毎度のGoogleのロゴがこんなんことに!
ヴィクトル・ユーゴーを祝福!
え なんで
なぜ今日祝福するのかは謎だけれど、とりあえずWikipediaから引用!
ヴィクトル=マリー・ユーゴー
(仏: Victor, Marie Hugo、1802年2月26日 - 1885年5月22日)は
1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。
日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、
ここでは「ユーゴー」を採用する。
とのことで・・・
共和派でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴーと
ソフィー=フランソワーズ・トレビュシェの三男として、
ユーゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。
母親はナントの資産家の娘である。
本名はヴィクトル=マリー・ユーゴー。
生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと
根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、
それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。
この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、
マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。
17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、
自ら詩の雑誌も発行した。
1821年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会で結婚し、
ル・シェルシュ・ミディ通りに居を構えるに至る。
1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。
1832年10月8日、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、
ロワイヤル広場(現在のヴォージュ広場)にある赤いレンガ造りの豪華な邸宅に引っ越す。
この頃になると、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、
彼は寂しさに胸を詰まらせていた。
8月の終わりにはサント・ブーヴとの交際を絶った。
え~ 妻酷い・・(ll゚∀゚)
と思ったら・・・
彼は『リュクレス・ボルジャ』(ルクレツィア・ボルジア)に出演していた
女優ジュリエット・ドルエの愛人になる。
この日付は『レ・ミゼラブル』の中で、マリユスとコゼットが結婚する日付でもある。
あらまぁ
もうすぐ38歳になる1840年1月、文芸家協会長となり、少しは光明が見えてきたかと思われた矢先、
同年2月20日、アカデミー・フランセーズ3度目の落選となる。
しかし、翌年1841年1月7日にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。
彼は亡くなるまで、第10代座席次14番を受け持つことになる。
1843年から1852年までの約10年間、作品を1冊も出版していない。
これにはレオポルディーヌの死はもちろん、
戯曲『城主』の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、
議員活動の忙しさもあったと思われるが、もうひとつ大きな理由があった。
それが、のちにフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる
『レ・ミゼラブル(邦題:あゝ無情)』(当時の題名は『レ・ミゼール』)の執筆である。
執筆は1845年11月17日から始まった。
この作品を書くきっかけになった大きな理由には諸説あって、
当時新聞に載っていた小説が彼の心を強く惹きつけたとも、
少年時代に見てしまったギロチンの光景が彼を人道主義者にし、この作品を書かせたとも言われている。
と、大好きなミュージカル「レ・ミゼラブル」の原作ということで、
関連部分を中心に抜粋したけれど、さすが文豪資料も膨大💦
その他の政治活動、亡命記なども気になるけれど割愛!
気になった部分を抜粋して終わりにする┏○ペコ
日本の自由党総理・板垣退助が、1882年から1883年にかけてのフランス、
イギリス・オランダ視察の際、ヴィクトル・ユーゴー、
クレマンソーらと交流したとする記録がある。
へ~! ビックリ😲
1885年5月22日、パリにて死去。享年83。国葬でもって葬られ文豪としてパンテオンへと埋葬された。
とのこと
このロゴ5枚のスライドになっていて・・・
>をクリックすると、次のスライドに展開
「ノートルダムの鐘」
「静観詩集」
「レ・ミゼラブル」
これは何だろう? カッコイイ
検索画面のロゴはこんな感じ
Joyeux anniversaire !