音楽の喜び フルートとともに

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批判に対処する

2008-10-09 23:52:14 | Weblog

人は批判に弱いものです。
いろんな方法で防衛しようとします。

私がよくやるのは、批判してきた相手の責任にすること。
「言い方がまずい」「あの人は人を傷つけるひとだ。」「私を傷つける、なんて怖くてひどい人!」「あの人の方が変なのだ」「あの人は言葉を知らない。」「礼儀しらず。」「攻撃してくるなんて絶対赦せない!」

それから、もっとよくやるのは自分を罰すること、「私はなんてだめなんだろう。」「私ってひどい、価値がない」「消えてしまいたい。」「情けない。」

どちらも、情報をくれる相手を敵だとし加害者とし、自分はかわいそうな被害者の役割にはまり、実は、私のやり方を絶対視し、私のやり方を変える気がないのです。

先生を持つと言うことはこの批判者を持つ。ということです。先生とは実力と経験の差が歴然とあるので、批判は比較的楽に受け入れることができます。それでも、私は、先生は「私のことが嫌いだからこんなことをいうのだ。」とか、「先生は私に対して失礼な言い方をした。」とか思って勝手に傷ついたりしてしまいます。
さすがにもう、理性が働いて、それは自分の考え方、感じ方の問題であって、先生の責任ではないと思い直すことができるのですが。

先生にさえ、これなのですから、友達、同僚、アンサンブル仲間のいう事など、なかなか素直には聞けません。波風を起したくないので、「はい、そうします。」とか、「わかりました。」と、口は動いていますが、心の中では「こいつ!攻撃したな」なんて思っていたり「今に、仕返ししてやるぞ」なんてつぶやいてしまうことはよくあります。なんて恐ろしい!でも、これは私に限ったことでなく、ほとんどの職場や、サークルでおきていることだと思います。

人って本当に悲しいです。

もう一つ仕事の内容を充実させたり、演奏や、人付き合いを深いものにしたり、質を上げる感じ、考え方に、人はみんな完璧ではない、誰もがそれぞれに自分の感じ考え方を持っても良い、と言う事を認めると言う方法があります。

そういう考え方で、批判を聞くと、すべては、自分の出したものが人にどのように受け取られのるか?という情報として受け入れることができるはずです。
それがプラスのものであっても、マイナスのものであっても、自分を映す鏡。
自分に気づくきっかけとなります。だから、そういう情報はどれも素晴らしい。感謝して受け取れるはず。
そしてそれができる人は自学自習できます。なぜなら誰からでも学ぶことができるから。

仕事のできる人は批判を受けた後、みんなこういう言葉を言います。
「本当にありがとう。また、私のことで、気がついたことがあれば、どうぞ、なんでも教えてください。」

音楽もこういった人との関係性の中で磨かれていきます。私も見習いたいと思います。


地に足つけて

2008-10-09 00:20:32 | Weblog

今日はSさんと「音楽で遊ぼう!」の打合せ、「もみじ」「夕焼け子焼け」「どんぐりころころ」「あかとんぼ」「里の秋」秋の曲はたくさんあって選ぶのが楽しいです。2声に分けて、歌ってもらったり、音楽室の楽器で演奏してもらおうと思います。
フルートとピアノで赤とんぼも聴いてもらいます。演奏会用の楽譜は転調やら間奏やら多いので、少しは歌えるように編曲します。作っているとなんだか秋らしい気分になってきました。

時間が合ったので、イベールのフルートコンチェルトをあわせてもらいました。少し遅めのテンポだけれど、それにしてもSさん、初見なのにこんな曲よく弾くなぁ。私は、まだあまりさらっていないのでメロメロ。3楽章は特にひどい。
吹いてみると1楽章は、ただ素直に楽譜をなぞるだけで、と言うかまだそれくらいしかできていないですが。エネルギーが体の奥から沸いてきて、ホカホカしてきます。2楽章の平和な静寂も、よく聴いてみると、地に足がついているというか、決して別世界へ逃げていかないポジティブさがあるように感じます。3楽章はもっと、力強い。一歩も引かない決意のようなものを感じます。

イベールは2度の大戦で軍隊に所属し、1940年には日本の皇紀2600年に祝典曲を献呈し、経済的理由のために映画音楽を多数手がけ、ローマのフランス学士院の院長職に任命され、雑務に追われたり、ヴィシー政権下で有害音楽とされ、仕事を干されたり。しかしまたドゴール政権下で復活をとげたりと、イベールは耐えず世俗的な問題に悩まされもし、現実に積極的に立ち向かい、実務家でもあり、自分のやるべき仕事をしてきた人です。
そこを読み誤ると、違うものになってしまうと思いました。

なんだか私と対極にある曲をえらんでしまったかも。私は毎日ぼーっと夢の中で生きているような人ですから。まあ、それもいいですか。門前の小僧ではないですが、イベールも100回吹けば、私も少しはポジティブに地に足つけて、生きられるようになるかもしれない…。



国会

2008-10-08 00:48:10 | Weblog

実家のオリーブの鉢に実がなりました。地中海の街、ニースを思い出します。サラダ・ニソワーズと言うと、生の葉野菜にオリーブオイルとレモンを絞ってかけただけ。魚介類も同じ食べ方。はじめは塩味がないので、頼りない気がしていましたが、食べていると癖になりました。

日曜の運動会が雨で流れ、明日が本番。子ども達は、運動会の準備のために、しっかりとテープでぐるぐる巻きにされた遊具、テントと杭で囲まれた運動場、遊べるのは、児童会室の周り数メートルだけ。一日中、「この線からでたら、だめ。」と言い続け。大人たちもげんなり。

ゴム跳びのゴムを木に巻いて跳び。狭い場所でも、少し運動できました。
今日は、2年生の女の子達が踊りを見せてくれました。ずいぶん上手になっています。
おやつの後からは、体育館を借りることができ少し発散できました。明日は晴れるといいな。

普段見ないのだけれど、昨日、国会中継を見ていると「戦後は道徳教育はなくなった。子どもは叩いてでも道徳を教える。昔は修身、儒教の教えが浸透していたものです。道徳を教えなくては…」と何とか言う議員が総理に言っておられて、暗い気持ちになりました。

日本国憲法を読んだことがないのかしら?「基本的人権」・・・自分と同じように相手も人として尊敬し大切にする。大人を叩いてある特定の道徳や、宗教を強要したら、犯罪なのに、なぜ子どもだと叩いてもいいのか?こういう理屈を私は理解することはないだろうと思います。

誤解しないで欲しいのは、道徳や儒教や修身を教えることがいけないと言っているのではないのです。
どんないいものであっても、叩いて強要すれば、子どもは、そのいいものではなく、叩いて強要してもいいというやり方を学ぶのです。私は今とても恐れています。今日は、子どもたちはたくさん我慢しないといけなかった。でも誰も手を上げなかった。大人も子どもも。

こういう主張が学校現場におろされることがないように強く望みます。


はちクロ

2008-10-07 00:20:04 | Weblog

この多肉植物を見ていると、「石の花」って、こんなじゃないのかとおもいます。神秘的。

さっき、BSで映画で「はちみつとクローバー」を見ました。漫画は途中まで読みましたが、これは別の作品のようです。で、よかったです。

映画は音楽と、CGで色彩豊かな世界を表現しています。トスカの「歌に生き、恋に生き」が効果的に使われていました。

学生時代を思い出しました。悩ましいことはたくさんあったけれど、友達がいて、先生がいて、まだ、自分の人生への責任は限定されていて、可能性と自由があり何にでもなれる気がしました。

「自分は来年どうしているだろう?一生絵を描いていくだろう男が目の前にいて・・」と凡庸に見える主人公が彼我の才能を比べて、自分が将来どう生きていくか不安を口にします。

私も、学生の時、才能の差と言うのはとても大きく、大きく思えました。試験に落ちて、何もかもあきらめてしまいたくなる気持ちにもなりました。その時は、自分には才能がないと思えてフルートを持つのもいやになりました。また、実際友達にコンクールに失敗して、何もかも投げ出して故郷に帰った人もいました。どう考えても彼には、人並み以上の才能と技術があったのに。
また一人は、何度も何度もコンクールに挑み続けた友達もいます。海外に行き、いくつかタイトルを取り、今では、演奏活動と後進の指導に当たっています。
バレエをがんばっていのに怪我をして、あきらめざるを得ず、ピアノにかけた友人もいました。

何十年もたって、振り返ってみれば、それぞれの場で、みんなしぶとく生きています。学生時代、たった人生のうちの4年位の間で何もかも決まってしまうわけではないということが、今となってはしみじみ実感できます。20歳で才能が開花している人は、それまでに10年以上の学びと練習をしているのだから、そうでない人と差があるのは当然。人がしていることで、できないことはない。まったく同じにはできないけれど、全く同じにする必要もないです。

自分の場所を創ること事。芸術であれ、仕事であれ、友人であれ、家族であれ。人生に意味を見つけだすこと。華々しくはないかもしれませんが、幸せにはなれます。そして、幸せになれば、人生そんなに荷物はいらない、だから、私も小さな場所を創り、一生懸命みがきたいです。


しぼめる花

2008-10-06 00:26:51 | ロマン派

シューベルトの「しぼめる花」の主題による序奏と変奏は、美しく、そして演奏する音色をよく考えなくてはいけない曲です。

この曲は1826年、シューベルト26歳の時に、ヴィルヘルム・ミュラーによる「美しい水車小屋の娘」と言う20編からなる詩に曲をつけたものです。この詩集の中で、少年が水車小屋の娘に恋をし、その喜びを歌い、他の男のもとに去られ、嫉妬、失恋の悲しみ、絶望、そして死を選びます。その中の第18番目「しぼめる花」を自ら変奏し、序奏をつけたものです。

「おまえたち花はみんな、 彼女が僕にくれた花。 入れてもらおう、一緒に僕の墓の中へ。
何とおまえたちはみんな、悲しそうに僕を見るんだ?まるで僕に起ったことを知っているようじゃないか?
ああ、涙は 五月の緑を育てはしない、死んでしまった愛を再び花咲かせはしない。
それでも春はやって来て、冬は去って行くだろう、そして花が 草の中に育つだろう。
僕の墓の中に 置かれている花々、その花々はみんな、彼女が僕にくれた花だ。
そして彼女が この丘に通りかかった時、 心の中で想ってくれたなら、「あの人は誠実だった」と!
その時にはすべての花々よ、 咲き出せ、咲き出せ! 五月が来たんだ、冬が去ったんだ。」

墓の中に投げ入れられた花のイメージを表すために、はじめの主題は暗いピアニッシモで演奏されます。
それは、フレンチスタイルのフルートの音色のイメージとはまったく違います。ビブラートはかけないか、かけたとしても長い波長で、かけているかいないかわからない程度に。唇は柔らかく締めないで大き目のホールで、冬の風のような感じで、お腹の支えをしっかりし、音程は、音程範囲の中でも低い目で、でも、何より、大切なのは歌の心、その心にふさわしい音色を研究することが大切です。
後は超絶技巧をテーマにふさわしい音色で吹ききること…それが大変ですが。
死の世界のへの憧れ。テーマが若いと笑わないで、その後すぐ31歳でシューベルトは亡くなってしまったのだから。


モネとゴーベール

2008-10-05 01:50:31 | 近代

ゴーベールの音楽にはモネの絵が似合います。
私は、特にソナティネの2楽章など、合うと思っています。

モネは1840年~1926年、ゴーベールは1870年~1941年二人が活躍していた時期は大体だぶっています。「ノクターンとアレグロスケルツァンド」「バラード」などが、よく演奏されて有名ですが、「ソナティネ」が作られたのは1937年頃でかなりゴーベールのスタイルが完成されていた時期です。

モネは「光の画家」と言われ、特にジヴェルニーに家と庭を造ってからは、そこをほとんど出ずに、朝の光の中の睡蓮、昼の光りの睡蓮と言う風に、庭の花と光りの移ろいを描き続けました。
時代の空気と言うものがあると思いますが、2つの世界大戦の中、戦いとは別の次元にあるものを追いかけ続けた二人に共通するものは、優しい和やかな空気感と、何にでもある枠組みというもののない世界。

睡蓮の花と水は現実の世界では色が混じると言うことは起こらない。起こらないけれど、光と時と言うものを通して移ろっていくものとすれば、この世の世界のものはすべて共通して、はかない夢のようなものとも言えるかもしれない。

この枠と言うものが、ゴーベールの音楽でいえば、従来一つか二つの転調で済ましてきた音楽の枠組みは、はっきりせず、少しの間にどんどん動いていき、その動くことで、音楽が変化し、光の移ろいのように微妙に変化していく感じが表現されていきます。

国家と言う枠、民族と言う枠をはっきり定め、対立を深め、所属する団体のために力強く、猛々しいことを是とされ、戦いを推し進めていった時代の方向性への、彼らの寡黙な抵抗だったような気がします。


脳を理解する

2008-10-04 02:37:23 | Weblog

蔓紫をみると、おいしそうと思ってしまいます。おひたしにしたり、スープに入れたり。鉄分も一杯

人の脳は本来つながりがないものを、つながっている、まとまりのないものをまとまっていると考えてしまう癖があるそうです。
たとえば点が4つあると、勝手に目と鼻と口とつなげて考え、人の顔がそこにあるとまとめてしまいます。天井のシミに顔を見たり、写真の中の影の中に顔をみつけたりするのは、脳の癖のせいだそうです。

人は目にはいった情報をすべて記憶に残すわけではありません。入ってきた情報を、整理し、取捨選択していれています。その時、意識的にも無意識的にもまとめて処理するんだそうです。

意味のない数字を10桁覚えるのは大変ですが、3個、3個、4個にわけ、それぞれの塊に区切ると覚えやすい(認識しやすい)と言うようなことです。

音楽はこういうことを巧みに利用しています。楽譜は拍子によって、小節で区切られ、2個ずつ、4個ずつつなげて一塊になったりしています。

たとえば、音楽をはじめたばかりの人の演奏は、4分音符が4つあると、すべて同じ長さ、同じ大きさで吹きがちです。少し音楽がわかってくると、4拍子で4分音符4つだと、1拍目を少し強調し、次に3拍目を、2拍目と4拍目は軽く演奏します。強調の仕方は、他の音より音量を大きくしたり、長めに吹いたりいろいろですが、そうやって、まとめやすいように塊をつくることによって、より旋律や音の流れが強調され、聴く人の脳に強い印象となって残りやすくなる。つまりは感動を呼び起こしやすくなるのです。

バッハの無伴奏パルティータの一楽章などは、4拍子でほとんど、ずっと、16分音符と16分休符のみで書かれています。これを、すべて同じ大きさと長さの音で演奏すると、たちまち脳は混乱して、何を聞いているのかわからなくなってしまいます。

ところが、まず、小節の頭の音、16個の音のはじめの音を重く少し長めに強調して演奏すると、4拍子の曲であると言うことがわかり、小節のまとまりを脳の錯覚でつくりだしてしまいます。
たとえば、ミスって2個目の音が極端に小さく、聴こえないくらいであっても、勝手にそこに音があると聞き手の脳の方が音を作り出してしまうようになるのです。(もちろんこれは極端な例で、音を出さなくてもいいというわけではありませんが)

そして、パルティータは、ピアノで言えば、伴奏と、旋律を単音しか出ないフルートと言う楽器で演奏しているので、そこに必ず、旋律があります。その旋律部分と、伴奏部分を見つけ出し、フレーズでわけまとまりを作り出し、強調する方向性、盛り上がりに向かうのか、収まっていく時の音符なのかを考えながら、一つ一つの音をどうまとめて聴いてもらうのかを考えて演奏すると、印象的な音が旋律として、聴く人の耳に残っていくのです。

音楽を演奏するという作業には、こういう人が持っている癖を理解し、人が理解できる形、認識しやすい形で受け取ることができるように、音楽がどのような構成でなっているかを細かく読み解いていくと言う楽しみもあります。


チェロを弾く少女

2008-10-03 01:02:17 | 本・映画など

紫苑が植えられているところをimagesimagesimages今まで見たことがないです。空き地で勝手に咲いているというイメージでしたが、これはわざわざ畑に植えてありました。あまりにたくさん見事に咲いていましたので、思わず何枚も撮ってしまいました。


「チェロを弾く少女アニタ」アニタ・ラスカー・ウォルフィッシュ 原書房 2003年はアウシュビッツを生き抜いた少女の記憶です。


「はじめに」でアニタは、『未だに私を震え上がらせることがある。もっともひどいのは、「あのホロコーストは単なる誇張である」、さらには「まったくのでっちあげである」と主張する、自称、ばかでも無教養でもないと言う人たちが今日でも存在すると言うことである。それにくわえ、「生存者達は、ホロコーストについて語ろうとしない」と主張する人もいる。いや、そうではない。「誰もわれわれに、ホロコーストについて聞かなかったのである。』と書いています。


3人姉妹の末っ子でチェロ奏者であったアニタは、強制収容所のアウシュビッツのオーケストラでチェロを弾くことでガス室行きを免れ次女レナータと助け合い、生き残ります。
彼女の両親をはじめ、たくさんの人が収容所で亡くなりますが、アルマ・ロぜーもその一人です。


アルマは、グスタフ・マーラーの妹の娘で収容所のオケの指揮者を任されていました。ユダヤ人でありながら、演奏と威厳ある態度でドイツ人にも尊敬を持って接せられ、たくさんの囚人をメンバーにすることによって救います。アニタとレナータもアルマによってすくわれました。そしてオーケストラの演奏を厳しく訓練し引き上げることによって精神的にも同胞を支えました。


アニタはこう書いています。
「私たちの周辺で起きている収容所の煙を吐く火葬場や悲惨な生活を忘れさせ、この生活をさらにー音楽で言えばー半音あげることに成功したのである。 もしかすると、これは彼女自身にとっても理性を失わない唯一の方法であったのかもしれない。彼女は私達が演奏する曲を少しでも完全なものにしようという彼女の狂気の虜に引き入れ、そしてそれは私達も理性を失わないようにするために役立った。私たちはアルマに少なからぬ恩義があると信じているし、特に生きのびた人たちはアルマのおかげで生きのびられたと感謝している。」

なぜ音楽をするのか?

ということはわたしにとっては哲学的な命題です。ゆったりと余裕のある甘い生活の中では、大切なこととそうでないことの境界がいつも曖昧になってしまいがちです。
有限の時と場所の中に生きている自覚もまた曖昧になってしまいます。私が、いつも、この歴史の暗い暗い闇を振り返るのは、曖昧になっていることをわが身に置き換えて、自分にとっての大切なことを、普段の生活の中でも、究極の生活の中でも、明確化させ、常に選び続けることができるような力を得るためです。


フィンチの嘴

2008-10-02 02:04:37 | 本・映画など

ダーウィンはガラパゴス島のフィンチの嘴が、同じ種類の鳥にもかかわらず、大きさや形が島によって全く違うことことに気がつきました。

ジョナサン・ワイナーと言う人が2001年出版した「フィンチの嘴」(早川文庫)では、20年に渡って、フィンチの嘴を観察し、鳥の数を数え、餌の実を数えつづけたグラント夫妻の記録が、書かれています。

その本によると、ある年は天候により、フィンチが好む実の皮が堅く、それを割るために大きな嘴のフィンチがたくさん生き残りました。大きな嘴で体が大きなフィンチしか生き残れないのではないかと言う勢いでしたが、翌年は、天候が悪く実が不作。小さな実が少ししか取れない。そうすると、今まで席巻していた大きな嘴のフィンチはその体を維持するのが難しく、小さな実を少しかじればいい小さな嘴の体の小さなフィンチが数を増やします。
そしてどの年も、どちらかの種類が0になることはないそうです。なっていれば、フィンチはとっくにある年の天候の変動によって絶滅していたそうです。

進化というのが、一つの理想系を目指して他の形を排除していくものだと思っていたら、全く違うと言うことがわかった一冊です。弱肉強食というのも。

バッハがいて、モーツアルトがいて、ヴェルディがいて、ドビュッシーがいて、武満がいて、他のたくさんの作曲家がいて、幸せ。
音楽の楽しみ方もいろいろ、人生における音楽の位置もいろいろ。でも、きっとどこかで出会える。


無限音階

2008-10-01 01:36:13 | Weblog

おとぎ話によくあります。飲んでも飲んでも水が減らない筒。塩を永遠に出し続ける石臼。食べても減らないパン。金貨がいくらでも出てくる財布。

昔、無限音階というのを聴いたことがあります。確かに中音のCの音から、CDEFGAHCDEFGAHCと上がっていったはずなのに、気がついたらまた同じ中音のCに戻っている。
実は、音の中に倍音をたくさん混ぜて作った機械の合成音で、すべての音が混ざっていて、上がっているように聴こえるのに上がらない。なんだか奇妙な感じでした。

おとぎ話では自分たちが飲めるだけ、食べるだけ、使えるだけのものを出し、隣人と分け合っているうちは、うまくいっているのに、強欲に身以上のものを求めたり、隠れてむさぼったりしていると、快楽を手にしたはずの主人公は塩と一緒に沈んだり、金貨に押しつぶされてしまいます。

すべての音を含んだ無限音階は可能性がたくさんあるはずなのに、それ以上、発展はしませんでした。

フルートは、欠陥の多い楽器です。音が出しにくい。音のたち上がりが悪い。ロングトーンを安定させるのにコントロールしにくい。音程を作るのが大変。音量が出ない。言い出せばきりがないです。
しかし有限のものの中に、追い求めても追い求めても届かない、深い世界が広がっています。

そして分かち合う時、人は無限のパワーを手に入れます。

利休が小さな茶室にわざと、小さな入り口をつけ、簡素な茶器やしつらえに無限の美を見出したように、口や手や足を使って、限りある体を最大限に鍛え、引き伸ばし、コントロールし、耳と、心で感じたことを分かち合う作業。それが、音楽。

また、変化の波がきそうですが、大丈夫。不安が不安を呼び、安心が安心を呼びます。心を落ち着かせることが肝心。
例え、沈み行くタイタニックにのっていようとも、人々と分かち合うことはできます。そうしていれば、エネルギーが尽きることはないと私は思います。