音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

指標

2008-10-21 02:01:33 | 音楽

合歓(ねむ)の木の花が咲いていました。意外に鮮やかな色です。淡いピンクもありますが、そちらの方がなんだか合歓の木らしいです。世代のせいか、合歓の木と言うと、今の美智子様が我が子にかかれた「合歓の木の子守唄」が思い浮かんできます。皇室は生まれた時から、生き方を定められ、大人に囲まれ、注目され、尊重されるけれど、自由はない、暴力や、醜い言葉は赦されないし、使われることもない。こういう環境で人はどう育つのか?興味があります。マスコミで知る程度のことでは、何もわかりませんし、ご縁は全くないですが。

教則本の曲をどんどんやっていると、時々、機械的に演奏している自分に気がつきます。6ページも無伴奏で、ソロで演奏して、次のレッスン日には、また新しい曲というと、もう、楽譜をうまく読んで、指を動かすしかないと言う気分になります。
指が動いてくると、今度は気がつくと別のことを考えていたり。

そういう時って、この音がどこから来て、どこへ行くのか?曲が一つの物語だとすると、曲全体のストーリーのどこに、どういう位置にこの音があるのか?っていうことは、頭の中から全く吹き飛んでいます。
これは、「4分音符のド」とか、いまは「2分音符のレ」とかいうことを提示しているに過ぎないのです。

たとえば、卵と、ミルクとお砂糖を持ってきて、「どうぞ」とお客さんに出している喫茶店のようなもので、
ミルクセーキを頼んだお客さんは何をだされているのか、混乱してしまうだけです。
ちゃんと、混ぜて、「これがミルクセーキだと私は思います。」と言う状態をサーブすれば、お客さんは、飲み始めの、香り、のど越し、甘みや、濃く、温度、飲み終わり、器が引かれて、余韻までを、味わうことが出来ます。そして、喫茶店では、ミルクセーキでお客さんと、店の人はつながるのです。お砂糖や、卵ではつながれない。

作曲家と演奏家は楽譜でつながります。楽譜と、楽器を並べてもお客さんとはつながれない。演奏家は楽譜を読み込み、作曲家が楽譜に込めた、気持ちや、意図、ストーリーを読み取ることがまず必要です。
それは、簡単なことです。自分自身がこの曲を演奏したらどのような気持ちになるか?「楽しい?」「悲しい?}「うれしい?」「怒りがでてきた?」転調したらどうなった?リズムがかわったら?

自分自身が感じたことを、明確にし。次に音で、その気持ちが表現できているか?この音がどこへ向かえば、その気持ちがより表現できるのか?減衰するのか、大きく膨らんでいくのか?楽しい気持ちがより楽しくなっていくのか、それとも一転して悲しくなるにはどう演奏したらいいのか?

曲にはいろんな気持ちが込められています。それを感じとり、表現していくこと。それこそが、自分の音楽を導いていくということです。それを考えて吹いていないときは、ほとんど指や息の都合で曲の形が決まっていきます。

思考しましょう。感じ味わいましょう。そうすれば、音楽が自分を導いてくれます。そして、その感じ味わえる演奏でしか演奏家はお客さんとはつながれない。と私は思います。


黄昏の国

2008-10-20 00:34:08 | 音楽

旧一号線、この辺の人はimagesimages誰も府道13号線とは呼びません。
夕方になると、なんだかさびしいような、胸がざわざわして、落ち着かなくなるのはなぜでしょう?
子どもの頃読んだ、アストリッド・リンドグレーンの「ミオよ、わたしのミオよ」は、黄金色の夕暮れ、亡くなった父の国への入り口が開き、少年は黄昏の国にいざなわれます。

レイ・ブラッドベリーの「10月はたそがれの国」は、圧倒的な黄昏の描写の中、不思議な物語が展開します。
夕暮れは、いつもは、日常の喧騒の中に埋もれていて、見えないけれど、しかし誰もが、あると言うことをどこかで、知っているこの世ならぬ何かが、湧き出てくる時間。ある人にとっては、死者との対話だったり、ある人にとっては、普段抑えている自分の感情だったり、ある人にとっては、良心だったり。
合理性や科学では割り切ることの出来ない、情の世界だったり。

日本においては、能の中の情念そのもののようなものかもしれない。
西洋音楽の世界では、オペラ。西洋と言うと、日本との対比でドライであるとよく言われますが、オペラの世界では、社会の狭間で、あきらめられない思いや、恨み、恋、熱情など、涙や感情の嵐でみちみちています。

ビゼーのカルメンで、ホセは社会的地位を捨て、盗賊団に入ります。誘うのはカルメンですが、カルメンは自分が生きるために、獄吏のホセを利用しただけ、ホセは?カルメンへの愛に翻弄されたと言うより、彼女によって、自分の中の、欲望や執着が解き放たれ、身も体もゆだねてしまった。しかし、盗賊団の世界でも、欲望を満たし続けるためには全身全霊でそれを求め、能力を使って支えなければならないのに、彼はいつも悩み、奪いきることもできない。欲しいのか欲しくないのか。
欲しいものを欲しいといい、いやなことはしないカルメンが輝いているのに比べると、ホセは本当に煮え切らない。唯一執着しているのは、カルメンへの所有欲。
ホセは、何を言われても、カルメンが一緒の時はよかったけれど、闘牛士の元へ去ろうとするのは、赦せなくて、殺してしまう。

ホセにはいつも選択肢があります。官吏でいるのか、盗賊団に走るのか?田舎の恋人の元へ戻るのか?とどまるのか?殺すのか、殺さないのか?

理性の世界の住人でもあるホセが、あふれ出る情念に翻弄され、コントロールできない。欲望に負け、ついには破滅します。物語は理性と、欲望のせめぎあいに全編彩られています。

この噴出する感情の世界が、この時代のオペラのお約束です。トスカや、マノン・レスコーも然りです。
西洋の合理主義と、科学が幅を利かせ、世界中に植民地をもち、派遣を伸ばした時代です。
抑えられたものは、はけ口を求め、黄昏の国を求め、絢爛たるオペラの情念の世界を育てたと思います。


星のパレット練習日

2008-10-19 01:26:44 | Weblog

久々のマイフルートの写真です。キー部分は銀なのでクロスが届かない溝がすぐに黒くなってきます。磨着すぎても、消耗するだけなので、黒いまま放置。今は、銀の酸化を抑えるクロスがあるそうです。今度試してみようかな。

久しぶりにヘルマンハープと合わせました。星のパレットは3名。みんなと手分けして、楽譜を手作りしないといけないので、楽譜を揃えるのに時間がかかります。しかも、フルートとの市販楽譜などないので、編曲もします。

毎回実験で、目論みがうまくいったり、まずかったり。その度に楽譜を直して、書き換えです。はじめは大変だけれど、何曲か、書きためていけば、使いまわせるようになるかなぁ。それまで、あんまり固まらないで、いろんなレパートリーや、奏法、アンサンブル、オブリガードなど試していけたら良いなと思っています。
正直、面倒くさいけれど、この融合はおもしろくて、飽きません。

ハープも新しい楽器なので、オルゴールのような使い方から、ギターや、チェンバロ、クラッシックハープ、リュート、ベース、ヴァイオリンのピチカートなどなど、他のいろんな楽器のように使えるか、イメージを広げながら、試したり、実際の奏法もトレモロを試したり、ピックで引いてみたり、片手で抑えて止めてみたり、残響の残り方も聴きながら実験です。

それにしても、本番まで残り少なくなってきました。実験もいいけれど、そろそろしっかり決めて、合奏練習しなくてはね。



モラル・ハラスメント

2008-10-17 23:47:18 | 本・映画など

imagesimagesimages
枚方市の対岸の島本町で、読書会。帰りは、大山崎から八幡にかかる御幸橋で、夕焼け。そして、いつものように渋滞でした。

読書会のお題は、「モラル・ハラスメント」-人を傷つけずにはいられないー マリー・フランス・イルゴイエンヌ 紀伊国屋書店 

一ヶ月に一回。もう半年位読んでいます。
仕事をしていても、学校に学びに行っても、アンサンブルをしても、コンサートをしても、発表会をしても、子育てをしていても、PTAでも、病気で医師にかかっても、すべては人間関係。音楽はつながりとは言っても、現実に人とつながるには私には困難なことばかり。少しでもうまくやりたい。ということで、お勉強です。

「モラル・ハラスメント」とは殴ったり、蹴ったりなど、激烈な暴力の話ではなく、「見えない暴力」
日常的に行われる言葉や態度によって巧妙に、人の心を傷つける精神的な暴力のことです。
この本では、モラルハラスメントの加害者を裁判にかけて糾弾しようとしても、容易に自分を正当化してしまうだろう。被害者は自殺に追い込まれるようなことがあっても、周りの人間は「被害者にも責任があるのではないか?」と思ってしまう。加害者の行為に触れることによって、まわりの人々は善悪の判断基準を失い、他人を犠牲にしても自分さえ良ければ何をやってもいいというふうに思う間接的な影響をあたえる。被害者自身も、攻撃されたと思うのは気のせいで、誰かが言っていたように、自分で勝手にそう思い込んでいるだけではないか?と言う気持ちを拭い去ることができないのだ。

凶悪さは精神病的なものから来るものではない。他人を人間として考えることができないという「能力の欠如」と、自分のためにすべてを利用しようとする「冷たい合理性」が組み合わさってできたものだ。

と書いています。もちろんここで、書かれているモラルハラスメントの加害は加害者と被害者が恒常的に固定して変らない場合のことですが、近所づきあい、職場の人間関係などのなかでの、ちょっとした当てこすりや、傷つけるための無視や、小さな復讐、情報をわざと流さない、など、誰しもが被害者や加害者にもなった覚えがあるような例がいくつもでてきます。これを読むのは、加害者を糾弾するためではなく、人間はすべて被害者にも加害者にもなることがあると言うことに気づき、自分の中の暴力性を少しでも減らしコントロールするようになることが目的です。

音楽を演奏するということ、多くの人の前で自分を開くということです。
等身大の自分に気づき、自分を赦すことが、人を信頼することの第一歩だと私は思います。そのためには、被害者である自分に気づくだけでなく、加害者である自分にも気づかなければと思います。まだまだ修行は続きます。


回復期

2008-10-16 23:21:37 | Weblog

やっと回復。結局、仕事が続いて一日も休めなかったけれど…それでも、2日間基礎練習を休んだつけと、風邪で顔の筋肉がぼわーんとなり、口内炎、しかも耳が遠い。
今日は、朝から、電車で50分ほどの保育園でのコンサートの打合せ、それから、フルートと、ピアノと、語りとの合わせ。その後、とどめの児童会。

車の争奪戦に負け、パソコンを抱えて、電車で。車20分、電車徒歩50分。この違い!パソコンに加えて、フルートと譜面台とドレスと、楽譜を抱えたら、キャリアー付のケースでないと無理。
本番は絶対車争奪戦に負けられない。

午後の合わせは、誰の口?誰の耳?って感じで、最悪!モーツアルトが特にひどい。
ごまかせないなぁ。やっぱり。録音したけど、誰にも聴かせたくない。けど、ピアニストには送らないと。ひどくてごめんね。送ります。

それでも、児童会に行くと、手打ち野球、三角ベースをして、と頼まれ、いい加減に付き合っていると「先生、ボール走って、とってーやー、遅いでー!」
逆療法?子どものポジティブパワーのおかげ?遊んでいるうちにぼけてた体もリフレッシュ…ほとんど。

夕方家に帰って、基礎練を久々にしたら、やっぱつらい。それでも、ウォーミングアップが終わって、口がちょっともどったかと、イベールのコンチェルト一楽章を吹いたら、エネルギー半減の枯れた感じのイベールで、ちっともイベールにならない!やっぱ、早く回復しなくちゃ。

いつもこんな感じ、ちょっとがんばって、うまくなったなとおもったら、風邪を引いて2歩下がっちゃう。
とりもどすのに、2倍も3倍も また練習。私って効率悪いかも。仕方ないこれも私。


風邪との戦い

2008-10-15 17:44:35 | Weblog
鼻水がずるずる、拭いても拭いても、落ちてきます。花粉症かと思っていたら、やっぱり風邪みたい。レッスンは休めないし、今朝は、さる小学校のPTAにCAPワークショップを実施しに朝からでかけなければならなかった。添鼻薬をいれて、なんとか、鼻を押さえてワークはのりきりましたが、もうだめ。

自分でリンパマッサージをしたり、今週は、コンサートの打合せもあるのに…。

風邪を引かないと言う人に時々会うけれど、ほんとうらやましいです。

私の場合、冬が近づくと、いつも風邪との戦いです。レモンを絞って飲んだり。病院、ビタミン剤、漢方薬、シップ。特効薬が欲しいです。今日はもう寝ます。

レインツリー試作

2008-10-14 00:32:46 | 音楽で遊ぼう

今頃の朝顔。信じられないけれど16時39分。この時期、結構あちらこちらで、この時間まで、咲いています。毎年、そうだったのかな?私はブログのために花の写真を撮り始めて、気がつきました。目って本当に見たいものだけを見ているんですね。

今日は自宅と「音楽であそぼう!」のパートナーSさんと、レインツリーを試作してみました。
本来はオーストラリアのアボリジニが、レインツリーと言う植物の実(?)を乾燥させて作ります。細長く、一メートルくらいある中身は、空洞で、細かいとげが中に向かって突き出ています。その空洞に、小さな豆とか種を入れて、両端をふさいで、ゆっくり上下を返すと、水の音がします。

「ラップの芯に、楊枝を刺して、お米を入れたらできるよ。」と聴いてから。子どもといっしょに作りたくて、作りたくて。

「ラップを使わないので、芯が集まらなくて・・・。」と、ふれあいで、地域のおっちゃんにちょっと、その話をしたら、
「俺の会社で、生地を巻く芯で、長いのがあるけど、つこたら捨てるだけやけど、おいといたろか?それは長すぎてあかんかな?」
「もちろん、ラップより、ずっといいのができます。下さい!お願いします。」
ということで、2ヶ月かけて、芯を集めといてくれました。
「で、レインツリーって何?」
「芯は固いから、ドリルで、穴もあけといたげるで。どんなふうにあけるんか。教えてや。」
という、わけで、本当にありがたいおっちゃんのおかげで、試作品作りとなりました。

楊枝より、マグマグ用の細いストローがいい音がして、安心なことが判明。楊枝で、子どもが指とか刺したらこわいからね。また挿し穴はまっすぐな列にせず、らせん状に、少しずつずらしてランダムにあけた方が、ストローが少なくても、お米が通る時に抵抗が大きくなって、ゆっくり長く落ちるので、おもしろい音がすることがわかりました。
細いのは、ストローが同じ本数でも、ゆっくり落ちてリーズナブル。太いのは当然ながら、たくさん挿さないといけないので、不経済です。でも、太い方が音が大きくて遠くまで聞こえます。
細いのは、高い音、太いのは低い音がします。
子ども達にもいろんな太さのつくってもらって、発見してもらおうと話しました。

また、アボリジニは、絵の具を使って独特の模様をツリーに描きますが、子ども達にも好きな模様をつけてもらいます。できあがったら、レインツリーを使って合奏もしなくちゃ。
何の曲がいいかな?またまた、
楽しくなってきました。


家族の文化

2008-10-12 21:45:57 | Weblog

柿の木の庭。縁側付の古い民家の庭は、柿の木が昭和の初めの風情をたたえ、なんだか懐かしい気がします。

そういえば、秋の果物と言えば、柿ですが、柿を歌った歌ってあるのかしら?
りんごの歌はたくさんあるけれど、秋と言うより、冬の歌の感じがしますが、津軽、千秋、紅玉、秋映、は9月から10月に、シナノスイート、王林は11月に出回っています。
こんなに流通や改良が進むと、季語も感覚ではわからなくなってきました。

今日は、昼から上の息子が、「ドライブにつれてって」と珍しく言うので、京都に行ってきました。連休の中日なのに、車はガラ空き。北山の植物園にでも行こうかと思って、パーキングに入れて、お昼ごはん。せっかく京都に来たので、和のお膳でもたべたかったのに、中高二人の食欲を満たし、かつ、私の財布を空にしないお膳はない!結局、ラーメン定食、餃子付。850円。ああ、京都にまで来て…。
しかも、満腹になったら、「試験前やから、もう帰ろ。」
四条河原町を通っても
「ここ来たことある。しょっちゅう友達と来てる。」「じゃあ、いいお店知ってる?」「マクドしか入ってないからわからん。」

これでも自然食で体をつくり、いい音楽を聞かせたり、絵画展や、博物館に連れて行き、演劇を見せたりして育てたのに。がっかり。今やファーストフードと、回転寿司の常連と成り下がり。音楽はJポップス。
口を開けばゲームの話。TVで野球観戦と、オヤジのような休日。これも文化と言えば、文化ですが、もうちょっと見識を広げてもらいたい。

私も、ビートルズや、カーペンターズ、井上陽水、さだまさしにはまり、アニメブームに映画館に並んだ口なので、否定はしないけれど、一方で、モネや、ゴッホを見に行き、フルートを練習し、お茶、お華、お琴をたしなみ(これはちょっと広げすぎか)、いろんなジャンルの本をむさぼり読んでいたけどなぁ。
なかなか、親の思う通りにはならないものです。

文化ってなんだろう?


音楽であそぼう!10月

2008-10-12 00:33:55 | 音楽で遊ぼう

音楽であそぼう!10月のはじまりは、はい、いいえ、どちらでもないゲーム
「運動会が楽しかった人?」
「楽しかったけど、痛かったからどちらでもない。」
「痛かったの?」
「組み体操で、一番下やった。足も手も痛くなったわ。」
「楽しかったよ。踊るのが楽しかった。」
「いいえ、ぼく、走るのきらーい!しんどかった」

「秋の歌ってどんなのがあるかな?」
「あかとんぼ」「もみじ」「こぎつねこんこん」「夕焼け小焼け」「七つの子」
「秋の・・・なんだっけ?リコーダーで習ってるの」
「じゃ演奏してくれる?」
「いいよ、」ということで、5年生二人、リコーダーでデュエットしてくれました。
なかなか、いい感じの曲でした。
「今度は私たちの演奏を聴いてください」
あかとんぼを演奏、フルートとピアノで吹くと、はじめは落ち着かなかった1年生の男の子達も、だんだん静かになってきいてくれました。

「今日はベルで夕焼け小焼けをします。」まってました。
「私「そ」やりたい!」と早速手を上げる子。
「「み」を使えるのは3人だから、話し合って何とかしてください。」「じゃあ、私「ら」でいいよ。」
いつものように、時間がかかります。

「ぼく指揮したい。」「どうぞ、」
「あれ、絵描いて。指揮の。」「はいはい、4拍子の絵ですね。」
描いたものをなぞりますが、なかなか、左にいけません。どうしても、3拍子になってしまいます。結局私が、はじめは手をもって、「1,2,3,4.」そのうち離して、大成功。
「ちょっと、早いで!」とか声があがっていましたが。

「うまいうまい、指揮者になるんとちがう?なれるよ」
「いや、なれへん。電車の運転手になるから。」「そう、運転手。いいなあ。がんばってね」

「次は、音楽室の楽器の中で、好きなのを使って夕焼け小焼けをします。」
「大太鼓もつかっていいの?」「いいよ。でも、使った楽器は必ず元にもどしてね。」
今日は、大太鼓、スネアドラム、トーンチャイム、キーボード、マリンバ、鉄琴、リコーダー、ビブラフォーンで、それぞれ、練習してあわせました。1年生から、5年生までいましたが、打合せ5分で、プロも真っ青の合奏でした。

今日も楽しかった。来月はレインツリーをつくってあそびます。







体の対処法

2008-10-11 01:00:42 | Weblog
昨日、批判に対処するやり方をいろいろかきましたが、批判を受けた時の体や呼吸は、どうでしょう?
実際に批判をうけて、冷静でいられる人はなかなかいません。

私が陥るのは、目を見開いて、凍りつき、呼吸は浅くなり、体は萎縮して、柔軟性が失われ、固まってしまうことです。

心と体は結びついています。
そんな時、やってみたいのは、ゆっくり息を吐き、体を柔らかくして、一歩前にでること。
指摘されたところばかりが気になり、また間違ってしまうかもしれない。それでも、やってみないことには結果はついてきません。どのみち、この世の終わりと言うわけではありませんし、殺されるようなこともありません。殺すほど、他人に関心のある人はまれです。間違いは、必ず壁を突破する手がかりになります。

批判する人は相手が変るかもしれないという期待を持っているときだけ、批判するものです。自分をあきらめるのは、自分しかいません。ゆっくり深呼吸すれば、勝手に理性が働きだします。地獄に落とされたわけではなく、自ら掘った穴を地獄だと思っている自分が滑稽に思えてきます。

批判を受け入れて、食べてみる。やってみることです。それで、自分が取り返しがつかないほど、ひどく変って、戻れなくなるなんてことは、ほとんど起こりっこないです。やってみて、「だめだなぁ」とたとえ思ったとしても、時間の無駄ではありません。この方法はだめと言うことがわかることが、素晴らしい情報じゃないかな?そこに時間をつぶされることはもうないので、次の道、次の段階に行くことができるから。

批判を受けたら、一歩前に出るつもりで、ゆっくり呼吸し、体を柔らかくすることです。そうすれば、確実に次のレベルに行くことができます。がんばれ、私。