境を国が補償してくれています。
離婚の勧めではありませんが、成人した暴力を奮う人を教育し直すのは専門家が何年もかけても難しいことだと言われています。権威ある専門家でもない、妻が一人で、毎日身の危険を感じながら、できることではありません。DVは暴力を奮うほうに加害の責任があるです。奮われる方には責任も義務も、ありません。
子どもを片親にしたくないと、がんばる人もいますが、暴力の中で育つことは、子どもにとっても安心できる環境、子育てに良い環境ではありません。殴られて良い人なんてどこにもいません。どうか、子どものためにも、あなたのためにも逃げてください。
音楽をやっていてもほとんどの場合、女性の問題は技術ではありません。練習量でもない。まっすぐ立つこと(ヒールを履いてわざわざ体を歪ませてたつのではなく)表現してもOKだと心も体も納得すること。人の前へ出てもいいこと、誰かを凌駕してしまっても、誰も自分を非難しないと信じること。自分をアピールしたり、営業しても構わないと信じること。そういったことが大変なんだと感じています。そういう私もすぐ女性らしさにはまってしまいますが。
憲法上の平等が、個々人にまで降りてくるまでには、60年以上経っても難しいことのようです。
女性らしさが、人間らしいことであると言えるまで、まだまだかかると思います。でも、あきらめるわけにはいかない。人らしい音楽を演奏したいから。
なんとブラックベリーが道端になっていました。民家から無造作に大量に。数年前、ブラックベリージャムを夢見て苗を買って来ましたがせっせと水をやって、2週間で枯らしてしまいました。この辺の気候は合わないんだと自分を納得させていましたが・・・ちょっとショックあきらめないでまた育てようかな。
「今日は忙しくて、全然、練習できてないんです。」
「ほんと、よかった~、それなら、いいものがあるんです。」
モイーズさんの『ソノリテについて』 24ページ。演奏解釈における音の統制
アンダンテの曲が提出するむずかしさを克服させるのを目的とした、ソノリテ最後の課題は、あらゆる曲の演奏解釈をするのに応用できます。初見でやるのがもう最高です。
モイーズさんは「後になって頭では非難するがもはや変えることのできない早まった本能的な演奏よりも、もっと役に立つのである。」と書いています。…早まった本能的な演奏・・・ううっ。ほっておくと私もほとんどすぐこうなります。
それを解決するいい方法があるんです。モイーズさんが書いてくれています。
これをすると、「長い時間がかかり、ときには骨が折れるが、学習者に考える時間を与えるという長所を持っている。理性は本能よりも優位に立ち導く時間を持っているがタンペラモンを抑圧してはならない。私の意見ではみごとな演奏はこの巧みな均衡を基礎とすべきである。」
(*タンペラモンについては「タンペラモン」の項目で書きました。)
方法はソノリテをみてくださいね。テキストっていろいろあるけれど、どれでもいいと思ったものを浮気しないで、ずっと続けることが大切。
「継続は力なり」移っていいときは、マスターしきったと思ったときそれまでがんばろう
姫扇水仙(ヒメオウギスイセン)というそうです。アヤメ科の植物。通勤途上のマンションの庭の隅で見つけました。小さいけれど、この朱色はとても存在感があります。
今日は癒しのまいさんとの練習日。
家に行くと、ハープのシルフィーのメンバーが勢ぞろい。まいさんと食べようと買っていった牧野駅近くの和菓子屋、三福さんのアイスモナカがなぜか4個。ちょうど人数分。帰ろうとするのを引き止めて、一緒に食し、お久しぶりのメンバーもいて思わずして旧交を温めました。
このモナカの皮がパリッとしててスーパーのアイスなんかでは絶対に出ない味。シルフィーさんは13日に1号線沿いの葉山珈琲でコンサートをするそうです。珈琲代でハープの音が聞けます。皆さんもどうぞ。
私も、ヘルマンハープとフルートが合う曲を探しています。今日はヘンデルと、バッハのソナタを試しましたが、悪くないので編曲してもいいけれど、お客さん的にはどうかな?退屈かしら?私は結構好きだけど。古典をやると、楽器同士の響き方がわかるので、いいと思うのですが。作って形にしてみないとわからないなぁ。ヴィヴァルディのマンドリン協奏曲や、スカルラッティなんかいいと思うのですが、楽譜が手元にありません。どうするかなぁ?
練習は相変わらず、ドボルジャークのソナチネ 1楽章はAllegro Risoluto
「「Risoluto」って見落としてたわ。こんだけやってたのに!」悔しがるまいさん、それだけでもう違います。演奏が変わったのが見えた。本当に感性が鋭い。うれしくなってしまう。
早引きや、技巧がうまい人は他にもたくさんいるけれど、この受容性と柔軟性を持つ人は少ないです。
見習いたいです。一緒にいてくれて本当に感謝です。
音楽は「表現」することと思っていましたが、最近はどれだけ「聴ける」かだと思っています。
音楽は「生」もの。デュオなら、自分を保ちながら、人の音を聴く、瞬時に出た音を受け止め、次に何を出すか?その一瞬一瞬の対話で二人でありながら、一つの音楽を作り上げるというところに音楽の喜びがあるのだと思います。それは完全に一致することでもなく、また、競合することでもない。一人一人違う、違うけれど調和している。そう、それが、ハーモニー=調和と言うことなんだと思います。
それぞれが注目をあびることに夢中になっていたりして、この「聴く」=「受容する」と言うことのない音楽は荒れて、やればやるほど疲れていってしまいます。言葉や態度ではごまかせない。音楽の厳しさがそこにあると思います。自信は必要だけれど、絶対と思ったら音楽はワンパターンになってしまう。「問い」を持つこと常に探すこと。常にお互いから謙虚に学ぶことそういう姿勢が全てが音楽なんだと思うようになってきました。私もまだまだ、修行が必要です。
7月になったら、急に夏の気分。朝顔も、もう咲いています。
私は海を見ると、お尻が落ち着きません。大慌てで素潜りで、魚を見に行きます。コバルトスズメ、虹色のべラ、タカハタダイなど色とりどりの魚、こんな世界が現実にあるのでしょうか和歌山でも、熱帯化していて見ることができますが、沖縄では温暖化で珊瑚や魚が減っているそうですが、とっても心配です。
その昔、南仏のニース音楽院に夏季留学しましたが、そのとき、地中海でも泳ぎました。
ニースの海岸は大きな丸い石がゴロゴロしていて、黒っぽい水はあまり美しくはなかったです。
モナコは砂浜でしたが、みな泳がずに美しいマダムたちがビキニのブラをとって、日焼けにいそしんでいました。泳いでいたのは日本人ばかり。魚は見えませんでした。
水の曲を集めて、コンサートをしようとしたことがあります。
フルートの曲では スメタナのモルダウ。 宮城道雄の春の海。 ライネッケのウンディーネ、
ドビュッシーの雲 小舟にて フォーレの岸辺にてなどなど…こうやって、並べてみると尺八とお琴のみで、「海」を表現した、宮城道雄は出色だと思います。川や泉はともかくね、海ですよ。海。オーケストラでならいろいろありますが、管一本と弦一台。しかも、洋楽器と違って圧倒的な音量はないというのに、春の陽の中で穏やかでゆったりとした海、浅瀬の岩場で逆巻く海、大洋に勇壮に動き出す海が一曲の中にストーリーをもって されていきます。
彼の水を表現しようという試みは他にもあって、「水の変態」「ロンドンの夜の雨」「泉」
「水三題」は「山の筧」「大河の夕」「大洋の朝」の三題からなっています。
これは、尺八と琴2台の編成なので、フルートでやってもなかなかいいと思うのですが、春の海と違って歌がついているので、難しいのかな、洋楽で演奏されることはすくないです。…というか私は聞いたことないです。
古いカセットに宮城道雄の演奏の録音があります。実にまろやかな演奏です。間違っていても、納得の音楽性です。音だけとっても、絹糸を当時はつかっていましたが、よく切れてしまうので、最近使われているのはナイロン弦。同じ音はもう出せません。象牙の爪と琴柱。三味線も、象牙と鼈甲の撥で、材料は輸入禁止。琴屋さんに聴くと、在庫を国内でまわしているだけだそうです。
「春の海」は歌詞をつけて、オーケストラで演奏されている版を見つけましたが、ちょっと追分か演歌みたい。かえって雄大な海の感じが消えているのは不思議です。楽器やいろいろな制約がある方が、より表現力が増すことがあるのを実感しました。
それにしても宮城道雄はチャレンジャーです。邦楽の厳しい師弟制度、家元制度の元で、よくぞこれほどと思うほど、洋楽の手法や、古典の手法、近代音楽の技法を縦横無尽に取り入れて作曲しています。
日本人は、管の好きな民族です。尺八、龍笛、篠笛、祭り笛など、さまざまな種類の笛が、全国にあり、愛されていました。擦弦の楽器がほとんど胡弓のみということと比較するとその多さは、驚くほどです。
モイーズさんもその昔、日本の学生を教えて「日本人は必ず世界で通用するフルーティストを排出するだろう。」といわれていたと聞いています。
本当にその予言は大当たりで、工藤重典さんや、佐久間由美子さん他にも大勢の方が世界で活躍されています。それは、私たちがよく知りもしない日本の風土が作り出した血の中にもぐりこんだ笛の音に対する感性、自然に対する感性ではないかと私は思っています。
日本の音楽を今、大切にしなければ、自然と同じく失われてからでは遅いそう思います。
これはバイブラバス。横からジェットの泡が出ます。リハビリのメニューの一つで、8分間手をつけて患部の血行を良くします。それから、マッサージ。
鎮痛剤を塗布して土曜日は久しぶりにもとに戻ったみたい。調子の乗って練習して、月曜日。忘れていた痛みが、復活。自分でマッサージしていましたが、どんどんひどくなってきたので、今日になってあわててリハビリへ。
ウレタンのちいさなボールを握ったり離したりして、指を動かした後、バイブラバス、プロのマッサージ。小指と薬指の神経は繋がっていて、フルートを演奏する時は、この神経をバラバラに動かさなければなりません。大きな筋肉、腕の筋肉だけを鍛えると、この神経が繋がってなかなか、指はバラバラに動いてくれません。
特に薬指が大変。普通にしていると小指と一緒に動いてしまいます。だから、通常フルートを吹くものはこの神経を切り離して動かせるように、訓練します。平らなところに手のひらをくっつけておいて、薬指だけを動かす。両手を合わせて、一本づつ動かしたり。
途中で気がついて、ボールを握るときに薬指と小指を交互に一本づつ動かして鍛えることにしました。
これは一石二鳥かも。ピアニストは力が要るので、指のエキスパンダーで指を一本づつ鍛えている人がいますが、笛吹きは力がいらないので、結構そこは自然任せになりがちです。
これは、新しい発見です。完全治癒したら、以前より、指が楽に動く予感があります。家では100均のウレタンボールで訓練していますが、日々筋肉がついて楽になってきました。多分指用エキスパンダーより圧倒的に安くて効果は同じ
また後日、どうだったか結果報告しますね。後10日ぐらいだそうです。