4月29日、津和野の町を道の駅からJRの駅まで歩く途中。森鷗外記念館に着く。
津和野の有名人として森鷗外を挙げる人は多いだろう。明治から大正にかけて、軍医として、また文学者として活躍した人物で、文学作品は学校の教科書でも取り上げられるほどである。もっとも、津和野で幼少期を過ごしたものの、10歳過ぎに学問のために父とともに上京し、その後生涯津和野に戻ることはなかった。
記念館の展示コーナーは上京後の生活から始まる。東京医科大学から陸軍省に入る当時の史料もさまざまに残されている。そしてドイツへの留学。この時にドイツ文学にも触れ、またドイツ時代を舞台とした作品を後に手掛けることになった。日清、日露戦争にも軍医として従軍している。
軍医としての森鷗外には「脚気」に関する話が残っている。脚気はビタミン欠乏により発症するのだが、当時の日本の軍隊ではこの病気に罹って亡くなる者が多く問題となっていた。そこで海軍の軍医はイギリス式にならって洋食や麦飯を取り入れたところ発症者がぐんと減ったのに対して、陸軍の軍医である鷗外は、脚気の原因は細菌によるものであるとして、白米の支給にこだわり、当時論争にもなったという。そして陸軍では引き続き脚気で命を落とすものが後を絶たず、麦飯を導入したのはかなり後になってからのことだった。
脚気は、少量のおかずで白米だけを大量に食べていたから発症したことで、当時はビタミンも発見されていなかったし、現在のようにさまざまな食品から栄養素を取り入れるという考えも発達していなかったから致し方ないのだが、当時の周囲の人たちの鷗外評というのは、絶対に自説は曲げない、論争では相手を徹底的に叩き潰すというものだったとか。まあ、こういうことは記念館では紹介されない。
友人に口述筆記させた遺言状の写しが展示されている。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」の一節で知られる。10歳での状況以後、亡くなるまで津和野の地を踏むことはなかったが、死に際まで生誕の地である津和野に思いをはせていた・・と評される。ただ、亡くなった60歳までの間に一度も帰らなかったとは、陸軍の軍医として、また文学者として多忙だったとはいえ、時間を取ろうと思えば取れたのではないか。何か他に「帰りたくない」「帰れるけど帰らない」思いや事情があったのではと思う。文学作品では自身の津和野の幼少時代に触れたものもあり、決して津和野が嫌だったわけではなかったのだろうが・・。
再び津和野川に沿ってぶらぶら歩く。記念館に入っている間にちょうど雨も止んだようだ。川沿いに櫓がある。その横が津和野高校で、藩校の養老館の気風を受け継ぐ学校である。
山口線のガード下をくぐって、殿町通りに出る。錦鯉も相変わらず元気で、観光客がまくエサに群がっている。
この辺りまで来ると商店街にもなり、喫茶店や食事処もある。実は先ほど道の駅で昼食をと思っていたが、たまたま温泉の定休日に当たったことと、併設のレストランにこれと目を引くものがなかったことで、そのまま歩いてきた。遅いながらの昼食とも考えたが、もういいかなと思う。どうせこれから乗る「DLやまぐち号」の中では「飲み鉄」に走るだろうから・・・。
駅前に戻り、展示されているD51を見た後で、観光案内所に入る。前の記事でも触れたが、津和野の謎解き散歩の答えも無事に出たので、答え合わせである。見事正解ということで、参加賞として「SLやまぐち号」のシール、そしてくじ引きの4等賞で同列車のマグネットが当たった。これは自宅の冷蔵庫に貼って使うことにしよう。
残った時間は駅前の安野光雅美術館に入る。昨年夏の中国観音霊場めぐりの時にも入館したのに続いてのことだ。2021年3月に開館20周年を迎えたが、その安野光雅氏は昨年12月に亡くなった。94歳だから長生きされたと思うが、この人の絵は私が子どもの頃にも絵本その他で目にしていたから、画家生活もずいぶん長いものだった。
企画展は「繪本 平家物語」。1989年~2005年にかけて月刊誌に連載されたもので、2006年に出版された作品群。絵本といっても子供向けの作品ではなく、大人の鑑賞眼にも耐えうるものにしたという。平家物語は今から800年以上前の日本史の話だが、安野光雅は京都をはじめ物語に出てくる場面のほとんどに足を運び、その土地から発せられる何かを得ながら描いたそうだ。勇猛な場面、哀愁を感じさせる場面、平家物語の原典をじっくり読んだことがない人に対しても、物語の世界観を存分に語ってくれているように思う。これに琵琶の音でも重ねてみると・・。
その安野光雅も、生まれは津和野だが13歳で転校したのに始まり、その後は応召や就職などあり、やはり画家生活としては上京してのこととなる。この辺りは鷗外とも共通しているが、安野光雅は津和野をテーマとした絵画作品や著作も多数発表しているし、折に触れ津和野にも戻っている。日本の原風景を語る舞台として津和野を語ることも多かった。
路線バスで津和野に来た時、列車の時間まで4時間をどのように過ごそうかと思っていたが、森鷗外記念館や安野光雅美術館で結構な時間を過ごすことになった。この後、いったん殿町通り近くのローソンポプラで遅い昼食兼飲み鉄用の飲食物を仕入れて、駅に戻る。
ちょうど、「DLやまぐち号」を牽引するDD51が、側線に停まっていた客車の前につながれて、ホームのある本線に向かうための入換作業のところだった。車両の中央部に運転台があるので、入換作業もスムーズにできる長所がある。ただ、こうした光景も今や貴重なものだ。
客車がいったん新山口方面に引き上げられたのを見て、駅舎に戻る。列車の改札が始まり、これからこの日初めての列車、それも客車列車に乗ることに・・・。