バスは福江の中心を離れ、田畑の多いエリアに入る。その一角に屋敷のように建つ寺に到着する。こちらが明星院である。
本堂は一番奥とのことだが、拝観は手前にある護摩堂からとのことで上がらせてもらう。それぞれに「五島一番」「五島二番」という札が立つのが気になる。広間に座ると、中央には不動明王、左には阿弥陀三尊、右には弘法大師像が出迎えてくれる。ここからは現在の住職のお母様(前の住職の奥様)が解説をしてくれる。不動明王、阿弥陀三尊は平安期のものだが、それよりも古く秘仏扱いなのが金銅の薬師如来像である。655年の作とされており、止利仏師の一派が手掛けたとされている。
続いて、ミシミシいう渡り廊下を伝って本堂に向かう。明星院の本尊は虚空蔵菩薩で、左には阿弥陀如来、右には地蔵菩薩が祀られている。
ここでは弘法大師の渡唐について一連の語りがある。弘法大師空海、そして伝教大師最澄はともに同じ遣唐使団だったわけだが、途中嵐に遭い、二人それぞれが乗った船だけが唐に渡ることができたのが奇跡である。遣唐使といえば嵐に遭うイメージがあるが、唐での新年の祝う行事に間に合うように渡る必要があるためで、現在だとちょうど秋から冬にかけてのことである。となると北西からの季節風で海が荒れる確率が高いうえに、当時の日本の未熟な造船技術で大型船をこしらえたために難破しやすいということがあった。
弘法大師が唐から戻った折、福江島に虚空蔵菩薩が祀られていると聞き、求聞持法の修行を行った。虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるものだが、それを終えた時に明けの明星から光が差すのを見て、自分が唐で学んだ密教が今後世の役に立つであろうことを喜んだという。そしてこの寺を「明星院」と名付けた。
ここで住職のお母様から問いかけがあった。まずは「ここに虚空蔵菩薩が祀られていることをどうして知ったのか」ということで、当時の遣唐使船が福江島を最後に唐に渡るコースを取っていたことから、寺のそもそものゆかりというのは遣唐使の宿泊地ではなかったのかとしている。そして、「弘法大師が修行したというのは本当か」ということで、それは弘法大師作とされる地蔵菩薩があるからとしている。真偽はさておき、当時の修行僧たちは修行で滞在させていただいたお礼、証として金品の代わりに何かしら仏像を奉納したという。よく、弘法大師がこの地で修行したとか、◯◯大師、◯◯上人ゆかりの寺というのがあるが、その見分け方の一つに、そうした高僧が仏像を残したかどうかというのがあるとのことだ。
で、今の明星院だが室町時代、五島家がこの地を治めるようになった歴史とともにあるそうだ。お堂そのものは建て替えられているが、ベースとなるヒノキの心柱がそこまで遡れるからとしている。そして有名なのは本堂の天井の格子絵。花鳥風月が描かれているが、見どころは四隅にある「迦陵頻伽(かりょうびんが)」。上半身が人間、下半身が鳥の姿をしており、極楽浄土を表現しているのだとか。長く五島家の菩提寺としての歴史があり、一般の人がお参りできるようになったのも明治以降のことである。
いろいろと説明いただき、本堂を後にする。個人拝観だとなかなかここまでの話を聞くこともなかっただろう。渡り廊下を戻るうち、壁に無数の絵馬や納札が飾られているのを見る。四国八十八所と同じ納札、そして先に見た「五島一番」「五島二番」の札・・・、果たして「五島八十八所」というのがあるそうだ。
福江島を最後に唐に渡ったこと、そして唐から戻って先に書いた明星院での修行や、今回訪ねなかったが大宝寺で日本最初の密教の講義を行ったことなどから弘法大師ゆかりの地として、明治時代に八十八所の写し霊場が設けられたという。地図を見ると福江島にまんべんなく広がっており、この後の行程で案内板を見たりその前を通過したこともあった。そのほとんどが無人の地蔵堂や祠ではあるが、いざ回るとなると小豆島の八十八所めぐりより距離が長いようだ。
五島といえば潜伏キリシタンの世界遺産もあり(もっとも福江島は含まれていないのだが)、キリスト教のイメージがあったのだが、まさか弘法大師、おまけに八十八所めぐりもあるとは個人的には新鮮で面白かった。将来五島の八十八所めぐりをやるかどうかはさておき、この島の歴史の豊かさを知ることができたのはよかった・・・。