【tv】100分de名著「松本清張SP 砂の器」
1回25分×4回で1つの作品を読み解く番組。3月は松本清張スペシャルということで、1回ずつ4作を読み解いていく。講師は原武史氏。第2回目は「砂の器」。今回も録画して鑑賞。備忘メモをTweetしておいたので、それに追記する形で記事を残しておく。
「砂の器」は読売新聞に連載されたのね? 清張自身は朝日新聞に勤めていたんだっけ? 文庫本2冊の長編だけど、1年間の連載だったのか。新聞連載ってあんまり読んだことないんだけど、途中で終わって続きは本買ってね的な感じなんだっけ? まぁいいけど😌
池田勇人(Wikipedia)内閣の政策についてはWikipediaを読んでいただくとして、1960年頃といえば高度成長期真っただ中という感じなのかしらね。経済については全く詳しくないけど、経済重視の政策を取れば、格差が広がるのは仕方がないのかなとは思う。その辺りについて清張は思うところがあったということなのでしょう。
「砂の器」は読んだし、野村芳太郎監督の映画も見ている。中居正広主演の連続ドラマは見ていないけど、ドラマ化されればたいてい見ている。連続ドラマ見るの苦手💦 冒頭って遺体が発見されるところからだっけ? 忘れてしまった💦
この伊集院光氏の発言はなるほどと思った。自分は東京近県に育ち、東京で働いているから、流行や文化、そして技術の進歩の中心にいるわけで、進化していくということは古いものを捨てていくことになる。そうすると、どこかで古いものを残しておきたくなる。それを地方にキープしておいてほしいという思いは、無自覚だけどあるんじゃないかと思う。そう思ってしまうのはエゴだったのだと感じた。
ヌーボーグループっていうグループ名は今の感覚からするとどうかと思うけど、当時は最先端の人たちだったということなのでしょう。何に対しても否定的で、小難しいことを言って斜に構えている感じ。モデルは石原慎太郎氏などだそうだけれど、太陽族(Wikipedia)と呼ばれる人々のことかな? あまりよく知らないのだけど・・・
最初の方のTweetにある通り、被害者が東北訛りで話していたこと、会話の中にカメダという地名と思われる言葉があったことから、今西刑事と西村刑事は東北の羽後亀田に向かってしまうわけだけど、これはミスリードであって、本来は島根県の亀嵩であることが分かる。この島根県の一部に東北訛りに似た訛りがあるということが分かる過程がなかなか面白かった気がする。
清張としては東北の格差を描きたいため、わざわざ東北に行かせたという部分もあるのでしょうが、小説の題材のためいろいろ調査していくうえで得たこういう知識をとても面白いと感じたのかなと思う。そして、それを小説に使おうと考えたのかなと。勝手な想像😌
この感じとっても良く分かる! 人の文章を読んでいるとこういうの感じる人いる。わざと難しく書いて自分を頭良く見せたいのかなとか。俺のセンスを感じろっていう感じの人いるいる! もちろん、それをキャッチしてカッコいいと思えばそれでいいわけなのだけど、自分はそういうのちょっと苦手😣
捜査の経緯とか忘れてしまったのだけど、要するに警察は和賀英良と関川重雄をマークしてたってことなのだけど、関川重雄の交際相手の設定が、当時の世相を表しているのではないかということ。当時、女給というのは風俗的な要素があったそうで、そのため関川重雄が女性の存在をひた隠しにしていたということらしい。
Tweetでは愛人恋人って書いちゃって迷いが感じられるけど、要するに関川の交際相手である三浦恵美子の暮らしぶりを描写することで、当時の東京の庶民の住宅事情を描きたかったのではないかということ。木賃アパートというのは民間家主によって経営される木造賃貸共同住宅のことだそうで、中野辺りに多かったとのこと。
前述したとおり、カメダと東北訛りでミスリードしているわけだけど、それらも事実に立脚しているということ。「点と線」の列車トリックが実際の時刻表通りだったように、リアリティを追及しているということなのかな。
ここは映画ではかなり泣ける場面だった。三木謙一は伊勢参りに出かけ、ふらりと立ち寄った映画館で一枚の写真を見かける。底には婚約者と映る和賀英良の姿が。三木謙一には和賀英良が本浦秀夫であることに気づく。三木謙一が亀嵩で巡査をしていた時、保護した親子連れ。父親の本浦千代吉はハンセン病を患っており、村にいられなくなり放浪の旅に出た。その際、何故かは不明だけれど幼い息子の秀夫を連れて出た。親子は物乞いをしながら旅をつづけたわけだけれど、とても辛い旅だった。親子は亀嵩に辿り着き、誠実な巡査である三木謙一と出会う。三木は当時の政策どおり本浦千代吉を療養所へ入れ、秀夫を保護したがしばらくすると彼は家を出て行ってしまう。
秀夫は後に夫婦で洋品店だったかな?を営む店の住み込み店員となるが、1945年3月14日の大阪大空襲で和賀夫婦は死亡。戸籍が燃えてしまったことを利用して、この夫婦の息子として戸籍を改竄しだんだったと思う。こうして和賀英良となった。現在の和賀の地位は、もともとの才能もさることながら、本人の努力によるものだから、彼としても苦労をしたのだと思うけれど、天才作曲家であること、大物政治家の娘婿となるために、封印した過去を暴かれては困るわけで、口封じのために三木謙一を殺したということ。
原作では本浦千代吉は既に亡くなっていて、2人の放浪部分についてもたしか数行で終わっているのだけど、野村芳太郎監督作品ではこの部分をドラマチックに描いており、さらに本浦千代吉がまだ生きている設定に変更。千代吉に今西刑事と西村刑事が和賀英良の写真を見せると、変形して固まった指の間に写真を挟み、その人物を確認すると激しく慟哭した後、「こんな人知らねー!」と叫ぶ。千代吉を演じる加藤嘉さんの演技が素晴らしくて泣いたー。・゚・(ノД`)・゚・。
ハンセン病(Wikipedia)はうつる病気だと誤解されていたため、明治政府は隔離政策を取った。その後、感染することはなく、治る病気であることが分かってからも隔離政策は続けられ、中には生殖能力を奪われたりと酷い目にあった方もいた。そういうことを知らしめたかったのではないかとのこと。とはいえ、実際に隔離政策が廃止されたのは1996年って22年前なのね。やり切れない。
たしか「砂の器」って遺族の意向で、ハンセン病を使えなくなっているんだよね? この遺族が松本清張の遺族なのか、ハンセン病患者の遺族の方々なのか不明なのだけど。ハンセン病患者の方々が不当に扱われたこと、人間の尊厳を奪われ苦しまれたことを思えば、蒸し返されたくないという気持ちは理解できる。でも、この作品はハンセン病がないとその力を発揮できないんだよね本当は。
ハンセン病が使えないために、殺人犯の息子であるとか、父親がえん罪で追われたとかいう設定にすることが多く、それはそれで十分切ない内容になりうるんだけど、この作品の本質は本浦千代吉が罪もないのに村を出なければならなかったこと、どこへ行っても差別を受け、人としての尊厳を奪われたこと、それが偏見であり、間違った政策によるものであるという部分にあるので。そういう意味で、ハンセン病の部分を膨らませた映画版について、清張自身が原作よりも良いと言っているんだよね。
まぁでも、難しい問題ではあるので、今後もハンセン病が使われることはないだろうし、仮に使われたとしても根底にある問題を理解していないと、何故本浦親子が放浪しなければならなかったのか伝わらないし、そこが理解できないと感動もできないと思う。
前回の「点と線」では官僚と政治家の汚職を描き、今作ではハンセン病に対する国の責任を描いた。今作が書かれた当時、まだ隔離政策は続いていたわけだから、要は告発しているってことだよね。これはスゴイ。きっとハンセン病患者の方々の中に、虐げられ続けた自分も重ねていたのだと思う。人は虐げられるべきものではない!という強い思い。だから清張作品には力があるし、読むとちょっと疲れちゃうんだね(o´ェ`o)ゞ
100分de名著:毎週月曜日 午後10:25~10:50
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