気ままに

大船での気ままな生活日誌

神奈川県花 山百合

2010-07-11 18:01:31 | Weblog
先日のニュースで、沖縄県花のデイゴの花が害虫の被害を受け、最近、花が咲かなくなってしまったと聞いて、悲しく思った。神奈川県の花は山百合だが、これも年々、減少しているという。ぼくも、気をつけてみているが、毎年、咲いていた場所に、山百合の花がなくなっているのをみるのは忍びない。これらは、たいてい道路沿いに自生しているものだが、環境の悪化によるものか、”盗掘”されたのかは知らない。ただ、植物園やお寺、個人宅の庭などに植えられているものは、毎年、観ることができる。

大船フラワーセンターの築山にも、大きな山百合がいくつかあり、毎年、開花期には、楽しみにしている。おまけに、ここには、山百合の変異系である、紅筋山百合もある。花弁に見事な、紅い筋が入るもので、10年に一度しか発見されない、幻の山百合といわれ、めったに観ることのできない貴重なものである。フラワーセンターは県の施設であり、それ故、県花である、山百合を大事に育てていて、毎年、我々を楽しませてくれるのだ。そろそろ、時期だなと思い、選挙をしたあと、出掛けてみた。株によって、早く咲いたり、遅くなったりするのは仕方ないので、いくつか見られれば十分と思っていた。

勘が当たった。山百合も紅筋山百合も、咲き誇っていた株があった。香りもすばらしく、清純な、あるいは艶やかな色香に酔いしれてしまった(汗)。ぼくの横に色香ただよう女性がいれば、もっといいんですが(大汗)。

清純な色香、山百合




艶やかな紅筋山百合。





十分、楽しむことができた。来年も、頑張って咲いてね
もう少しあとで咲く、箱根の山百合も、そのうち観にいきたいと思っている。
神奈川県花だもんね。観てあげなきゃ。
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画狂老人卍(北斎)の墓

2010-07-11 10:47:50 | Weblog

浅草のほうづき市で遊んでいるときに、ふっと頭に浮かんだことがあった。先日、太田美術館で北斎の”富嶽三十六景”展をみたときに、北斎のお墓が浅草にあることを知り、機会があったら是非、お参りしようと思ったのだ。お寺の名前とアドレスをメモをしてきたのだが、この日は持参していなかった。ああ残念と思って、スカイツリーを撮っていた吾妻橋から振り返ると、反対側に隅田観光案内所があるのに気付いた。そうだ、そこで聞けばわかるかもしれない。

そこの案内所の人は、すぐ、そのお寺は誓教寺であること、浅草通り沿いにあり、地下鉄の田原町と稲荷町の間にあると、地図までもたせてくれた。ここから歩いてもいいのだが、もう2万歩をはるかに超えていたので、自重して、田原町まで地下鉄で、そこから歩いた。東京はどこでもそうだけど、案内板がなく、簡単な地図だけでは、なかなか辿りつかない。地元の人でも意外としらない。それでもようやく辿り着いた。誓教寺は小さなお寺だった。

ちょうど、お寺の奥さんが買い物から帰ってきて、北斎のお墓ですか、この脇道を入って、屋根のついたお墓ですぐわかります、と教えてくださった。たしかに、教えてもらわなければ、わからないような墓所だった。

このわき道を入ると


北斎のお墓が


90歳で亡くなったときの雅号が刻まれていた ”画狂老人卍”


お参りして、境内に戻る途中の脇道に英文の北斎のお墓の案内板があった。さすがに、世界的な絵師だ。外国人も訪ねてくるのだろう。境内には、入ってきたときには気づかなかった北斎の像や記念碑があった。記念碑は生誕200年記念に建てられたもので、富士山がモチーフにつかわれていた。太田美術館では、生誕250年記念の展覧会だったから、50年前に建てられたものである。







浅草寺の4万6千日のご利益で、北斎のお墓にお参りできたのだろう。ありがとう、ほうづきちゃん。 
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浅草ほうづき市

2010-07-10 21:32:18 | Weblog


今日も楽しい一日だった。午前中、京橋のブリジストン美術館で”印象派は好きですか”と誘われ、はい好きですと、1時間半ほど遊び、そのあと地下鉄で浅草に向かった。もちろん、目的はほうづき市。昨日、今日と開かれている。それに今日、浅草寺にお参りすると、そのご利益は4万6千日(126年分)に相当するという大変、お得な縁日なのだ(笑)。

そのな欲にかられた御仁で、雷門の参道はひとひとひと、であふれていた。ぼくも、その一人だ(汗)。でも、本当のことをいうと、そんなご利益は1日もいらない、ただ、江戸時代から続く伝統風物詩をみてみたいからなのだ、とかっこいいことを言う(汗)。ぼくの朝散歩でよく訪ねる大長寺にもほうづきが植えてあるが、花はほとんど終わり、青い(緑の)ほうづきの袋をつけている。しかし、まだ、赤い袋はまだない。

ここのほうづき市の鉢植えのも、だいたいは、赤いのをいくつかつけ、あとは青いほうづき、それにまだ実にならない、白い花をいくつかつけているという程度のものである。真っ赤な大きなほうづきが、枝にたわわについているのは、本物ではなく、お飾り用のつくりものである。そういうお店が浅草寺の境内に何十とお店を出していて、なかなか壮観である。




浴衣姿のお姉さんたちも、よくみかけた。やっぱり日本女性は着物姿がよく似合う。花火大会、お祭りなどで、最近増えてきたようだ。とてもいいことだ。こう言う自分は、和服で外を歩いたことがないし、ワイフもお茶のときに、たまに着るくらいだ(汗)。日本画美術館などで、和服のお客には割引することもある。着つけがめんどうかもしれないが、江戸時代はみなやっていたのだから、がんばってほしい(笑)。一方、へそだしルックもとてもいいけど。



この人の波を逃す手はない、と各党の宣伝カーが勢揃いしていた。人気者の蓮舫さんが5時からここで演説するらしい。選挙戦もいよいよ最終盤に入り、候補者は、126年分といわないまでも、6年間のご利益をいただきたいところだろう。


吾妻橋からみえる、スカイツリーは、また背を伸ばしていた。

。。。。。。。

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浄妙寺の花と猫

2010-07-10 09:04:29 | Weblog
二階堂での平家物語受講の前、近くの浄妙寺に寄った。二週間前にも寄っているが、あの花はどうなっているか、あのニャンコはまた居眠りしているか気になって、また山門をくぐった。

山門をくぐるとすぐの処で、ハンゲショウが真っ盛りだった。2週間前とはえらい違いだった。半夏生は、暦の上で夏至から11日目の頃をいう。もう1週間ほどすぎているが、植物のはんげしょう(半夏生or半化粧)はちょうど見頃を迎えていた。

一方、あのとき見頃だった白紫陽花アナベルは、あの純白なうつくしい花が、わずかに残るだけとなっていた。しかし、老いてもなおうつくしかった。花は純白からうす緑に変わっているが、まるで、ドライフラワーのような永遠のうつくしさだった。うつくしく老いるとはこういうことをいうのだろう。岸恵子さんのようだ。

普通の紫陽花はまだまだ老いてはいなかった。老いてますます盛んだった。最近まででんぐりがえしを続けていた森光子さんのようだった。

夏の花が咲き始めた。カンナおとはまた、いらカンに戻っているそうだ。またお遍路廻りかと言っている人もいる。明日、わかる。政治オンチだけど、選挙速報は大好き

桔梗の花は清々しい。

おばさんの背負う花はあつくるしかった。


雨が降っていたので、にゃんこは見つからなかった。どこかで雨宿りしているのだろう、と諦めて帰るときに、あっとおどろくためごろう(若い人には通じないだろう)、だった。
な、ななんと。受付台の上で雨宿りしていた。
でも会えてよかったにゃー。来たかいがあったぜよ。居眠りしていないおまえ、はじめてみたぜよ。


在りし日のおまえ。

。。。

ゲゲゲの女房、いよいよ運が向いてきましたね。
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7月10日の朝

2010-07-10 07:52:59 | Weblog
7月10日の朝日

7月10日の西の空 東の空に負けないくらいきれいだった

7月10日の朝散歩 マンションの中庭も朝日に輝いていた
 
だれも通らない道をあるいた。人のゆく裏に道あり花の山だった。ヒメジオン

朝はやいので、まだみんな、ねぼけていた。ねぼけ顔も可愛いかった

にゃんこは起きていた 車のボンネットの上でからだをきれいにしていた、おしゃれのにゃんこだった

こちらのにゃんこもおしゃれでリボンまでつけていた

きんぎょそうがおいしそうに咲いていた。にゃんこに気をつけて。

7月10日の次の日は選挙の日だった、忘れていた。大相撲を中日からでも中継するようにNHKに圧力をかけますという人がいたら、その人に投票します。大相撲を公益法人からはずし、相打ちでNHKを公共放送からはずすという公約でもいいです小鳩みたいだな。



結局は、一番の美人に投票することになるだろう
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北斎とその時代 晩年の境地”、”富嶽三十六景”

2010-07-09 18:32:55 | Weblog

昨日、パソコンに向かっていたら、突然、ワイフから、”北斎とその時代”展のことをやってるわよ、との声。ええっ、ぼくはすぐテレビの前に座る。その日、その展覧会を観にゆく予定していたのだから、まるで、ぼくのために放送してくれたようなものだ(笑)。教育テレビかと思ったら、少し前までみていたワイドショーで、ぼく好みの(汗)、いつもの女性キャスターが美術館で学芸員の説明を受けているではないか。

そうなんです。ぼくも、まだ、到達していない年齢からはじめているのだ。すごいことだ。それも平均寿命50歳の江戸時代に。今でいえば80歳は越えているだろう。そして北斎自身、こうも言っている。

な、ななんと。ということは、”富嶽三十六景”は北斎自身、大変な自信作と思っているに違いない。ぼくは、中学生の頃から何故か、北斎が大好きだけど、その頃から今まで、やはり、この”富嶽三十六景”が一番である。ということは、ぼく自身も審美眼があるということに違いない。

北斎は、前進、前進、また前進で留まる事を知らない天才なのだ。90歳で亡くなるが、あと5年生かしてもらえれば、”真正の画工となるべし”、という言葉まで残している。

満足ということを知らない天才は、平気で雅号を変えた。脱皮を繰り返し成長する昆虫のようだ。だから、”富嶽三十六景”を描いた時の雅号は北斎ではなく、為一だった。版元は、すでに有名になっていた北斎の署名を入れ、”北斎改為一”としている。最後は画狂老人卍(まんじ)と号した。


このテレビのせいではないだろうが、太田美術館はいつになく賑わっていた。本当は、36景ではなく、売れ行きが良かったために、さらに追加して、46景になった。36枚を表富士、追加の10枚を裏富士という。富士山の輪郭線の色も前者は藍色なのに対し、後者は黒色にしている。実際、展示数を数えてみたが(汗)、1,2階で、ひとつ多い47図あった。ただ、あの有名な”山下白雨”が、松林を加えたものも含まれていたので、正確には46景だ。それらが一堂に会するのだから、さすが浮世絵美術館の最高峰といわれるだけのことはある。

うれしくて、うれしくて、1,2階、ふたまわりしてしまった。初見のものもいくつもある。こういう機会はめったにないことだし、とても幸せな気分だった。北斎の影響を受けた画家たちの作品もあったが、今回はチラリとみる程度にした。広重の富士山とかもあったし、北斎の娘さんの美人画もあった。ただ北斎も親ばかちゃんりんで、”美人画はおれより上手だ”とほめていたのが微笑ましかった。

”富嶽三十六景”は、富士そのものの美しさ(”赤富士”や山下白雨等)ももちろんだが、画面に現れる人物、一人ひとりのこまやかな動きや表情がなんともいえずいい。それより、なにより構図の美しさ、奇抜さは、北斎ならではのものだ。ゴッホら西洋の画家たちに影響を与えたというのだから、すごすぎる才能と、いうところだろう。

ぼくは、いつも、重たいものをもつのが嫌いな質なので展覧会図録は買わない。でも、今回は、図録は買わなかったが、ちょっと重いけど”富嶽三十六景”だけを収録したものを買った。図録よりずっと色がきれいだし、それぞれに説明文もついている。



北斎フアンは必見です。以下、ぼくの買った画集からいくつか。神奈川県下のものを中心におみせします。ほかの都府県の方は直接、太田美術館でお買いください。1800円ぐらいだったと思います。

相州七里ガ浜

相州江の島



相州箱根湖水(芦ノ湖です)

東海道程ヶ谷(保土ヶ谷)


あとはおまけ。

常州牛堀(ぼくは茨城県人であったこともあるので、霞ヶ浦の牛堀町からの富士)

諸人登山(めずらしい富士登山風景。静岡県の人にもおまけ。あれ山頂は山梨かな?

甲州三坂水面(河口湖に移る富士の位置と季節がへん(湖水では雪富士)、ぼくのブログに訪ねてくださる変人におまけ。


さあ、今日も画集をみながら、いっぱい飲もう。
。。。

そうだ、忘れてた、ぼくは江戸っ子(三鷹だけど)でもあったんだ。これも入れなきゃね。

江戸日本橋

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モーツァルト通り

2010-07-08 19:20:30 | Weblog
今日はサイコウの一日だった。原宿の太田美術館で、北斎の富嶽三十六景を観てきたし、そのあと、国立新美術館で”オルセー美術館展”もみた。どちらもすばらしく、いつ死んでもいいと思った(爆)。それぞれの感想文はのちほどとして、原宿界隈のことについて綴ってみたい。

むかし、この辺りは隠田といって、富嶽三十六景にも、”隠田の水車”として描かれている。今でこそ、表参道といえば、我が国きっての賑やかな通りだが、江戸時代ではこんな農村風景だった。ぼくは”隠田”という地名がどこかに残っていないか、美術館の周囲を探してみた。あっと思った、ある寮の名前が”隠田寮”にみえたが、”穏田寮”だった。残念無念。
家に帰ってから、ネットで調べたら、近くに、隠田神社という小さな神社があるらしい。9月にお神輿がでるらしい。ぜひ行ってみよう(汗)。



”隠田”はみつからなかったが、”モーツァルト通り”という名の路地をみつけた。

何か、モーツァルトに関係のある施設があるのだろうか。モーツァルトばかりを聞かせる音楽喫茶がいくつもあるとか、小林秀雄が名作”モーツァルト”を書きあげて、うちあげ会で、大酒を飲んだあと、編集者と大げんかをした伝説の料亭があるとか(爆)、吉田秀和が、モーツァルト論を書いているときに、小林秀雄が、てめえ、つまらねえもの書くんじゃねーよ、(やくざみたいな言葉使いだけど江戸っ子では標準語なんですよ、ぼくも郊外江戸っ子だったけど子供時代は、いつもこんなふうに話してた)怒鳴りこんだ旅館があるとか(爆爆)、はたまた、モーツァルト衣装のファッション・ブティックがあるとか、何かみつかるだろうときょろきょろして歩いた。しかし、何もみつからなかった。しいていえば、この噴水が、モーツァルトの生まれたザルツブルグの雰囲気を1%くらい表しているくらいだった。

何か理由があるはずなのに、そのうち、わかるだろう、と思って先をみたら、インド料理店があった。お昼はここにしようと、入った。当たりだった。安くておいしい、インドカレーだった。850円で、カレーとサラダと大きなナーン、それにアイスコーヒー。加えて生ビール(これは別料金です;汗)。写真の中生は半分くらいすでに飲んでいます(大汗)。

帰りにインドの女神さまがにっこり。また来ますね。インドの仏像さん大好き。

竹下通りは相変わらずの混雑だった。北斎さんが、天上から降りてきて、この風景をみたらどう思うだろうか。


千代田線に乗り、次の目的地、乃木坂駅に向かった。
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大町 八雲神社 お祭り近し

2010-07-08 09:49:17 | Weblog


大町を歩いていたら、こんなポスターをみつけた。大町の八雲神社で近くお祭りがあるらしい。近くまで来ていたので、早速、訪ねた。お祭りの準備が進んでいて、神社は見違えるような別嬪さんになっていた。

疫病が流行した際、源義家の弟、新羅三郎義光が京都の祇園社から祭神を勧請したという、鎌倉でも一番古い神社だ。明治のあほ神仏分離令までは、祇園天王社・祇園社といっていた。本家の京都の祇園社(八坂神社)には来週行きます。うふふのふ。

ほら、すっかりきれいになって。



祭りの準備も。神輿も4基、神輿蔵で待ちどうしいと。

山車と晴れ舞台も。


新羅三郎の手玉石。おっぱいみたいだな。乳離れの遅い子が触ると、効果があるそうです。うそどす。ご主人を手玉にとりたい、たれぱいのご婦人にも効果はありません(爆)。

東京五輪の聖火台もつくった名工が制作した天水盤だそうです。

猿田彦神さまも、お祭りを楽しみに待っています。ぼくも京都の祇園祭を楽しみに待っています(汗)。

時計草にきいたら、今のところ土曜日に予定が入っていないというので、お神輿みてくるかな(汗)。それとも11日の富くじの日にするかな。でも賭博罪じゃないかと、あほマスコミに騒がれるからやめておこう(爆)。


これから北斎の富嶽三十六景がすべて展示されているという太田美術館に行ってきます。
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ぶらり大磯 安田靫彦と河田小龍

2010-07-07 18:52:05 | Weblog
ぼくは、大磯も好きな町でよくハイカイする。ハイカイしたあと図書館でゆっくりするのが常だが、ここの図書館は小さいながらも、貴重本が結構あり、また落ち着いた静かな雰囲気が好きである。二階には、大磯に住んでいた吉田茂や大岡昇平等の蔵書の一部が図書館に寄贈されている文庫がある。人の本棚をみせてもらうのは、楽しいことだが、先日も吉田茂文庫を観ていて、意外な本をみつけた。

この本だ。”画人河田小龍”(うっかりして著者名をメモするのを忘れていた)。”龍馬伝”を観ている方なら、1,2回、出てきているので知っておられるかと思う。”のう坂本さん、西洋に対抗する第一は、まず産業、商業を盛んにせねばならぬ。それにはまず物の運搬が大事であり、あの黒船が必要じゃ”と千葉道場での修業を終え、土佐に帰ってきた龍馬に諭した絵師だ。ジョン万次郎の話も聞き、薩摩藩の先進工業技術も見学してきている。龍馬の、のちの海援隊の素地は河田小龍によってつくられたのだ。


吉田文庫に何故?と思った。吉田は土佐出身だから、河田小龍とは同郷である。しかし、たぶん当時無名だった河田小龍、それも画人である。著者から贈呈されたのだろうか。本は読んでいないので、内容はわからないが、きっとジョン万次郎や龍馬も出てきていて、郷里の先輩に敬意を表し、その後も蔵書としていたのだろう。因みに龍馬の伝記本、坂崎紫瀾著”汗血千里駒”(龍馬についての最初の伝記;これの現代訳のを最近買って読んだ;汗)は、みつからなかった。司馬遼太郎の”竜馬がゆく”はまだ出版されていない時期なので、もちろんない(笑)。今度、図書館を訪ねたとき、”河田小龍”を読み、何が書かれているのか知りたいと思う。

ついでながら、大岡昇平は、鎌倉・雪の下の小林秀雄宅の離れに住んだこともある。そのとき、小林がハイゼンベルクと不確定原理について考えていたことに驚いている。ぼくもハイゼンベルクの自伝的エッセイ”部分と全体”を今ももっていて、若い時読んだことはあるが、量子力学まで考えたことはなかった。先日、小林秀雄と数学者、岡潔との対話”人間の建設”を読み返していたが、小林秀雄の物理学や数学の知識に改めて驚かされた。

画人といえば、大磯には、歴史画の大家、安田靫彦が住んでいた。彼の関係のものを図書館で探したが、今のところ見つかっていない。絵画のひとつもあるかと思ったが、館内に飾ってあるのは、日本画もあったが安田○○で、違う人だった(関係者だろうか)。

墓所は、図書館の近くの大運寺にある。

安田靫彦のお墓。


今年観た、安田靫彦の名作二点。
 ”王昭君”(足立美術館)と”草薙の剣”(川崎市民ミュージアム)


この日、島崎藤村御夫妻のお墓、虎御前と大磯宿の遊女のお墓もお参りした。わりと涼しい風のふいていた日だった。
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八幡さまの七夕

2010-07-07 09:32:10 | Weblog
今日、7月7日は七夕。平塚の七夕祭りはもう終わってしまったけれど、鎌倉の八幡さまは七夕のお飾りで今日を迎えている。昨日訪ねた、七夕前日の八幡さまの風景をお届けします。

第三鳥居前の竹飾りと吹き流し 中学生も大喜び


舞殿にも。この日は結婚式はなかった。今日はあるかもしれない。七夕結婚式なんて最高だな。

これは、直接七夕には関係ないけど、小学生の寄せ書き大絵馬。”がんばれ大イチョウ”。おかげで、一層、イチョウの緑が増えてきました。

本殿前で記念撮影する外国人のグループ。

本殿では、大きな竹飾り。

折り紙でできていた。お花のほかに折り鶴も。

七夕のお祝いに源氏の白鳩も、いざ鎌倉と、駆けつけてきた。

平家の(紅いので)蓮の花もお祝いに、咲き始めていた。敦盛のようにうつくしかった。恨みは消えたようだ。

ミツバチの巣はどうなったか、観てきた。まだミツバチは飛び交っていたが、以前よりずっとすくなかった。蝋のようなもので、穴がふさがれていた。人がやったのか、ミツバチがつくる蜜ろう、みたいなものか、知らない。もう少し様子をみてみよう。大船のミツバチは元気です。そのうち、甘い蜜をなめさせてもらおうと思っています。

境内の国宝館で仏画を観て、帰った。


家に戻ったら、大相撲中継中止のニュースが入り、がっかりした。しばらく立ち直れない。
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