中日新聞の「志いまだ老いず」という連載物に「人生に定年なし 精進あるのみ」というタイトルで、川口高風(こうふう)(愛知学院大名誉教授)さんが投稿されていました。
鎌倉時代に福井県の永平寺を開いた道元も「志」を強調する。
弟子の懐奘(えじょう)が書き留めた『正法眼蔵随分記』巻一に
人々皆法を悟るべきなり。
ただ精進と懈怠(けたい)とによりて得道の遅速あり。
進怠の不同は、志の到ると到らざるとなり。
とあり、道元は、仏法は誰でも悟れるものである。
その人の素質が優れているとか劣っているとかによるものではない。
それにも拘らず、現実には悟るものあれば、悟れないものがある。
その違いは、その人の努力するかしないかによるのである。
さらに努力するかしないかの違いは、その人の志が切実であるかないかによるといっている。
道元は仏道において志をたてることの大切さを述べている。
それは老人であろうと若人であろうと同じである。
また、いずれの道でも同じことであろう。
志をたてることは大切であるが、生涯を通して志を守り、志を貫くことはもっと大事なことであろう。
人間の一生は、「生老病死」である、
仏教では「生老病死」を四苦といい、それと愛する人と別れる愛別離や、求めても得られない求不得(ぐふとく)などの四つを合わせて「四苦八苦」という。
難しい問題や容易にできないことに出合った時、思わず出てくる言葉でもある。
この中、老苦は一番厳しいと鎌倉時代の禅僧・無住国師は「雑談(ぞうたん)集」巻第四でいう。
それは、老は八苦の随一、何事につけても、昔にかはりて、見苦しく、障のみ多き中にも、人に厭(いと)ひ、憎まれ、笑われ侍り。
とある。
老いると、昔とは変わって見苦しく支障をきたすことが多い。
また、人に厭われ、憎まれ、笑われるという。
鎌倉時代でも現代でも、老人の姿は同じである。
しかし、肉体的衰えはもちろんであるが、それ以外に疎外されたことから生まれる孤独感がある。
これこそ老人が一番に感ずる人生晩年の苦といえるものであろう。
人生には定年がない。
生まれた途端に日付の書かれていない定期券を手にするようなものである。
そのため最期の時をいつ迎えてもいいように、日々を悔いなく生きぬいていきたい。
たった一度しかない人生を悔いなく生きることから、定年がないのである。
決して急ぐ必要はない。
各駅停車の旅を続ければよい。
特急電車に乗ったら見えない途中の風景も、各駅停車に乗ればじっくりと楽しめる。
時には歩みを止めてもいいであろう。
こつこつと一歩一歩と積み上げていくうちに力がついて人生がわかってくるのである。
百一歳で亡くなった禅僧の松原泰道は、「生涯現役、臨終定年」が座右銘の一つであった。
亡くなる直前まで、仏教をやさしく説かれる講演会に、全国各地を飛び回って話し続けた。
残された命も秒読み段階で、いつ消えるかわかりませんので早速お話に入ります」といって会場を爆笑させた。
私も栄中日文化センターでお会いし、お話ししたことがあった。
東京から一人で出講されており、まさに現役であった。
松原師のように亡くなる直前まで現役で学び続け、定年は臨終で終わりたいものである。
今日は残りの人生で一番若い日。
これから何年生きるかわからないが、志を持って今まで通り一日一日を一生懸命生きていこうと思っている。
そのうち気がつけば、八十歳、八十五歳の高齢者となっていることだろう。
今は、日々精進し後期高齢者一年生として新しい気持ちで前進し生きていきたい。
志はまだまだ老いずである。
以上です。
>今は、日々精進し後期高齢者一年生として新しい気持ちで前進し生きていきたい。
私は後期高齢者になって二年目ですが、川口高風先生のような志は持っていません。
時に流されて、のんびり生きられればいいと思っています。
>今日は残りの人生で一番若い日。
この言葉はよく聞きます。
いい言葉ですね。
何かを始める時、今が一番若いので早速今から始めた方がいいと思いますね。
何かを始めたいと今は思っていませんが、以前中途半端に終わったクロマチック・ハーモニカでも吹いてみようかな。
孫はマスターできなかったようですが、私は小学生の頃よく吹いていたので何とかなると思うのですが。笑い
*** End of The World - Skeeter Davis Live