サルビアの種類はたくさんあります。これはサルビア・ターコイズじゃないかと思いますが、確信はありません。
青い花は夏の庭のいいアクセントになるだけでなく、なんとなく、エキゾチックな雰囲気を醸し出してくれます。
ゴーベールGaubertのDeux esqulssesは、1914年パリでのエキゾシジムです。
Soir sur la plaineとOrientaleの2部からなっています。
1914年といえば、第一次世界大戦が始まった年です。暗く、統制された世界の到来から逃れるように、ゴーベールの思いは遠い東洋へと向かっています。
フランスは学校を出る頃に2年間の兵役があるそうです。「2年間も楽器を練習できないなんて大変じゃない?」とフランス人の友だちに聞くと、「みんな行くから大したことないよ」といっていました。
本当に大したことないっていうより、考えたくないっていう風に見えたけれど、本当はどうだったのかな?今となってはわかりません。
兵役は、異世界としか私には思えないですが、ゴーベールの異国情緒とは対極な気がします。
軍隊のイメージは規律、管理、鍛錬、明確、整然、線で言えば直線。エキゾシジムは曖昧、揺れる、影、混乱、腺で言えば曲線。一方の極があれば、必ず対極があります。
この世界はいろんな文化、価値観の人で成り立っています。一方の側が席巻し、全員が一致し、そうでないものを排除しようというとき、独裁が起こります。エキゾシズムは他者への憧れ。憧れの相手と戦いたくないですよね。文化や音楽はそういう気持ちをささえるものであって欲しいと思います。
ランタナ・七変化と言って徐々に色がピンクと白から濃いオレンジ色に変わっていくそうです。日本の風土に合っているみたいで、昨日も道路の側溝のすきまから生え出てきて、きっちり花を咲かせていました。こんなに小さいくてかわいいのに強い生命力をもっています。
七変化ではないですが、歌劇の幻想曲は2幕とか3幕ものの歌劇の曲のいいところを集めてつなげ、一曲にしたものなので、当然、変化に富んでいます。
例えば、有名なボルンの「カルメン幻想曲」は数小節の物も含めて7曲を一曲にまとめています。
ジプシーの歌、闘牛士の入場、ハバネラなど、歌劇のハイライトのような曲が次々と。その上それぞれにバリエーションがあり、あのテクニック、このテクニックと見せ場があり、歌なので、感情表現の聞かせどころもありと、そういう意味でも変化に富み、おもしろい作品です。・・・ただし、演奏する方は大変。アスリートが芸術点でもハイスコアを狙うような、無謀な曲です。
フルートの幻想曲で他の有名どころでは
ジュナンは「椿姫幻想曲」「リゴレット幻想曲」
タファネルは「魔弾の射手幻想曲」「ミニョン幻想曲」
ドップラーはデュオで「リゴレット幻想曲」
など、他にも、いろんな作曲家が歌劇の幻想曲を書いています。
この中で、おもしろいのは、「ミニョン幻想曲」。
今では、ほとんど上演されることのないトマの歌劇で、私も見たことありません。昨年来日した、フィリップ・ベルナルドのマスターコースでも生徒さんの一人がこの曲を演奏しましたが、ベルナルドさんもこのオペラは見たことがないと言っていました。
音源を検索したら、「君よ知るや南の国」「私はタイタニア」などをソロで歌っているものは出てきましたが、やっぱり全曲は出てきませんでした。
中のアリア「君代知るや南の国」は戦後、浅草オペラで流行ったらしいです。私はなぜか、8歳くらいのとき少年少女合唱団でこの曲を歌っていたので、有名な曲だと思っていました。
フルートの世界では、ベーム式フルートを使いこなし、フルート界の名門フレンチスクールの創始者のタファネルの作曲でもあるので、あちこちで取り上げられ演奏されています。
フレンチスクール(パリ音楽院)の現教授でもあるレイモン・ギヨーさんのCDには、この曲がばっちり入っています。彼は綿密な計算とスケールの練習をする人で、あんまりフランス人ぽくない演奏ですが、きっちりとしたお手本のような演奏をされています。一度聴いてみてください。
連日暑いです。蜂の巣が物干しの屋根にできてました。15cm位に成長するまで気がつかなかった。あしなが蜂が出入りしています。我が家の裏は、10年くらい前まで、藪でした。高さ30mほどの大きな榎木が生え、山百合やシャガが咲き、湧き水がちょろちょろと流れ、サワガニがいました。マムシと鉢合わせしたこともあります。朝早く起きると、イカルの群れがいて、朝夕、瑠璃色のかわせみが近くの川からねぐらまでこのやぶを通って行き来するのが、みられました。
その頃、人の頭ほどの大きな蜂の巣が出来て、市役所から防護服の人が来て駆除されていきました。
今では、ミニ開発で住宅が建っています。藪がなくなって、マムシや鳥や、カニはいなくなったけれど、蜂だけは毎年やってきます。が、怖くて洗濯ができなくなるので、駆除してしまいます。この異常な暑さは都市から、こういう小さな藪や暗がりを取り除いていったことと無関係ではないと思います。
今日は小さなFLUTE DUOを生徒さんたちにレッスンしました。
MozartのCosi fan tutte,Terzettino とだけ楽譜はあります。
原曲はSoava sia il vento 彼の甘い吐息も というフィオリディリージ(ソプラノ)とドラッベッラ(メゾソプラノ)ドン・アルフォンソ(バス)の三重奏
第一幕の2場に歌われます。
コジ ファン テュッテは「女はみんなこうしたもの」と言う邦題の、モーツアルトの歌劇です。
ドラベッラとフィオリディリージの姉妹と、その婚約者フェルランドとグリエルモと言う仕官の4人の恋の話で、哲学者のドン・アルフォンソが「女の心はみんなこうしたもの」心変わりするのが当たり前。というと、フェルランドとグリエルモは自分たちの婚約者だけは違う。と言い張ります。
それでは、と3人はお互いの主張を証明するために賭けをします。
フェルランドとグリエルモは戦場に行ったとみせかけ、外国人に扮し、姉妹に求婚します。
断っていると、毒を飲んで倒れ、またいんちきの医術で助かると言うお芝居をします。
女中のデスピーナの勧めもあり、二人はついにつき合う決心をします。それぞれ反対の婚約者を選んでしまいましたが、熱烈な求婚にはじめにドラベッラが陥落し、フィオリディリージも陥落し結婚証書にサインします。そこへ、二人が帰還したと知らせが入り、変装をといた二人に、結婚証書をつきつけられ、姉妹は謝り、和解します。
ドタバタ喜劇の内容はともかく、この曲はゆったりしたAndanteでしっとりと美しい曲です。
フルートでやる場合1stと2ndはほとんど同じ形で動くので、ハーモニーが命。音程に気をつけて、
二人で一人のように演奏します。一転掛け合いのところでは、旋律をとったパートの人が、しっかり歌いましょう。ただし音抜けの後半では次の人に渡すように演奏することを忘れずに。
DUOをするときに難しいのは、相手の音を聴く事。その時聴いて合わすことが大切ですが、あわせようとするあまり自分を無くしてしまうと、音が死んでしまいます。自分を保ったままで、相手を生かす演奏をする。そこが一番大変だと思います。特に2ndは腕が要ります。
いい演奏は、どちらのパートも生き生きとしながら、二人で一つに聞こえる演奏だと思います。
二人の演奏がどんな風に仕上がるかとっても楽しみです。
これは、なんて名前でしょう?調べてもわからなかった。ヘレニウム?違うかもしれません。でも、かわいいでしょ。
今日は、午前中、マッサージと針に行ってきました。
手の甲の靭帯を痛めてから、一ヶ月以上過ぎても、まだ、炎症が治まっていません。だいぶ痛みはひいたけれど、小指のC、C#、Hを動かすと痛いです。
針をしたのは、初めて。指をかばうおかげか、肩は凝るし、腰は張るし、それも右ばかり。友人が自宅でやっているので、おねがいしました。
横になって、指の爪の下辺りを触っていくと、痛い点があって、そこに針を刺し、他にも、足、肋骨の下など、調べながらさしていきます。
「どうなっているのか、見てみたい。」と私がいうと、
「そんなん、いわれたんはじめてや。」といいながら見せてくれました。
細い、バネのような長い針が私の足の側面から10㎝位、びよーんと伸びています。
「肋骨の下もこんなんなってるの?」
「そうやよ。」
チクッともししなかったし、入れてしまえば感覚はないし、全然刺されている感じはしないのに、不思議です。
「う?ここは?」
「ちょっと違和感があります。」
「そうやねぇ、ここもちょっと詰まっているから、治しておくね。」左のおへその横あたりを触ってみると、右と左が触られた感覚が違います。
こんなふうに、あちこち触ると体の中の状態がわかるみたいで、友人によると、右の指は治りたがっているけれど、右半身が詰まっているので、リンパ液や、気などが行き交わず、治りが悪くなっているそうです。その詰まった流れをかえる針をうったそうです。
初めての場合はあまりたくさん刺せないそうで、全部また抜いてから、今度はマッサージをしてくれました。手は気持ちよかったけれど、右側の背中の肩の下から、腰にかけてマッサージされると痛い、痛い。
首も右側が異常に凝っています。
ただ手の一部のことなんだけど、影響は大きいんですね。
他にも体の状態をみて、夕飯を早めに今の半量に減らして食べて、朝、昼しっかり食べること。寝不足の体だから、しっかり寝るように言われました。
こういうこと整形外科のお医者さんは言わないよね。食や生活習慣から未病する、さすがは漢方です。
生活改善は万病の予防薬。
「よし、今日から生活改善だ。」と張り切って帰ったものの、なかなか難しい。取りあえず夕飯は半分にしましたが、寝不足はもうすでに×。
せっかくいいアドバイスや、意見をもらっても、実行できない私って
まあ、めげずに明日は朝食を多めにとってみよう。
フルートを吹くのも健康一番。
部品を取り寄せている内に、担当の人が代わって、今になってしまいました。一ヶ月以上、割れミラー(テープつき)で走っていたので、綺麗になったら、逆にへんな感じ。スペアタイヤはとりあえずそのまま、
ガソリン代もあがるし、環境を破壊するし、やめられないけれど、やめたい…胸が痛い
「エンデの遺言」ー根源からお金を問うことー
ネバーエンディング・ストーリーや、モモと時間泥棒の作者ミヒャエル・エンデからの遺言を河邑厚徳+グループ現代がまとめ、NHK出版から2000年に出された本です。
確かNHK特集で当時TV放映されました。
エンデは言います。
「どう考えてもおかしいのは資本主義体制化の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはありません。問題の根源はお金にあるのです。」1994年2月6日のインタビューより
「私が考えるのは、もう一度、貨幣を実際になされた仕事やものと対応する価値として位置づけるべきだということです。そのためには現在の貨幣システムの何が問題で、何を変えなくてはならないかをみんなが真剣に考えなければならないでしょう。人類がこの惑星の上で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問いだ、と私は思っています。非良心的な行動が褒美を受け、良心的に仕事をすると経済的に破滅するのがいまの経済システムです。」
「漁師がお金を借りて、大きな船を買い、湖の魚を取る。対岸の漁師はより大きな船を買う、競争で買い、魚を獲る。工場を作って魚を処理する。ローンを支払うために、どんどん魚を獲る。結果として湖の魚が一匹もいなくなっても、誰も良心の痛みを感じない。湖は誰の物でもないから。」
2000年は分岐点だったのかもしれない。この提言は何人かの人々に衝撃を与え、バブルの中、地域通貨と言う概念を実践した地域もありました。しかし、長い不況の中、経済効率優先は、問われることなく自明のことのように進み。地域通貨ははかばかしくはありません。
今やいろいろな問題が浮き上がりつつあるように見えます。
食糧難や、一杯の水が得られずに亡くなる人がいる一方で、大量の食品が箸を通されることなく廃棄される。投機マネーで、小国の国家予算が一夜にして失われ、バイオ燃料への投資のおかげで、食糧自給もままならない国が現れています。
日本に生まれたと言うこと、それだけで、貧しい国の人を逼迫させている。(こんなことを言うとみんなに嫌がられるよね。)でも、それだけの影響力があると言うことは世界を変える力もまた、持っているのではないのだろうか?
さあ、どうしよう?
このかわいい花は、黄花千日紅(きばなせんにちこう)っていうそうです。夏祭りに売っている棒つきのアメみたい。子どもの頃は不衛生だからっと買ってもらえなかった。この辺では19日に盆踊りがあります。小学校の校庭でやぐらを組んで、自治会や子ども会の模擬店が出ます。江州音頭は、5人の歌い手さんが来て、太鼓を叩きながら、エンドレス
今日の音楽であそぼう!の始まりは、茶摘みの歌。「八十八夜って何か知ってる?」
「茶摘みの歌詞は?」
「えー!知らん。」
「手を合わせて、叩きながら歌うのは知ってる?」
「知らん!」
これが、今の小学生です。でも大丈夫。
「私、知ってる。」何人か知っている人がいました。
「知らなくても大丈夫。知っている人と同じようにしたらいいよ。じゃあ、ペアーになって」
二回やったら完璧。
「今日は、メロディーベルで『うみ』をやります。知っている人?」
「知ってる。」さすがにこれは大丈夫。
「二つに分かれて、演奏します。どうやって分かれる?」
「はい、グッパ。」
「えーいやや。」
「いやな人は、案を出してね。」
「じゃんけん。」
「好きな人同士、集まって、たらへんかったり、多かったら話し合うねん。」
「「とりとり」」
「とりとりって何?」
「エー知らんの?」「知らんから教えて?」
「代表選んで、じゃんけんに勝った方から一人ずつとっていくねん。」
「他に案のある人?いませんね。では、どうやって決め方を決める?」
「多数決。」
「じゃあいいと思うのに手を上げてね。」
「うん。」
「とりとりに決まりました。」
「代表を選んでください。」「代表をやりたい人。どっちのパートがしたい?」
「とりとりじゃんけん最初はぐー、じゃんけんぽん。」
チーム分けが一番大変。子どもの自主性を育てるのが目的であって、プログラムをこなすのが目的ではないので、子どもが意見を出し切るまでつきあいます。するといつも、子どもたちは絶妙のバランス感覚で折り合いをつけていきます。子どもは、本当に知恵があります。
演奏はここをちゃんとやっていればほとんど大丈夫。ハプニングがなければね。
8月はプール開放でお休み。9月は音楽ではなく、しゃぼん玉遊びをします
真っ赤なダリアが咲いていました。天竺牡丹という和名がついています。洋花の中でも、早くから輸入されて一般的になっていたんじゃないかな?私はこの花を見ると「真っ赤に燃える太陽だーけど~」という歌が、頭の中にながれます。時代の花?
S先生のレッスン、「真夏の夜の夢」を出すと、先生が若かりし頃、モイーズさんのマスターコースで息子さんのルイ・モイーズさんと吉田雅夫先生が休憩時間にデュエットをされたことを話してくださいました。
「簡単に見えるけれどむずかしいんだよね。みんな、おっ!すごいぞ。と言う感じで集まってきて。」
「ルイさんはよく間違っていたけれど、吉田先生はノ-ミスで、でも、ミスしてもなんていうか、音楽に勢いがあって、いい演奏だったよ。」最近先生とのデュオはいい感じ…らしい。私も気持ちいい。
曲はドボルジャークの「ソナチネ」を初めて持っていきましたが、32小節目から3回同じ形で繰り返されるA#の音をAisレバーを使ったり、Fキーを使ったりして、音色を変えるなど、もっと音の研究をすること、とにかく自分の音を聴くこと。
おもしろかったのは、「頭の中に空間を作ること、何にも考えない。考えないとAHA体験のようにひらめきがあるよ。それが「無」の境地、「空」の境地って言うもんだと僕は思う。」
…おもしろい、おもしろいけど、よくわからない。よくわからないけれど、私流に解釈すると、「こう吹こう、ああ吹こうと悩みながら吹くと、自分で出した結論の方向に無理矢理音を引っ張っていこうとする。そうなると、押し付けられたような演奏になる。子どものように、ただ、楽しみながら吹くと、自由にその場その時の一瞬一瞬を生きた演奏になる。」そんなことなんだろうか?
「ギリシャ、ローマ時代は哲学や、数学と同じくらい、音楽が大切にされていたんだよ。しかも、言論や他の学問はごまかすことができるけれど、音楽を演奏すると、人となりや、勉強したものが全て出てくるので、どれだけ学んでいるかをチェックするもの。として使われていたんだよ。」
いい演奏をするためには、技術の他に、人としてまだまだ学ぶことがあるようです。たかが音楽、されど音楽。学ぶのに不足はないがんばれ私
立葵(タチアオイ)は今はもうない(転居したので)実家の庭にも咲いていました。この花を見ると若い頃の母を思い出します。明るくさわやかなたたずまい。小学生の頃、「明るい太陽みたいな母」と作文に書いた覚えがあります。マザコン・・・ちょっと気恥ずかしい思い出です。
明日は、S先生のレッスン。アルテ3巻 メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」から有名なフルートの二重奏です。
原作はシェイクスピアの劇です。
妖精の王オベロンと、女王タイタニアの仲違い。それにライサンダーとハーミア、ヘレナとディミトリアスの危うい恋の行方に、恋の呪いの花の汁が、混乱に拍車をかけ、真夏の夜の森の中は迷える恋人たちで大混乱。それでも、最後は、全員で仲直り。結婚行進曲が有名です。
2本のフルートは早いスタッカートで絡み合いながらずっと動き続けます。落ち着かなく、切れ目なく。
この曲は、いたずらものの妖精パックのテーマです。
シェイクスピアによると、
『さて、妖精王のお気に入り、夜のいたずらっ子、すばしこいパックはと言えばご機嫌の悪いオベロンのために、悪ふざけをしては、喜ばせてあげているのです。
牝の子馬に化けて、豆をたらふく食って肥え太った牝馬をからかったり、あるときは焼き林檎に化けて、おしゃべり婆さんの薬酒にもぐりこみ、婆さんが口をつけるやいなや、その唇をはね返し、しなびたるんだ胸に酒をこぼさせたり、またあるときは、三脚いすに化けて、妙にさとったような小母さんが下らぬ説教話をはじめようと、腰をおろしたとたん、ひょいとすりぬけ、小母さんをどたんと尻もちをつかせ、こん畜生めとどなって咳き込ませる、そんな様子を見せては、オベロンをはじめ仲間の妖精たちを笑わせ、大騒ぎへと持ってゆくパックです。』(新書館)
『「行け!パック!風よりも早く森中を駆け回り探し出せ。…」韃靼人の矢よりも早く。パックにとっては地球を一回りするのに40分もあれば充分なのですから、こんな命令はとても簡単、あっという間にオベロンの前から消え去りました。』
パックは風のようなもの、日常の生活の小さな失敗の犯人。失敗をこっけいなユーモアにかえてくれます。ダブルタンギングはあくまで、軽く、とどまらず。さあ、うまくいきますかどうか、ご覧あれ
グラジオラスを見ると、小学校の理科の時間を思い出します。チューリップや朝顔は学校へ行く前から知っていましたが、1年生学校に行って、はじめて覚えた新しい植物の名前です。「グ.ラ.ジ.オ.ラ.ス」初めて聞いた名前を何度も口の中で繰り返しました。新しいことばを知ったことがうれしかった。今でもこの花を見ると、その時の喜びがよみがえってきます。
学校生活を一年でも経験すると、もう「勉強を好きだ。」と言う同級生を見ると、化石か、恐竜でも発見したような気になってしまいました。思春期に入ると学ぶことはもう苦痛でしかなくなってしまいます。
授業はおもしろいことを言ってくれる先生の授業はラッキー。そうでない先生の授業は眠くて仕方ない。怖くてつまらない先生の授業は最悪。「どうか神様私を眠らせないで。」
大学ではいかにさぼりながら、教室で目立たないようにしながら、試験でいい点数をとるか?そんなことばかり考えていました。学友も同じで、後ろの席から埋まり、前の席はガラガラでした。
ところが、卒業してから働いて自分のお金を出していった音楽院のサマーコースでは世界中のフルート奏者の卵たちは、一番前の席を取り合い、一番の譜面台を誰が取るか?で競争。
コースで認められれば、パリの音楽院の外国人枠にはいれるかもしれない。そうでなければ、有名な教授のプライベートレッスンにもぐりこめるかも。目をきらきらどころか、野心に燃えてギラギラしながら。
授業が始まる前の一時間はそこここで、自主練の音が聞こえてくる、寮では、全員の睡眠時間を確保するために夜練と、早朝練習は禁止されなければなりませんでした。
教授自身が憧れのスーパースターで、演奏すれば、技術の違いはあきらかで、少しでも彼に近づきたい。何かちょっとしたヒントのようなものでも、飛びついて拾い上げて、ありがたいと思い、どの生徒の目にも目的が間近に見え、手を伸ばせばつかめそうに思えていました。
そういうときには、ネガティブになったり、反抗的になったりしてる暇はありません。必死で練習するのみ。言われたことを全てありがたく頂き少しでも自分の演奏を改良するしかありません。
先生はおもしろがらせようと話すことはないし、賞罰や、厳しい規則で縛られなければならないようなものは何もありません。
しかし、そこで学んだことはとてもおもしろかったし、一生の財産になりました。
こんな風に学校でも学べばよかったという一抹の後悔とともに。
真剣に学んだら、おもしろくないわけがない。だって、たくさんの人が生涯をかけて追求しようと言う気になるほどのこと。つまらないはずがないのです。むしろ、真剣でないからつまらないんだ。こんな簡単な事実に長い児童、生徒、学生期にちっとも思い至らなかったのは不思議で、残念です。
しかし、学ぶということに遅すぎると言うこともありません。競争して勝つのが目的なら違いますが、自分自身の能力を、磨き続ければ、昨日より、今日。今日より明日、確実に少しづつやれることが増えていくのが演奏技術の能力というものだから、年をとっても衰えるばかりではなく伸びていくものがあると言うのは、そのこと自体がすごい幸福ではないでしょうか?ましてや、それが美しい音楽なら
ここでちょっと宣伝。フルートレッスンのお問い合わせは個メールください・・・
近所の庭の凌霄蔓(ノウゼンカズラ)が目立ってきました。毎年壁一面花が咲き、見事。楽しませていただいています。それにしても難しい漢字…二度と使わないかも。これを調べていたら、昨日掲載したなぞの花はノウゼンカズラのピンクだとわかりました。ピンクの方が小ぶりでおとなしめ、随分印象が違います。同じ種類に見えない。でも、名前が分かってすっきり
今朝はすごい雷雨でした。今日は子育てサロンの日。おかあさんたち出られないよね。
でも、ひょっとして来る人がいたら、その人は絶対に必要な人だから、閉められない。3年前にも一度、暴風雨警報で一組やってきました。覚悟していると、うそのようにあがって、9時から準備。10時にはいつものお母さんたちでいっぱいでした。
今日は、7ヶ月から11ヶ月の子どもたちが、大勢。それから、2歳と、3歳が三人。
子どもたちは、手遊び歌が大好きです。どの子も、好奇心いっぱいのきらきらする目で手の動きを追っています。
私は子どもがその年のころは、とにかく美しいもの、いいと思うものだけを子どもに与えたくて、がんばっていました。それは不可能なことなんだけれど、自分の中では、「私の子にだけは絶対そうしてあげる。」と、思いつめていました。だって、こんなにかわいい天使のように無垢な存在なんだからと。
案の定、無理がたたって、破綻してしまいました。
「うそついたら、あかんなあ。」
子どものためなんていいながら、結局、自分の子どもが人の子より抜きん出て素晴らしい子になるとか、子どもの頃、欲しかった夢を子どもを使ってかなえようという、自分の欲望からでたのであって、そこにいる現実のこどもが、何を欲しがっているかなんてほとんど考えてもいなかった。
でも、一生懸命でした。とにかく一生懸命でした。息詰めて、必死。そのとき、「大丈夫。そんなにがんばらんでも、ちゃんと育ってるよ。」って近所のおばちゃんに言ってもらえたら、子どもも私ももうちょっと早く、楽になれていたかも。
サロンに来るとそんな近所のおばちゃんに出会えます。
手遊びの一つも変な音程でへたくそに歌っても、その暖かさで子どもはきっとちゃんと育つよ。
ちょっとばかり、間違っても大丈夫。その分子どもはキャパの広い人間に育つよ。
サロンで一緒にあそびましょう。