まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

遣唐使寄泊の地・魚津ヶ崎

2019年05月10日 | 旅行記H・九州

明星院を後にしてご一行のバスは西に進む。その間、ガイドSさんにより五島、福江島のさまざまな案内がある。

「皆さん五島列島ってどういうイメージですか?」というところから始まる。こういうのは聞くともなしに聞くのがいいのだろうが、反応を示さなかったり返事をしなかったりするとバス旅というのは盛り上がらないようだ。こういう時、前列の客はそうした役目もしなければならないようで・・ただ、私の後ろに座ったのが先ほど「五島灘」でサザエ2キロを見事に落札したお父さんで、特にこうしたツアーは手慣れたご様子である。他にもバスガイドと話をするのが楽しいといった感じの方もいらっしゃるので、そうした合いの手はお父さん方に任せることにする(まあ、関西からの客なので)。

ただためになることは多いし、紀行文を書くのに忘れてはいけないので手帳にいろいろメモを取ることにする。そうする客のほうが珍しいのか翌日になると逆に感心される。この先、各スポットでの気づきや豆知識についてはガイドSさん、あるいは添乗員Kさんから聞いたことを元に書いていくのだが、そのやり取りはトークあり、笑いありがほとんどである。ただそれを一つ一つ再現するのは難しいので、淡々と地の文で書くことにする。

福江島は五島最大の島だが、面積は約328平方キロメートル。これは小豆島の倍、関西でわかりやすいものの例えとして琵琶湖の半分くらいというのが出た。町村合併で五島市となった現在の人口は約3万8千人。外から移住する人もいるがやはり人口減少はどうしようもないとのこと。島内に高校は3校あるが大学はなく、進学となるとどうしても外に出てしまい、その後で戻ってくるかどうか。漁業以外にも農業、畜産はあるが今は観光ということになるのかな。

島には水力発電所が5ヶ所、風力発電所が3ヶ所あり、最近では太陽光パネルの設置も進んでいる。また日本で初めての洋上風力発電所も沖合いにある。だから電力という点では問題ないが、やはりガソリンは高くつく。今回レンタカーに乗っていないので正確にはわからないが、本土よりもリッターで30円くらい高いのではとのことだ。ガイドSさんは福江島の西の端にある玉之浦から数十キロかけて中心部まで通っているそうで、ガソリン代もバカにならない。「今度来られる時はそれぞれドラム缶1本ずつガソリン持ってきてください」と。

他には、コンビニもあれば大規模なスーパーもあり、また立派な総合病院もある。本土と比べれば不便な面はあるものの、生活に必要な一通りのものは揃っているし、意外といいところでしょ?というのが、ガイドSさんがこのツアーの中で折に触れPRしていたのが印象的だった。

そうするうちに次の目的地である魚津ヶ崎(ぎょうがさき)公園に到着する。ここでしばし散策となった。キャンプ場も併設されており、風光明媚な景色が広がる。季節風が強いのか、木々が独特の形をしている。

ここには遣唐使寄泊の地の石碑がある。この内側が白石湾と呼ばれる水之浦の入江で、遣唐使の風待ちの港だった。当時の航海技術、造船技術、そして唐に渡る季節の面で遣唐使は困難を極めたのだが、それでもここで風待ちをして一気に押し渡ったのである。何とも心細い話である。

遣唐使というと大陸から様々なものがもたらされ、頻繁に行き交っていたイメージがある。奈良や大阪では天平のロマンとして遣唐使船を復元するプロジェクトも以前あったように思う。しかし実際は過酷なものであり、この石碑の解説文によると「白石湾を出はずれると、外は漂渺たる外洋である。颶風(ぐふう)は忽ち船を包み、多くの英才は再び故国の土を踏む事がなかった。かろうじて生き還った人達が次代の日本の文化をになったのであるが、生きて還らなかった人達は日本文化の貴重な人柱であったと言えよう。この貴重な人柱の上に、我等は、今立っているのである」とある。

解説文は少し大仰な表現かとは思うが、こうした先人たちの偉業というのを心に留めておくことは大切だと思う。

この後は、水之浦の入江の向かい側にある白い建物に向かう。こちらが水之浦の教会である・・・。

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