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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:勧修寺・廬山天台講寺」

2015-07-08 22:03:52 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:勧修寺・廬山天台講寺」

今日は紫式部所縁の勧修寺 平安時代醍醐天皇が母の菩提を弔うために建てたお寺。自身を模して作らせた千手観音が本尊。 

 

廬山天台講寺は紫式部の住まいだった。蘆山寺には明智光秀の意外な一面を伝えるものが? 


毎週楽しみにしている番組。tweetにもあるとおり、今回は紫式部所縁の2つのお寺勧修寺と廬山寺。そして勧修寺内の佛光院を取り上げる。


まずは勧修寺から!

  山科区は交通の要所で、皇族や貴族の狩場として有名で、邸宅が立ち並んでいた。山科を愛した醍醐天皇はこの地に眠っている。醍醐天皇陵の近くにあるのが勧修寺。かじゅうじと読む。勧学修身から来ている。門跡寺院として栄える。宸殿は京都御所から移築された。 


勧修寺(Wikipedia)については全く知らなかった! 自分の知っているお寺を見るのもいいけど、知らないお寺を学ぶことができるのはウレシイ。醍醐天皇(Wikipedia)は、延喜の治(Wikipedia)と呼ばれる理想的な治世を行った名君と言われているのだそう。もちろん名前は知ってたけど、どうしても後醍醐天皇(Wikipedia)のイメージが強くなっちゃって 勧修寺の成り立ちとしては、冒頭のtweetどおり醍醐天皇が母の菩提を弔うために建てたことに始まる。この母のことについては後に出てくる! 


勧学修身については番組で語っていたけど書き取れず 調べてみたけど、良く分からない・・・ 筍子(Wikipedia)の教えによるものなのかな? 門跡(Wikipedia)寺院というのは、皇族や貴族が住職を務めるお寺のこと。宸殿があるのが特徴だけど、京都御所から移築されたのね それはスゴイ!


宸殿は寝殿造りとなっているが、内部は書院造。1672年に御所の一部を移築。本尊は千手観音。姿は醍醐天皇を等身大に写し取った。国造りを仏教に求めた。 


 

寝殿造(Wikipedia)と書院造(Wikipedia)についてザックリ言うと、平安貴族の邸宅様式が寝殿造で、室町時代に誕生した武家様式が書院造ということになるのかな? 御所から移築したので外側は寝殿造だけど、中は書院造になっているということなのでしょう。この1672年に移築というのは、宸殿のことなのか、本堂のことなのか聞き逃してしまった。本堂のことなのじゃないかと思う。



平安時代の天皇は仏教を国造りに利用しようと考えていたようで、醍醐天皇も同様だったらしい。平安時代は観音菩薩信仰が盛んだったようだけれど、特に千手観音がその対象だったのかな? 千手観音を作らせるにあたり、自身の等身大で作らせたというのは興味深い。残念ながら、現在の本尊は室町時代に再建されたもなのだそう

 

本尊の脇に空海像。醍醐天皇が"弘法大師"の称号を与えた。 


空海(Wikipedia)と醍醐天皇の関係については、弘法大師の称号を与えた以外に何か言ってたかな? ちょっとよく分からないけど、弘法大師と名付けたのは醍醐天皇だったのは知らなかった(/ω\)

 

書院も京都御所から移築されたもの。土佐光起・光成親子の近江八景図の障壁画。上段の間の違い棚は天皇が冠を置いたと言われている。この棚を勧修寺棚と呼ぶ。


土佐派を代表する絵師 土佐光起(Wikipedia)・光成(Wikipedia)親子の合作。かなりの大作! 残念ながらメモtweetするのに手一杯で、あまり見ることが出来なかった よく考えると本末転倒(笑) 勧修寺棚というのは、真ん中だけ一段高くなっている違い棚。その一番高い棚に、天皇が冠を置いたと言われいてるとのこと。

 

枯山水の庭は小堀遠州作と呼ばれている。5つの石組を蓬莱島に見立てている。水戸光圀が寄進した灯篭は、光圀本人がデザイン。勧修寺型灯篭と呼ばれている。池泉回遊式庭園。平安時代の遺構。この池で張った氷が宮中に収められ、その年が豊作か占われた。氷が厚いと寒いので豊作。 



枯山水の庭は小堀遠州作(Wikipedia)なら安土桃山から江戸時代ってことだね? 水戸光圀(Wikipedia)が勧修寺型灯篭を寄進したなら江戸時代なのでしょう。これ面白い形。蓬莱島という島は岩手県にあるようだけれど、ここで言う蓬莱島(Wikipedia)は仙人が住むと言われている蓬莱のことでしょうね。


池泉回遊式庭園の池の氷で占ったのは"五穀豊穣"! この言葉が出てこなくてtweetでは変な感じになっちゃった まぁ、意味は通じるからいいか(笑)

 

 勧修寺は今よりも広大な寺であったが、豊臣秀吉が移築を、当時の住職である法親王がこれを拒否。怒った秀吉が池を埋めるなど報復行動を行い、寺は荒れてしまった。江戸時代に入りさいじん法親王が住職となったことにより再建 

 

前述したとおり門跡寺院だったため、住職は法親王。豊臣秀吉相手とはいえ親王だからねぇ・・・ まぁ、当時は天皇といえども武士の顔色をうかがうというような部分はあったであろうから、なかなか勇気ある行動だったと思うけれど、それにしても秀吉は酷いなぁ 秀吉ってわりと残虐なことしたりしてるんだよね。あまり好きな武将ではない 

さいじん法親王を検索してみたけど、出てこないので聞き違えしているのかも? 文字も表示されたりしているのだけど、何しろ昔の人の名前って漢字が難しくて直ぐに出てこないんだよね

 

しかし、明治政府の廃仏毀釈により、当時の住職であった法親王(名前が聞き取れない!)は還俗され、山科宮家を設立。勧修寺は寺ではなくなってしまった。しかし、僅か2歳で還俗した法親王は勧修寺を愛し、後の復興に尽力した。 


これも寺の悲しい歴史としてtweetしておいたのだけど、法親王のお名前が聞き取れず 前述のさいじん法親王は、天皇の第一皇子だったのだけど、陰陽道(?)か何かで即位すると良くないことが起きるとされ、天皇になることができなかったそうだし、この法親王は2歳で政府の都合で還俗させられたりと、なかなか大変だったのね

 

 「今昔物語」藤原高藤は鷹狩道に迷い一軒の家に泊まる。その家があったのが勧修寺。その家の娘列子と結ばれる、鷹狩を禁じられた高藤が再び列子を訪ねたのは6年後、娘いん子が産まれていた。このいん子が後に醍醐天皇の母となる。高藤と列子の子孫が紫式部。 


で、やっと紫式部につながる! 「今昔物語」(Wikipedia)にも記載されている勧修寺にまつわる恋物語。醍醐天皇にもつながるので、当然ながら全員実在の人物。藤原高藤(Wikipedia)は太政大臣にまでなった人なのね! まぁ、天皇の外祖父になるのだから出世して当然か。いん子というのは藤原胤子(Wikipedia)のことで、この方、ネコ好きでおなじみ宇多天皇(Wikipedia)の女御様だったのね? 宇多天皇のネコ好きについては(【平安時代の】宇多天皇が猫好きすぎてヤバイ【猫ブログ】|NAVERまとめ)を是非読んで欲しい! ネコ好きとしてはニヤリ


藤原高藤と宮道列子の子孫が紫式部(Wikipedia)とのことなのだけど、その辺りがザックリしていてよく分からない でも、あの当時子供も生まれてしまって6年も男が再訪するのを待ったというのもスゴイ話。まぁ、あの当時だから他にどうしようもなかったというのもあるのかも?


ここから廬山天台講寺

豊臣秀吉により移設されたのが蘆山寺。その600年前は紫式部の邸宅であった。式部はこの邸宅で源氏物語の大部分を執筆したと言われている。寺には江戸時代に描かれた源氏物語の襖絵がある。物語に描かれているのは式部が実際に見て経験したこと。


この豊臣秀吉により移設の詳細を聞き逃してしまった この蘆山寺(天台圓淨宗 大本山 廬山寺)の敷地内に、紫式部の邸宅があり「源氏物語」(Wikipedia)を執筆したと言われているのだそう! てっきり宮中で書いていたのかと思ったら、なんと自分の邸宅があって、そこで書いていたのね 番組では物語に書かれているのは実際に体験したことと言っていたけど、須磨に行ったりしたのかな? 全部ってことはないような?(o゜ェ゜o)



ちなみに上は、前述した土佐光起筆による「源氏物語画帖」の"若紫" 光源氏がまだ幼い紫の上を見初めるシーン(ノ∀\*)キャ

 

源氏庭。白砂と紫の桔梗が美しい。本堂は1794年に京都御所の一部を移築したもの。本尊は阿弥陀如来。亡くなった人を極楽に導く仏。平安時代の作? 大仏師定朝の様式で作られている。円密戒浄の教え。信長の南都焼討の際、明智光秀に焼討の命が下ったが、正親町天皇により難を逃れた。



こちらも本堂は京都御所の一部を移築したのか・・・ それだけ京都御所を立て直したってことなのかな? 定朝(Wikipedia)様式の阿弥陀如来(Wikipedia)は仏像好きとしては気になるところ。円密戒浄で検索すると蘆山寺関連記事が出てくるのだけど、要するに円、密、戒、浄の四宗兼学道場となったということらしいのだけど、この四宗兼学道場がイマヒトツ分からない


冒頭tweetの明智光秀(Wikipedia)の意外な一面というのは、この南都焼討の命を受けた際に、蘆山寺を焼くことになったのだけど、正親町天皇(Wikipedia)の書かれた手紙を受け取り、これに打たれた光秀が織田信長(Wikipedia)に掛け合い、蘆山寺は難を逃れたということらしい。いい話なのだけど、何故正親町天皇が蘆山寺を守ったのかは聞き逃してしまった

 

明智光秀の念持仏が収められている。元三大師像は秘仏であるため、お前立の鬼大師坐像を拝することになる。元三大使は酒宴で騒ぐ女官を戒めるため、鬼の姿になったと言われている。三毒(貪欲、愚痴、しんい)を節分の日に追い払う行う節分の祖。 


明智光秀の念持仏と、元三大師像は関係なし(笑) 元三大師(Wikipedia)っておみくじを作った人だよね? 鬼の姿になったという言い伝えは知っていたけど、そんな理由だったのか(笑)  三毒(Wikipedia)の"しんい"は瞋恚と書く。こう書くとちょっと難しいけど、むさぼり、おろかさ、いかりとなるそうで、ここでいう愚痴というのは、おろかさということになるのね? 要するに心の毒という意味で、本来節分(Wikipedia)はこの毒を追い出すことだったのね

 

ここから勧修寺 佛光院

大石順教。17歳の時養父が起こした事件により両腕を失う。名取となる踊りの腕前だったが、両腕を失ったことにより長唄を歌って生計を立てていたが、ある時鳥がさえずるのを聴き口に筆を加え文字を習う。書画を習う。日本画家と結婚したが、夫に尽くせない自分に悩み離婚。高野山で得度。


 

勧修寺の一部を借り、障害のある人々を救うために力を尽くした。毎月21日に順教の残した書画を見ることが出来る。「人から手足を借りられても、心は人から借りることはできない。心は一番大切なもの」と語った。勧修寺で大切な教え"眼施" 笑顔を施せ! 争い事は笑顔を失った時に起きる。

 

大石順教(Wikipedia) は勧修寺 佛光院で障害のある人々を救うために尽力した方なのだそう。この方のことは全く知らなかった。写真も紹介されていたけれど、切れ長の目の美しい人だった。幼い頃から踊りの才能を発揮し、名取となっていたそうだけれど、17歳の時に養父が起こした堀江六人斬り事件(Wikipedia)で、母親と兄弟を亡くし、自身も両腕を失う大怪我を負ったのだそう。

 

tweetでは鳥がさえずると書いてしまったけれど、本当はカナリヤがくちばしで雛に餌をやるのを見て、自分には口があるじゃないか!と思い、口に筆を加えて文字を覚え、絵を習い、多くの書画を残した。その後、日本画家と結婚したが、夫が重い病気にかかった際に、体をさすってやれない無力さを憂い離婚した。と、番組では紹介されているけど、Wikipediaによると夫の不倫による協議離婚なのね まぁ、いづれにしても出家後、障害者のために自在会を設立し、障害者の自立を助けたことは事実なわけで、それはこの壮絶な人生に心閉ざすことなく、美しい心を持ち続けた故だものね 

 

仏教の教えというと、とても難しく壮大なことを思いがちだけれど、眼施=笑顔を施すというのは誰にでも出来ること! ついついイライラしがちだけど、なるべく笑顔でいるよう心がけよう! 頑張る

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

古都浪漫こころ寺巡り|BSフジ

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