東海道線の二川で下車する。ここも在来線と新幹線が並走するところで、新幹線の車両がまた風を切るような音を立てて高速で通過していく。
ここから二川宿の中心である本陣資料館までは1キロほどの距離である。駅からしばらく歩くと道幅が狭くなる。そこが旧街道の入口ということだろうか。両側には江戸時代とは言わないが明治、大正の風情を思わせる木造の格子造りの建物がまだまだ多く残されている。
古い建物、新しい家屋にかかわらず、「二川宿」という文字や紋の入ったのれんが掲げられている家を結構目にする。東海道五十三次の風情を残す宿場町の様子を後々に伝えようという地元の人たちの姿勢を感じる。
時折新幹線の空気を切る音が聞こえる中を歩くうち、道幅が狭い中であるがクルマの通行が結構多いのに気づく。それほど徐行するわけでなく、さも通り慣れた道のようである。国道のバイパスというのもちょっと違うような気がするが。
そんな中、周りの家屋を圧倒するかのような立派な木造建物に出会う。これが二川宿の本陣と旅籠である。これは宿場町の風情を多くの人に味わってもらおうということで復元されたものである。正面は柵で仕切られているので、中を見学するには本陣資料館に入ってということになる。
先ほどの新居関所の資料館は関所に関する展示がメインだったが、こちら本陣資料館は当時の旅全般に関することが紹介されている。この二川は元々二川村と大岩村という二つの村が一つの宿としての役割をなしていたのが、参勤交代の制度化で交通量が増加し、助郷などの役務を効率よく行うために、宿場町として集落を現在の地に集約したという経緯がある。
当時の宿場の一日を模型と映像で紹介するコーナーもある。今はひっそりとした風情であるが当時がどのようなものだったか、交通量としてはどうだったのか、タイムスリップでもしてのぞいてみたいものである。
特別展示で、「旅人、川を渡る」と題して、川を渡る手段であった橋、渡船、徒渡しの様子を浮世絵で紹介するのがあった。東海道にはいく筋もの大きな川があったが、幕府の施策もあり橋の建設は限定的なものであった。ただその少ない大きな橋に豊川にかかる橋があり、この橋が当時の吉田に代わって現在の豊橋の名の由来であるという。
弥次喜多道中で有名な「東海道中膝栗毛」でも川を渡るのは旅の重要なシーンで、あちこちの川渡しや舟の中でヘマをしたり、あるいは川止めにあったりと、話のネタになりやすいところである。実際は川を渡るだけでも相当苦労したことだろうが、それらを浮世絵で見るのも楽しいものである。
資料館を見た後で、いよいよ本陣と旅籠に向かう。本陣ではちょうど五月人形の展示が行われ、人形の雄壮な顔立ちや、秀吉や加藤清正らをあしらった幟、兜などを楽しむ。
本陣に接する旅籠は当時として上級のところか、落ち着いた佇まいである。玄関から街道を眺めると実に落ち着いたところで、クルマの行き来もさほど気にならなくなる。
少し先に味噌など扱った立派な商家があるとのことで行ってみた。ただ表の一部を残してシートで覆われており、保全工事中であった。塀の隙間から除くと結構縦に長く、当時の豊かさをうかがわせる。
例えば木曽の馬籠や妻籠のように通り全体が昔の姿をとどめるわけではないが、観光地としてではなく、普通の生活と建物がうまくマッチしているなと思う。今は普通の商店や家屋にも「○○屋」という屋号の札が掲げられているのも、町の人たちのさりげない歴史のアピールなのかもしれない。
同じ道を歩いて駅に戻る。ここから豊橋までは新幹線と並走して一駅。かつての吉田宿の宿場町の風情は残されてないそうが、三河の表玄関として賑わいを見せる豊橋、この日は駅近くのビジネスホテルに投宿する・・・。